第十九章 再起
あれから一時間以上が経ち、あまりはっきりとしない頭をしながら慎先生の部屋に翔はいた。
いつものパイプ椅子に座り、手には冷たいコーヒーが握られていた。
手のひらから伝わるひんやりとした温度だけを感じとっていた。
「……聞かせてもらおうか」
翔の目の前には慎先生がいた。椅子に座り、巴のカルテを見ながら問いかける。
「なぜ深夜にも関わらず病室にいたんだ?」
慎先生は怒っているのか顔を見るだけで怒りを感じ取れる。
翔はさっきから頭の中では巴のことばかりで働かないが、ゆっくりと答える。
「……秋元創から鍵を貰って、深夜に行けば病気の苦しみがわかるって……」
「? 鍵?……見せてくれ」
「……はい」
翔はゆっくりな動作でポケットから鍵を取り出し慎先生に渡す。
慎先生はその鍵を見て舌打ちをした。そのまま握りしめ、ポケットの中にしまう。
「それで、病気の苦しみを知るために来たんだな」
再び向かい合い、質問を始める。翔は目を合わせずうつむきながら坦々と答える。
「……はい」
「……そうか。……それで、どう思った?」
「え?」
翔はそっと顔を起こし、慎先生を見る。
「……あんな巴ちゃんの苦しそうな姿を見て、どう感じた?」
慎先生のきつい視線を見つめ、翔は再びうつむくと答えた。
「……病気って、こんなにも苦しいもんなんだって、初めて知りました」
そう答え、続きがないと判断し、慎先生は一息吐く。
「そうか。……ちょっと気になることがあるんだが」
「……はい」
「確かに今夜のことは巴ちゃんが発病してから多々あった。しかし、あれほど発作が起こることはごく少ない。考えられることと言えば、巴ちゃんが無理をしてまで体力を使い果たしたこと。そのことに、何か心当たりはないか?」
その言葉に翔はハッとする。
考えられることと言えば、学校に行ったことだ。
それ以外に考えられない。
だったらなんだ。さっきまでの巴の苦しみ、あれを作ったのは自分だったのか。
自分のせいで巴はああなったのか。
そう思うと、翔の体は震え、手に持っていたコーヒーを落としてしまった。
「か、翔くん?」
「……俺だ。俺のせいだ……。俺が、学校になんて連れていったから……」
「学校?……まさか、巴ちゃんを学校に連れて行ったのか!?」
慎先生は椅子から立ち上がると翔の肩に手を置き強引に問いかける。
「……はい。巴が学校に行きたいっていうから……だから、俺……」
「くっ!」
慎先生は拳をぎゅっと握ると振り被った。
そして……。
頬に痛烈な痛みが走った。力と骨が当たる感触。
翔は椅子から勢いよく落とされ床にぐったりと倒れる。
だんだんと殴られた箇所に痛みが増していき、つーっと血がしたっていく。
慎先生は翔に容赦のない怒りの籠った目をして睨み付けながら荒く息をする。
「君は、なんてことをしてくれたんだ……。確かに私は彼女の願いを叶えるようにとはいった……。しかし! 病気を悪化させ、寿命を縮めろとは言ってないぞ!」
慎先生の怒声が心に響く。
そう。全て自分のせいだ……。
「出ていけ! 君はもうここに来るな! 今すぐ出て行くんだ!」
翔は体に力を入れゆっくりと起き上がる。
そのとき気づいた。
慎先生は泣いていた。
翔を睨み付けている目から、大粒の涙を流し、頬を伝って落ちていた。
拳は力が入りぷるぷる震え、自分を制御するかのように歯を食いしばっていた。
しかし、涙は止まらなかった……。
翔はうつむくと、黙ったまま背を向け、部屋を後にした。
慎先生は翔が出ていくことを確認すると机の前にある椅子に座り、頭を抱えて呟いた。
「……ばかやろぉ……」
病院を出た翔は、放心状態のようにふらふらしながら自転車のあるところまで歩く。
すると、そこには秋元創が立っていた。
「どうやら、その様子だと目の当たりにしたようですね」
いつもの偉そうな口ぶりでもなく、表情もどこか悲しげなものになっていた。
そして巴のいる病室に目を向ける。
「人類は地球上の生物の中で一番の知力と技術を持った高等な生物。どんな猛獣でも怪獣でも、科学技術が発達し、知恵がある人類に敵はいない。しかし、それでも長年苦しみ、悩み、足掻いても完全な勝利を手に入れることのできない相手がいた、それが病気です」
創はすっと自分の胸に手を当てる。
「僕は運が良く勝ちましたが、全員が勝てるかはわかりません。昔からいろんな病気が流行り、そのたびにワクチンなどで抵抗し改善策を見つけてきましたが、決して無くなることはないウイルス。病気こそ、人類に立ちはだかる最強の敵。今も、そしてこれからも、彼らから逃れることはないでしょう」
創はすっと翔に目を向ける。
「これでわかりましたか? 病気の苦しみ、今の巴さんの現状、そして、自分がどれだけ甘く愚かだったかを。……少しは頭を冷やして、これからは迂闊に行動しないことを祈ります」
創は最後に巴の病室の窓を見て、翔に背を向け去って行ってしまった。
周りに誰もいなくなると、翔はその場に膝まづき、溜めこんでいたものを吐き出した。
アスファルトの上に零れ落ちる雫。
悔しさの涙。
悲しみの涙。
恐怖の涙。
恥ずかしさの涙。
怒りの涙。
そして、自分に対しての愚かさの涙。
なぜ自分はこんなにも健康なのだろうか……。
なぜ巴と一緒の病気を患わなかったのか……。
そう……。巴だけじゃない。日本中、いや世界中の病気を患った人たちが苦しんでも戦っている。
なら健康な人たちは何ができるだろうか。
知恵も、技術も、資格も、免許も、何もないものに何ができる?
答えは簡単。
なにもできない。
今はっきりとわかった。自分は愚かな人間だ。
巴の幼馴染? 一番の友達? 親友?
だからなんだと言うんだ。
それで病気が治るのか? 苦しみがわかるのか? 助けることができるのか?
結果はどうだ。どんなに思っても、どんなに喜ばせても病気は治ってないじゃないか。
逆に悪化させ苦しませているじゃないか。
バカみたいに自分だけを信じ、誰にも相談せず勝手な行動をして、招いた結果がこれだ。
「ちくしょぉおおっ!」
翔は拳を握り何度も地面を叩いた。
痛みが広がり皮が破れ血が出る。
それでもかまわない。巴の痛みや苦しみと比べたら百分の一にも達していない。
自分は何も変わってない。成長もしていなければ、逆に退化している。
今まで自分は何をしてきたんだ。
毎日巴のことを考えてきたじゃないか! 巴のことだけを考えて生きてきたじゃないか!
なのに巴のこんな姿を見るために頑張って来たのか。
違うだろ!
自分は健康だ! 自分は病気なんて患ってない! だったら助けてやれよ! 何でもできるだろうが!
もう17だぞ! 子供じゃないだろ!
巴を助けたいなら、救いたいなら、治したいなら何とかしろよ!
瀬川翔!
「…………」
じっと目の前の涙で濡れたアスファルトを見つめ、拳から伝わる痛みを感じる。
心の中で葛藤し頭を悩ませても、答えはやっぱり出なかった。
自分は弱い。弱すぎる。こんなにも、自分って弱いんだ。
それなら、強さってなんなんだ。
力があればいいのか? 頭が良ければいいのか? 好きな人を守れたらいいのか?
……そんなこと、考えている時点で無駄だ。
翔はふらふらと立ち上がると自転車を漕ぐ。
目の前には朝日が昇り、眩しい陽光が送られた。
今から何をしようか。
君ならどうするだろうか……。
まずは寝る?
もちろん、あれしかないだろ。
翔は急いで自宅へと向かう。
誰にも治せないなら……俺が治してやる。