第二十八章 焦燥
薺と巴が友達となり、それ以来薺は毎日のように巴のいる病室へと訪れるようになった。
時には翔が来る前からすでに椅子に座り、巴と楽しく笑いながら会話をしている。
さすが薺というべきか、数日であっという間に二人の距離を無くし打ち解け、何年も親友だったかのような口ぶりで接している。
翔にしてみれば、それはいいことなのだが、巴を取られた気もして複雑な気分だった。
正直言えば、三人できるとき、男である翔は少し会話に混じりにくいときもあり、そんなときは廊下で暇にする慎先生と話すようになってしまった。
「ははっ。友達を紹介するのは良いアイディアだが、すっかり取られてしまったね」
慎先生は缶コーヒーを飲みながら愉快に笑う。
「別に取られたとかそんなんじゃ……。とりあえず、嬉しそうで良かったですよ」
「君はあまり嬉しそうじゃないけどね」
慎先生はいじわるそうに笑みを浮かべる。
「それより、巴の容体はどうなんですか? 見た感じ、普通に元気な感じですけど」
「ああ。今は薬の効果や抗体などでカバーできているが、着実に悪い方向には進んでいる。早急に手を打ちたいのだが、問題は巴ちゃんの体力と手術をするタイミングだ。あと少しで良いんだが、何とか絶好の機会が訪れて欲しいものだ」
「そうですね……」
その頃、502号室では女の二人で会話に花を咲かせていた。
「巴ちゃんは小説が好きなの?」
「うん。読むのも好きだけど、書くのも好きなんだ」
「すごいね。ねぇ、ちょっと読ませてよ」
「えっ? だ、ダメだよっ。恥ずかしいよっ」
「えぇ~。ちょっとだけでもダメ?」
「ダメだよ~。これだけはダメなの~」
「うぅ~。残念……」
「それより、もっと学校のこと話してよ」
「うん。いいよ。あ、そういえば、巴ちゃんの髪って綺麗だよね」
「え? そうかな?」
「うん。私くせっ毛が強くて、そんなに長くできないんだよね」
「でも、薺ちゃんの髪も綺麗だよ」
「ありがと。あ、せっかくだから、櫛で梳かしてあげるね」
「ほんと? ありがと」
巴は薺に背を向け、薺は椅子から立ち上がり、バッグの中から櫛を取り出すと梳かし始めた。
「すごい。サラサラだね」
薺は長く綺麗な黒の巴の髪を手に触れ、少しだけ目を細めた。
確かに女性なら誰もが憧れる黒くダメージのない巴の髪を見て羨ましがるだろう。
それに髪だけでなく、紫外線の影響のない白い肌に、ほっそりとした華奢な身体、傷のない手や足と、巴は理想と言ってもいいほどの容姿を手にしている。
しかし、それを羨ましいとは思ってはいけない。
以前に、一度聞いたことがある。
巴は得たものの変わりに、多くの犠牲を払っているのだ。
それこそ、学校に行くことなのだ。
外に出ることもできず、満足に遊ぶこともできず、やりたいこともできず、制限だらけの自由のないこの部屋に閉じ込められ、毎日を退屈と競い合う日々。
得たものに対する代償は大きなものだった。
あなたならどちらを取るだろうか。
恐らくだが、私なら巴のような人生はすぐに捨てると思う。
前もって言っておくが、入院は学校が休める、ずっと寝られるなど、ずる休みのできる自由時間ではない。
逆に自由を奪われた、言わば牢屋に等しいのだ。
そんなところに何年も、何十年も居たいと思えない。
にも関わらず、巴はそれに耐え、こうして今も生きようとしている。
巴のその強靭な精神力と、生きたいと思う力は、どこから来るのだろうか。
「……ねぇ、巴ちゃん」
「ん? なに?」
「……巴ちゃんは、翔くんのことが――」
「ん……?」
巴が笑みを浮かべながら後ろを振り返り、薺は笑顔を返して首を振った。
「ううん。何でもない……。そうだっ。学校の近くに新しい喫茶店ができたんだ。今度そこ行ってみよ」
「うんっ。私行ってみたいっ」
「決まりね」
薺は先ほどまで言いかけた言葉を心の奥底に強引に沈めた。
今は、このままでいい……。
そのとき、ドアが開いて飲み物を持って来た翔が入ってきた。
「あ、翔くん。おかえり」
「せ、瀬川くん、お、おかえりなさい……」
「おう。ただいま。髪梳いてるのか?」
「うん」
巴は嬉しそうにうなずく。
「薺もありがとな。毎日来てくれて」
翔はジュースを渡しながら礼を言う。
「う、ううん。そ、そんな……。わ、私も夏休みは、その、暇で時間あるから……」
薺は頬を赤く染めもじもじしながら、そっとジュースを受け取る。
「でも宿題とか、他の友達と遊んだりって大変だろ? 無理しなくていいからな」
「う、うん。あ、ありがと……」
薺は顔を真っ赤にさせてうつむく。
そんな様子を見て、巴は微笑を浮かべうつむく。
そうなんだ……。薺ちゃん、翔くんが好きなんだ……。
巴はチラッと翔の顔を見る。
翔は薺との他愛ない会話で普通に笑いながら接している。
翔くんは、誰が好きなんだろう……。
薺は帰り、病室には翔と巴だけが残された。
面会時間ももう少しで終わりを告げ、外の景色は茜色に染まっていた。
二人でそんな景色を見ていたとき、巴がポツリと呟いた。
「……私って、あとどれくらい生きられるのかな?」
「え?」
翔は外の景色から目を外し巴を見る。
巴はじっと夕陽を見ながら続ける。
「私ね、死ぬ前に、あと一つだけやりたいことがあるの」
「えっ? な、なんなんだよ、それって……」
巴は若干頬を赤く染めながら、少し恥ずかしそうに答える。
「それは、明日学校でいうね」
「巴……」
翔は少し呆然としながら見つめる。
巴は軽く笑っていつも通りに戻った。
「ふふ。ほら、そろそろ面会時間の終わりだよ。早く帰らないと、また怒られちゃうよ」
「え? あ、ああ……。そうだな」
「うん。じゃ、また明日ね」
「ああ。またな」
そう言い残し、翔はドアを閉め帰ってしまった。
部屋の中で一人になった巴は、掛布団を握りしめ、ふっと息を吐いた。
「……私、焦ってるのかな……」