表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

5/15

第5話:『残念な魔導士と、暴発する恋心?』

商業都市セレブリアの巨大な門が、まるで過去の章を閉じるかのようにゆっくりと俺たちの背後でその重々しい姿を消していく。それと入れ替わるようにして、俺たちの旅は新たな局面、いや、正確に表現するならば、これまでとは比較にならないほどの騒々しさが支配する混沌のステージへと突入していた。単純計算で、やかましさが三倍くらいに跳ね上がった、と言うべきか。旅の仲間が増えるということは、こういうことなのだと、俺は身をもって知ることになる。


「ユウキ! 見ろ! この突き抜けるような青空、一点の曇りもない太陽! まさに決闘日和! 今日こそ、長きにわたる因縁に終止符を打つ時だ! 俺と貴様のどちらが真の剣士か、白黒はっきりつけようではないか!」


どこまでも続くかのような長閑な街道の、そのど真ん中。朝の爽やかな空気も、鳥たちの心地よいさえずりも、この男の前では意味をなさない。ジンが、まるで舞台役者のような大仰な仕草で腰の刀に手をかけ、ぎらつく瞳で俺に勝負を挑んでくる。これが、この数日間、朝飯前の体操かのように繰り返されている恒例行事だった。彼の頭の中では、俺と彼との間に、幾多の死線を越えた宿命のライバル関係が成立しているらしい。


「いや、ですから、俺は剣士じゃないって、もう何度言ったら分かってくれるんですか……。ステータスはオールFですし、剣なんてまともに握ったこともないんですよ」


俺の心からの困惑と懇願は、彼の燃え盛る闘志の前では、糠に釘、暖簾に腕押し。まるで聞こえていないかのように、ジンは「問答無用!」と雷鳴のごとき雄叫びを上げた。そして、言葉が終わるよりも早く、鞘から抜き放たれた刀が陽光を反射し、鋭い軌跡を描いて俺に斬りかかってくるのだ。


しかし、その切っ先が俺の服を掠めることは、決してない。彼の勇猛果敢な突撃は、必ず、その次の瞬間には、何らかの奇跡的なアクシデントによって中断される運命にあるのだ。


例えば、昨日。彼の頭上にあった、ごく普通の木の枝が、まるで意思を持ったかのように彼の鉢金に引っかかり、彼は見事なまでに盛大にすっ転んだ。一昨日。彼の足元にあった、何の変哲もないただの石ころが、まるで巧妙に仕掛けられた罠のように彼の足をとらえ、勢い余った彼は近くの穏やかな小川へ美しい放物線を描いてダイブした。そして、今朝。彼の顔面めがけて、まるで誘導ミサイルのように飛んできた鳥のフンが、寸分の狂いもなくクリーンヒットした。


これら一連の出来事のすべてが、俺の背後で静かに微笑む女神、ソフィアの『祝福』がもたらした奇跡的な不運であることに、張本人であるジンはもちろん、被害者(?)である俺自身も、まだ気づいてはいなかった。俺はただ、ジンという男は、とんでもなく不運な星の下に生まれた、面白い人なのだと、そう認識しているだけだった。


「ぬううう……! い、今のは太陽が、太陽が不意に俺の目をくらませただけだ! 不可抗力! 断じてノーカウントである!」


小川の水でびしょ濡れになった武士の格好をした男が、朝日の中でそう叫ぶ光景は、なかなかにシュールだ。彼はプライドを保とうと必死だが、その姿は哀愁すら漂わせている。


その少し先では、もう一つの混沌が渦巻いていた。サラ率いる冒険者パーティが、大きな一枚の羊皮紙の地図を地面に広げ、非常に深刻な顔つきで議論を交わしている。彼らの真剣な表情だけを見れば、まるで国家の命運を左右する軍議のようだ。


「よし、分かったぞ! 全貌が見えた! この地図の縮尺と方位、そして風水から判断するに、この丘をまっすぐ突っ切るのが、我らが目指す水の都アクアリアへの最短ルートだ!」


パーティリーダーであるサラが、絶対的な自信に満ちた声で、ビシリと指し示した先。そこに広がっていたのは、丘と呼ぶにはあまりにも険しく、どう贔屓目に見ても「崖」としか形容のしようがない、切り立った断崖絶壁だった。垂直、いや、場所によってはオーバーハングしているようにすら見える。草木もまばらなその岩肌は、熟練のロッククライマーですら躊躇するであろう威圧感を放っていた。


「いや、サラさん、どう見てもあれは崖です! 垂直の壁です!」「リーダー、落ち着いてください! こっちが街道ですよ! ご覧なさい、馬車だって普通に通ってます!」


仲間である戦士ゴードンと斥候リックの悲痛な叫びが、街道に虚しく響き渡る。彼らの指摘は、火を見るよりも明らかで、誰がどう考えても正しい。しかし、一度こうと決めたサラの耳には、そんな常識的な意見など一切届かない。


「何を言うか、ゴードン、リック! 崖に見えるのは、敵の目を欺くための巧妙なカモフラージュに決まっているだろう! そうだ、これは古代文明が作り出した、一種の立体迷彩だ! 私のリーダーとしての直感がそう告げている! 行くぞ、お前たち! 栄光への近道は、常に困難な道の先にあるのだ!」


「「行けるかぁぁぁぁぁぁぁぁ!」」


ゴードンとリックの魂の叫びが、崖にこだました。彼らの苦労が偲ばれる。


そんなカオス極まる二つのパーティから少し距離を置いた場所で、俺はリナと一緒に、道端に可憐に咲く小さな黄色い花を摘んでいた。騒々しい彼らとは対照的に、俺たちの周りには穏やかで平和な空気が流れている。


「ユウキ、見て見て! このお花で冠を作ったら、ソフィア姉ちゃん、似合うかな?」


リナが、小さな手にいっぱいの花を抱え、キラキラした瞳で俺に問いかける。彼女の指先は、土で少し汚れていたが、その表情は太陽のように明るい。


「おお、いいな、それ! 絶対に似合うぞ! きっと喜んでくれるさ」


「えへへ、ほんと? じゃあ、いーっぱいつーくろっと!」


屈託のない笑顔で、リナは再び花を摘み始める。彼女は、当初の目的であった「お宝(ソフィアの持つ聖遺物)奪取計画」など、頭の片隅から綺麗さっぱり消え去っているようだった。それどころか、ソフィアのことを「姉ちゃん」と呼び、すっかりと懐いていた。子供の順応性とは、かくも偉大である。


「ねえ、ユウキ、あーん」


「ん?」


ふと顔を上げると、リナがどこからか見つけてきたのであろう、艶やかな赤い木苺を、俺の口元にちょこんと差し出してきていた。甘酸っぱい香りが鼻をくすぐる。


「ほら、あーんして?」


「いやいや、自分で食べられるって。子供じゃないんだから」


少し照れくさくて断ると、リナはむーっと頬を膨らませた。


「だめ! 私があげたいの! いいから、ほら!」


その純粋な瞳と有無を言わさぬ迫力に、俺は根負けした。仕方なく口を開けると、小さな木苺が口の中に放り込まれる。きゅっとした酸味と、優しい甘さが口いっぱいに広がった。


「ん、うまい」


「えへへ」


俺がそう言うと、リナは心底満足そうに、花が咲くように笑った。


そんな俺たちの和やかなやり取りを、女神ソフィアは、やはり数歩後ろから、静かに、そしてただ静かに見守っていた。


彼女の表情は、いつも通りの完璧な微笑み。慈愛に満ち、すべてを受け入れるかのような、聖母の如き微笑みだ。その唇は穏やかな弧を描き、瞳は優しく細められている。


だが。


俺がリナから木苺を食べさせてもらった、その、ほんの一瞬。


俺たちの周りをひらひらと優雅に舞っていた、美しい瑠璃色の紋様を持つ蝶が、まるで突風に煽られたかのように、ありえないほど不自然な軌道を描いた。物理法則を無視した鋭角なターン。そして、俺がリナに「ありがとう」と言おうと顔を向けた、まさにそのタイミングで、俺とリナの顔の間に、ひらりと割り込んだのだ。


「うわっ!?」


「きゃっ!」


突然視界に飛び込んできた蝶に、俺とリナは驚いて思わず少し距離を取る。そのせいで、二人の間の親密な空気は霧散してしまった。蝶は、まるで自分の役目は終わったとでも言うかのように、何事もなかったかのように、またひらひらと優雅な軌道に戻り、青空の彼方へと飛び去っていった。


(……ユウキは、少し注意力が散漫ですね。旅の途中では、どんな些細な油断が命取りになるか分かりません。蝶一匹に驚いているようでは、まだまだ未熟です。私が、もっとしっかりと、片時も目を離さず、見ていてあげないと……)


ソフィアは、自分の心の中でそう結論づけた。彼女の無意識下で発動する小さな奇跡の数々。そのすべては、愛するユウキをあらゆる危険から守るための、純粋な保護者としての善意。彼女は、まだ、心の底からそう信じていた。自分の胸の奥深く、日に日にその存在感を増していく、黒く甘い感情。独占欲という名の、まだ小さな獣の正体には、まだ気づかずに。



幾多のドタバタ――その原因の九割九分がジンとサラに起因するわけだが――を乗り越え、俺たちは商業都市セレブリアを出発してからちょうど一週間後、ついに最終目的地である水の都アクアリアへと到着した。


「…………言葉が、出ない……」


巨大な白い城門をくぐり抜けた瞬間、俺たちは、そのあまりにも幻想的で、非現実的な光景に、完全に心を奪われていた。息をすることすら、忘れていたかもしれない。


この街には、道がない。いや、より正確に言うならば、人々が往来する道のほとんどが、エメラルドグリーンに輝く、どこまでも透き通った水路になっているのだ。太陽の光を水底まで通すその水は、キラキラと光を乱反射させ、街全体が巨大なラグーンの上に浮かんでいるかのような錯覚を覚える。


人々は、馬や馬車の代わりに、白鳥や龍をかたどった、信じられないほど優雅なデザインの小舟――ゴンドラ、と呼ばれているらしい――を巧みに操り、複雑に入り組んだ水路の上を滑るように行き交っている。建物は、白亜の壁と鮮やかな青い屋根を基調とした、優美な曲線を描くデザインで統一されていた。その窓という窓には、色とりどりのステンドグラスや、気が遠くなるほど繊細なガラス細工がはめ込まれ、降り注ぐ太陽の光を浴びて、まるで街全体が宝石箱であるかのように、まばゆい光を放っていた。


常に耳に届くのは、サラサラという心地よい水のせせらぎ。そして、ゴンドラを漕ぐ船頭たちが口ずさむ、陽気で、どこか物悲しいメロディの歌声。空気は、ひんやりと心地よい湿り気を帯び、微かな潮の香りと、水辺に咲き誇る睡蓮のような花の、甘く爽やかな香りが混じり合って、俺たちの肺を満たした。


すべてが、計算され尽くした芸術品のように美しく、完璧な調和を保っている。ここが、人間の作った街だとは、にわかには信じがたい。


「すげえ……。こんな綺麗な場所、どんな最新グラフィックのゲームの世界でも見たことねえ……」


俺は、ただただ呆然と呟く。


「ユウキ! 見て、お魚がいっぱいいるよ! 手、届きそう!」


リナは、身を乗り出して水面を覗き込み、色とりどりの魚たちに歓声を上げている。


「おい、お前ら! 聞こえるか、あの活気! あそこの水路沿いの酒場だ! あの酒場には、水の精霊が自ら造ったっていう、絶品の地酒があるらしいぞ! 行くぞ、野郎ども!」


ジンは、早速酒のことしか頭にないようだ。


「サラ、まずは宿の確保と冒険者ギルドへの挨拶が先決だ! はしゃぐのは後にしろ!」


ゴードンが、現実的な意見でリーダーをいさめている。


それぞれが、それぞれの形で感動に打ち震える俺たち。そんな中、女神ソフィアだけは、初めて訪れたはずのこの街を、どこか遠い昔を懐かしむような、穏やかで、少しだけ寂しげな目で見つめていた。その美しい横顔は、この水の都の幻想的な景色に完璧に溶け込んでおり、まるで一枚の有名な絵画のようだった。


ひとまず、ゴードンの堅実な提案に従って宿を確保した俺たちが、情報収集のために街の中心にあるひときわ巨大な湖へと向かうと、そこは大変な騒ぎの真っ只中にあった。


「リヴァイアサンだ! 幼体だが、あれは間違いなく本物のリヴァイアサンが出やがったぞ!」


「逃げろ! 早く逃げるんだ! ギルドの討伐隊はまだなのか!」


湖のほとりは、人々のパニックと悲鳴で溢れかえっていた。彼らが指さす視線の先、広大な湖の中心で、巨大な水柱が天を突くように上がっていた。そして、その水柱が崩れ落ちると同時に、湖の水面を大きく盛り上げ、一匹の巨大な魔物がその悍ましい巨体を現した。


長く、しなやかな蛇のような体。硬質な鱗は、濡れたようにぬめぬめと青黒く輝き、背中にはカミソリのように鋭いヒレがいくつも並んでいる。ワニのように大きく裂けた巨大な顎からは、獲物の肉を食い千切るための鋭い牙が無数に突き出ていた。全長は20メートルほどだろうか。伝説の海の魔物、リヴァイアサン。その幼体だというが、放つ威圧感と存在感は凄まじいものがあった。湖全体が、その魔物の存在によって支配されているかのようだった。


だが、人々はただ逃げ惑っているだけではなかった。その視線には、純粋な恐怖と共に、わずかな、しかし確かな期待の色が混じっている。彼らが見つめる先――湖畔に設けられた広場に、一人の女性が、その巨大な魔物と対峙するように、背筋を伸ばし、凛として立っていた。


「……美しい……」


俺は、思わずそう呟いていた。我知らず、言葉が漏れ出ていた。


腰まで届く、流れるような銀色の長髪が、湖から吹いてくる湿った風にさらさらと美しく揺れている。知性を感じさせる涼やかな紫色の瞳は、強い意志の光を宿して、前方の魔物を真っ直ぐに見据えていた。体にぴったりとフィットした、優美なデザインの青いローブは、彼女の完璧としか言いようのないプロポーションを、芸術的に際立たせている。その白魚のような手には、先端に人の頭ほどもある巨大な魔石が埋め込まれた、美しい白木の杖が握られていた。


彼女の周りだけ、空気が違う。張り詰めて、それでいて神聖な空気が、彼女を中心に満ちている。まるで、古の英雄譚の中からそのまま抜け出してきた、賢者か大魔導士。その場にいる誰もが、彼女の勝利を信じて疑わない。そんな絶対的な信頼と期待を抱かせる雰囲気が、そこにはあった。


「あれは……『銀閃の魔導士』の異名を持つ、セレスティア様だ!」


「おお! あの若さで、この王国でも五指に入るとまで言われる天才魔導士が、なぜこのような辺境の街に!」


「彼女が来てくださったのなら、もう安心だ! きっとあんな魔物、一撃で……!」


周囲の人々の期待の声を一身に受け、セレスティアと名乗られた女性魔導士は、ゆっくりと、しかし流麗な動作で杖を構えた。



セレスティアは、静かにその美しい瞳を閉じた。喧騒も、魔物の威嚇も、全てを意識の外へと追いやる。そして、その薔薇色の唇から、古の時代に用いられたという言語で紡がれた呪文が、鈴を転がすような、清らかで美しいソプラノの声で流れ出し始めた。


それは、現代の魔法とは一線を画す、非常に複雑で長大な詠唱だった。一つの単語を誤るだけで暴発しかねない危険なもの。しかし、彼女の声は一切淀むことなく、まるで一編の壮大な叙事詩を歌い上げるかのように、滑らかに、正確に、そして情緒豊かに、魔法の言葉を紡いでいく。


彼女の詠唱に呼応するように、周囲の空気がビリビリと震え、大気中に存在するマナが、目に見えるほどの光の粒子となって彼女の元へと収束していく。その様は、まさに巨大な嵐が生まれる前の静けさ。世界そのものが、彼女の魔法のために息を殺しているかのようだ。隣にいたジンも、サラも、「……こいつは、本物だ……。次元が違う。俺たちが束になっても、指一本触れられねえ」と、ゴクリと固唾を飲むのが、空気の振動で分かった。


そして、ついに詠唱がクライマックスに達する。


セレスティアは、カッと目を見開いた。その紫の瞳に、雷光そのものが宿る。彼女の持つ杖の先端の魔石が、太陽と見紛うほどの、まばゆい光を放った。


「――集え、万象を裁く神々の雷よ! 我が敵の頭上に降り注ぎ、その存在を塵芥へと還せ! 『ジャッジメント・ボルト』!」


詠唱は、完璧だった。魔力の収束も、完璧だった。


彼女は、自らの勝利を確信し、リヴァイアサンの幼体めがけて、高らかに、そして優雅に、その白木の杖を振り下ろした。世界最強クラスの雷撃魔法が、今、放たれる。


「いっけええええええええええええええ!」


シーン……。


「…………………………………………」


何も、起こらなかった。


湖は静かなまま。魔物は、首を傾げている。あれほどまでに高められた凄まじい魔力は、完全にコントロールを失い、行き場をなくして周囲の空気に霧散した。後には、非常に気まずい沈黙と、湖を渡る風の音だけが、やけに大きく響いていた。魔物は、きょとんとした顔で、杖を振り下ろしたまま硬直しているセレスティアを見ている。まるで「今、何かした?」とでも言いたげな表情だ。


「…………あれえええええええええええええええええ!?」


天才魔導士セレスティアの、およそ彼女の美しい容姿からは想像もつかない、素っ頓狂な絶叫が、静まり返った湖畔に木霊した。


その、直後だった。


ゴゴゴゴゴゴゴゴッ! バリバリバリィィィィン!!


セレスティアが狙った湖の中心とは、まったく、ぜんぜん、これっぽっちも関係のない方向――この美しい水の都のシンボルとして、湖畔に聳え立っていた時計台の、そのてっぺんに、天を裂くほどの巨大な雷が、寸分の狂いもなく直撃したのだ。


凄まじい轟音と共に、芸術的な装飾が施された時計台の上半分が、まるで脆いクッキーのように、見事に崩れ落ちていく。


「な、ななな、なんでぇぇぇ!?」


顔面蒼白になったセレスティアは、完全にパニックに陥っていた。その瞳は涙で潤み、完璧だったはずの表情は見る影もなく崩れている。


「ち、違う! 今のは違うの! い、今のウォーミングアップ! そう、準備運動よ! 次こそ本番だから! よく見てなさい!」


彼女は半泣きになりながら、震える手で再び杖を構えた。もはや威厳も冷静さも失われている。


「燃え盛る煉獄の業火よ! 我が前に立つ全ての敵を焼き尽くせ! 『インフェルノ・フレイム』! もえろおおおおおおおおおおおおおおお!」


今度は、湖の水が、一瞬にして沸騰した。


ゴボゴボゴボッ! と、底から不気味な音が鳴り響き、水面が激しく泡立ち始めた。そして次の瞬間、大規模な水蒸気爆発が発生した。


ドッッッッカァァァァァン!!


巨大なキノコ雲が湖上に立ち上り、爆風と、灼熱の熱湯と化した湖の水が、周囲で見物していた人々の頭上に無慈悲に降り注ぐ。


「ぎゃああああ! 熱い! 熱湯だ!」「服が溶ける! この前新調したばかりなのに!」「俺のカツラがああああああ!」


湖畔の広場は、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。もちろん、肝心の標的であるリヴァイアサンには、ノーダメージだ。むしろ、いきなり熱いお風呂が用意されたかのように、少し気持ちよさそうにしているようにすら見える。


「うわあああああん! なんでなのよおおおおおおお!」


ついに、天才魔導士セレスティアは、プライドも何もかもが崩壊し、その場にぺたんとしゃがみ込み、幼い子供のように声を上げて泣き出してしまった。もはや、彼女の周りにあったはずの神聖な空気は、微塵も残っていなかった。


事態は、最悪の方向へと転がり続けていた。


先ほど崩れ落ちた時計台の、巨大な瓦礫の塊が、熱湯から逃げ惑う人々の頭上へと、雨のように降り注ぎ始めたのだ。これでは二次災害だ。


「危ないっ!」


俺は、またしても、何も考えるより先に体が動いていた。咄嗟に、近くにあった屋台(水蒸気爆発のせいで店主はとっくに逃げた後だった)に備え付けられていた、巨大な鉄板――この世界にもあるらしい、タコ焼き器のような、丸い窪みがたくさんついた分厚い鉄板をひっつかみ、盾のように頭上に掲げた。


「うおおおおおおお!」


ガギン! ガン! ゴン!


信じられないことが起きた。降り注ぐ巨大な瓦礫は、ソフィアの祝福パワーによって鋼鉄以上の強度と化していたらしいタコ焼き鉄板に当たると、ことごとく甲高い音を立てて弾き返されていく。俺の腕は少し痺れたが、鉄板は傷一つついていない。その超常的な光景に、パニックに陥っていた人々から「おおお!」と、どよめきと歓声が上がった。


その騒ぎに気づいたのか、リヴァイアサンの幼体が、ついに標的を俺に変え、巨大な口をカッと開けて、一直線に襲いかかってきた。


「うわあああああああ! こっち来たぁぁぁぁぁぁぁ!」


俺は、完全にパニックだった。手に持っていたタコ焼き鉄板を投げ捨て、とっさに、足元に転がっていた、手頃な大きさの石を掴んだ。そして、もうどうにでもなれというヤケクソの心境で、それを魔物に向かって、ありったけの力で投げつけた。


「あっち行け、この巨大トカゲーっ!」


それは、もはや祈りに近い、ただの悪あがきだった。何の算段もない、生存本能からくる反射的な行動に過ぎなかった。


だが、奇跡は、起きた。


俺の手から放たれたただの石ころは、まるで意思を持っているかのように、物理法則を完全に無視した軌道を描き始めた。湖の水面に触れると、ピョン、ピョン、ピョン、と、まるで世界チャンピオンクラスの水切り職人が投げたかのように、十数回も、信じられないほどの飛距離を跳ねていったのだ。


その過程で、なぜか石はどんどん加速し、摩擦熱か何かで青白い光を帯びていく。それはもはや石ではなく、光弾だった。


そして、リヴァイアサンが俺を威嚇するために、大きく口を開けた、まさにその完璧なタイミング。


光る石は、寸分の狂いもなく、その開かれた口の奥、喉のど真ん中へと、吸い込まれるようにして飛び込んでいった。


「…………きゅぅぅぅぅぅ……」


魔物は、どこか悲しげな、か細い鳴き声を一つ上げると、その巨体が、内側からまばゆい光を放ち始めた。硬質だったはずの青黒い鱗が、まるで薄いガラスのように、パキパキと音を立ててひび割れていく。


そして、次の瞬間。


巨大な魔物は、もはやその体を維持できなくなったかのように、キラキラと輝く無数の光の泡となって、静かに、そして美しく消滅していった。


後には、ようやく本来の静けさを取り戻した美しい湖と、石を投げた体勢のまま固まっている俺と、そして、目の前で起きた出来事が信じられず、唖然としてそれを見つめる、大勢の人々だけが残された。



街は、英雄の誕生に沸いた。


俺は、我に返る間もなく、あっという間に人々の波に囲まれ、誰かの手で軽々と持ち上げられ、人生初の胴上げを経験することになった。宙を舞いながら、俺は口々に称賛の言葉を浴びせられた。


「兄ちゃん、あんた一体何者なんだ!」「街を救ってくれてありがとう!」「すごいぞ、石投げの英雄!」「抱いてくれ!」


最後のほうは何かおかしいものが混じっていた気がするが、もうどうでもよかった。訳が分からないまま、俺は、またしても本人の意思とは全く無関係に、英雄に祭り上げられてしまったのだった。


そんな喧騒の中心から少し離れた場所で、セレスティアは、まだ湖畔に一人、ぽつんと、うずくまっていた。


その誰もが見惚れるほどに美しい顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。天才魔導士としてのプライドも、長年積み上げてきた自信も、時計台の瓦礫と共に、すべてが粉々に打ち砕かれていた。自らの魔法の失敗で街を破壊しかけ、その絶体絶命の窮地を、どこからともなく現れた、名も知らぬ一人の男に、たった一個の石ころで救われてしまったのだ。これ以上の屈辱が、この世にあるだろうか。


「……うっ……ひっく……私の、ばか……才能の、無駄遣い……もう、魔導士やめよう……」


しゃくりあげて泣いている彼女の前に、すっと影が差した。


見上げると、そこに、さっきの英雄――俺が立っていた。人々のもみくちゃから何とか抜け出してきた俺は、差し出された清潔なハンカチを手に、少し困ったように、そして優しく笑っていた。


「だ、大丈夫? 誰にだって、失敗はあるって。俺なんて、見ての通り、ステータスはオールFなんだぜ?」


「……え?」


セレスティアは、きょとんとして俺の顔を見上げた。涙で濡れた紫色の瞳が、大きく見開かれる。


「うそ……。だって、あんな、伝説級の魔物を一撃で……。あれは、何かの魔法では……?」


「いや、あれは、本当に、たまたま……。運が良かっただけなんだ、信じてくれ」


俺がしどろもどろになって説明していると、彼女の大きな紫色の瞳から、またぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。だが、それは先ほどの絶望に満ちた涙とは、少しだけ色が違っているように見えた。


「……なんて、お優しい方なのでしょう……。そして、あの神技ともいえる圧倒的な実力を持ちながら、それを少しも鼻にかけることのない、この底知れぬ謙虚さ……! まさに、真の実力者の風格……!」


彼女の中で、俺の評価が、とんでもない勢いで天元突破していた。俺の言葉は、全てが深遠な謙遜の言葉として変換されてしまったらしい。


「あ、あの! お願いがあります!」


セレスティアは、勢いよく立ち上がると、俺の手にすがりつこうとしてきた。その瞳には、絶望ではなく、新たな希望の光が燃え盛っている。


「私を! この役立たずで未熟な私を、どうか貴方の弟子にしてください! そして、もう一度、魔法の道、そして人としての道を、私にご教授ください! お願いします、師匠!」


彼女の白魚のような、冷たくて柔らかい手が、俺の手に触れようとした、その寸前。


ザッパーーーーン!


まるで、巨大なクジラか何かが湖に飛び込んだかのような、盛大すぎる水しぶきが、間欠泉のように、俺とセレスティアの間に突き上がった。


「きゃっ!」「うわっ、冷たっ!」


俺とセレスティアは、頭から大量の水をかぶり、一瞬にしてずぶ濡れになった。


そこへ、全てを見計らったかのような、完璧なタイミングで、女神ソフィアが歩み寄ってきた。不思議なことに、彼女の足元だけ、なぜか全く濡れていない。


「あらあら、お二人とも、大変なことになっていますね。ずぶ濡れじゃありませんか。このままでは、風邪をひいてしまいますよ」


ソフィアは、いつもの優雅な微笑みを浮かべると、どこからともなく取り出した、ふかふかで、見るからに上質なタオルを、俺の頭にそっと乗せた。そして、まるで壊れ物を扱うかのように、優しく、丁寧に俺の髪を拭いてくれる。


しかし、隣で同じようにずぶ濡れになり、震えているセレスティアには、一瞥もくれない。彼女の視界には、入っていないかのように。


その行動は、傍から見れば、誰の目にも、完璧な善意と、大切なパートナーへの気遣いに映っただろう。


だが、その奇跡的なタイミングで起きた水しぶきの結果として、ユウキとセレスティアの間には物理的な壁が作られ、ユウキの意識は完全にソフィアへと引き寄せられていた。


「あ、ありがとうございます、ソフィアさん。助かります」


「どういたしまして、ユウキ。貴方が濡れてしまうのは、私、見ていられませんから」


またしても、増えてしまった、美人の仲間(候補)。


しかも今度は、とんでもなくハイスペックな(ただし、致命的な欠陥付きの)天才魔導士。


ユウキ本人を取り巻く人間関係の糸は、彼の全くあずかり知らぬところで、ますます複雑に、そして固く絡み合っていく。


愛する人を守るため、女神様の無意識の「防衛行動」は、これから、一体どこへ向かうのだろうか。


その答えを、まだ誰も知らなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ