第二十三章 過去
蒸し暑さの残る夏の夜。
時刻はすでに午後八時を回ったときだった。
翔と慎先生はお互いコーヒーの入ったカップを持ち、電気の消えた一室の中にいた。
翔はいつものパイプ椅子に座り、静かに耳を澄ましていた。
慎先生はコーヒーを一口啜り、机の前の椅子に座りながら、目の前に見える輝く満月を見る。
そこで慎先生はふと思った。
この話をするのはいつぶりだろうか。
そしてこのことを知っているのは、おそらくごく数人のはずだ。
慎先生は小さく見えないくらいの笑みを浮かべ、そっとポケットからタバコを取り出し一服する。
緊張を紛らわすこの一服で心を落ち着かせ、できるだけ冷静に話そうと心がける。
煙が微かに開け放たれた窓の隙間から外へと流れ空に昇って行く。
そんな光景を目に入れながら語り始めた。
慎先生の犯した罪と過去を……。
水瀬慎は東京の国立大学の医学部に現役で合格し、それも入学試験をトップの成績を収めた優等生だった。
頭も良く、社交性もあり、友人からの信頼も厚く、容姿も文句なしと、何においても完璧な学生だった。
そんな彼を、誰もが恋人にしたいと思った。
高校から人気の高かった慎は、数えきれないほどの告白を受けたが、どれも断っていた。
なぜなら、自分にはやりたいことがあるからだ。
それは医者になって、少しでも多くの患者の病気を治すこと。
それが、彼の夢だった。
「この頃は僕も若くてね。医者というものをわかっていなかったんだ。だから、病気を治すなどと簡単に口にできたんだ」
「でも、それは誰でも思うことだと思いますよ」
「だろうね。しかし、この世界は本当に甘くないんだ。医者というのは病気を治すのではなく、治すのを手伝うもの。しかし、世間は医者が病気を治すと思っている。その分責任が襲ってくるものだ。その重圧に耐えてこそ、初めて医者になれるんだよ。さて、続きだ」
一年、二年、三年と順調に単位を取得し、大学でも優れた成績で教授からの評価も高ければ、飲み込みも早く、期待の新人と言われるほどだった。
もちろん勉強だけでなく、高校時代からしているバスケのサークルにも所属し、小さな大会では優勝するほどの実力を持ち、その中でもエースを務めるほどの才能を発揮していた。
その結果、文武両道、両方からの期待は並々ならないものだった。
慎自身、その期待に応えるように何でも優秀に務め、そして医師免許も一発で取得した。
そのまま慎は大学病院の医者になった。
期待の新人でも、新米は新米。最初にやることは主に雑用が多かった。
サポートや患者への薬の提供、書類の整理や研究の手伝い、また夜勤もあれば、寝る間も惜しんで勉強もしなければならないし、論文の期限も迫ってくる。
医者といっても最初は安月給で十分に暮らせず節約の日々。
毎日徒労の生活だった。
「医者ってこんなに大変なんですか?」
「まぁね。簡単な仕事ではないさ。一応、人の命に関わる職務だからね。やることは五万とあるさ。全てやろうと思っても終わらないほどね。みんな医者は金持ちだというけど、新米は安月給だし、ほんとのお金持ちは主治医か自分の病院を持っている人だけ。それでも苦しい人はいるけどね。休みがないから大変さ。さ、ここからだ」
そんな彼も、いつしか恋をしていた。
慎の彼女である、平野環が、彼の恋人である。
彼女と知り合ったのは大学のコンパである。
いわゆる飲み会で二人は出会い、意気投合し、何度か遊びに行く真柄になり、いつしか付き合うようになった。
彼女は同じ大学の文学部で、慎と劣らず優等生であり、容姿も完璧だった。
しかし、彼女は生まれつき体が弱く、サークルも入れなければ、運動も一時間以上できないほどだ。
このような体つきで、重労働や社会に出て働くなどできない。
そのことを知っている慎は、大学卒業後、二人は同棲するようになった。
家に帰れば環がいる。
そう思うだけで、慎の足は自然と早歩きで自宅に向かう。
ワンルームしかない築十年以上の安アパートだが、住める場所、そして二人がいればどこでも幸せだった。
その力が糧となり、慎の論文が高評価で、有名な教授の助手を務めるようになった。
これで給料も上がり、生活は楽になった。
「さすが先生ですね。まだ二十代なのに、すぐに昇進しましたね」
「運が良かっただけさ。それに、環のためと思えば、本当に苦にならなかったからね。この気持ちは、おそらく君が巴くんに抱いている感情と似たようなものさ。でもね、これから悲しいことがあったんだ……」
順風満帆に思えた二人の生活に、とうとう死の刃が襲い掛かったのだ。
そう、悲劇は起こった……。
それは慎が技術や知恵が身に付き、多くの患者を受け持ち、何度も手術を行い、医学界でも若手の凄腕を持つ医師として有名になったときだった。
慎の恋人の環が倒れたのだ……。