第二章 少年
巴は病院の前にある広場に出た。
天気が良いので車椅子に乗り、外の空気をおもいっきり吸った。
清々しい空は、青く眩しかった。気持ちよく、眠たくなりそうな陽気は心が穏やかに染まっていく。
巴は車椅子を動かし奥に入っていく。
すると、ベンチに腰掛け、文庫本を開いて読んでいる一人の少年を見かけた。
そよ風が吹き、その少年の目元まである前髪をさっと揺らしている。
その少年は、翔と同じ制服を着ていた。となると、一緒の河守高校ということになる。
彼は読んでいた本を閉じると、ふっと軽く息を吐きこちらを見てきた。
「こんにちは」
少年は優しげな笑みを向け話し掛けた。
巴も笑顔を見せ、そっとお辞儀をした。
「こんにちは。あなた、河守高校の生徒ですよね? 私の幼なじみも、同じ高校に通っているんですよ」
そう言うと、彼は穏やかに微笑んで言った。
「僕はまだその高校に通ってはいませんよ。今日退院したので、明日から通うのです」
「あ、そうなんですか。退院おめでとうございます」
巴は車椅子に座りながら、上半身だけを少し動かして頭を下げた。
「ありがとうございます。……春風巴さん」
その言葉で、巴は疑問を抱いた顔で上げた。
「どうして、私の名前を?」
彼はまた小さく笑いながら説明した。
「あなたの担当医が教えてくれたんです。あなたと同じ病気を抱え込んでいるので、自分一人が苦しんでいるんじゃないって。そのときに、あなたの名前を聞いたのです。よく廊下とかですれ違ったりしたんですよ」
「そ、そうなんですか。すみません、ご存じなくて……」
「いいえ、かまいませんよ。そういえば、僕はまだ名乗っていませんね。僕は秋元創と言います。どうぞよろしく」
創はベンチから立ち上がり、巴に向かって手を差し伸べた。
巴はその手を握って握手を交わした。
「頑張ってください。きっと、病気は治りますよ。それまで、希望を捨てないことです」
「はい。わかりました。ありがとうございます」
そのとき、創の母親らしき人が、こっちに向かって手を振っているのが見えた。
「それでは、僕はそろそろ行きます。たしか、巴さんの病室は502号室でしたね。たまにお見舞いに来てもよろいしいですか?」
「はい。もちろん、いいですよ。ぜひ来てください」
創はにっこりと笑うと、手を振って母親の元に向かった。
巴はその光景を見届け、病室の中に入っていった。
次の日、朝から翔の教室内はある噂話で持ち切りだった。
その噂話をしているほとんどが女子生徒なのだが。
「今日来る転校生男子だって」
「かっこいい人かな?」
「私は可愛い人がいいな」
女子たちは群がって黄色い声を上げている。
その反面、男子の方では少しがっかりとした感じに落ち込んでいた。
「ああ~、来るのは男子なのか。女子が良かったな」
「ま、そういうなよ。男子同士、仲良くしてやろうぜ」
「そうだな」
皆転校生がどんな人なのか気になり、その話題は尽きることはなかった。
翔は夏休みを、巴とどんな風に過ごすか、そればかりを考えていた。
行動範囲は病院の敷地内。この狭く限られた空間の中で何をしようか。
すると、教室のドアが開かれ、いつもは待ってもいないのだが、今回だけ待ちわびた担任教師が入ってきた。
「ほら、席に着け」
その合図で皆早々に席に着く。
先生は軽く咳払いしてホームルームを始めた。
「まずは知っていると思うが、転校生を紹介する。入って」
先生に呼ばれ、廊下で待っていた転校生が中に入る。
その生徒は体が細く、肌は日焼けを知らないというくらいに白い、そして穏やかな表情をしており、全員は初対面とも限らず落ち着きを持っていた。
転校生は先生にチョークを渡され、黒板に名前を書いていく。
「初めまして。秋元創です。幼いころから入院して、知らないことばかりです。皆さんと仲良くなれたらと思います。どうぞよろしくお願いします」
創は礼儀正しくお辞儀をする。
その創を見て、女子たちからの評価は高かったらしく、温かく迎えられていた。
翔は何とも思わず、みんなと一緒に拍手を送る。
創は爽やかに笑顔を見せ、みんなの顔を見渡していく。
そのとき、二人は目が合った。
その瞬間、創の目の色が変わったことに、翔は気づいた。
昼休みになると、翔は売店で買ったパンを掴み、教室で友達と食べていた。
そのときだ。
「瀬川翔くん、ですよね?」
男子の輪の中に、創が入り込んできた。
翔は少し警戒心を持ちながら答えた。
「ああ。そうだけど」
創はニコッと微笑む。
「ちょっと、いいですか?」
「え? あ、ああ……」
翔は立ち上がると、創と共に教室から出ていった。
二人は廊下を歩き、そして屋上へと辿り着いた。
創はフェンスを掴み、そこから見える景色を眺める。
その後ろ姿を翔は見ていた。
「それで、俺に何か用か?」
翔は創の隣まで歩き、地べたに座り込んだ。
「はい。君に聞きたいことがあるのです」
創は笑みを浮かべながら見下ろしくる。
「その前に自己紹介しましょうか。僕は秋元創。創って呼んでくれればいいですよ」
「ああ。俺は――」
「瀬川翔くんですよね? 知ってますよ」
「ああ、そうだったな」
「はい。そして、幼いころから入院している幼馴染がいるということもね」
その言葉に翔は警戒心を強めた。そしてハッと上を向いて創を見る。
そのことを知っているのは誰一人いない。一言もそのことに関して話したことはないのだ。
「お前、どうしてそれを……」
創は優しく微笑みかける。
「僕も入院生活をしていたんですよ。つい昨日まで。あの、……河守総合病院でね」
その病院名は巴と同じところだ。
翔が黙っていると、創から口を開いた。
「もうわかると思いますが、僕が君を知っているのは何度かあの病院で見かけたからですよ。担当医の先生が教えてくれたんです。君と友達になりたくてね。まさか一緒のクラスになるとは思ってもみなかったですけど、嬉しかったですよ」
「そ、そうか……」
「はい。君はここの生徒の誰よりも入院というものを知ってそうですしね」
「ま、まあな。よく病院には行くし」
「でも……」
そこで創は冷たい視線を向け、翔を睨み付けた。
「病気というものは、知らない」
その眼を見て、翔は一瞬恐怖を感じた。
なんだろうか、今の感じは。人の感情が、ここまで伝わるものなのだろうか。
「翔くんは、今まで入院するほどの、重い病気にかかったことはありますか?」
「……いや、ないけど」
「そうですよね。うん。やっぱり健康が一番です」
創はフェンスに背もたれ、空を仰ぎ見る。
「白い籠に閉じ込められ、見ることしかできない我慢の日々は、苦痛しか得られない。それに加え、毎日いつ治るのかもわからない病気との闘い。……苦しいものです」
「そ、そうだな……」
「……翔くんって、呼んでもいいですか?」
「え? あ、ああ、いいぞ」
「はい。それでは、翔くんは、風邪くらいは引いたことはありますよね?」
「ああ、それくらいあるよ」
「うん。人間が一番かかりやすい病気の一つですしね。でも……」
創は座り込むと、じっとぶれることのない視線で見つめてきた。
「病気の苦しみは、同じ病にかかったものにしかわからないんですよ」
創の冷気が襲うような声に翔は身震いする。
そんな翔を見て、創はまた穏やかな笑みを浮かべた。
「それじゃ、僕は先に教室に戻りますね。これから仲良くしましょう。……翔くん」
創は手を振りながら屋上を後にしていく。
翔はその場におり、チャイムが鳴るまで、動けないでいた……。
その様子を、屋上の入り口で創は不敵な笑みを浮かべて見ていた。