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第9話:『ギクシャクな女神と、連携不能な合同訓練』

あの、焦げ付くような気まずさの中で交わされた仲直りの夜が明けてから、俺たちの旅路には、それまでとはまた質の異なる、新たな種類の沈黙が重く垂れ込めていた。それは、互いを拒絶し合う凍てつくような無言の応酬ではない。例えるならば、ようやく訪れた春先の、陽光を浴びてきらきらと輝く湖に張った薄氷の上を、その繊細な均衡を壊してしまわぬよう、一歩一歩、息を殺して慎重に歩みを進めるような、そんな、ひどくぎこちなくて、もどかしい沈黙であった。


俺は、自分の数歩先を行くソフィアの背中に、そっと視線を送った。彼女の肩は、以前のように頑なに俺を拒むように固くはなく、時折、ふとした拍子に俺の隣に並んで歩くことさえあった。しかし、その距離が縮まったからといって、心の距離が近づいたわけでは決してない。俺たちの間に交わされる会話は、まるで嵐の前の静けさのように、どこかよそよそしく、上辺だけを取り繕ったものに終始していた。


「今日の天気は、午後から崩れそうですね。雲行きが怪しいです」

「はい、そうですね。今のうちに少しでも先へ進んでおきましょう」

「水は、まだ十分に足りていますか? 必要なら、私が先に偵察に出て水源を探してきますが」

「はい、まだ余裕はありますので大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます」


まるで、旅の途中で偶然出会った、見ず知らずの他人同士が交わすような、当たり障りのない言葉の応酬。以前のように、彼女が悪戯っぽい笑みを浮かべて俺をからかったり、俺が彼女の神々しいまでの美しさに見惚れて、我を忘れてくだらないことを口走ったりするような、あの気楽で温かい空気は、一体どこへ消えてしまったのだろうか。彼女は、会話の最中ですら、極力俺と視線を合わせようとはしなかった。その彫刻のように整った美しい横顔には、常に、拭いがたい戸惑いの色と、何か堪え難い感情を必死に押し殺しているような、複雑な陰りが浮かんでいた。


俺も俺で、この微妙な空気の中で、一体どのように彼女に接すれば良いのか、完全に道を見失っていた。あの夜、俺の腕の中で彼女が見せた、堰を切ったような涙。そして、女神という完璧な仮面の下から剥き出しになった、生々しい感情。俺が今まで一方的に抱いていた、慈愛に満ちた完璧な女神様というイメージとは全く異なる、一人の女性としての、信じられないほど脆くて繊細な一面。その光景が、強烈な残像となって脳裏に焼き付き、瞬きをするたびに鮮明に蘇るのだった。下手に話しかけて、言葉の選び方を一つ間違えただけで、またあの夜のように彼女の心を深く傷つけてしまったらどうしよう。そんな拭いがたい不安が、鉛のように俺の口を重くさせていた。


そんな俺たち二人の、見ているこちらが息苦しくなるような様子を、後方からついてくる仲間たちは、まるでハラハラドキドキの恋愛ドラマでも鑑賞するかのように、固唾をのんで見守っていた。


「おいおい、ユウキの旦那と姐さん、まだあんなにギクシャクしてやがるぜ。こっちまで胃に穴が開きそうだ。見てるだけで飯がまずくなるってもんだ」

歴戦の傭兵であるジンが、普段の豪放磊落な態度はどこへやら、ひそひそと小声で隣を歩くサラに囁いた。彼の顔には、焦りと心配が色濃く浮かんでいる。


「仕方があるまい。あんな大喧嘩の後だ、すぐに元通りというわけにもいかんだろう。だが、このままではパーティ全体の士気に関わる。リーダーとして、何か手を打たねば……」

サラは、この冒険者パーティの事実上のまとめ役としての責任を強く感じているのか、たくましい腕を組んで、眉間に深い皺を刻みながら深刻な表情で呟いた。彼女の視線は、俺とソフィアの間を不安げに行き来している。


リナとセレスティアに至っては、もういてもたってもいられないといった様子で、オロオロと落ち着きなく、俺とソフィアの間を物理的に行ったり来たりしている。まるで、仲違いした両親の間でうろたえる子供のようだった。


「ねえ、ユウキ、全然元気ないね……。あたしが、面白い顔してあげようか? ほら、変顔だよー!」

リナが、俺のすぐそばまで駆け寄ってきて、必死に頬を膨らませたり、目を寄せたりして俺を笑わせようとしてくれる。その健気さが、かえって胸に染みた。


「師匠、お疲れが溜まっているのではないでしょうか? もしよろしければ、私が回復魔法を……あ、いえ、なんでもありません! 出過ぎた真似をいたしました!」

セレスティアもまた、心配そうに俺の顔を覗き込み、おずおずと杖を構えかけるが、すぐに我に返って慌てて手を引っ込めた。彼女の瞳は、純粋な心配の色で潤んでいる。


そして、今回の騒動のきっかけとも言えるマリアは、と言えば。

「わ、私のせいで……。私が、パーティに加わったせいで、皆さんの雰囲気を、こんなに悪くしてしまって……」

すべての責任を自分一人で背負い込み、今にも泣き出しそうな顔で俯きながら、まるで懺悔でもするかのように、地面に転がる石ころの数を延々と数えていた。その小さな背中が、あまりにも痛々しかった。


俺は、そんなマリアの震える姿を見て、思わず声をかけずにはいられなかった。

「マリアのせいじゃないよ。本当に、気にすんなって」

俺が、彼女の柔らかな髪を励ますようにポンと軽く撫でた、まさにその瞬間だった。


数歩先を歩いていたソフィアの肩が、ピクリと、ほんのわずかに震えたのを、俺の目は見逃さなかった。彼女は、決して振り返ることはしない。ただ、無言のまま、その歩く速度を、ほんの少しだけ速めた。その小さな、しかし明確な拒絶を含む挙動の一つ一つが、俺の胸に、ちくり、ちくりと、目に見えない小さな棘のように、深く、そして鈍く刺さった。



そんな、重苦しい雲が立ち込めるような旅が二日ほど続いた日の午後。街道は開けた荒野へと差し掛かり、遮るもののない平原が地平線の彼方まで広がっていた。ついに、この淀んだ空気に痺れを切らしたサラが、パンッ!と、乾いた大きな音を立てて手を叩いた。その音に、全員がびくりと肩を震わせて彼女に注目する。


「このままではいかん! 断じていかん! 現在の我々の間には、明らかに致命的なレベルで連携が不足している! これは、幾多の死線を乗り越えねばならぬ冒険者パーティとして、致命的な問題だ!」

彼女は、全員の顔を一人一人力強く見渡し、高らかに宣言した。

「よって、これより、我々の失われた絆と崩壊寸前のチームワークを再構築するための、緊急合同訓練を開始する!」


場所は、街道から少し外れた、見晴らしのいい荒野の平原。身を隠すような木々も岩もほとんどない。確かに、訓練を行うには、うってつけの場所だった。


「いいか、お前たち! 訓練内容は、模擬戦形式とする! 二つのチームに分かれ、互いのプライドと全力をもって、相手チームのリーダーから一本取るまで戦い抜け! これで、お互いの実力を再確認し、共に汗を流すことで、揺らいだ信頼を再び深めるのだ!」

サラのその提案は、少々強引ではあったが、妙な説得力があった。この澱んだ空気を打破するには、頭で考えるよりも、まず体を動かして、溜まった鬱憤を発散させるのが一番なのかもしれない。誰もが、彼女の言葉に異を唱えることはなかった。


こうして、半ば強引に、しかし全員の(たぶん)合意のもと、チーム分けが始まった。

「まず、問題の中心人物であるユウキと、そこのお嬢さん(ソフィア)は、リーダーとして別々のチームだ! いいな!」

サラの鶴の一声、いや、独断と偏見によって、俺とソフィアが、否応なく敵同士になることが決定した。そして、その後のくじ引きの結果、神の悪戯か、あるいはサラの巧妙な仕込みか、


【チーム・ユウキ】俺、リナ、セレスティア、アンジェラ

【チーム・ソフィア】ソフィア、ジン、サラ、ゴードン、リック、マリア


という、どう考えても戦力的に絶妙なバランスの悪さを誇るチーム分けが完成した。なぜか敵チームは一人多い上に、前衛から後衛までバランスの取れた布陣だ。対する俺のチームは、前衛が実質アンジェラ一人という、かなりピーキーな構成だった。


「おお……! 聖勇者様と、こうして刃を交えねばならぬとは……! これも、女神様が私に与えたもうた、最大の試練! 全力でお相手させていただきますぞ!」

敵チームになるはずのアンジェラが、なぜか俺のチームになったことに感動の涙を流し、その巨大なハンマーを天に掲げて打ち震えている。どうやら彼女の中では、俺と戦うことが試練だったらしいが、味方になった今、その矛先はソフィアチームへと向かうようだ。


「師匠と敵同士になってしまうなんて……。ですが、これも師匠に私の成長を見ていただく、またとない絶好の機会です! 全力で戦わせていただきます!」

セレスティアもまた、なぜか非常にポジティブにこの状況を捉え、その瞳に闘志の炎を燃やしていた。


一方、俺はというと、ソフィアと直接戦わなければならない、という事実に、ただただ気が重かった。ちらりと彼女の顔をうかがうと、彼女もまた、一切の感情を排した無表情のまま、静かにこちらを見ていた。その湖のように深い青い瞳の色は、今は何を考えているのか、全く読み取ることができなかった。


こうして、俺たちのパーティの未来を占う(かもしれない)、世紀の一戦の火蓋が、高らかに切って落とされたのだった。


「いくぞ、お前たち! 我が作戦名は『疾風怒濤』! まず、私とジンが疾風の如く左右から敵陣を攪乱し、その隙にゴードンとリックが怒濤の遠距離攻撃を浴びせかける! マリアは後方で我々の支援に徹せよ! そして、リーダーであるソフィアが、がら空きになった敵将ユウキの首を取る! まさに完璧な布陣だ!」

サラが、自信満々に、そして勇ましく号令をかけた。しかし、悲しいかな、彼女は生粋の方向音痴であった。号令をかけ終わった瞬間、自分が向かうべき「右」が果たしてどちらだったか分からなくなり、その場でグルグルとコマのように回り始めてしまった。


「うだうだ言ってねえで、とっとと行くぜぇ! ユウキ、今日こそてめえを叩きのめしてやる!」

そんな頼りないリーダーは完全に無視して、ジンが、一直線に俺めがけて猛然と突っ込んできた。その踏み込みの速さは、まさに弾丸のようであり、土煙を上げながらその距離を詰めてくる。


「師匠! どうかお下がりください! ここは、このセレスティアが!」

セレスティアが、俺を庇うように素早く前に立ち、流麗な動作で援護魔法を唱え始めた。

「敵の動きを封じる、絶対零度の氷の檻よ! 『アイス・プリズン』!」

彼女の掲げた杖の先端から、眩い光と共に放たれた極低温の冷気が、一直線にジンに向かって飛んでいく。


だが、その魔法は、驚異的な速度で突進するジンを惜しくも通り越し、彼の背後で「右はどっちだ……?」と未だに混乱していた、味方であるはずのサラを、足元から完璧に氷漬けにしてしまったのである。


「な……ぜ……」

仁王立ちのポーズのまま、驚愕の表情を浮かべた氷の彫像と化したサラ。陽光を浴びて、その芸術的な氷像はキラキラと不謹慎なほど美しく輝いていた。


「うおおおおお! サラさーん!?」

「リーダーが、前衛的なアート作品に!」

後方にいたゴードンとリックが、信じられない光景を前に、悲鳴とも取れる絶叫を上げる。


その一瞬の混乱の隙を突き、ジンは、俺のまさに目の前まで迫っていた。

「もらったぁ!」

彼が、その鋭い刀を大きく振り上げた、まさにその瞬間。

ジンは、極度の緊張からか、自分の額から噴き出した大量の汗で、足元の地面がぬかるんでいることに全く気づいていなかった。ツルン、と、まるで古典的なギャグ漫画の一場面のように、綺麗に足が滑る。


「しまっ……!」

完全に体勢を崩したジンは、そのままの勢いで、先ほどサラが氷漬けになったことで生まれた、巨大な氷の塊に、顔面から盛大に激突した。ゴーン、という、実に鈍く、そして間抜けな音が、広大な荒野に虚しく響き渡った。


その頃、俺のチームの切り込み隊長であるはずのアンジェラは。

「聖勇者様! 貴方様の偉大なる強さ、この身をもって敵に知らしめさせていただきます! これぞ、女神様へと捧げる、我が愛の試練! 我が最大奥義! 『聖槌・ミーティアストライク』!」

もはやこの戦いが模擬戦であるということを完全に忘れ、恍惚の表情を浮かべると、天高く飛び上がり、その身に聖なる光を纏って燃え盛る隕石のように、敵陣、というよりはなぜか俺がいた場所めがけて突っ込んできた。


「あ、あぶな……!」

その時、俺の隣にいたリナが、猫のような素早い動きで俺の体を強く突き飛ばした。俺は、為す術もなく地面をゴロゴロと無様に転がり、アンジェラの直撃をかろうじて免れる。


だが、アンジェラの渾身の一撃であるハンマーは、俺が先ほどまで立っていた場所の地面に無慈悲に叩きつけられ、轟音と共に大規模な地割れを引き起こした。

そして、その地割れは、運悪く、敵チームの後方で回復魔法の準備をしていたマリアの足元にまで、一直線に伸びていた。


「きゃあああああ!」

マリアは、突然足場の地面が裂けたことでバランスを崩し、悲鳴と共に、暗い地割れの底へと吸い込まれるように落ちていく。


「マリアさん!?」

俺は、慌てて地割れの縁まで駆け寄り、暗闇に向かって必死に手を伸ばした。

「しっかり掴まれ!」


結局、この合同訓練は、それ以上続くことなく、全員が泥と埃と、そして若干の氷の破片にまみれて、呆然と立ち尽くす中で終了した。連携が深まるどころか、我々のチームワークの壊滅的な欠如が、改めて白日の下に晒されただけという、あまりにも惨憺たる結果に終わったのだった。



その夜。

俺たちのキャンプ地には、昨日までの息が詰まるような重苦しい雰囲気とは打って変わって、疲労困憊ながらも、どこか穏やかで、気の抜けたような空気が流れていた。あれだけ派手に体を動かし、揃いも揃って醜態を晒せば、お互いの間にあったギクシャクした気分も、少しは紛れるというものらしい。俺は、慣れない模擬戦の疲れからか、夕食もそこそこに、早々と毛布にくるまって、いつの間にか深い眠りに落ちてしまっていた。


夢うつつの中、誰かが、そっと俺のそばに近寄ってくる気配を感じた。


「……ユウキ、こんな所で寝てたら風邪、ひくなよ」

優しく、そして少し呆れたようなリナの声だ。彼女が、自分の使っていた毛布を、俺の上にもう一枚、そっとかけてくれたらしい。その温もりが心地よかった。


「……師匠の寝顔……。ふふ、なんだか子供みたいで、可愛い……」

次は、セレスティアの声。彼女が、俺の跳ね上がった寝癖を、くすぐったい手つきで、そっと直してくれている気配がする。その指先から、彼女の純粋な敬愛が伝わってくるようだった。


「……全く、世話の焼ける奴だ……。だが、お前がしっかりしていないと、このパーティは始まらんからな」

ぶっきらぼうだが、どこか温かみのあるサラの声。彼女は、焚き火の火の粉が俺に飛ばないように、自分の愛用する大きな盾を、俺と焚き火の間に立ててくれているようだった。


「聖勇者様……。どうか、安らかな、お眠りを……。女神様の、ご加護があらんことを……」

アンジェラの、敬虔な祈りを捧げるような声。彼女は、俺が眠っている間も、その忠誠を捧げてくれているのだろう。


「……ユウキさん……ごめんなさい……。そして、本当に、ありがとう……ございます……」

最後に聞こえたのは、マリアの、蚊の鳴くような、小さな小さな声だった。


みんな、なんだかんだと言いながら、それぞれのやり方で、俺のことを心配し、大切に思ってくれている。その温かい事実に、俺は、深い眠りの中にありながらも、自然と口元に笑みがこぼれるのを感じていた。


ソフィアは、そんな光景を、少し離れた岩の上に一人で座って、ただ、黙って見ていた。

ユウキの周りに集まり、まるで母親か姉のように、甲斐甲斐しく世話を焼く、他の女たち。

以前の彼女なら、その光景を目の当たりにして、またしても、胸を焼くような激しい嫉妬の炎を感じたはずだ。そして、無意識に、あるいは意識的に、彼女たちの邪魔をするかのような、小さな、しかし意地の悪い奇跡を起こしていたかもしれない。例えば、リナがかけようとした毛布を風で吹き飛ばしたり、サラが立てた盾を不自然に倒したり、といった具合に。


だが、今の彼女は、違った。

彼女は、心の奥底から燃え上がりそうになる黒い感情を、ぐっと、奥歯を強く噛み締めて、必死に堪えた。

(……これでは、ダメです。これではまた、あの夜と同じことの繰り返しになってしまう……)

彼女は、自分の心の弱さを、今度こそはっきりと自覚していた。そして、その醜い嫉妬心を乗り越えなければ、ユウキの、本当の意味でのパートナーにはなれないことも、痛いほど理解していた。

(私は、女神として……いいえ。彼の、隣に立つ一人の者として……変わらなくては、いけないのです)

ソフィアは、静かに立ち上がると、皆がいる輪に加わることなく、その場を離れて夜の闇へと歩き出した。

それは、決して逃げではない。自分自身の、制御できない感情と、真正面から向き合うための、彼女の、小さく、しかし、確かな決意の一歩だった。



俺が、ふと目を覚ました時、夜はすっかり更けていた。

見上げた空には、大小二つの月が、まるで銀の皿のように静かに浮かび、その周りには、零れ落ちそうなほどの満天の星が、ダイヤモンドダストのように無数にきらめいている。幻想的、という言葉では足りないほど、美しい夜空だった。

仲間たちは、皆、それぞれの場所で、一日の疲れを癒すように、静かな寝息を立てていた。


俺は、ゆっくりと体を起こすと、自分のすぐ隣に、誰かが座っているのに気づいた。

月明かりに照らされて、その完璧な輪郭が浮かび上がる、美しい横顔。ソフィアだった。


「……起こしてしまいましたか?」

彼女は、夜空を見上げたまま、こちらを見ずに、静かに言った。その声は、夜の静寂に溶け込むように澄んでいた。

「いえ……。どうしたんですか、こんな時間に。眠れないのですか?」

「……少し、星を見ていただけです。ここの世界の星は、本当に綺麗ですから」


また、ぎこちない沈黙が、二人の間に落ちる。だが、それは、昨日までの、触れれば壊れてしまいそうな、冷たい沈黙ではなかった。どこか、温かく、そしてお互いの存在を許容するような、穏やかで静かな沈黙だった。


しばらくして、ソフィアが、ぽつりと、まるで独り言のように呟いた。

「……先日は、ひどく取り乱してしまいました。女神にあるまじき、大人気ないことを言ったと、深く反省しています」

「……」

俺は、何も言わずに、ただ彼女の言葉の続きを待った。

「貴方の判断が、正しいとか、間違っているとか、本当は、そういう問題では、なかったのです」

彼女は、一つ一つ、慎重に言葉を選びながら、ゆっくりと続けた。

「ただ、私は……。貴方が、私の知らないところで、どんどん仲間を増やして……。私の知らない顔で、楽しそうに笑い合って……。それが、まるで貴方がどんどん、私から遠く、手の届かない場所へ行ってしまうような気がして……」

彼女の声は、月の光のように、微かに震えていた。

「……怖かったのです」


それは、今まで彼女が守り続けてきた、女神としてのプライドや威厳を全てかなぐり捨てた、一人の、か弱い女性としての、偽らざる魂の告白だった。


俺は、驚いて、思わず彼女の顔を見た。

月明かりの下、彼女の深い青い瞳が、美しい雫で潤んでいるのがはっきりと分かった。

俺は、その時、ようやく、ほんの少しだけ、彼女の心の奥深くにある、本当の痛みを理解できた気がした。彼女は女神である前に、ただ、孤独を恐れる一人の存在だったのだ。


「……俺は、どこにも、行きませんよ」

俺は、静かに、しかし、はっきりとそう言った。

「ソフィアさんがいなきゃ、俺は、ただのオールFの、何もできない男です。みんながいてくれて、そして、ソフィアさんが導いてくれて、初めて、俺は、ここにこうしていられるんですから」

俺は、少し照れくさかったけれど、心の底から湧き上がる本心を、続けた。

「それに、俺の居場所は、ソフィアさんの隣だって、この異世界に来た、最初の日に、もうとっくに決めてるんで」


俺の、あまりにも不器用で、飾り気のない言葉。

それを聞いたソフィアの瞳から、堪えていた一筋の、しかし水晶のように美しい涙が、その白い頬を伝って、静かに零れ落ちた。

だが、彼女の唇には、確かな、そして心からの微笑みが浮かんでいた。


「……ありがとうございます、ユウキ」

彼女は、そう言うと、初めて、自分から、俺の目を、まっすぐに見てくれた。

その瞳には、もう、何の戸惑いも、葛藤の影もなかった。ただ、嵐が過ぎ去った後の雨上がりの空のように、どこまでも、どこまでも、澄み切っていた。

「貴方は、本当に……ずるくて、そして、どうしようもなく、優しい人ですね」


その瞬間、俺とソフィアの間にあった、薄くて、硬くて、そして冷たかった氷が、春の陽光を浴びて完全に溶けていくのが分かった。

俺たちの関係は、ただの「転生者と女神」という一方的なものではなく、時には喧嘩もして、嫉妬もして、そして仲直りもする、対等で、そして、かけがえのない「パートナー」へと、確かな一歩を、力強く踏み出したのだ。


翌朝。

俺たちのパーティには、ここ数日のことが嘘のように、明るく、晴れやかな空気が戻っていた。

俺とソフィアが、以前のように自然に、そして、以前よりもほんの少しだけ近い距離で言葉を交わし、笑い合っているのを見て、仲間たちも、心の底から、安堵の表情を浮かべていた。

マリアも、もう、物陰で縮こまってはいなかった。その表情には、まだはにかんだような色はあるものの、小さな、確かな笑顔が浮かんでいる。


目的地の貿易都市は、もう、地平線の向こうに、その活気ある街並みの影を、うっすらと見せ始めていた。

そこではきっと、新たな出会いと、さらなるドタバタが、俺たちを待ち受けているだろう。

だが、今の俺たちなら、きっと、大丈夫だ。

どんな困難も、どんなカオスも、きっとみんなで笑い飛ばしながら、乗り越えていける。


俺は、隣で柔らかな微笑みを浮かべる女神の顔を見て、そんな、揺るぎない確信に満ちた予感を、胸いっぱいに抱いていた。旅は、まだ始まったばかりだ。

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