第二十五章 共感
翔は朝早くから設定していた目覚ましを止め起き上がる。
すでに陽は昇り、鬱陶しい暑さや眩しさを感じながら、急いで出かける支度をする。
時刻はまだ十時前と、面会時間まで時間はあるが、それでもじっとしてられなく、朝食も食べずに自転車を走らせる。
向かう先はもちろん、河守総合病院だ。
休むことなく足を動かし飛ばした自転車は、いつもかかる時間よりずっと短い時間で到着した。
おかげでやはり面会時間はまだまだである。
息も上がり、体温が上昇して汗が滴り落ちていく。
それでも翔は中に入り、受付にいる知り合いの看護婦のもとに向かった。
「あら、翔くん。どうしたの? こんなに早く」
若く可愛らしい看護婦は翔を見て少し疑問の表情で尋ねるが、若干の含み笑いを浮かべていた。
翔は少し迷ったが、正直に答えた。
「え、えと、その、面会時間を早めてもらえないかと……」
「え? 巴ちゃんに会うために?」
看護婦の表情が一層いじわるそうな笑みに変わる。
「え、えと、そ、そうです! 巴に会いに来ました。だから、そのっ」
「でも、まだ面会時間まで時間あるわよ」
「そ、そうですねっ。で、でも、そこを何とか、その、僕だけ特別に、お願いしたいと……」
「ふふ、ふふふふふ」
看護婦は突然口元を抑えて笑いをこらえるが、最後には大声で笑っていた。
その姿を見て翔は呆然とする。
「ふふ。ごめんね。笑っちゃって。別に、会いに行ってもいいわよ」
「え?」
「慎先生から特別に許可をもらってるわ。どうせ早く来るから通してやれって」
翔はちょっと恥ずかしそうに頬を朱に染めるが、今だけは慎先生に感謝した。
「あ、ありがとうございますっ」
「うん。早く行ってらっしゃい。まだ寝てるかもしれないけどね。あまり変なことしないでよ」
翔は最後に文句を言い残し、まだ人の少ない廊下を走ってエレベーターに乗る。
すぐに五階のボタンを押し、早く着かないか焦る。
そして五階に着くと、開いた瞬間再び走り出し502号を目指す。
ドアの前に貼られている名札にはしっかりと『春風巴』と書かれてある。
翔は軽く乱れた息を整え、そっと二回ノックした。
そしてガチャリと小耳の良い音を聞き、ドアノブを捻って中に入った。
「巴? 起きてるか?」
そっとゆっくりと中に足を踏み入れる。
しかし、誰かが動く様子も声を聞こえず、静かな空間が広がっていた。
それもそのはず、巴はまだベッドの上で眠っていたのだ。
翔はそっと近づき、安らかに眠っている巴を見て、安堵の息を吐き微笑む。
そばにある椅子を持ってこようと手を伸ばすと、そこに一通の置手紙があるのに気付いた。
広げて読んでみると、差出人は慎先生だった。
『昨夜の内に集中治療室から運んでおいた 寝てるからって襲ったりするなよ』
「誰がするかよ……」
翔は手紙をぐしゃぐしゃに丸めるとゴミ箱に放り投げる。
改めて椅子を引っ張り横に座り、目の前で眠っている巴の寝顔を見つめる。
可愛い寝息を立て、何事もなかったかのように幸せそうな表情をしている。
翔はそっと腕を伸ばし、指でツンツンと頬を突いてみた。
白くすべすべしてもっちりとしている肌の感触。
指圧がわかったのか、『うぅ~ん……』と可愛らしいうめき声を上げる。
翔は起こさないようにクスクスと小さく笑う。
すると、巴の目がゆっくりと開かれ、長い髪を垂らしながら起き上がった。
「あ、起きたか」
「ん……。あれ? なんで翔くんがここにいるの?」
「ああ。会いに来たんだよ」
「会い、に……? ……………………」
そこで巴は顔をパッと真っ赤にさせ、近くにあった枕で自分の顔を隠した。
「な、なんで人の寝顔見てるのよぉ! ヘンタイっ!」
「え? いや、ごめん! 悪かった! そんなつもりじゃっ」
「も~う! まだ面会時間もまだなのに何で来てるのよ!」
「と、巴に会いに来たからに決まってるだろっ!」
そこで二人の口論が止む。
そして二人とも見つめたまま顔を染める。
二人はパッと視線を外すと、視線を下げうつむく。
「あ、ありがと。その……。ごめんね。いきなり怒鳴っちゃって……」
「い、いや、お、俺こそ、勝手に入ってごめん……」
気まずそうな空気が流れ、会話が進まなくなった。
巴は枕を抱きしめたままキョロキョロと視線を泳がせ、翔は乱暴に頭を掻き部屋の隅を見つめる。
そこであるものに気づいた。
微かに残る壁の染み。
白い壁にある茶色の斑点や液体の着いた跡。
それを見て理解した。
これは血の跡だ。
そこで翔は巴を見る。
巴は見られていることに気づくと、再びパッと枕で顔を隠し目だけを見えるする。
翔はぐっと拳を握ると、唇を噛み、すっと頭を下げた。
「……え?」
「……ごめん。巴」
「な、なんで謝るの? あ、さっきのことはもういいだよ。そこまで気にしてないから――」
「違う!……俺は、本当にバカだ……」
翔の目から自然と涙が溢れる。それが拳の上に落ち、その量が多くなっていく。
「な、なんで……泣いてるの……?」
巴が少し困惑しながら翔のもとにベッドの上から近寄る。
そこで巴はあるもの気づく。
ベッドの金属部分、壁にある染み渡った跡。
それだけで容易だ。ずっと繰り返してきたのだから。
巴は肩を落として脱力する。
「そっか……。知ってるんだ……。見られちゃったのかな……」
「……ああ。全部、見たよ……」
深夜に忍び込み、巴が闘ってきた病の真の恐ろしさ。
どれだけ苦しめ、どれだけ弱らせ、どれだけ絶望を与えるか……。
それを、巴は幼いころからずっと耐えてきたのだ……。
そして、翔に隠し通してきた……。
「はは……。ああ、そうなんだ……。ずっと、隠してきたんだけどね……。あはは」
巴は力のない笑みを見せる。
「発作もほとんど夜だから、このまま知られずに済むと思ったんだけど……。ばれちゃったか……」
すると、次は巴の目から一滴の雫が流れた。
「え? 巴?」
巴は目にいっぱいの涙を溢れさせ、悔しそうにぎゅっとベッドのシーツを握りしめる。
「……うっ……ふっ……、げ、幻滅したよね……。あんな、姿見て……。が、がっかりしたよね……。もう、私なんかに……会いたくないよね……」
震える中でも必死に話す巴の声。その声に翔は自分の涙を拭いて戸惑いを見せる。
「な、何言って……」
「私、怖かったの……。翔くんに、嫌われるんじゃないかって……。だって、あんな苦しそうな姿見たら、誰でも引いちゃうもん……。もう、来てくれなくなると思ったから……。だから、ずっと隠そうって……元気な姿だけを見せようって思ったんだけど……」
巴は何度も目を擦り涙を拭き取るが、それでも零れ落ちる涙はシーツを濡らしていく。
「きょ、今日来たのは……ぐすっ……うっ……お、お別れを……言いに来たんだよね……? これで……ううぅ……最後なんだね……。ふっ……あふっ……い、いいんだよ。き、気にしなくて……。むしろ、今まで本当に、あ、ありがとう……。もう……何年も、私なんかの……ために、うっ……ぐすっ……良くしてくれて、嬉しかった……よ……。か、翔くんは……はぁ……うっ……すごく、頑張ったよ……。もう……自分が悪い、とか……うっ……ふっ……き、気にしなくていいから……。これからは、一人で頑張るから……だ、大丈夫……だよ……。い、今まで……」
巴は今にも大声で泣き崩れそうなのに、我慢して自分の言いたいことをはっきりと伝えようとしている。
そして、
「ありがとうね。翔くん」
最後に涙まじりの笑顔を見せる。
そこで翔の感情は、嬉しくも、悲しくもなく、怒りが芽生えていた。
これは……巴に見捨てられたのだ。
気づけば、翔はすっとその場に立ち上がると、ベッドの上に乗っかり、巴は優しく自分の腕の中に包みこんでいた。
「え……? か、翔くん……?」
翔は巴の入院服もといパジャマをぎゅっと掴む。
翔の目には大量の涙で溢れていたのだ。
「巴……。そんなこと……言うなよ……」
「え?」
翔の抱きしめる強さが増す。
「もっと、俺を信じてくれ! 巴のあんな姿見ても引いたりなんかしてない! もうここに来たくないなんて思ってない! これからも……ずっと……お前のそばに居ようと思って、俺はここに来たんだ!」
「か、翔……くん……」
「確かに責任は感じてる……。俺のせいで、巴は長期入院したと思ってる……。でも! 俺がここに居続ける理由はそんなんじゃないんだ! ずっと、そのために通い続けたんだ……」
翔はそっと巴を離し、肩を掴んで見つめる。
「俺はお前が死ぬまでずっとそばに居続ける。お前の頼みなら何でも聞いてやる。もっと、俺を頼ってくれ。俺は……巴の力になりたいんだ」
翔の目から伝わる熱意と決意。
巴はそれをしかと受け止め、手で顔を覆い隠すと、コクッとうなずいた。