侯爵様の懺悔
ひっそりと自分の領地にある修道院へ赴いた男に、出迎えの修道女は歓迎の口上もそこそこに、静かに切り出した。
「よろしいのですか。あのような噂を野放しにして」
男にまつわる無粋な噂は枚挙に暇がなく、ほとんど世俗と関わることのない彼女の耳にまで届いていた。
「ああいう手合は奥方の専売特許だからな。私と縁を持った彼女らが、相殺するように話をしてくれるおかげで、特に被害はない。君もその一人だろう。
……強いて言うなら初物食いの汚名を被った程度だ」
大した問題では無いと気にも留めない男こそ、渦中の侯爵その人だった。
「まあ。ではどうしてそんな方が、一介の修道女に過ぎないわたくしに懺悔を聞いてくれなどと仰るのです」
二人がいるのは懺悔室ではない。人払いをしたただの小部屋だ。
ゆえに、これは告解ではなかった。
男の確固たる態度が崩れる。舌は迷うように詰まり、小さく揺れる目線が、男の思考がめまぐるしく働いていることを示していた。
「……それというのも、今回迎えた妻が……私が陛下から仰せつかった仕事を明かす前に、自分を終の妻にするよう言い募ってきてな」
「なるほど。それにほだされたのですね」
「もう少し言い方があるだろう」
修道女の言葉は淀みない。
「あなたの様子を見れば、他に適切な言葉などないことがよく分かります。
……ああ……ようやくあなたも観念する時が来たのですね……。
俗世にいた頃のわたくしにはできなかったこと。とても嬉しいです。心からの祝福をさせてください」
胸元で指を組み、穏やかに祈る仕草を見せる彼女に、男は目を瞬いた。
「……」
はく、と声を出そうとして、息すら出てこない。
修道女が目を開ける。男の様子を見て笑みを零した。
「あら、今頃お気づきですか?
金にものを言わせて、家族や領民を楯にして結婚を迫る……どんな非道な方なのかと怯えるわたくしに、あなたは『大変良く』してくださいましたね。
あなたのたくましいお身体を、どんなに頼もしく思ったか。その揺るぎなさ。まるで大地のようだと感じたものです」
「……君が夜の話を持ち出すとはな」
「うふふ。あなたがあまりにも幼いことを仰るから、つい意地悪をしたくなりました。
……粛々と職務をこなされていたあなたが、一端の欲を抱きましたか。本当に喜ばしいことです」
しみじみと過ぎ去った日を思い起こす彼女に、男の顔は苦々しいものになる。
「いいのか、仮にも聖職者が」
「あら。あなたときたら真面目が服を着て歩いているような方なのですもの。あなたの国への献身ときたら、いっそ不健康なほどでしたから」
ちくりと刺した言葉は髪の毛ほどの鋭さしかなかった。
「……絆された相手の齢がふたまわりも離れていてもか?」
「法律上、そして契約上問題がなければ、誰に何を言われようとも堂々となさればよろしいわ。
大体、ふたまわりも年が離れている奥様を娶るまで、頑なにわたくしたちのような女を助け続けた――それはもう、あなたの自業自得です」
「む……」
修道女が真っ直ぐに男の目を見て答える。その瞳は柔らかく細められていた。
「わたくしはお話を聞くことはできますが、新しい奥様に愛を伝えたいならば隣国と縁付いた三番目の彼女がよろしいわ。
贈り物なら商家に入りたくさんの子宝に恵まれて、顧客との繊細な関係を読み取るのが得意な7番目の彼女。
房事の相談でしたら、高級娼婦となって選ばれた男性しか触れられない尊い身となった九番目の彼女が最も適切な助言をくれるでしょうね」
「おい。なぜ君が知っている」
「わたくしたち、同じ方に恩ある身として繋がっておりますから。
あなたもご存知でしょう? この手のことは女の領分だと、先ほども仰っていらしたのだから」
ぐうの音も出ず、喉から言葉に窮した男の動揺が絞り出る。
修道女に言われるがままの様子にも、また一つ、彼女の声が弾んだ。
「うふふ。あなたに頼ってもらえる時が来るなんて。『わたくしたち』、本当に幸せだわ。腕が鳴るわね」
「……。はあ。お手柔らかに、頼む」
男はそう言って一つ咳払いを挟むと、改めて居住まいを正した。
「それで、相談なのだが。君が挙げたどの内容でもないからここへ来たのだ」
「……まあ。そうだったのですか」
修道女の声が一つ落ちた。
「ああ。今度の妻には元々好い仲――というか、お互い憎からず思い合っている幼馴染みの男がいる。契約終了後そいつの所へ送り出すのに、いい手はないかと思案している。相手がどこかと縁づく前に根回しも必要だし、何より妻の方が思い切りが良すぎて、少々痛々しい」
「絆された……のではなかったのですか?」
「今時ないほど真っ直ぐな心根の持ち主だ。私は信心深くないが、彼女には報われて欲しい。人の身でいくらか取りはからえるのならば手を尽くしたい」
「はぁ……そちらの方で絆されたのですか」
得心がいったと修道女が頷く。
「それに」
「?」
「私が君の言うところの『特別な気持ち』を持って妻にしたのは、君が最初で最後だ」
「……え?」
淀みない反応をしていた女が、男の不意打ちに面食らった。
はっとして男の顔を見るが、男は彼女から顔を逸らしていた。かと言って隠すでも無く、伏し目がちに言葉を続ける。
耳は赤く染まっていた。
「殿下から多少強引でも良いからと後押しされて多数の家に介入してきたが、その任を果たすためとはいえ、最初から全て義務や使命感などで勤められるほど、私は人間ができていない」
「……」
「抱いたのも、君だけだと言ったら信じてもらえるだろうか」
男の指先が女の指先に重なる。ぴくりと力がこもった。
「にわかには……難しいですね。というか、あなた、だって、少しもそんな気配、」
「若かったし、臆病風にも吹かれた。君に……どう思われるか、あの一年はいつも気にしていたよ。そのくせ、わりとやりたいようにやった。
君を抱くことも、特別な感情を乗せて大切にすることも」
淡々とした男の言葉に、女の頬に朱が差していく。
「わたくしは、……あなたに進退を聞かれたとき……あなたの元にいたいと、けれどそれは許されないのだと、思って……」
「ああ。私がそのように誘導した。君に妻で居続けてもらうことはできないと」
「……離縁が認められている以上、第二夫人や愛人を持つことはできませんものね」
「そうだな」
「わたくしがこの先の人生全てを祈りへ捧げる――終身誓願をしていたらどうなさったのです」
「その時は君の行く道を支援したさ」
「あなたご自身は?」
「同じような立場の未亡人と一緒になってこの先をやりすごすか、殿下から頼まれた人を丁重に扱うか……今思いつくのはそれくらいだ」
「まあ……」
男の言葉に、女は息をのんだ。
「わたくしのような女をこれ以上出さないでくださいな」
「それは返事だと思って良いんだな? 直ぐに手続きを進めるが」
「それよりも先にすべきことがあるのではなくて?」
女の指先が男の指先の上を伝う。男は女の手を取り、甲に口づけた。
「君を愛している。どうか私の元へ戻ってはくれないか」