表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/15

第4話:『迷子のパーティと、スケベな剣豪』

雄大なる王都アルカディアの西門をくぐり、我々が新たな旅路へと足を踏み入れてから、早くも三つの陽が昇り、そして沈んでいった。眼前に広がるのは、遥か地平線の彼方まで続いているのではないかと錯覚させるほどの、長大なる街道。それは緩やかな起伏を幾重にも繰り返し、大陸有数の商業都市と謳われるセレブリアへと我々を導いていた。


季節は、長かった春がようやく終わりを告げ、燃えるような夏の始まりが、互いの領分を確かめ合うように繊細に混じり合う、一年で最も心地よい時期であった。吹き抜ける風はまだどこか春の名残を宿して涼やかだが、大地を照らす二つの太陽の光は日に日に力を増し、生命の息吹を力強く謳歌させている。


道の両脇には、人の背丈ほどもない柔らかな草原がどこまでも、どこまでも広がっていた。風が渡るたびに、それは広大な緑色の海原となり、さざめきながら遠くへと走り去っていく。その緑の絨毯の上には、まるで神様が絵の具をばらまいたかのように、赤や黄、澄み渡る空の色を映したかのような青い花々が、名も知らぬままに咲き誇っていた。それらが放つ蜜の甘い香りが、雨上がりの土の匂いと混じり合って鼻腔を優しくくすぐり、旅の疲れを忘れさせてくれる。


街道に沿って等間隔に植えられた白樺の木々は、空に浮かぶ双子の太陽から降り注ぐ光を浴び、その無数の葉をダイヤモンドダストのようにきらきらと輝かせていた。風に揺れる葉の間から漏れる木漏れ日は、地面にまだらな光の模様を描き出し、それはまるで、刻一刻と形を変える生き物のようだった。時折、木々の梢から鳥のさえずりが聞こえ、長閑な旅路に彩りを添える。


そんな平和で美しい風景の中、我々のパーティは、しかし、静寂とはおよそ無縁であった。


「わーい! ユウキ、見て見て! すごいの捕まえた! トカゲ! しっぽが二本あるよ!」


不意に、俺の数歩先を駆け回っていたリナが、弾けるような歓声を上げた。その小さな手には、翠玉色の鱗を持つ、奇妙な爬虫類が握られていた。確かに、その名の通り、根元から綺麗に二股に分かれた尻尾が、ぴくぴくと小気味よく動いている。


俺は思わず眉をひそめ、少しばかり語気を強めて彼女を諌めた。

「こらリナ、あんまり変な生き物を捕まえるんじゃない! その鮮やかな色は警戒色かもしれないだろう! 毒があったらどうするんだ!」


「だーいじょうぶだって! この子、よーく見たら、すっごく可愛い顔してるもん!」


リナは全く悪びれる様子もなく、捕まえた双尾のトカゲを俺の目の前に突き出してきた。確かに、つぶらな黒い瞳はどこか愛嬌があるように見えなくもない。だが、問題はそこではないのだ。


「可愛い顔のやつほど、腹に一物持ってるもんだ。いいから、早く逃がしてやれ」

「えー、やだー! ペットにする!」

「駄目だ! 責任もって面倒見れるのか?」

「見れるもん! ユウキが!」

「俺かよ!」


俺たちのパーティは、結成当初からこのように賑やかさに満ち溢れていた。いや、より正確に表現するならば、俺とリナの二人だけが、まるで嵐の中心のように、異様なほど賑やかだったと言える。


リナは、王都の片隅で出会い、仲間になって以来、まるで孵化したばかりの雛鳥が初めて見たものを親と認識するかのように、片時も俺の側を離れようとしなかった。彼女にとって、この広い世界は驚きと発見に満ち溢れているらしい。道端に転がる何の変哲もない石ころ一つで大騒ぎし、空を流れる雲の形に物語を見出し、そのたびに「ユウキ、ユウキ!」と、宝物を見つけた子供のような輝く瞳で俺を呼ぶのだ。その天真爛漫な無邪気さは、見ていて飽きることがなく、こちらの頬まで緩ませる不思議な力を持っていた。


「ねえ、ユウキ、お腹すいた!」

不意に、リナはトカゲを草原に放り投げると、今度は自分の腹を押さえてそう叫んだ。

「お前、さっき街道沿いの茶屋でパンを食べたばっかりだろ。まだ一時間も経ってないぞ」

「あれは朝ごはん! 今はおやつの時間! ほら、お日様も二つとも真上にあるし!」

リナが指差す空には、確かに大小二つの太陽が中天に輝き、我々の影を真下に落としている。なるほど、理屈としては正しいのかもしれない。

「そんなわがままを言うな。次の村までまだ距離があるんだぞ。ほら、これで我慢しろ」


俺は半ば呆れながらも、懐から旅の保存食である干し肉を取り出した。香辛料が効いた、噛めば噛むほど味が出る逸品だ。

「わーい! 干し肉! ユウキ大好き!」

俺が差し出したそれをひったくるように受け取ると、リナは心の底から嬉しそうな満面の笑みを浮かべ、俺の腕にぎゅっと抱きついてきた。その華奢で細い体からは、二つの太陽の光をいっぱいに浴びた匂いと、わずかに汗の匂いがした。それは、生命力そのものに満ちた、生きているという確かな実感を与える匂いだった。


そんな俺たちの数歩後ろを、ソフィアはいつものように、水の上を滑るかのような優雅な足取りで静かについてきていた。風に揺れる白銀の髪は陽光を反射して輝き、慈愛に満ちた青い瞳は、俺とリナの他愛のないやり取りを、完璧としか言いようのない微笑みを浮かべて見守っている。その姿は、あまりにも神々しく、まるで物語に登場する慈愛の女神が、地上に降り立ったかのようだった。


だが。

その瞬間だった。

リナが、その全信頼を込めて俺の腕に抱きついた、まさにその刹那。

ソフィアが手に持っていた革製の水筒の表面に、ありえない現象が起きた。春と夏の境目であるこの温暖な気候の中、まるで真冬の窓ガラスのように、白い霜が一瞬だけ、薄っすらと張ったのだ。それは本当に瞬きの間の出来事で、すぐに儚く消え去り、何事もなかったかのように元の革の質感に戻る。


(……今のは……気のせい、か……?)


ソフィア自身、自分の身に起きたその些細な変化に、わずかに柳眉を寄せた。己の明確な意志や感情の動きとは全く無関係に、内なる力が微かに、しかし確かに外界に漏れ出たような奇妙な感覚。悠久とも言える時を生き、自らの力を完璧に制御してきた彼女にとって、それは生まれて初めての経験だった。彼女は、自分の胸の内に去来した、名付けようのない小さな波紋の正体に気づかないまま、その原因となった水筒を、そっと強く握りしめた。


「ユウキは、本当に面倒見がいいのですね」


彼女の声は、まるでハープの音色のように心地よく、俺の耳に届いた。

「え? ああ、まあ……昔、歳の離れた妹がいたんで、なんとなくこんな感じだったかなって、思い出しちまって」

口から出まかせだった。俺に妹などいたことはない。だが、ソフィアの前ではなぜか、格好つけたくなってしまうのだ。

「……妹、ですか」

ソフィアの言葉には、どこか響きを確かめるような、不思議な間があった。俺はそんな彼女の内心の揺らぎなど露ほども気づかず、「そうなんですよー、あいつもリナみたいにやんちゃで、いっつも俺の後ろをついてきてー」などと、存在しない妹との思い出を、さも真実であるかのようにペラペラと語り始めた。


ソフィアはただ、静かに相槌を打ちながら俺の話を聞いていたが、その青い瞳の奥で、先ほどの霜とはまた違う、複雑な光が揺らめいたのを、俺は知る由もなかった。


そんな他愛のない、しかしどこか温かいやり取りを繰り返しながら、俺たちの三人の旅は、商業都市セレブリアへと続いていった。


---



そして、王都アルカディアを発ってから五日目の昼過ぎ。緩やかな丘を一つ越えた、その時だった。目の前に広がる光景に、俺たちは言葉を失った。


「でっっっか……!」


思わず、心の声がそのまま口から漏れ出てしまった。隣を歩いていたリナも、普段の賑やかさが嘘のように、口をあんぐりと開けたまま硬直している。ソフィアでさえ、その完璧な微笑みの奥にある瞳を、わずかに見開いていた。


商業都市セレブリア。その名は伊達ではなかった。我々の眼前に聳え立つのは、街というよりも、もはや一つの王国そのものと呼ぶべき、圧倒的な威容だった。地平線の端から端まで続いているのではないかと錯覚するほどに高く、そして分厚い城壁。その高さはアルカディアの城壁の倍はあろうか。あの王都の堅牢な壁が、今ではまるで村を囲む粗末な石垣のように見えてしまう。


城壁は、磨き上げられた巨大な白い石を寸分の狂いもなく積み上げて作られており、二つの太陽の光を浴びて眩いばかりに輝いていた。その上には、都市の紋章や有力な商会の旗印など、色とりどりの無数の旗が風にはためいている。さらに、等間隔に建てられた監視塔からは、太陽の光を反射した衛兵たちの鎧が、キラリ、キラリと鋭く光るのが遠目にも見て取れた。あれは、ただの見張りではない。歴戦の兵士が放つ、規律と誇りに満ちた光だ。


セレブリアの巨大な正門へと続く街道は、もはや道というより広場だった。人、人、人。そして、山のような荷を積んだ馬車、牛車、さらには荷運びのために飼いならされた巨大なトカゲや、象に似た四本牙の魔物までが、ひしめき合い、ごった返している。様々な国の言葉が入り乱れて飛び交い、遠い異国から運ばれてきたのであろう香辛料の刺激的な匂いや、なめされた革の芳醇な香り、そして人々の熱気が混じり合った、エネルギッシュでむせ返るような空気が、この街の生命力そのものを物語っていた。


俺たちは、その圧倒的な人の波に為す術もなく飲み込まれ、揉まれるようにして、巨大な城門へとたどり着いた。門の高さは、巨人でも屈まずに通れるほどだ。門を守る衛兵たちの鎧は、街道の監視塔にいた者たちよりもさらに豪奢で、その顔つきは厳しく、しかし無用な威圧感はない。彼らは手慣れた様子で、往来する人々や荷を検分し、淀みなく街の中へと通していく。


「止まれ。身分を証明するものはあるか」

衛兵の一人が、俺たちに声をかけた。俺はアルカディアの冒険者ギルドで発行された身分証を提示する。衛兵はそれを手際よく確認すると、すぐに返してくれた。

「冒険者か。ご苦労。街での揉め事はご法度だ。問題を起こすなら、法とギルドの規則に従ってもらう。分かったな」

「はい、承知しています」

俺が答えると、衛兵は「通れ」と顎をしゃくった。


荘厳なアーチ状の城門をくぐり抜けた先、そこは、外の喧騒がまるで静寂であったかのように感じられるほどの、熱狂と混沌に満ちた世界だった。


「うわ……」

「す、すごい……」


俺とリナは、再び声を揃えて感嘆の声を漏らした。

石畳で美しく舗装された大通りは、巨大な荷馬車が四台は余裕で、五台でもすれ違えるのではないかというほどの広さがある。その両脇には、まるで天を突くかのように、四階建て、五階建ての壮麗な石造りの建物が、隙間なくびっしりと立ち並んでいた。


武器屋、防具屋、道具屋といった冒険者にはお馴染みの店はもちろんのこと、貴族が着るような煌びやかなドレスを飾った高級服飾店、ショーウィンドウの中で眩い光を放つ宝石を並べた宝飾店、そして、我々が今まで見たこともないような異国の料理を提供するレストランまで、ありとあらゆる種類の店が軒を連ねている。それぞれの店先からは、活気に満ちた呼び込みの声が四方八方から怒涛のように聞こえてきて、それらが混じり合い、一つの巨大な音の渦となっていた。


行き交う人々の人種も、アルカディアとは比較にならないほど多様性に富んでいた。屈強な体躯に編み上げられた髭が特徴的なドワーフの傭兵団。すらりとした長身で、長い耳を優雅に揺らしながら歩くエルフの親子。そして、犬や猫だけでなく、トカゲや鳥の特徴を持つ、様々な獣人たちがごく自然に人ごみの中に溶け込んでいる。その誰もが、この街の活気と繁栄を構成する、かけがえのない一部となっていた。


「すっげえ……。王都アルカディアが、デパートのお子様ランチに見えてきた……」

俺が呆然と呟くと、リナが興奮した様子で俺の服の袖をぐいぐいと引っ張った。

「ユウキ、あれ! あれ見て! 空飛ぶ絨毯! 本物だって! お店で売ってる!」

リナが指差す先には、一軒の店の軒先で、美しい幾何学模様の絨毯が数枚、ふわりと宙に浮いていた。その上では、店の主らしきターバンを巻いた男が、客に乗り心地を試させている。物語の中でしか知らなかった魔法の道具が、ここでは当たり前のように商品として陳列されているのだ。


俺とリナが、完全に田舎から出てきたおのぼりさん状態でキョロキョロと辺りを見回していると、そんな我々の様子を見ていたソフィアが、くすりと優雅に笑った。

「ふふ。まずは、今夜の宿を探しましょう。それから、冒険者ギルドに顔を出して、このセレブリアでの活動許可証を発行してもらう必要がありますわ」


その冷静で的確な言葉に、俺たちははっと我に返った。そうだ、俺たちは観光に来たわけじゃない。この大陸一の商業都市で、冒険者として名を上げ、それぞれの目的を果たすためにここに来たのだ。


俺たちはソフィアの提案に従い、まずは宿を探すことにした。大通りから少し外れた、比較的静かな地区で手頃な値段の宿屋を見つけ、三つの部屋を確保する。質素だが清潔な部屋に旅の荷物を置くと、俺たちは一息つく間もなく、街の心臓部とも言える冒険者ギルドへと向かった。


セレブリアの冒険者ギルドは、街のほぼ中央に位置する広大な広場に面して建てられていた。その建物は、もはやギルドというよりは、神殿か、あるいは王城の一角と見紛うほどの、荘厳で巨大な建築物だった。天を突くような大理石の柱が何本も並び、入口を守る巨大な木製の両開き扉には、伝説のドラゴンと、それに立ち向かう英雄の戦いの様子が、息を呑むほど壮麗な彫刻で見事に描かれている。


「ごくり……」


俺は無意識に喉を鳴らし、隣のリナと顔を見合わせた。リナもまた、緊張した面持ちでこくりと頷く。

アルカディアのギルドも十分に立派だと思っていたが、これは格が違う。この扉の先にいるのは、一体どれほどの猛者たちなのだろうか。期待と、それ以上に大きな不安が胸の中で渦巻く。


俺は深呼吸を一つすると、意を決して、その重厚な扉に手をかけ、ゆっくりと押し開いた。


---



ギルドの重厚な扉が軋みながら開くと、むわりとした熱気と酒の匂い、そして怒声が、まるで待ち構えていたかのように俺たちを出迎えた。


「だから! 何度言えば分かるんだ! 渡された地図の通り、真っ直ぐ北へ向かったんだ! なのに、そこにあったのは底なし沼だった! どう考えても、あんたが渡した地図が間違ってたに決まってる!」

「馬鹿を言うな! その依頼はこれまで何十組ものパーティが何の問題もなく成功させているんだぞ! 我が商会が用意した地図が間違っているわけがないだろう! 貴様らが絶望的なまでに方向音痴なだけだ!」


ギルドの広大なホールのちょうど中央で、一組の冒険者パーティが、依頼主らしき肥え太った商人と激しく揉めている真っ最中だった。

パーティのリーダーと思しき女性は、燃えるような美しい赤毛を高い位置でポニーテールに結い上げた、凛々しい顔立ちの女剣士だった。しなやかな肢体を包む軽装の革鎧は、そこかしこに戦いの痕跡を刻み込んでいるが、決して汚れてはおらず、実によく手入れが行き届いている。しかし、その端正な顔立ちは、今は怒りと屈辱で真っ赤に染め上げられていた。


「だいたい、北と南を間違えるなど、冒険者として以前の問題だろうが! 依頼は失敗だ! 契約書に書いてある通り、違約金をきっちり払ってもらうぞ! この能無しどもが!」

商人は唾を飛ばしながら、下品な言葉でまくし立てる。

「なっ……! そんな大金、今あるわけないだろ!」

女剣士の後ろでは、仲間らしき二人の男が、巨体を持て余すかのようにオロオロと立ち尽くしている。一人は、まるで熊のようにガタイのいい、巨大な戦斧を背負った大男。もう一人は、少し気弱そうな雰囲気を漂わせた、小柄な弓使いの青年だ。


どうやら、状況から察するに、あの赤毛の女剣士――周囲の囁き声から、サラという名前らしい――の壊滅的な方向音痴が原因で、簡単なはずの依頼に失敗してしまったようだ。ギルド内にいた他の冒険者たちも、この騒動を面倒臭そうに、あるいは面白そうに遠巻きに眺めており、「ありゃ、またサラたちがやらかしてるぜ」「あのサラって女、腕は確かで美人なんだが、方向感覚だけは神に見放されてるからな。もったいねえよな」などと、ひそひそと囁き合っているのが聞こえてきた。


「まあまあ、旦那さん。そんなにカッカしないでくださいよ。きっと何か、やむにやまれぬ事情があったんですよ」


見ていられなくなった俺は、持ち前のお人好し精神を遺憾なく発揮して、思わずその揉め事の真っ只中に割って入ってしまった。リナが「え、ユウキ?」と不安そうに俺の服を掴み、ソフィアは「やれやれ」といった風に小さくため息をついたのが分かった。


「ああん? なんだ、てめえは。関係ねえやつはすっこんでろ!」

商人が、血走った目でぎろりと俺を睨みつける。当事者であるサラも、「あんたには関係ないだろ! 見世物じゃないんだ、あっちへ行ってくれ!」と、助け舟を出したはずの俺にまで、敵意の籠もった鋭い視線を向けてきた。


まさに、その時だった。場の空気が、さらに別の方向へと動き出したのは。


「おっとっと。こりゃまた、朝っぱらから随分と賑やかなこった」


のんびりとした、それでいて不思議とよく通る、飄々とした男の声が、騒ぎに割って入った。

声の主は、ギルドの奥に併設された酒場スペースから、酒瓶を片手に、千鳥足でひょこりと現れた。洗いざらしで皺の寄った着流しのような、東方の国ラパンドの民族衣装をラフに着崩している。腰には、大小二本の刀が、まるで彼の体の一部であるかのように自然に差されていた。口元には無精髭を生やし、寝癖のついたままの黒髪はボサボサだ。だが、その半ば閉じたような目つきだけは、獲物を狙う鷹のように鋭く、油断ならない光を宿していた。


男は、サラと商人の揉め事そのものには一瞥もくれなかった。その視線は、まるで品定めでもするかのように、まず騒動の中心にいるサラ、次に俺の後ろに隠れているリナ、そして最後に、俺の隣で静かに佇むソフィアへと、順番にねっとりと滑らされた。そして、ニヤリと、実にいやらしい笑みを口元に浮かべた。


「へっ、こりゃまた、上玉が揃いも揃ってやがる。特にそこの、まるで女神様が歩いてるみたいな姉ちゃん。こんなむさ苦しい所で油売ってねえで、俺と一杯どうだい? もっといい酒と、極上の夜を味あわせてやるぜ」


男――周囲の冒険者の呟きによれば、彼の名はジンというらしい――は、真っ直ぐにソフィアの元へと歩み寄り、馴れ馴れしく声をかけた。その距離の詰め方は、常人ならば気圧されて後ずさってしまうほどの、独特の威圧感を伴っていた。


ソフィアは、しかし、表情一つ崩さない。いつもの完璧な微笑みを浮かべたまま、その瑠璃色の瞳で、目の前の無礼な男を値踏みするように見つめ返した。だが、その瞳の奥には、絶対零度の氷のような光が宿っていた。彼女は返事をしなかった。その代わり、彼女の周囲の空気が、気のせいかスッと数度、冷え込んだように感じられた。


ジンは、ソフィアに完璧に黙殺されたにもかかわらず、全く堪えた様子もなく、けけけ、と喉で笑った。そして、今度は俺の後ろで警戒心を露わにしているリナにちょっかいを出し始めた。


「おう、そこの嬢ちゃんも、着てるもんはボロだが、なかなかの逸材じゃねえか。その瞳、野生の獣みたいでそそるぜ。磨けば光るどころか、とんでもねえ宝石になるだろうよ。なあ、おじさんと一緒に、自分磨きとやらをしてみる気はねえか?」

「うっせー、このスケベオヤジ! 近寄んじゃねえ!」


リナは、威嚇する子猫のように「フーッ!」と息を吐き、さらに深く俺の後ろに隠れた。

ジンはそれを面白そうにけらけらと笑い、最後に、まだ商人と睨み合ったまま硬直していたサラに視線を戻した。


「あんたも、そうツンツンしてると眉間に皺が寄るぜ。気は強そうだが、いい女だ。まあ、ちっとばかし地図が読めねえのが玉に瑕か。心配するな、俺の夜の道案内なら、いつでもしてやるぜ? 絶対に迷わせねえ自信がある」

「なっ……貴様っ! 私を侮辱する気か!」


サラは、ついに堪忍袋の緒が切れたのだろう。もはや依頼主の商人などそっちのけで、腰に下げた長剣の柄に手をかけた。ギルド内に、新たな火種が生まれようとしていた。


その時だ。ジンの鋭い目が、俺の背負っているもの――女神ソフィア謹製の、鞘に収まっていてさえ尋常ならざるオーラを放つ、伝説級の輝きを秘めた剣を、正確に捉えた。

彼の表情から、ヘラヘラとした遊び人の笑みが、すっと消えた。


「……ほう。そこの兄ちゃん、とんでもねえモン、背負ってんじゃねえか」


ジンの雰囲気が、がらりと変わった。酒に酔ったチンピラから、一瞬にして、幾多の死線を越えてきたであろう歴戦の剣士のそれへと。彼の周囲の空気が、ピリピリと張り詰めるのが肌で感じられた。


「だが、そいつは、お前にゃちっとばかし不相応ってもんだ。そうだろ? 見るからに、剣の『声』が聞こえてねえ。剣が泣いてるぜ。そうだ、その剣、俺によこしな。そしたら、この女たちの迷惑料ってことで、今日のところは見逃してやらんでもない」


ジンは、完全に俺に因縁をつけてきた。その目は、先ほどまでの女たちに向けられていたものとは違う、獲物を見つけた狩人の、本気の目だった。


「嫌です」


俺は、きっぱりと、しかし冷静に答えた。

「これは、ソフィアさんからいただいた、俺にとって命よりも大事なものなんです。誰にも渡すつもりはありません」

「……そうかい。交渉決裂、だな。なら、仕方ねえ」

ジンは、残念そうに肩をすくめると、ゆっくりと、実にゆっくりと、腰に差した長刀の柄に右手をかけた。ギィ、と革の鞘と柄が軋む音が、騒がしかったはずのギルド内に、やけに大きく響き渡る。


「力づくで、奪うまでだ」


一触即発。ギルド中の冒険者たちが、息を殺して俺たち二人を見守っている。誰もが、セレブリアでも五指に入ると言われる剣豪ジンと、どこからともなく現れた見慣れない若者の間で、血の雨が降ることを予感していた。

俺は(またこのパターンか……どうしてこうなるんだ)と内心で深いため息をつきつつも、リナと、なぜかいつの間にか俺の後ろに隠れているサラをかばうように、ジンの前に一歩踏み出した。背中の剣に手をかける気はなかったが、この状況では引くわけにはいかない。


「面白い。少しは、骨がありそうだ」


ジンは、心の底から楽しそうに、口の端を三日月のように吊り上げた。

次の瞬間、彼の姿が、ブレた。


「神鳴流・壱ノ太刀――『刹那』!」


ジンの低い声が響いたのと、閃光が走ったのは、ほぼ同時だった。

常人の目には、もはや捉えることすら不可能な、神速の居合。鞘から放たれた刃が、ギルドの照明を反射して一条の光となり、俺の首筋めがけて、最短距離を一直線に突き進む。ギルドにいた誰もが、次の瞬間、俺の首が胴体から離れて宙を舞う光景を幻視しただろう。


だが。


「おわっ!?」


俺は、その神速にして必殺の一撃を、避けた。

いや、正確に言えば、避けたのではない。一歩踏み出そうとした俺の足が、たまたま、本当にたまたま床に転がっていた小さな小石――おそらくは誰かの靴底についていたのだろう――に乗り、見事にバランスを崩して、後ろに大きくひっくり返りそうになっただけなのだ。

ソフィアの『祝福』が、またしても最高のタイミングで、俺の生来のドジを誘発させたのだ。


ジンの刃は、俺の鼻先を数ミリという紙一重の差で掠め、虚しく空を切った。必殺の一撃に込めた勢いを殺しきれなかった刃は、そのまま俺の背後にあったギルドの太い大理石の柱に、まるで豆腐でも斬るかのように、深く鋭い斬撃を刻み込んだ。


シーン、と。水を打ったように静まり返るギルド。

先ほどまでの喧騒が嘘のように、全ての音が消え失せた。


「なっ……!?」


誰よりも驚いていたのは、他ならぬジン本人だった。己が絶対の自信を持つ必殺の一撃が、こんなにも間抜けな形で、しかも完璧に避けられるなど、彼の長い剣士人生において想像だにしたことがなかったからだ。


そして、悲劇は、まだ続く。

後ろに倒れそうになった俺は、無様に転ぶまいと、体勢を立て直そうと必死だった。無我夢中で、両腕をぶんぶんと振り回す。その右手には、いつの間にか背中から引き抜いていた、女神様謹製の伝説の剣が、まだ固く握られていた。


そして、振り回された剣の、柄の先端――柄頭の部分が。

まるで磁石に吸い寄せられるかのように、がら空きになったジンの鳩尾みぞおちに、本当にたまたま、コツン、と軽く当たった。


ドゴォォォォォンッ!!


まるで、城壁を破壊するための攻城兵器の砲弾が、至近距離で直撃したかのような、凄まじい衝撃音がギルド中に轟いた。床が震え、天井から埃がぱらぱらと舞い落ちる。

俺自身、自分の手から伝わってきた、ありえないほどの衝撃に目を見開いた。ソフィアの祝福パワーが最大限に上乗せされた、ただの「小突き」は、もはや戦略級魔法に匹敵する、必殺の一撃と化していたのだ。


「……ぐ……ぼ……え……」


ジンは、何かを言うこともできず、完全に白目を剥いていた。その鍛え上げられた屈強な体が、まるで漫画のように、ひらがなの「く」の字に折り曲がり、スローモーションのように、ゆっくりと、ゆっくりと後ろに倒れていく。そして、派手な音を立てて大理石の床に叩きつけられ、大の字に伸びた。手にした酒瓶が滑り落ち、カラン、と虚しい音を立てる。完全に、KOだった。


再び、ギルドは完全な静寂に包まれた。

冒険者も、ギルド職員も、揉め事を起こしていた商人も、サラたちも、全員が、信じられないものを見る目で、片手に剣を持ち、尻餅をつきかけた間抜けな体勢で固まっている俺を、ただただ見つめている。


「……えっと……これは、その……正当防衛、ですよね?」


俺の間の抜けた一言が、ようやく凍り付いたギルドの静寂を破ったのだった。


---



結局、その前代未聞の騒動の後、なぜか色々なことが驚くほど丸く収まった。


セレブリアでも指折りの実力者であり、その傍若無人な振る舞いで恐れられていた剣豪ジンを、たった一撃で(しかも、あんな前代未聞の形で)沈黙させた俺に、依頼主の肥満体の商人は完全に度肝を抜かれ、顔面蒼白になっていた。彼は俺の方をちらちらと恐怖の眼差しで見ながら、サラたちに向き直ると、手のひらを返したように平身低頭になった。


「も、も、申し訳ありませんでした! 私の地図の説明が悪かったのかもしれません! どうかお許しを! 違約金の話など、とんでもない! なかったことに! なかったことにしてください!」

そう言って、彼は這うようにしてギルドから逃げ去っていった。嵐のような騒動の原因は、こうしてあっけなく消え去った。


「……助かった。礼を言う。あんた、すごい腕だな」


騒動が収まったのを見届けたサラが、俺に向かって深々と頭を下げた。その力強い瞳には、先ほどまでの刺々しい敵意は微塵もなく、純粋な驚きと尊敬の念が宿っていた。


「いや、俺は本当に何も……あれは偶然で……」

「謙遜するな。あのジンの『刹那』を完璧に見切り、カウンターで一撃とは……。並の剣士にできる芸当ではない。噂には聞いていたが、あれほどの神速を打ち破る者が実在したとはな。私の名はサラ・フィンブレン。こいつらは仲間のゴードンとリックだ。もしよかったら、今度、ぜひ稽古をつけてくれないだろうか?」

「えええ!? け、稽古ですか!?」


完全に、俺のことを達人級の凄腕剣士だと勘違いしてしまっている。ゴードンとリックも、尊敬の眼差しで俺に頭を下げている。どう説明したものか、俺が途方に暮れていると、もう一人、厄介な人物が復活した。


「……いっててて……。やられたぜ、完全に……。腹ん中にゴーレムの一撃でも喰らったかと思ったぜ……」


床に伸びていたジンが、腹をさすりながら、むくりと起き上がった。その顔には怒りの色はない。むしろ、どこか愉快で仕方がないといった表情を浮かべていた。


「兄ちゃん、あんた、名前は?」

「え、あ、ユウキですけど……」

「ユウキか。気に入った!」

ジンは、ニカッと白い歯を見せて豪快に笑った。

「まさか、この俺が、あんな赤子をあやすような一撃で一発KOされるとはな! 面白い! 実に面白い! ユウキ、あんたがその剣に本当に相応しい男なのか、この俺の目で、とっくりと確かめてやる! というわけで、しばらくあんたたちの旅についてくぜ!」

「はあ!? なんでそうなるんですか!?」

「うるせえ! 俺がそう決めたんだから、決定事項だ! 文句は言わせねえ!」


こうして、俺は、全く図らずも、絶望的に方向音痴だが腕は立つ美人剣士のパーティに尊敬され、女好きでスケベだが剣の腕は超一流の剣豪に、一方的に懐かれて(?)しまったのだった。


「ユウキ、すっげー! あのスケベオヤジ、一発でやっつけちゃった! カッコよかった!」

リナが、俺の腕に再び飛びついてきて、瞳をキラキラと輝かせている。彼女の中では、俺はすでに伝説の英雄になってしまっているようだ。

「ははは……どうしてこうなった……」


俺が頭を抱えていると、一連の騒動を、最初から最後まで静かに見守っていたソフィアが、すっと音もなく俺の隣に立った。

彼女は、ジンが自分たちに無礼に絡んできた時、明らかに不快そうな、氷のように冷たい空気を漂わせていた。そして、俺があの奇跡的な一撃でジンを倒した瞬間は、ほんの少しだけ、実に満足そうな表情を浮かべていたのを、俺は見逃さなかった。


だが、今。

サラが、感謝の印にと、俺の手にそっと触れて「本当にありがとう」と微笑みかけた、その瞬間。

またしても、ソフィアの完璧な微笑みが、まるで美しいガラス細工に微細なヒビが入るように、ほんのわずかに凍りついたのを、俺は確かに感じ取っていた。


「ユウキは、本当に……人や、トラブルを惹きつけるのが、お上手なのですね」


彼女が紡いだ言葉。その透き通るような響きには、感心と、呆れと、そして、おそらく彼女自身ですらまだ気づいていないであろう、ほんのひとさじの棘が、確かに混じっていた。


新たな出会いは、新たな波乱の始まりを告げていた。

俺の異世界ハーレム計画(そんなものは断じてない)は、俺のあずかり知らぬところで、ますます複雑で騒々しいものになろうとしていた。そして、その混沌の中心で、慈愛に満ちた女神の心が、少しずつ、しかし確実に変化の兆しを見せ始めていることを、この時の俺は、まだ知る由もなかったのである。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ