第一章 病院
あれから12年が経った。
翔は高校2年生になった。
翔が入ったこの河守高校は、自宅から近いという理由で入り、特に伝統もなにもない、ごく普通の高校だ。
強いてもう一つ理由を上げるとすれば、病院に近い場所に位置している。
もうすぐ夏休みに入るということで、教室内ではその話で持ちきりだった。
二年生の翔たちは、来年は受験生である。
来年は遊んでなんかおられず勉強の毎日だ。
そこで、最後と言っても過言ではない夏休みを有意義に過ごそうとしていた。
そんな中、一人窓際の席に座り、空を眺めていた翔は、夏休みの予定や楽しい行事などを考えもしなかった。
すでに予定は決まっている。
それは毎年行われているある役目を、今年も繰り返すだけだ。
放課後になり、生徒はみな部活に行くか、家に帰ったり、遊びへと赴く。
「翔、これからみんなでカラオケ行くんだけど、お前も行くだろ?」
翔のクラスメイトが輪になって誘ってきた。周りには5人の生徒が同じように翔の答えを待っている。
「悪い。ちょっと寄るところがあるんだ」
翔は笑いながらみんなに両手を合わせて頭を下げた。
「なんだよ、今日もかよ。いつもノリが悪いぞ。たまには行こうぜ」
「だめなんだよ。大事な用なんだ。明日、みんなの点数教えてくれ」
そういって翔は鞄を持つとさっさと教室から出て行った。
翔は校内の駐輪所で自転車に跨ると、足に力を込め急いでペダルを漕いでいった。
目的地に向かう前に、いつもの花屋で花を買い、スーパーで手ごろな果物を買った。
疲れても、その勢いは止めようとはせず、額から汗が流れても気にしなかった。
そして、街一番の大きさと医療設備を誇る真っ白な病院に着いた。
この病院は河守総合病院と言い、大抵の入院患者はここにいる。
翔はいつもの駐輪場で自転車から降りると、乱れた息を軽く整え、タオルで汗を拭うと入り口に向かって歩いて行った。
中に入った瞬間、涼しい冷気に体が包まれ、さっきまでかいていた汗がみるみるうちに引いていった。
「あら、翔くん。今日も来たのね」
受け付けの看護婦が翔の姿に気づいた。
何度もここに足を運ぶので、ほとんどの看護婦や医者には顔を覚えられていた。
翔は看護婦に挨拶する。
「こんにちは。今面会は大丈夫ですか?」
「大丈夫に決まってるでしょ。早く行ってあげなさい。彼女が待ってるわよ」
看護婦は優しい笑みを浮かべ翔を急かしてくる。
翔は看護婦の軽い冗談に笑いながら、会釈をしていつものように入院部屋に向かった。
何度も繰り返してきた通路、一番上の5階に上り、お目当ての502号室を探す。
扉の前で息を整え、制服の乱れを直し、ドアのノブを捻り中に入った。
「よう、巴。元気にしてるか?」
翔は大きな声を出して満面の笑顔を見せた。
「翔くん。ここは病院だからもう少し静かにして。怒られるのは私なんだからね」
巴は笑いながら優しく翔を注意した。
病室内は一台のベッドに、隣に小さな台の上に花瓶の中に入っている花とノートパソコン。大きな窓と一脚の椅子があるだけだ。
巴はベッドの上に座っている状態でいた。膝の上には読みかけの本が置いてある。
「悪い悪い。ほら、今日もお花持って来たぞ。あと果物も。今剥いてやるよ」
「いつもありがとう」
巴は翔にそっと微笑んだ。
「いいんだよ。巴が早く退院すれば」
翔は近くにあった椅子をベッドの脇に置き、そこに座ると持参していた果物ナイフでりんごの皮を剥き始めた。
その間、巴はパソコンを膝の上に置き起動し始めた。
「また小説?」
翔は起用に皮を繋ぎながら訊いた。
「うん。入院中はこれしかやることないしね。けっこうおもしろいんだよ」
巴は入院してから、親が退屈だろうと思い、パソコンを誕生日にプレゼントしたのだ。それから巴はワープロで小説を書くようになった。
たまに翔も手伝うのだが、内容はまだ知らなかった。
「それ、いつ読ませてくれるの?」
「え? 読むの?」
巴が驚いた表情になった。
「当たり前だろ。小説は読むためにあるんだ。俺に読ませてくれないの?」
「い、いや。そういうわけじゃ……ないんだけど……」
「じゃ、なんだよ?」
「それは……。まあ、いつか読ませてあげるよ」
「約束だぞ」
巴は戸惑いながらも、約束してくれた。
そして、しばらく静寂な時が続き、聞こえるのは翔がりんごを剥く音と、巴のキーボードが叩かれる音。
剥き終わった翔は、りんごを食べやすい大きさに切りそろえ、お皿に乗せて渡した。
「できたぞ」
「うん、ありがとう」
巴はパソコンを一時中断し、りんごをおいしそうに食べ始めた。
そして、翔はそっと視線を降ろし悲しげな眼をした。
「巴……。ごめんな。俺のせいで入院しちゃって……」
巴はりんごを食べながら笑顔で答える。
「もう気にしなくていいんだよ。どうせ入院すると思ってたし。でも、毎日来てくれるよね。わざわざ私のために」
「それは俺の責任だし。……それに……」
「それに?」
「いや、なんでもない」
翔はうつむいて何も言わなくなった。
巴は話題を変えようと口を開く。
「ねえ、もうすぐ夏休みだね。翔はどこか旅行とか行くの?」
翔は? ということは、やはり巴はどこにも行かないようだ。
遠出できるような体力もなければ、いつ発作が起きるかもわからず、ここから抜け出すことはできない。
翔は申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
「いや、どこも行かないぞ。予定なんてないな」
「それなら友達と遊びに行けば? 海行ったり、旅行なんていいね」
しかし、翔は首を振る。
「みんな宿題とか、親の実家に帰ったりして、そんな時間ないんだ。それに、俺の友達みんな部活してるから、遊ぶ暇なんてないみたいだし」
「そうなんだ」
巴は納得した表情になりふ~んとうなずく。
それを見て翔は深く追求して来なかったので心の中で安堵した。
「だから、夏休みの間は、ここに毎日来るからな。どうせ家に居ても暇だし」
翔はニカッと笑顔を見せる。
「それなら部活とかしたら? 昔からスポーツ得意だったじゃん。小学生のころはサッカーしてたし。また始めたら?」
翔は小学一年生からサッカーのクラブチームに所属していた。六年生のときはキャプテンを務めるほどだった。
ポジションはフォワードで、大会で何点ものシュートを決めた。大会で優勝したこともあり、最優秀選手にも選ばれた。
その天性の運動能力を買われ、いろいろな中学から推薦が来た。しかし、翔はそれをすべて断った。サッカーは小学生までと決めていたからだ。
そのおかげで、親は猛反対したが、翔の決意は固く、最後はおしきることができた。
翔は巴の質問に首を振る。
「今からサッカーしても体力ないしな。他の部活に入っても、もう遅いし」
翔は立ち上がると、窓を開け外を眺めた。
外には小さな公園が見えた。病院の前には、気分転換やちょっとした運動ができるように敷地内に広場を作ってある。
遊具などはないが、ベンチやアスファルトの散歩道がある。
今では車椅子に乗った老人が周りに生えてある木を眺めたり、小さな子供が走り回っていた。
「そう……」
巴が呟き、お互い無言になる。少しして、巴が話しかけてきた。
「それならさ、私のお願い、訊いてくれない?」
「ん? なんだよ。お願いって」
翔は外を眺めるのを辞め、巴の方に振り返った。
「うん。それはね――」
そのとき、ちょうどドアが開かれ、外から巴の母親が入ってきた。
「あれ、翔くん。今日も来てくれたのね。いつもありがとう」
巴の母親は手に持っていた紙袋を置いて、かいていた汗をハンカチで拭きながら声をかけてきた。
「いいえ、いいんですよ。これぐらいしかできませんし。……あと、その、僕のせいで巴を入院させてしまい、すみませんでした」
翔は姿勢よく頭を下げた。それを見た巴の母親は、あきれた顔して翔の顔を上げさせた。
「もうそれは聞き飽きたわ。私と会うたびにその言葉を繰り返して、耳にたこができそうだわ。もう気にしなくていいのよ。翔くんの責任じゃないんだし。それに、何度もお見舞いに来てくれるだけで十分。もう謝らないでね」
「そうよ。翔は悪くないんだから」
二人からそう言われても、翔は心の中は罪悪感でいっぱいだった。
取り返しのつかないことをしたのだから。しょうじき、恨まれても仕方ないとも思っていた。
「ありがとうございます……」
翔はそう言って、持ってきた花を花瓶に入れようと手に持ち、病室から出て行った。
巴の母親が紙袋を持ってくるのは、今から着替えるからである。
翔は廊下に出て水道に向かった。
そのときにあることに気づいた。
「あ、そういえば、巴のお願い聞いてなかったな。あとで聞いてみるか」
翔は鼻歌まじりに花を花瓶に入れる。
しかし、結局部屋に戻っても、巴はそのことには後で良いと言い話さなかった。
この願いが、生涯忘れられない夏休みになるとは知らずに……。