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第8話:『初めての喧嘩と、焦げ付いた仲直り』

時間は、まるで凍りついたかのようだった。

いや、実際に、この場の空気そのものが物理的な質量を伴って凍てついてしまったのかもしれない。ソフィアが静かに紡いだ、しかし氷の刃のように鋭利な拒絶の言葉は、その場にいた全員の動きと、言葉と、そして思考の一片すらも、完璧に、そして無慈悲に停止させていた。


「……私たちの旅の、足手まといになるだけではありませんか?」


その声は、我々が聞き慣れた、天上の音楽にも似た優しく穏やかな響きではなかった。砕け散ったガラスの破片のように硬質で、聞く者の肌を粟立たせる、刺すような鋭い響き。普段、慈愛に満ちた微笑みを絶やすことのない彼女の美しい顔からは、あの完璧な造形美ともいえる微笑みが綺麗さっぱりと消え失せ、代わりに、まるで精巧に作られた能面のような無表情が張り付いていた。だが、その深く澄み渡る青い瞳の、さらに奥底。魂の窓とでも言うべき場所では、これまで誰も見たことのない、冷たい蒼炎が静かに、しかし激しく燃え盛っているのが見て取れた。それは、疑いようもなく、明確な「拒絶」と、そして微かな、しかし確かな「敵意」の色を宿していた。


俺は、生まれて初めて、ソフィアという神聖な存在を、心の底から「怖い」と思った。それは、魔物と対峙する恐怖とは全く質の異なる、根源的な畏怖だった。俺が下した決断に対し、彼女が、ここまで明確に、そして冷徹に「否」を突きつけてきた。これは、単なる意見の相違などという生易しいものではない。まるで、神聖な神殿に泥足で踏み入り、祭壇を汚してしまったかのような、決して越えてはならない一線を越えてしまったかのような、根源的な断絶の感覚が、背筋を凍らせた。


「そ、ソフィアさん……?」


絞り出した俺の声は、自分でも情けないと自覚できるほど、か細く震えていた。喉がカラカラに乾き、声帯が正常に機能しない。

俺の隣では、その圧倒的なまでの神気と敵意を真正面から浴びせられたマリアが、ただでさえ小さな体をさらに縮こまらせ、まるで嵐の中の若葉のように、今にもその存在ごと消えてしまいそうに震えている。彼女の大きな瞳からは、堰を切ったように涙が溢れ、土埃に汚れた頬を伝っていく。

他の仲間たちも、このありえない光景を前にして、完全に言葉を失っていた。誰もが息を殺し、まるで現実のこととは思えないこの一連の出来事を見守っている。いつもはパーティーの先頭で誰よりもやかましいジンですら、今は唇を真一文字に固く結び、ゴクリと固唾を飲む音だけが、やけに大きく響いた。サラも、セレスティアも、アンジェラも、リナも、誰もがこの絶対零度の氷の世界に、たった一言の言葉すら挟むことができずにいた。


どうする? 俺はどうすればいい?


ソフィアの言うことは、ある一面においては、紛れもない正論だった。マリアの持つ「聖水」の力は、その効果が極端すぎる。祝福と浄化の力が強すぎるあまり、対象によっては毒にも薬にも、いや、毒にしかならない危険性を秘めている。彼女の意図が善意に満ちていたとしても、そのコントロール不能な力は、下手をすれば我々パーティを全滅させかねない、極めて危険な両刃の剣だ。合理的に、そして冷静に状況を分析すれば、彼女を見捨て、このまま立ち去るのが、旅の安全を確保するための「正解」なのかもしれない。

ソフィアは、俺たちを導く女神として、この旅の安全を第一に考え、最善の、そして最も合理的な判断を下そうとしているだけなのかもしれない。彼女の行動は、女神としての責務を全うしようとする、ある意味で誠実さの表れなのだろう。

そうだ、きっとそうなのだ。彼女は悪くない。俺の判断が、甘すぎるのだ。


でも。


しかし、俺の目の前では、たった一人の少女が、世界中の誰からも拒絶されたかのような孤独に打ち震え、声を殺して泣いている。彼女は、ただ、苦しむ人々を助けようとしただけなのだ。その方法が、致命的なまでに不器用で、結果として最悪の事態を招いてしまったというだけで。この、か細く震える小さな背中を、俺は見捨てることができるだろうか。彼女が伸ばしかけて、行き場をなくしたこの小さな手を、俺は振り払うことなどできるのだろうか。


答えは、初めから決まっていた。


俺は、肺の底に残っていた最後の空気を吐き出し、そして、新たな決意と共に、大きく息を吸い込んだ。そして、ソフィアの、氷河のように冷たい視線を、正面から、まっすぐに見返した。


「……それでも」


俺は、言った。一度口火を切れば、もう迷いはなかった。


「それでも、俺は、この子を見捨てることはできません」


その言葉が放たれた瞬間、ソフィアの完璧な造形の眉が、ピクリと微かに動いた。ほんの僅かな変化だったが、俺にはそれが見えた。


「俺には、何が合理的で、何が最善の策かなんて、そんな難しいことは分かりません。女神様である貴方と比べれば、俺はただの無力な人間で、先のこともよく見えない。でも、目の前で誰かが泣いていて、その涙を拭うために俺に出来ることが少しでもあるのなら、手を差し伸べたい。俺は、ただ、それだけなんです」


俺は、震え続けるマリアの前に、彼女を守るように一歩踏み出し、そして、もう一度、優しく、彼女に手を差し伸べた。


「足手まといになんか、なりません。絶対に。俺が、させないから。だから、一緒に行こう、マリア」


マリアは、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。その潤んだ瞳が、俺と、そして俺の背後に氷の女神のように佇むソフィアを、不安げに、交互に見つめた。数秒の、永遠にも感じられる沈黙の後、彼女は、おずおずと、その小さな手を、俺の差し出した手に、そっと重ねた。その手は、驚くほど冷たく、そして小刻みに震えていた。


ソフィアは、その光景を、ただ黙って見ていた。

何も言わなかった。

ただ、俺の最終的な決断を見届けると、その青い瞳から、すっと全ての感情の色を消し去った。燃え盛っていた蒼炎は掻き消え、そこには再び、底の知れない、静かな湖面のような無感情だけが広がっていた。そして、静かに、一言も発することなく、俺に背を向けた。


その背中は、どんな言葉よりも雄弁に、彼女の意思を物語っていた。

『貴方の好きになさい。ですが、私は、もう二度と貴方の決定を是とはしません』と。

それは、俺と女神の間に生まれた、初めての、そして、あまりにも決定的な亀裂だった。



ダストピット村を出発した俺たちの旅は、まるで葬列のようだった。

空は、俺たちの心の内を正確に映し出したかのように、分厚い灰色の雲にどこまでも覆われ、生命の源である太陽の光は、その温もりも輝きも、どこにも見出すことはできなかった。荒野を吹き抜ける乾いた風は、これまで以上に冷たく肌を刺し、まばらに生える枯れ草が、ヒューヒューと、まるで世界の終焉を嘆くかのように悲しげな音を立てていた。鳥の声も、虫の音も、生き物の気配が、何も聞こえない。世界から、全ての音が消えてしまったかのようだった。


パーティの雰囲気は、言葉に表せないほど、最悪だった。

いつもであれば、先頭で「ヒャッハー!」などと奇声を上げながら誰よりも先に道を切り開いているジンやサラが、今は押し黙って、ただ俯きがちに、黙々と砂利道を踏みしめている。彼らの足取りは重く、その背中からはいつものような活気は微塵も感じられない。時折、セレスティアとアンジェラが、普段なら些細なことで勃発する口論をする元気すらもなく、ただただ不安げな表情で、前方を無言で歩く俺と、さらにその先を機械のように進むソフィアの様子を、交互にうかがっているだけだった。リナは、幼いながらにこの異常な空気を敏感に感じ取っているのだろう、俺の服の裾を、その小さな手で、不安を振り払うかのようにぎゅっと強く握りしめていた。その手は、ずっと、小刻みに震え続けていた。


そして、この全ての元凶となってしまったマリアは、最後尾で、まるで自分の存在そのものを世界から消し去ろうとするかのように、背を丸め、小さくなって歩いていた。彼女の罪悪感と孤独感が、痛いほどに伝わってくる。


俺は、何度、前を歩くソフィアの背中に話しかけようと試みたことだろう。

だが、その白く清らかな背中から発せられる、絶対的な拒絶のオーラが、氷の壁となって俺の前に立ちはだかり、全ての言葉を喉の奥に押しとどめてしまう。彼女は、ただの一度も、こちらを振り返らなかった。まるで精密な機械人形のように、正確無比な歩幅で、前へ、ただひたすらに前へと進んでいくだけだ。

物理的な距離は、ほんの数メートル。しかし、俺たちの心の距離は、絶望的なまでに、遠く離れてしまっているように感じられた。


その夜。俺たちは、吹きさらしの岩陰を見つけ、そこで野営の準備を始めた。

誰ともなく、役割分担をするでもなく、それぞれが乾いた薪を集め、火をおこす。だが、その燃え盛る焚き火の輪の中に、会話は一切なかった。ただ、パチパチと薪がはぜる乾いた音だけが、息が詰まるほど重苦しい沈黙の中に、虚しく響いている。夕食の準備も、ただ淡々と、流れ作業のように進んでいった。


ソフィアは、そんな俺たちの輪から少し離れた、月明かりも届かない崖の上に、一人でぽつんと立っていた。星明かりすらない完全な闇の中、彼女の純白の旅装束だけが、まるで魂のように、ぼんやりと白く浮かび上がっている。その姿は、この世界から完全に切り離されてしまった、孤独な亡霊のようにも見えた。


彼女は、その場所で、自分の心の中で初めて経験する、激しく制御不能な感情の嵐に、独りで耐えていた。


(なぜ……なぜ、私は、あのようなことを……)


自分の口から滑り出た、あの氷のように冷たい言葉。ユウキが守ろうとした少女を、「足手まとい」だと無慈悲に断じた、あの言葉。

それは、ユウキのためを思った、最も合理的で正しい判断のはずだった。彼の旅路の安全を心から願い、彼を導く女神としての、当然の責務のはずだった。そう、自分に何度も言い聞かせる。


なのに。

なぜ、あの少女が、ユウキの差し伸べた優しさを受け入れた、あの瞬間。自分の胸は、まるで巨大な万力で締め付けられるかのように、息もできないほど苦しくなったのだろう。

なぜ、ユウキが、自分ではなく、あの見ず知らずの少女を選んだ、あの時。世界から、光と色が失われたかのような、途方もない絶望を感じてしまったのだろう。


その、耐えがたいほどの不快感。胸の内側を焦がすような、 তীব্র(はげ)しい焦燥感。

ソフィアは、その得体の知れない感情の正体に、ようやく、気づき始めていた。


これは、『嫉妬』だ。


ユウキの隣に立つのが自分以外の誰かであることが許せない。彼の優しさが、自分以外の誰かに向けられることが我慢ならない。彼を、他の誰にも渡したくないと願う、醜く、そしてどうしようもなく人間的な『独占欲』だ。


(……私が? 全てを愛し、全てを慈しむべき女神である、この私が……たった一人の人間に、このような、見苦しく、浅ましい感情を……?)


その事実を自覚した瞬間、激しい自己嫌悪の津波が、彼女の精神を飲み込んだ。

慈愛と博愛の象徴たるべき女神が、なんと狭量で、なんと利己的で、なんと人間的な感情を抱いてしまったことか。神としての己の存在意義すら揺らぎかねない、冒涜的な感情。

だが、その身を苛むほどの嫌悪感と同時に、抑えきれないほどの強い想いが、まるで地底のマグマのように、心の奥底から激しく噴き出してくるのを、彼女は止めることができなかった。


(ユウキは、私のものだ。私が、あの絶望の淵から見出し、光を与えた者だ。他の誰も、彼に触れるべきではない。彼の隣に立つ資格があるのは、この私だけでいい)


神としての理性と、一人の女としての本能。相反する二つの巨大な感情の嵐の中で、ソフィアは、ただ闇の中に立ち尽くすことしかできなかった。


俺もまた、パチパチと揺らめく焚き火の炎を見つめながら、崖の上に立つソフィアのことばかりを考えていた。

初めて見た、彼女の、あの氷のような冷たい顔。あの、感情の宿らない瞳。

俺が、彼女を傷つけてしまったのだろうか。俺の、ただのわがままが、俺を信じてくれていた彼女の信頼を、根底から裏切ってしまったのだろうか。

考えれば考えるほど、胸の奥が、ずきりと鈍い痛みを訴えた。

でも、それでも、後悔はしていなかった。目の前で震えるマリアを見捨てるという選択は、何度時間を巻き戻したとしても、俺には到底できなかっただろう。


だったら、どうすればいい?

俺は、本当は、どうしたいんだ?


答えは、驚くほどシンプルだった。


(俺は、ソフィアさんにも、笑っていてほしい。リナも、サラも、ジンも、セレスティアも、アンジェラも、そして、新しく俺たちの仲間になったマリアも。全員で、腹の底から、馬鹿みたいに笑いながら、この旅がしたい)


そうだ。それが、俺の唯一の望みだ。誰一人欠けることなく、誰一人悲しい顔をすることなく、みんなで笑い合いたい。

だったら、俺がやるべきことは、もう一つしかない。


俺は、固い決意を胸に、ゆっくりと立ち上がった。

そして、まるで通夜のように重苦しい空気に満ちた仲間たちに向かって、自分でも驚くほど、できるだけ明るい声で、高らかに宣言した。


「よし! こんな時こそ、美味いもん食って、元気出すぞ! みんなで、史上最高の野営メシを作るんだ!」



俺の唐突で、場違いとも思える提案に、仲間たちは一瞬、きょとんとして、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。

だが、この地獄のような沈黙と気まずさから抜け出せるのであれば、藁にもすがりたい思いだったのだろう。皆、渋々ながらも、しかしどこか安堵したような表情で、俺の提案に賛同してくれた。

こうして、史上最悪の雰囲気の中で、史上最高にカオスで破滅的な料理大会が、静かに、いや、騒々しく幕を開けたのだった。


「まず、根本的に火力が足りんな! こんなちんまりした火じゃ、魂が燃えねえ! もっと、こう、ドカンと天を焦がすような、燃え盛る炎が必要だ!」


そう叫ぶや否や、サラが、どこからか取り出した巨大なバトルアックスを軽々と振りかざし、近くに生えていた手頃な枯れ木を片っ端からなぎ倒し始めた。しかし、彼女の豪快すぎる性格は、薪にすべき乾いた枯れ木と、盛大に煙を出すだけで全く燃えない生木の区別など、一切考慮に入れていなかった。


「ふふん、火の勢いを操ることにかけて、この天才魔術師である私の右に出る者はいませんわ! 皆さん、お任せください!」


セレスティアが、自信満々に自慢の杖を構えた。彼女の魔力制御能力の低さを知る俺たちは一抹の不安を覚えたが、時すでに遅し。


「小さき、小さき炎の礫よ! 万物を暖かく照らしなさい! 『タイニー・ファイアボール』!」


彼女の杖の先端から放たれたのは、どう見ても「タイニー(小さい)」という形容詞が当てはまらない、直径にして3メートルはあろうかという、太陽のごとき巨大な火球だった。それは、俺たちが苦労して集めた薪の山を遥かに通り越し、背後に広がる森の中腹に着弾。一瞬にして、その一帯を大規模なキャンプファイヤー(というか、もはや完全に山火事)へと変貌させた。


「ぎゃああああああ! 消火! 水だ、誰か水を! 消火活動開始!」

「セレスティアーっ! てめえ、いい加減にしろ! この役立たずのポンコツ魔術師が!」


阿鼻叫喚の消火活動が繰り広げられる中、森の奥から意気揚々とした声が響いた。


「おう、お前ら! 腹を空かせてるだろうと思ってよ、とびっきりの獲物を狩ってきてやったぜ!」


ジンが、誇らしげな顔で森から戻ってきた。その屈強な肩には、なぜか、雨傘ほどの大きさがある、見るからに毒々しい紫色に妖しく輝く、巨大なキノコが担がれていた。表面には不気味な斑点が浮かび、明滅している。


「見ろよ、この神々しいまでの輝きを! きっと、一口食ったら不老不死になれるっていう、伝説の珍味に違いねえ!」


「「「「絶対に違う!!!!」」」」


俺を含めた全員のツッコミが、まるで練習でもしたかのように、綺麗にハモった。


「あ、あの、私……! もしよろしければ、聖水で、このキノコを、お清めします!」


これまで自分の殻に閉じこもっていたマリアが、おずおずと、しかし勇気を振り絞って前に出てきた。彼女の、何か役に立ちたいという健気な姿に、俺たちは一瞬だけ、淡い希望を抱いた。


「おお、聖なる水よ、この食材に宿りし、あらゆる邪気を祓いたまえ!」


彼女が祈りを捧げ、神聖なる力を込めた聖水を毒キノコに振りかけると、次の瞬間、信じられない光景が広がった。キノコは、清められるどころか、ムクムクと生命を宿したかのように動き出し、根本から人間の足のようなものを二本生やして、その場で陽気なサンバのリズムを刻みながら踊り始めたのだ。


「「「「うわああああああ! キノコが! キノコが踊ってるぅぅぅぅ!」」」」


「聖勇者様! 皆様、ご安心ください! 我らが女神ソフィア様は、どのような料理であっても、パセリをふんだんに乗せると、大変お喜びになられるのです!」


パニックの坩堝と化した野営地に、アンジェラの凛とした声が響く。彼女は、どこからか大量にむしり取ってきた、どう見てもそこらへんに生えているただの雑草を、大鍋の中に躊躇なく、次から次へとぶち込んでいく。鍋の中身は、もはや、得体の知れない緑色のヘドロのような様相を呈していた。


阿鼻叫喚。地獄絵図。混沌の極み。

俺は、目の前で繰り広げられる、あまりにもシュールで馬鹿馬鹿しい光景に、もはや、笑うしかなかった。腹を抱え、腹筋が痙攣し、涙が出るほど大声で笑った。

その、一点の曇りもない純粋な笑い声は、伝染した。最初は呆れたり怒ったりしていた仲間たちも、目の前のあまりにも救いようのないカオスな状況に、つられて、くすくすと笑い始めた。やがて、その小さな笑いは大きな渦となり、この数日間、俺たちの心を支配していた重苦しい夜の空気を、跡形もなく吹き飛ばしていった。



俺は、炭のように真っ黒に焦げ付き、正体不明の緑色の雑草が無数に突き刺さり、そして、なぜか未だに微かにサンバのリズムを刻んでいる、謎の物体Xがこんもりと盛られた皿を手に、崖の上に立つソフィアの元へと、一人で向かった。

背後からは、仲間たちの「頑張れよ」「ちゃんと謝れよ」「いや、でも料理は渡すな」など、心配と無責任が入り混じった声援が聞こえてくる。


彼女は、俺に背を向けたままだったが、俺の接近には気づいていたようだった。


「……何をしに来たのですか」


その声は、まだ、硬く、そして氷のように冷たかった。だが、先程までの、突き放すような響きは少しだけ和らいでいるように感じた。


「あの、飯、できました」


俺は、震える手で、その芸術的ともいえる皿を彼女の前に差し出した。


「見ての通り、焦げてるし、なんか変な草、たくさん入ってるみたいですけど……。でも、みんなで、一生懸命作ったんです。だから、ソフィアさんにも、食べてほしくて。一緒に、食べませんか?」


ソフィアは、ゆっくりと、本当にゆっくりと、こちらに振り返った。

月明かりはないはずなのに、彼女の存在そのものが発光しているかのように、その美しい顔が闇に浮かび上がる。その深い青色の瞳は、激しい葛藤の色に揺れていた。怒り、悲しみ、そして、ほんの少しの期待。


「……なぜ、私を誘うのですか」


絞り出すような、か細い声だった。


「私は、貴方の決断に、真っ向から反対したのですよ。貴方が守ると決めた、大事な仲間を、足手まといだとまで、言ったというのに」


「それでも」


俺は、彼女の揺れる瞳をまっすぐに見つめ、一歩も引かずに言った。


「それでも、ソフィアさんは、俺の、たった一人のかけがえのないパートナーだからです。俺は、ソフィアさんがいなかったら、今頃、故郷の村で、ただの、一般人以下の、何の力もない男のままだった。貴方が俺を見つけてくれたから、俺はここにいる。それに……」


俺は、急にこみ上げてきた照れくささに、思わずガシガシと頭を掻いた。


「ソフィアさんが、笑ってないと、俺も、なんか、全然、楽しくないんです」


不器用で、飾り気もなくて、何の気の利いたことも言えない、これが、俺の、精一杯の本心だった。


俺の言葉を聞いた、ソフィアの、その星空を閉じ込めたかのように美しい青い瞳から。

一筋だけ、きらりと光る雫が、白い頬を伝って、静かに零れ落ちた。


それは、俺が初めて見る、気高き女神が流した、温かい涙だった。


「…………貴方は、本当に……」


彼女は、震える声で、途切れ途切れに呟いた。


「ずるい、人ですね」


ソフィアは、差し出された皿を、その震える両手で、そっと受け取った。そして、その真っ黒な料理のようなものを、備え付けの小さなスプーンで、ほんの少しだけすくい上げると、何か偉大な決断を下したかのように、意を決して、その小さな唇へと、静かに運んだ。


もぐ、と、小さな咀嚼音が、夜の静寂に響く。


そして。


「…………ええ。とても、面白い味が、します」


彼女は、顔を上げて、笑った。

それは、いつものような、完璧で、神聖な微笑みではなかった。涙で濡れた頬のまま、少しだけ困ったように眉を下げ、はにかむように、でも、心の底から、本当に楽しそうに笑っていた。

それは、俺が今まで見たどんな彼女の笑顔よりも、人間的で、そして、何百倍も美しい、本物の笑みだった。


これが、俺とソフィアの、生まれて初めての「喧嘩」。

そして、史上最高に、香ばしく焦げ付いた「仲直り」だった。


まだ、俺たち二人の間には、少しだけ、ぎこちない空気が残っているかもしれない。

だが、あの凍てつくような絶対的な断絶は、もう、どこにもなかった。

女神は、自分の中に芽生えた厄介で人間的な感情と向き合う覚悟を決め、勇者は、不器用ながらも、全ての仲間を守り抜くという決意を、その胸に新たにした。


二人の絆は、この絶望的に不味くて、しかし不思議と温かい料理のように、奇妙で、複雑で、そして、ほんの少しだけ、前よりも深く、強くなった。


俺たちの、ドタバタで、カオスで、そして愛おしい旅は、まだまだ、始まったばかりだ。

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