第十章 責任
屋上で打ち明けた、巴の願い。
それは、ずっと前から巴が抱いていたものだった。
生まれた子供は何か理由がない限り通わなくてはいけない掟。
……学校に通うこと。
学校に飽きた人なら言うはずない願望だろう。
しかし、みんなが通っているのに、自分だけが違うという多数決の原理を見せられ、そして楽しそうな雰囲気を醸し出していれば、誰だって言ってみたくなる。遊園地と同じだ。
本来通うはずだったのに、叶わなかった学校。
それを、巴は今になり通いたいと懇願した。
翔は巴を支えながら、しばし呆然とした表情で、今でも真剣に見つめる巴を見ていた。
学校に通わせる。それが巴の願いだった。できるなら、その願いを叶えさせてあげたい。しかし、そんなことができるのだろうか……。
そのときだ。
「……ごほっ、げおっ……ごほっ、ごほっ……」
巴が胸を抑えて咳き込みはじめた。さっきの興奮のせいだろう。
「と、巴! 大丈夫か? すぐに先生呼んで来るから」
そのあと、翔はすぐに慎先生を呼び、巴はベッドに連れて行かれ、鎮静剤を打ち静かに眠った。
そのあと、翔は慎先生に呼ばれ、屋上であったことを話した。
全てを聞いた慎先生は口に手を当てて考え込む。
「そうか……。そんなことが……」
慎先生は巴のカルテを掴み思い悩んだ末、
「わかった。今日はもう帰っていいぞ」
そういい、翔は部屋から出て行った。
そして、翔は一人とぼとぼと自転車を押しながら帰っていた。
先ほどの巴を見て、正直焦りが積もっていた。恐怖のせいか、さっきから体が震える。
巴が打ち明けた学校に通いたいという願い。そして、それができない苦しみの我慢の限界。
それらの原因はなんだろうか……。
そう、自分だ……。
こんなことになったのは、全て自分のせいだ。
幼いころに巴を無茶させて遊ばせたから。もしかしたらすぐに治ったかもしれないのに……。
翔は頭を抑え、その場にうずくまった。バランスが崩れた自転車が音を立てて倒れる。
今自分の過ちの責任が大きく圧し掛かってきた。
人一人の人生を台無しに、何もかもを奪ってしまった。
巴の気持ちに応えるには、責任を果たすためには、自分にも言える権利を手に入れるにはどうすればいいのだろうか。
そのとき、翔は目の前を走る何台もの車が目に入った。
自分も、巴のような重症を負えば責任を果たせるのだろうか……。罪を償えるのだろうか……。
翔はふらっと無気力に、放心状態のまま道路に足を踏み入れる。
そのとき、横から迫ってくる車がクラクションを鳴らしてきた。
でも、翔には聞こえていないのか、反応がない。
もう少しで轢かれてしまう。もう目の前に迫ってきた。
そのときだ。
ドスッ
横から誰かが翔の体を突き飛ばした。そしてそのまま反対側の歩道へと出る。
車のブレーキ音や周りの野次馬たちの騒ぎで慌ただしかった。
翔はゆっくりと体をお越し、飛びついて来た相手を見る。
その場で地面に手を着いて乱れた呼吸を整えているのは、逢坂薺だった。
「……はぁ、はぁ……せ、瀬川くん……道路でぼうっとしてたら危ないよ……」
薺は優しそうな笑顔を見せる。その表情を見て、翔はそっと自分の体を覗き込む。
どうやら、どこも怪我せず済み、重症など負っていないようだ。
翔は気が抜けたのか、それとも助かったことに安堵しているのか、その場に仰向けに倒れ込んだ。
「あ、あれ……? せ、瀬川くん!」
気がつけば、翔はどこかの公園のベンチに横になり、薺に膝枕してもらっていた。
真上にある薺の表情は真っ赤にしており、視線をキョロキョロしていた。
「……お、起きたの……かな……? き、気分は……どう、かな……?」
翔はゆっくりと起き上がり、ベンチに座り直す。そして、片手を顔にやり、ふっと息を吐いた。
薺は心配になり、そっと翔の顔を覗き込む。
そのとき、薺は心の中で小さく悲鳴を上げた。
あっ。
翔の頬には一滴の涙が流れていた。
翔は落ち着きを取り戻し、恩人である薺に改めて礼を言った。
公園にいるのは、ここまでタクシーで送ってもらい、運転手が翔を運んだとのことだ。その後ろを、自転車で薺が追いかけていたらしい。
「ありがとな、逢坂……」
「う、ううん。そんな。たまたま瀬川くんを見つけたから……。でも、どうしてあんなことしたの?」
「……ああ」
翔は話すか迷った。
でも、巴のことは誰にも話したくない。誰かの協力は借りられない。全て自分で責任を果たさなければ。
なので、翔は薺にある質問した。
「逢坂は……責任ってなんだと思う?」
「責任……?」
「そう……責任」
逢坂は人差し指を顎に当てながら考え込む。
「そうだね。責任は、やっぱり自己満足かな」
「……自己満足?」
「だって、その人が責任を果たしたって思っても、相手はそれで満足してないかもしれないし、納得だってしてないかもしれないし。だから、自己満足」
「そうか……。自己満足か……」
ならば、俺が今までしてきたことも自己満足となるのだろうか。毎日のようにお見舞いに行くのも、果物や花を持って行くのも、心配するのも自己満足……。
ならば、どうやって責任を果たし、相手を納得させればいいんだ……。
「でもね、責任は、約束と同じだと思う」
「約束?」
薺はうなずく。
「うん。約束事のちょっと大げさな感じ。ちゃんと決まり事は守らないといけませんよって。そう考えれば、少しは楽にならないかな」
「……そうかもな。でも、その約束事を守るには、どうしたらいいんだ?」
「う~ん、そうだね。相手の事を思えばいいんじゃないかな?」
「相手の事を思う?」
「そう。つまり、好きだったら、約束だって破らないでしょ?」
「好き……だったら……」
翔は目を細め考え込む。
自分は巴のことをどう思っているのだろうか。好き? それともただの幼馴染としか思っていないのだろうか。
今まで、自分は巴がこうなってしまったのは自分のせいだと思い、罪滅ぼしや責任を果たすために行ってきた。
それは好意のためか? 巴が好きだからやってきたのだろうか。
翔はぐっと拳を握った。
好きか、好きじゃないかだって? そんなの、とうに答えは決まっている。
翔はすっと立ち上がった。
「ありがと、逢坂……」
「え?」
翔は自転車を跨ぐと急いで公園から出て行った。
「瀬川……くん……」
その頃、病院のある一室で慎先生が頭を悩ませていた。
「お願いごとは、学校に通いたいことか……。それは可能なのか……」
慎先生はカルテを睨みながらタバコを吹かす。
「巴ちゃんの容体は最悪な状況だ……。このまま外に連れ出して……」
そのとき、ゆっくりとドアが開いた。
慎先生は音に気づき、後ろを振り返る。
「君は……」
目の前にいた人物、それは秋元創だった。