転職が成功している未来もある
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まだ呼吸が苦しく目眩がしたので、僕はベンチに再び腰を下ろした。
今のはいったい何だったんだろう。
ベンチに座って改めて正面の花屋を見ると「古ぼけている」という印象を抱いた。さらにショッピングセンター全体も劣化して、空き店舗もいくつかあった。先ほどまでは賑わっていたのに。
いや、このショッピングセンターはかなり老朽化していたはずだ。先ほどの賑わいはオープンしたての頃だ。オープンしたのは僕が小学生のころだ。
遠い子供の日の記憶が脳裏に浮かび、ゆるゆるとその風景が明確になり始めた。
――ちょっと待てよ、あれは?
記憶の紐を更にたどる。
――あれは確か小学生の時だ。母の誕生日に花を買うために妹の真奈美と一緒にこのショッピングセンターに来たことがあった。
――あの時、お金が足りなくて途方にくれたのだ
――そうだ、上級生に絡まれてとても怖かった。
――あの人は上級生を追い払い、助けてくれた上、足りないお金まで出してくれた
――優しくて頼りになる人だった
――あれは、小学生の僕と妹だ
と、いうことは幼いころに僕たちを助けてくれた頼りになるおじさんは、28歳の僕だということか?
いや、まてよ。
服装が違うような気がする。そうだ、幼い時に出会った未来の僕はスーツ姿でビシッとして背筋に棒でも入ったかのように姿勢が良かった。髪型もこざっぱりとして清潔感のあるものだった。今の僕は一年以上散髪していない。
――どういうことだ?
混乱した頭の中で考える。
今の僕とは異なる『別の未来の僕』と出会ったのか? つまり僕は二人いるということか?
いやいや、これじゃあSFの話ではないか。平行世界が存在し、そこに僕がいるというのか。ありえない。
頭を振り、苦笑する。
だけど――。
――人生は分岐の連続であり、それぞれの選択が異なる未来を形づける。こうして生まれる無数の可能性が、平行世界として広がっていく。たとえ過去に失敗したとしても、それもまた新たな分岐点だと。
ふと思い出したのは母の言葉だった。
人生の分岐の中で、選ばなかった選択肢が平行世界として存在するなら――その世界にも僕が存在するはずだ。
母は僕の転職活動を理解を示してくれ、資格試験の取得を応援してくれたのだ。そして、
誰よりも僕の可能性を信じてくれていた。
未来への分岐点はいくつもあるのなら、資格試験に合格して転職する未来も僕には存在しているのだ。
母は常に僕の味方になってくれた。
――そうか、今日は亡くなった母の誕生日だった。
***
帰宅すると、妹が夕食の準備をしていた。
この家の家事は、ほとんど妹が担当している。結婚に失敗して実家に戻って来た妹は、僕に厳しいことは言わない。父は仕事が忙しいからか僕にはあまり話かけてこない。
三年以上も、何もせずに暮らしていた。転職のために会社を辞めた頃の僕は、いつの間にかいなくなっていた。
家族が口うるさく言わないことをいいことに、ぬるま湯のような生活を続けていたのだ。
だが、妹と父が僕のことを心配していることは知っていた。
「――花、買ってきた。母さんの仏壇に供えておく」
「……えっ!?」
普段僕からは話しかけないので相当驚いたようだ。
「急にどうしたの? 今日はお母さんの命日じゃないよ?」
「知ってる、誕生日だろ?」
母は、二年前にがんで亡くなった。受診したときにはすでにステージ4の末期で、すべてがあっという間だった。
「……ありえないんだけど。お兄ちゃんいったいどうしたのよ?」
「まあ、色々」
「あれ、駅前のショッピングセンターで買ったの? あそこ今日で閉店だよ。かなり古いビルだったからね」
妹は、ゴミ箱に捨てられた花の包装紙をちらりと見て、そう言った。
「あの花屋なくなるのか?」
「そうみたいだよ」
妹に今日の不思議な出来事を話してみようかと思ったが、やめた。未来の僕がどんな恰好をしていたかはまだ訊けないからだ。
母のために花を買い、帰り道で今日の不思議な出来事を思い返していた。
健康な体があるのに働かない僕。メンタルがやられているわけでもない。ただ自堕落に日々を浪費している。
僕の状況を母は心配しているのだろう。現在の僕の怠惰な生活はよくないと、改めて実感した。
「夕食の準備、手伝うよ。今まで悪かった」
できることから少しずつ。焦らずに、前を向いて進もうと思った。
了




