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第九章 願望

 学校が終わり、いつもより早い時間で、翔は自転車を漕いで河守総合病院へと向かう。


 先ほど一学期の終業式が終わり、とうとう夏休みに入った。


明日から学校を目にすることなく、長期の休日を満喫することだろう。


 でも、翔は学校の代わりに毎日病院へと向かうことになる。


 巴と多くの時間を過ごし、一緒に楽しもう。


 それに……慎先生との約束もある。


 こうしている間にも巴の病気はどんどん悪い方向へと向かっている。


 いつ、何が起きるのかもわからない。


 それまで、少しでも後悔のない、良い人生を送ってほしい。


 そして、今日は巴から何かお願いがあるらしい。とても深刻に、今までにない大事な話。


 昨日絶対に来てほしいと言っていた。


 その願いを、叶えさせてあげたい……。


 翔はそう思うと、ペダルを漕ぐ力が増した。




 駐輪場に自転車を止め、入り口へと向かうと、少しばかり騒がしかった。


「ん?」


 翔は近づいてみると、そこでは退院式が行われていた。


小さな男の子が看護婦から花束をもらい、担当医から優しく頭を撫でられていた。


 そして男の子は満面の笑顔を見せ、親と共に車で去ってしまった。


 翔はその光景を見送り、そっと唇を緩ませた。


 いつか、巴もそうなったらいいな……。


 翔は再び歩き出すと、巴の病室へと向かった。




 翔はしっかりとドアを数回ノックして中に入る。


ベッドの上では巴がパソコンを開いて小説を書いていた。


「あ、翔くん」


 巴はパソコンを閉じ、台の上に移動させると嬉しそうな笑顔を見せる。


「よ、来たぜ。やっと一学期終わったよ」


「お疲れ様。明日から夏休みだね。羨ましいな」


「お前なんか毎日が休みじゃねーか。こっちからしたらそっちのほうが羨ましいぜ」


「ははは。そうだね」


 二人して他愛無い会話をする。巴が病気というのが嘘みたいに幸せだった。


 こんな時間が、いつまでも続けばいいのに……。


「それで、昨日話したお願いってなんだよ」


 翔が気軽に、というより、巴が話しやすいように問いかける。


 しかし、それを口にしただけで、巴はさっきまで明るい表情を一遍暗くしうつむいてしまった。


「うん……。そうだね、そのために来たんだもんね……」


 巴は顔を上げ、弱々しく翔を見る。


「ちょっと出ようか。外の空気吸いたいし……」


「そうか」


 翔は端にある車椅子を持ってきて、巴に手を貸しながら座らせる。


 そして後ろのグリップを掴んで部屋を出た。


 二人はエレベーターに乗り、最上階の屋上までやって来る。


そこでは真っ白なシーツが干され、風でゆったりと揺らめいていた。


「やっぱりここは涼しいね」


 巴が笑顔を見せ、鉄格子先の景色を眺める。その横に翔も並び、同じように観賞する。


「この先に、私の知らないことがたくさんあるんだね……」


 巴が鉄格子を掴み寂しそうな眼をしながら力なく見続ける。


 その光景は、牢屋に入れられている犯罪者と同じだった。


 何もない檻に入れられ、その先にある世界に向かうにも、自由がなく縛られたこの身では叶わない願い。


「……人生って、何なんだろうね」


 唐突に巴が口を開いた。翔は黙って耳を傾ける。


「人間すべて平等である……。誰がこんなこといったんだろうね。だったら、どうして生まれたときから苦しむ人がいるのかな? どうして何もできない人がいるのかな?」


 巴は力なく笑みを浮かべる。


「神様って残酷だよね。病気を患ったものは白い病院に入れられ、何もできず時が経つのを待つばかり。健康な人はいろんな世界を見て、いろんなことを学んで、いろんなことを知って、どんどん先に行ってしまう。……ほんとうに羨ましい……。まるで生き地獄だね。何のために生まれたのかわからないよ」


 巴の体が小刻みに震える。そしてぎゅっと唇を噛む。それでも巴は話を続ける。


「ひどい……。ほんとにひどいよ……。生まれた子は何も悪いことしてない。ましてやまだ何もしてないのに、どうしていきなりこんな不幸を味あわせるの……。これから楽しいことが待ってるはずなのに、どうしてこんな仕打ちをするの……」


 巴は顔をうつむき、それを隠すように長い髪が覆い尽くす。


「……もう、嫌だな……。このまま何もできずに、苦しみ続けるなんて嫌だよ……。まだやっていないことだってたくさんある……。やってみたいことなんてたくさんある……。これからやりたいこともたくさんある……。このまま、終わりたくない……」


 巴は顔を上げ、悔しそうに目から大粒の涙を流す。


その涙は頬を伝い、コンクリートの上へと落ちていく。そこだけ大きな染みができていた。


 巴はガシャッと金網を力いっぱい掴んだ。


「どうして! どうして私だけこんな想いするの! 何もしてないじゃない! 悪いことなんてしてないじゃない! 何も望まない! もっと普通に生きたかった! もっといろんなこと知りたかった!」


「巴……」


 巴は今まで溜めていた鬱憤をはらすかのように声を上げて叫ぶ。


「普通に生まれた子たちに分かる!? 病気の苦しみを! 何もできない不自由の苦しみを! 部屋に閉じ込められた束縛の苦しみを! 楽しそうに友達と遊びまわることもできない孤独の苦しみを! 襲いかかる死への恐怖を!」


「と、巴……」


 翔は心配になり、巴の肩に触れる。その手を払い飛ばし、翔に怒りのこもった目を向ける。


「こんなことなら生まれなければ良かった! こんな想いするならすぐに死ねば良かった! 良いことなんて何もないじゃない! きっと治るって言われても根拠も希望もないのに勝手なこと言わないでよ! 逆に無責任よ! 何も知らないくせに……同じ苦しみを知っているわけでもないのに……分かるような口利かないでよ!」


「巴!」


 あまりに我を忘れ憤慨してしまい、巴はつい車椅子から落ちてしまった。


間一髪で翔が手を伸ばし一緒に倒れたがなんとか受け止めることができた。


 巴は翔の胸の顔を押し付け、制服を強く握る。


落ち着いたのか、嗚咽を漏らしながら、ゆっくりと話し続けた。


「……翔……くん……、ごめんね、いろいろ言っちゃって……。翔くんは、何も悪くないのに……。でも、気が済まなくて……」


「いや、気にするなよ。言いたいことがあったら、なんでも言ってくれ」


 巴が初めてみせる底知れぬ怒り。


普段穏やかで優しい巴でも怒りはある。それが今まで溜まっていたのだろう。


 それはそうだ。やりたいことが何もできず、検査の毎日で一向に治る気配はない。これで元気な方がおかしいくらいだ。


 翔自身、いろいろ慰めてやりたいし、元気を上げたい。だから何か言葉をかけてやりたい。


 でも、それはできなかった。


 なぜなら、自分は巴のような重い病気にかかったことはないからだ。


 生まれたときから健康に生き、巴がしたいことを数えきれないほど体験している自分には、何も言うことはない。


 言えば、ただの偽善者であり、巴が言ったようにただの知ったかぶりで終わる。


 ドラマなどではここで喝を入れて立ち直らせるが逆効果だ。何年も入院していては精神がまいってしまい、冷静に聞けるはずがない。


 ここで秋元創の言葉が何度も蘇る。


『病気の苦しみは、同じ病にかかったものにしかわからないんですよ』


 まさしくその通りだ。健康な人が病気を患った人の気持ちなんてわかるはずない。何も、言う権利なんてないんだ……。


 そう思うと、自然と翔の目から涙が溢れた。


 悔しかった。今までに湧いたことがない悔しさが体を襲った。


 自分のせいで巴はこうなった……。自分のせいで巴の何もかもを奪ってしまった……。


 なのに、自分には何もできない。お見舞いにいくだけの配慮しかできない。


 こんなにも無力な自分に腹が立った。そしてより一層悔しさが増した。


「翔……くん……」


 巴はそっと翔の胸から顔を上げ、地べたに座り込んで顔を覗き込む。


「私、知ってるんだ……。……もうすぐ、私は死ぬって」


「え?」


 翔は呆然と巴を見る。巴はうつむきながら話す。


「自分の体なんだから、うすうすわかるの。もうすぐ……死ぬんだって」


「巴……」


「だから……翔くんにお願いがあるの……」


 巴は目にいっぱいの涙を溢れさせ、懇願していった。


「私……学校に行きたい!」

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