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第二十九章 涙腺

 午前に行われる巴の検査が終了すると、午後から日課となりつつある学校へと向かう。


 今回は薺もおり、三人での登校となる。


 翔と薺は高校の制服を、巴は薺の中学時代の制服を身に着け目的地へと向かう。


 慎先生からの約束通り、薬を服薬すれば激しい発作は起こらず、巴のやりたいことができる。


 短命である巴のために、今しかできないことをやろうと思う。


 もちろん、諦めたわけではないが、最善を尽くすことが、今の巴にできる唯一のことだ。




 夏の容赦のない猛暑を感じながら、青々とした空の下のゆったりと歩いていく。


 国道の歩道を歩き、その横には大きな青海が広がっている。


 時節聞こえるセミの鳴き声がいっそう耳に届き、それに混じって潮の満ち引きも囁く。


 車椅子を押す薺は、何度も後ろを歩く翔を見ては頬を染める。


 実は、翔と登校するのが前からの願望であった。


 ちょっと理想とは違うが、変わりはない。


 その嬉しさに、胸が躍るほどでもあった。


 そして新しく友達となった巴と学校に行くことで、嬉しさは隠せないほどだ。


 しかし……。


 薺はチラッと目の前にいる巴を見る。


 そして薄く唇を緩ませた。


 巴ちゃんは、翔くんのことをどう思っているのだろうか……。




 その後ろを歩く翔は、波を立てる海を見ながら考えに耽る。


 昨日言った巴のもう一つのやりたいこと……。


 確かに学校だけが願望ではないとは思っていたが、あそこまで真剣にお願いする叶えたいこととは何なのだろうか……。


 実は、昨日の夜から少し胸騒ぎをするのだ。


 何か……とんでもないことを打ち明けるのではないかと。


 その答えが今日わかるとしても、今は冷静さを保つだけで精一杯の状態だった。


 そして、もう一つの気がかりなこと。


 それは……。


 その願いを、自分が叶えることはできるのだろうか……。




 薺に車椅子を押され、海から漂う潮の香りと風を感じながらうつむく巴。


 今日は新しい友達である薺と初登校なので嬉しい気持ちでいっぱいのはず。


 しかし、昨日の言ったことが頭から離れず、さっきからずっと黙り込んでいた。


 自分は何を焦っているのだろうか……。


 どうして昨日はあんなことを口走ってしまったのか……。


 わからない……。


 今自分が求めているものは何なのか……。


 このままでもいいのではないか?


 このまま、楽しい学校生活を送り、毎日笑いの絶えない出来事を繰り返せば、それで十分のはずだ。


 本来、自分は学校に行くことも、外を出歩くことでさえ禁じられているのに、それが自分のわがままで叶っているのだから、これ以上望むことは贅沢だといえるのではないか?


 そう、それはわかっている。でも……。


 巴はぐっと拳を握った。


 死ぬ前に、これだけはやっておきたかった……。


 例え、それが叶わない願いだとしても……。




 学校に着くと、いつものように下駄箱で上履きに履き替え教室へと向かう。


 そして薺も加わった編入試験対策の勉強を行う。


 これが意味のある行為なのかはわからないが、学校に来たからには勉学に励むしかない。


 一通り全ての科目を終え、自由時間となると、巴と薺は持って来たお菓子を食べながら楽しそうに会話をしている。


 その間、翔は一人屋上で空を眺めながら寝そべっていた。


 風に乗って流れる雲のように、時間も止まることなく進み、そして見えなくなるように、記憶から消える思い出……。


 巴の寿命はもう一か月ない。


 もし、この夏休みで巴が死んだら……。


 たったそれだけの過程を思い浮かべるだけで、翔の胸は締め付けるかのように痛みを走らせ、緊張が全身に張り巡らせる。


 翔はぎゅっと胸を抑えながら歯を食いしばる。


 怖い。


 本当に、怖いものなんだとわかる。


 死ぬこと、死別することは、まだ味わっていないのにもかかわらず、こんなにも怖いものなんだと……。


 なぜ、人はこんなにも死を恐れるんだ……。


 でも、そんなことはどうでもいいんだ。


 今は、巴の力になり、悔いのない人生を送らせることが、自分の使命なのだから……。


 例え、自分を犠牲にしてでも……。




 屋上から教室に戻ってくると、中には薺の姿はなく、巴一人だけだった。


「あれ? 逢坂は?」


「うん。ちょっと用事があるからって先に帰ったよ」


「そっか……」


「うん……」


 巴は心の中でつぶやく。


 ほんとは、半ば強制的に先に帰ってもらったのだけど……。


 翔は巴の隣の席に座り椅子に背もたれながらうつむく。


 同じように、巴も車椅子に乗りながら顔を下に向けていた。


 今の二人の間には異様な空気が流れ、気まずさを物語っていた。


 頭の中は昨日のことが何度も繰り返されていく。


 知りたいのは、相手の気持ちだった。


「「あ、あのっ」」


 二人は同時に声を発し、そしてすぐに止めた。


「あ、先に巴話せよ」


「い、いや、翔くんからでいいよ」


「お、俺のはどうでもいいことだから、巴から話せよ」


「……う、うん。わかった……」


 巴は顔を背けもじもじしながら、口は冷静に話し始める。


「……昨日言ったこと、覚えてる?」


「……ああ」


 翔は顔を外に向けてうなずく。


「……私ね、学校に行くことと、もう一つ叶えたい願いがあるの」


「……ああ」


「だからね、死ぬ前に、その願いを叶えたいと思ったの」


「……ああ」


「……うん。その願いはね……」


 そこで巴の口が止まる。


 今巴の心の中で自問自答が始まっていた。


 この願いは打ち明けていいのだろうか。


 だって、言えば翔のことだから叶えさせてくれるはず。


 でも、それで自分はいいのだろうか?


 相手の気持ちを考えたのか? 薺の気持ちも考えているのか?


 最後に自分勝手な願望を打ち明け、半ば強制的に叶えさせていいのか?


 それで……苦しんだりしないのか?


 巴の体が震える。


 今になって後悔の念が襲い掛かる。


 自分は卑怯すぎる。


 今の状況を、自分のおかれた状態を利用し、好き勝手しているだけではないか。


 こんなこと、許されるわけがない……。


「……ふっ……うっ……。くっ……」


「……え?」


 翔は耳に聞こえた音を認識し、ハッと巴の方を向く。


 巴は泣いていた。


 嗚咽を漏らして、目には大粒の涙を溢れさせ、その雫が落ち拳の上に打ち付けていく。


「と、巴……」


 巴は目じりを拭いて、必死に答えようとする。


「ぐすっ……。ご、ごめんね。なんでもないの……。うっ……。ほ、ほんとに、何でもないの……。ほんとに……」


 何度も言い訳をするが、巴から涙が止まることはなかった。


 何が自分をこんなにも泣かせてしまうのかわからなかった。


 悲しいから?


 哀しいから?


 それとも怖いから?


 それとも怒りからか?


 正しい答えなどわからない。


 ただ……今は溢れる涙を止めることしか頭になかった……。




 とうとう巴のもう一つの願いを打ち明けることなく病室へと戻ってきてしまい、疲れたのか巴はベッドに横になるとすぐに寝息を立ててしまった。


 その寝顔をじっと見ながら、翔は呆然と立っていた。


 巴の叶えたい願いは何だろうか……。


 それは、今度はいつ知ることになるのだろうか……。


 恐らく、そう遠くではないはず。


 そのときになったら、その願いを叶えさせるために、全力を尽くせばいい。


 翔は踵を返してドアへと向かい外に出ようと開ける。


 しかし、


「え?」


 ドアの前に立っていた人物を見て小さく驚嘆な声を上げる。


 そこに立っていたのは……逢坂薺だった。

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