第3話:『盗賊少女、仲間になる(物理)』
二つの太陽が、西の霊峰アルクゥスの険しい稜線へと、その輝く御体を静かに沈めようとしていた。巨大な主太陽が放つ灼熱のオレンジ色の光は、空の半分を燃えるような深紅と黄金の海に変え、もう一方の小ぶりな伴星が投げかける儚げなラベンダー色の光は、その燃える海に優しく溶け込み、天頂に向かって神秘的な紫紺のグラデーションを描き出している。それは、神々が気まぐれに描いた巨大な絵画の如く、アルカディアの空を息を呑むほどに美しく染め上げていた。
黄昏が街を包み込むにつれて、石造りの家々の窓辺には、温かいランタンの灯が一つ、また一つと瞬き始める。まるで夜空に応える星々のように、人々の暮らしの温もりが街並みを彩っていく。一日の仕事を終えた人々が、陽気な声で今日の出来事を語らいながら、長年の往来で磨かれた石畳の道を家路へと急いでいた。パン屋の店先からは焼きたてのパンの香ばしい匂いが漂い、鍛冶屋の炉からは熱気と槌音の余韻が感じられる。どこかの賑やかな酒場からは、調子っぱずれではあるが心から楽しげなリュートの旋律と、それに合わせて打ち鳴らされる陽気な手拍子が、心地よいざわめきとなって夜のしじまに溶けていく。
そんな活気あふれる街の一角、冒険者たちが集うギルドに併設された屋台通りは、一日のうちで最も熱気を帯びる時間帯を迎えていた。様々な人種と職業の者たちが入り混じり、むせ返るような活気が渦巻いている。肉の焼ける香ばしい匂い、多種多様なスパイスの刺激的な香り、果実酒の甘い芳香が渾然一体となって鼻腔をくすぐり、依頼を終えて空腹を抱えた冒険者たちの胃袋を容赦なく刺激していた。
「んんんーっ! こ、これは……! うますぎる! この串焼き、美味すぎるぞぉっ!」
二十数年の人生において、間違いなく最も美味い肉を喰らっていた。異世界に来て初めて、自分自身の力で稼いだ金で手に入れた、記念すべき食事。その感動は、味覚の記憶を根底から覆すほどの衝撃だった。
大ぶりの串に、まるでサイコロステーキのように豪快に刺された肉塊。店主の親父は「ゴブリンじゃねえよ、丘トカゲの上質なロースだ」とぶっきらぼうに言っていたが、その姿はどことなく俺の知る物語のゴブリンを彷彿とさせた。その肉が、炭火の上でじっくりと炙られ、表面は絶妙な焼き加減でカリッと香ばしく、それでいて一噛みすれば、じゅわっという官能的な音と共に、灼熱の肉汁が滝のように口内へと溢れ出す。
いや、これはもはや単なる肉汁などという陳腐な言葉で表現できる代物ではない。大地を駆け巡った生命のエキスそのものであり、魂を震わせる至高のスープだ。肉自体の持つ濃厚な旨味と、野生的な弾力のある歯ごたえ。そこに、この店の命とも言うべき秘伝のタレが、完璧な調和を生み出している。
「このタレがまた、反則的なまでに最高なんですよ! 醤油ベースの甘辛い風味に、後からピリッと追いかけてくる未知の香辛料の刺激! それが肉の旨味をスポンジのように吸い上げ、無限の彼方へと引き立ててる! ああ、神よ! この味を日本に持って帰れたら、俺、絶対大儲けできますよ!」
俺が一人、目を剥いて興奮していると、隣の席で、ソフィアはくすりと優雅に微笑んだ。彼女は俺が熱弁を振るう串焼きには一切手を付けようとせず、まるで聖母が幼子を見守るかのような慈愛に満ちた眼差しで、俺の野性的なまでの食べっぷりを眺めている。その手には、どこからともなく取り出した透明な水の入ったグラス。それを、まるで最高級のワインでも嗜むかのように、優雅な仕草で静かに口に運んでいる。
雑多で騒がしい屋台通りの中にあって、彼女の存在は明らかに異質だった。汚れ一つない純白のローブ、月光を編み込んだかのような銀色の長髪、そして何より、神々が精魂込めて作り上げた芸術品としか思えない、完璧なまでの美貌。その姿は、この猥雑な空間の中で、凛と咲き誇る一輪の白百合のように、圧倒的な清らかさと神聖さを放っていた。道行く誰もが、老いも若きも男も女も、その女神のような美しさに思わず足を止め、振り返り、そして次の瞬間、俺の手に握られた油滴る串焼きを見て、「なぜ、こんな男と一緒に?」とでも言いたげな、怪訝と嫉妬の入り混じった表情を浮かべるのだ。まあ、そんな些末な視線など、この至高の肉の前では取るに足らないことだ。
「ソフィアさんも一本どうです? もちろん、俺が奢りますから! この感動を分かち合いたい!」
「ふふ、お気持ちだけいただきます。私は結構ですよ。ユウキ、貴方がそれほどまでに美味しそうに食べている姿を見ているだけで、私も不思議とお腹がいっぱいになるのですから」
そう言って微笑むソフィア。その慈愛に満ちた瞳は、本当に我が子の健やかな成長を喜ぶ母親のようだ。そのあまりの包容力に、俺は少し照れ臭くなり、ごまかすように「そ、そうですか? じゃあ遠慮なく!」と串焼きの二本目に手を伸ばした。これが、俺たちが初めて自分たちの力で手に入れた、正当な労働の対価。ゴブリン討伐の依頼で得た、わずか銅貨10枚。しかし、その価値はどんな金銀財宝にも勝る、極上の味だった。
だが、そんな幸福な時間と美味なる肉に我を忘れていた俺たちは、すぐ近くの路地の暗がりから、二つの飢えた獣のような目が、ねっとりとこちらを観察していることには、全く気づいていなかった。
(……間違いない。あの兄ちゃん、どう見たってただのド素人だ。剣の抜き方すらおぼつかないようなヒョロい奴が、なんであんな……あんな国宝級のお宝を、無造作に背負ってやがるんだ……)
汚れたフードを目深にかぶった小柄な影――シーフの少女リナは、乾いた唇を舌なめずりしながら、獲物を品定めする捕食者の目でユウキを凝視していた。昼間、ギルドの掲示板の前で、ユウキとソフィアが交わしていたやり取り。その時からずっと、彼女は二人を密かに尾行していたのだ。
リナの目には、佐藤ユウキという人間は、ただ幸運にも規格外の強力な仲間と、分不相応な魔法の剣を手に入れただけの、世間知らずで警戒心ゼロの絶好のカモにしか見えなかった。あの剣。遠目に見ても、その鞘に埋め込まれた宝珠や、柄に施された精緻な彫金から、ただの鉄の棒ではないことが分かる。尋常ではない魔力が、陽炎のように揺らめいて見えた。あんなものを手に入れれば、一生遊んで暮らせる。いや、それ以上の価値があるかもしれない。
(あの兄ちゃん、完全に隣の姉ちゃんに骨抜きだ。周囲への警戒なんざ、欠片もねえ。これは……いただきだな、こりゃ)
リナは口の端に獰猛な笑みを浮かべると、音もなく路地の闇に溶け込んだ。獲物が食事を終え、無防備に宿へ戻るであろう帰り道を予測し、先回りするために。狩りのための、最初の罠を仕掛けるために。
◇
「いやー、食った食った! 人生で一番美味いディナーでした! それじゃあ、腹ごなしに宿に戻りますか!」
「ええ、そうしましょう。明日はもう少し難易度の高い依頼も探してみなくてはなりませんしね」
串焼き三本と、よく分からない木の実のジュースで胃袋を完全に満たした俺たちは、満足感に浸りながら宿泊所への帰り道についていた。メインストリートの喧騒は心地よいBGMとなり、俺たちは人混みを避けるように、近道となる人通りの少ない裏路地へと足を踏み入れた。昼間の活気が嘘のように静まり返り、まばらなランタンの光が、湿った石畳の上に長い影を落とす、薄暗い道だ。
その路地のちょうど中間地点。建物の凹みに積まれた古い木箱の影で、リナは息を殺して獲物が来るのを待っていた。猫のようにしなやかな体は闇に溶け込み、その存在を誰にも悟らせない。彼女の目の前の地面は、一見すると何の変哲もない石畳が続いているだけだが、そこにはシーフの技術の粋を集めて作られた、巧妙な落とし穴が掘られていた。深さは三メートルほど。落ちたところで大怪我はしないが、自力で這い上がるのは困難な角度になっている。そして穴の上には、周囲の地面と全く同じ色合いの丈夫な布が張られ、その上には本物の土や小石、枯れ葉までが撒かれている。薄暗がりの中、これを見破れる者は、相当な手練れでなければ不可能だった。
(よし、来た……! 計画通り、あの姉ちゃんとの馬鹿話に夢中で、足元なんか全く見ちゃいねえ。完璧だ! まずはあの邪魔な姉ちゃんを穴に落として、兄ちゃんが慌てふためいている隙に、背中の剣をいただく!)
リナの目論見通り、俺は隣を歩く女神との会話に完全に夢中になっていた。
「それにしても、ソフィアさんの『祝福』って、本当にすごいですよね! 俺、今日まで剣なんてまともに振ったことすらなかったのに、あのゴブリンの群れに向かって振ったら、まるで森に一本の道ができちゃいましたもん! アレ、もうモーゼの奇跡ですよ!」
「ふふ、あれはユウキの中に眠っていた潜在能力が、私の祝福というほんの少しのきっかけによって、正しく開花した結果ですよ」
「え、俺にそんな剣の才能が!? 全然知らなかった!」
「ええ、きっと。ユウキは素晴らしい素質を秘めています」
(まあ、その威力の99.9%は、貴方が背負っている伝説級の聖剣の性能ですが)と心の中で冷静に付け足しつつも、ソフィアは完璧な微笑みを崩さない。信じる者に力を与えることこそ、女神の役割の一つなのだから。
他愛のない会話に花を咲かせながら、俺たちが、リナの仕掛けた運命のトラップまで、あと数歩という距離に差し掛かった、まさにその時だった。
「にゃーん」
どこからともなく、艶やかな毛並みを持つ一匹の黒猫が、愛らしい声で鳴きながら、するりと俺の足元にすり寄ってきたのだ。そのあまりにも人懐っこい仕草に、俺は思わず足を止めた。
「おっと、猫か。こんばんは。可愛いなー、お前。こんな暗い路地でどうしたんだ?」
俺は、その場に自然としゃがみ込み、警戒心のかけらも見せない黒猫の喉を、優しく指で撫でてやった。猫はそれがたまらなく気持ちいいとでも言うように、うっとりと目を細め、ゴロゴロと満足げな喉の音を響かせている。
(なっ……!? な、なんだよあの猫! どっから湧いて出やがった! なんで、よりにもよって今、このタイミングなんだよ!)
物陰で、リナが「ギリッ」と奥歯を強く噛み締めた。絶好の機会を、文字通り猫の手によって邪魔され、彼女の心に焦りが黒い染みのように広がっていく。
まさに、その時だった。
「おーい、ブラウン隊長ー! いったいどこに行ったんですかー!」
気の抜けた間延びした声と共に、カンテラを揺らしながら二人の衛兵が、俺たちが来た方向から姿を現した。どうやら、見回り中に逸れた上官を探しているらしい。
「まったく、隊長はすぐに見回りの正規ルートを外れて、裏道に入りたがるんだから……。ん? ああ、あっちの路地から物音が聞こえたような?」
「みたいですね、先輩。行ってみましょう」
衛兵の一人が、何気なく俺たちのいる薄暗い路地へと足を踏み入れた。そして、俺が黒猫を夢中で撫でている、そのすぐ真横を、何の警戒もせずに通り過ぎ――
ズボッ!
「ぎゃあああああああああっ!?」
鈍く湿った音と共に、衛兵の上半身が、まるで手品のように忽然と地面から姿を消した。残された相棒の衛兵が、一瞬、何が起こったのか全く理解できず、鳩が豆鉄砲を食ったような顔で目を白黒させている。
「た、隊長!? 隊長、どこ行ったんですか!?」
「ここだ、馬鹿者ぉぉぉ! 誰だかしらんが、こんな所に穴を掘りやがってぇぇぇ! 落ちたんだよぉぉぉ!」
穴の底から、くぐもった怒声が響き渡る。それを合図に、静かだった路地は一転して大騒ぎになった。残された衛兵が慌てて笛を吹き、近くにいた仲間たちがわらわらと集まってくる。
「うわ、なんだかすごい騒ぎですね。物騒だなぁ」
「ええ。何か事件でしょうか。私たちは、面倒に巻き込まれない方が良さそうですね」
俺とソフィアは、騒ぎの中心でしゃがみこんでいたにも関わらず、何事もなかったかのようにすっくと立ち上がり、悠々とその場を立ち去った。足元にいた黒猫は、まるで自分の役目を完全に終えたとでも言うように、一声「にゃー」と鳴いて、ふいっと闇の中へと消えていった。
後に残されたのは、穴に落ちて面目丸潰れの隊長と、パニックに陥って右往左往する部下たち、そして――。
「……ありえない……。ありえない……。なんで……なんでアイツが落ちないで、関係ない衛兵が落ちるんだよぉぉぉぉ!」
物陰で、己の完璧な計画が、猫と衛兵という二つの理不尽な偶然によって木っ端微塵に崩れ去った現実に、頭を抱えてプルプルと震える、一人の不運な盗賊少女の姿だけだった。
◇
第一次襲撃の無残な失敗から、数時間が経過した。
夜は更に深く、街の喧騒も次第に静寂へと飲み込まれていった。天には、大小二つの月が高々と昇り、その銀色の清らかな光が、濡れたように石畳を照らし出している。俺とソフィアは、宿泊所「せせらぎの宿」へと続く、最後の角を曲がった。
(今度こそ……今度こそ、絶対に逃がさない……! あんな偶然、二度も続くもんか!)
その俺たちを、頭上の建物の屋根から、リナが復讐の炎に爛々と燃える目で見下ろしていた。落とし穴という間接的な手段がダメなら、上から直接、物理的に奪うまで。それは、彼女がシーフとして最も得意とする、高所からの奇襲だった。プライドをかけた、第二次襲撃の幕開けだ。
彼女の手には、先端に三本の鋭い鉤爪がついたロープが、音もなく握られている。これを静かに下ろし、獲物であるユウキが背負う伝説の剣の、特徴的な鷲の彫刻が施された柄頭に引っ掛け、一気に屋根の上まで釣り上げる。単純明快かつ、大胆不敵な作戦だ。背負っている剣ならば、多少強引に引き上げても、本人に気づかれるまでには僅かなタイムラグがあるはず。その一瞬で勝負を決める。
リナは猫のようなしなやかさで音もなく屋根の縁まで進み出ると、細心の注意を払いながら、ゆっくりとロープを下ろし始めた。鉤爪が、俺の頭上数メートルの位置で、まるで獲物を狙う猛禽のように、ゆらり、ゆらりと静かに揺れている。
(よし……あと少し……風もない、完璧なタイミングだ……あと少しで、あの柄に……)
その、鉤爪が目標物に触れるか触れないかの、刹那だった。
俺は、ふと足を止め、吸い込まれるように空を見上げた。
「うわあ……。今日の月は、一段と綺麗ですね、ソフィアさん」
大小二つの月が、まるで寄り添い、語り合う恋人たちのように、澄み切った夜空に静かに浮かんでいる。その幻想的で、どこか郷愁を誘う光景に、俺は心の底から素直な感想を口にしたのだった。
俺のその何気ない一言に、隣を歩いていたソフィアの肩が、ほんのわずかに、しかし確かにピクリと震えた。
「…………ええ。本当に、そうですね」
彼女は、俺からふいと視線を外し、同じように月を見上げた。その完璧な造形の横顔が、銀色の月光に照らし出されて、この世のものとは思えぬほど神々しいまでに美しい。そして、その雪のように白い頬が、気のせいだろうか、ほんのりと桜色に染まっているように見えた。
(……月が、綺麗? それは、かつて私が転生させた、東の島国の住人が使っていた言葉……。その意味は、確か……)
女神として、悠久の時を孤独に生きてきたソフィア。その膨大な知識の海の中から、かつて彼女が導いた、どこかの世界の住人が使っていた、とある愛の告白の言葉が、ふわりと浮かび上がる。その意味を反芻し、彼女の、神として不変であるはずの心臓が、トクン、と小さく、しかし今まで感じたことのない温かさを持って確かに脈打った。
俺がただロマンチックな気分で月を見上げ、ソフィアが予期せぬ言葉に内心で激しく動揺し、結果として二人揃ってその場にぴたりと足を止めてしまったせいで、屋根の上のリナの計画はまたしても致命的な狂いを生じた。
目標が、動かない。そのため、振り子の原理で狙いを定めていた鉤爪が、いつまで経っても剣の柄に届かないのだ。
(な、なんで止まるんだよぉ! さっさと歩け、この朴念仁! 月なんか見てないで、前を見て歩けよ!)
リナが屋根の上で音を立てずにジタバタと焦っていると、まさにその時。
ビューーーーーッ!
どこからともなく、悪意に満ちた突風が巻き起こった。それは、まるで明確な意志を持っているかのように、リナの垂らしたロープを弄び、先端の鉤爪を木の葉のように大きく煽った。
「わっ、わわっ!? ま、待って……!」
風に流された鉤爪は、目標であった聖剣を大きく逸れ、あらぬ方向へと猛烈な勢いで飛んでいく。そして、ガッと鈍い金属音を立てて、近くの民家の二階の窓辺に設置されていた、頑丈そうな物干し竿に、がっちりと深く引っかかってしまった。
「しまっ……!?」
リナが慌ててロープを引くが、鉤爪は物干し竿の金属部分に深く食い込んでおり、びくともしない。そして、その鉤爪の先には、何かひらひらとした、巨大な布のようなものがぶら下がっていた。それは、この家の主人のものと思われる、勇ましいクマのイラストがデカデカとプリントされた、特大サイズのパンツだった。
「だ、誰だーっ! 俺の、俺の大事な勝負パンツを盗もうとする不届き者はーっ!」
窓がガラッと開き、筋骨隆々の、まるで本物の熊のような大男が怒りの形相で顔を出し、屋根の上のリナを指差して怒声を上げた。
「ど、泥棒ーっ! しかも、女物の下着ならまだしも、おっさんのパンツを専門に狙うとは、とんでもねえ性癖の奴だーっ!」
「ち、違う! これは事故で……!」
リナの悲痛な言い訳も虚しく、大男は「待てゴルァー!」と雄叫びを上げながら、ドタドタと家から飛び出してくる気配がする。完全に、屈強な男のパンツをコレクションする、特殊な嗜好を持つ変態泥棒と勘違いされてしまった。
「ああもう、なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないのよぉぉぉぉ!」
リナは半泣きになりながら、懐のナイフでロープを無理やり引きちぎった。結局、手元には何の成果も残らず、それどころか変態パンツ泥棒という最悪の濡れ衣を着せられたまま、彼女は屋根から屋根へと必死に飛び移り、夜の闇の彼方へと逃走していくしかなかった。
「……また、一段と騒がしくなりましたね」
「本当ですね。この街は、夜も退屈しない、賑やかなところだ」
俺とソフィアは、またしてもその騒動の元凶が自分たちの『祝福』と『無自覚な愛の告白』にあるとは露知らず、のんびりとした感想を交わしながら、三度目の正直で今度こそ宿泊所へと帰っていったのだった。
◇
翌朝。二つの太陽の光が降り注ぎ、アルカディアの街の中央広場は、朝市に集まった人々で活気に満ち溢れていた。
色とりどりの新鮮な野菜や果物を山と積んだ露店、香ばしい匂いを四方八方に漂わせるパン屋のワゴン、見るからに怪しげな効能を謳う薬を売る行商人。売り子の威勢のいい声、客の値段交渉の声、子供たちのはしゃぎ声が混じり合い、街全体が生きていると実感させる、エネルギッシュなざわめきを生み出している。
度重なる不可解な失敗で、もはや後がなくなったリナは、最後の、そして最も原始的な手段に打って出ることを決意していた。
(こうなったら、もう直接行くしかない! あの姉ちゃんがいない、ほんの一瞬の隙を狙って、あいつ自身にぶつかる! そして懐に潜り込んで、一瞬で奪い取る!)
彼女は、広場の隅にある建物の影から、噴水の前でソフィアと楽しげに話している俺の姿を、飢えた狼のような鋭い目つきで観察していた。もう作戦に小細工はない。正面からの、電光石火のスリだ。
「――というわけで、ソフィアさん。今日の依頼は、この『迷子のペット猫探し』にしようと思うんです! 昨日、路地で会った黒猫が忘れられなくて。報酬は少ないですけど、平和でいいじゃないですか!」
「まあ、ユウキらしい、優しい依頼ですね。承知しました。では、私がギルドに受理の手続きをしてきますので、ここで待っていてください」
ソフィアが依頼書を手に、ギルドの建物へと向かうため、その場を離れた。千載一遇のチャンス。
(よし、今だ!)
リナは、ここぞとばかりに物陰から飛び出した。狙いはただ一点、無防備に噴水を眺めている俺、佐藤ユウキ!
可憐でか弱い少女を装い、わざとらしく「きゃっ!」と可愛らしい悲鳴を上げながら俺の体にぶつかる。そして、その衝撃で盛大に転んだフリをして同情を誘い、お人好しの獲物が心配して手を差し伸べ、屈み込んできたところを、懐に隠したスリ専用の鋭いナイフで、剣を体に固定している革ベルトを一瞬で切断する。完璧な筋書きだ。
リナが、獲物に向かって疾走するチーターのような驚異的なスピードで、俺に向かって走り出した、まさにその時だった。
ガラガラガッシャーン!!
突如として、市場の一角で、みずみずしいリンゴを山積みにした荷車が、けたたましい音を立てて暴走を始めたのだ。緩やかな坂の上に停められていたその荷車の車輪を固定していた楔石が、まるで示し合わせたかのように、あまりにも都合よく、ポロリと外れたのである。坂道を転がり落ちる荷車は、その重さも相まって、みるみるうちに恐ろしい速度まで加速し、その一直線の進路上には――リナ、本人がいた。
「えっ、ちょっ、うそでしょ!?」
あまりのタイミングの悪さ、あまりの悪意に満ちた偶然に、リナは声にならない悲鳴を上げる。
その、リナの華奢な体が、暴走する木と鉄の塊に撥ね飛ばされる寸前。
「危ないっ!」
俺は、考えるより先に体が動いていた。振り返り、驚愕に目を見開くリナの細い腕を掴んで、力強くぐいっと引き寄せ、自分の背後にかばう。そして、猛スピードで迫り来る荷車を、真正面から両の手のひらで、どっしりと受け止めた。
ゴッ! という、骨と肉が砕けるような鈍い衝撃音が広場に響き渡った。
しかし、暴走していた荷車は、まるで分厚い城壁にでも激突したかのように、その場でピタリと動きを停止した。俺の体は一ミリたりとも揺るがない。ソフィアから常に与えられている『祝福』が、俺の筋力を、危機的状況において一時的に超人レベルまで引き上げていたのだ。
「(な、なんか……この人……カッコイイ、かも……)」
俺の広い背中に守られる形になったリナは、その想像を絶するほど頼もしい背中と、暴走する荷車をこともなげに止めてみせた規格外のパワーに、不覚にも、思わず胸をときめかせ、顔を赤らめてしまった。
「(い、いやいやいや! 違う! 私はこいつのお宝を狙ってるんであって! こんなのにドキドキしてる場合じゃない!)」
リナはぶんぶんと激しく頭を振って、心に芽生えた不埒な邪念を必死に打ち消した。
荷台からこぼれ落ちた真っ赤なリンゴが、コロコロと広場の石畳の上を無数に転がっていく。荷車の持ち主である果物屋の主人が、顔面蒼白で駆け寄ってくるのが見えた。俺は、まず背後の少女の無事を確認するために、リナに向き直り、緊張を解いて優しく微笑んだ。
「大丈夫だったかい? 怪我はない?」
その、太陽のように明るく、一点の曇りもない純粋で優しい笑顔を間近で見てしまい、リナの心臓が、またしても防御不能なほどに、ドキリと大きく跳ねた。罪悪感という名の鋭い針が、チクリと彼女の胸を刺す。
(……くっ、でも、ここで引くわけにはいかないんだ! 生きるためには……やるしかないんだ!)
リナは、最後の覚悟を決めた。俺が、駆け寄ってきた果物屋の主人に「いえいえ、お気になさらず! 俺も頑丈なだけが取り柄なんで!」と人の好い笑みを浮かべて謝っている、その隙に。懐から静かにスリ用のナイフを取り出し、俺の背中にある、聖剣を固定している革ベルトに、その冷たい刃を当てようとした。
「あ、そうだ!」
俺が、何かを唐突に思い出したかのように、くるりと勢いよく振り返った。
「え?」
その、あまりにも予期せぬ素早い動きに、リナの指先から、握りしめていたナイフがすっぽ抜けた。銀色の刃が、朝の光をキラキラと反射させながら、宙を高く舞う。スローモーションのように、ナイフはくるくると美しく回転しながら、物理法則に従って落下していき――
プスッ。
「…………へ?」
舞い落ちたナイフの鋭い切っ先は、一ミリの狂いもなく、リナが被っているボロボロのフードの先端を、真下にある石畳の僅かな隙間に、深く、完璧に突き刺して縫い付けてしまった。
リナは、首を傾げようとしても、頭を動かそうとしても、フードが地面にがっちりと固定されてしまっているため、全く身動きが取れなくなっていた。まるで、地面からフードが生えているかのような、シュールな光景だ。
「あれ? どうかしたの? そんなところで固まっちゃって。もしかして、やっぱりどこか痛む?」
不思議そうに首を傾げる俺。その無垢な瞳が、リナには何よりも辛かった。
「……」
自分の信じられないほどのドジと、相手のありえないほどの幸運が、三度にもわたって重なった、あまりにも情けなく、あまりにも滑稽な結末に、リナの心の中で張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。もう、だめだ。勝てない。この人には、どんな手を使っても勝てない。
「……私が、悪かったです……」
蚊の鳴くような、か細い声で、彼女はついに白状した。
◇
「へー、そっかー。俺のこの剣を、ずっと盗もうとしてたんだ」
広場の中心にある噴水の縁に腰掛け、俺は隣に座るリナの話を、相槌を打ちながら聞いていた。
観念した彼女は、昨夜からの奇怪な事件――落とし穴、パンツ泥棒騒ぎ――が、すべて自分の仕業であったことを、洗いざらい正直に白状した。俺はそれを聞いても別に怒る気にはなれず、むしろその計画性のなさと、神に見放されたとしか思えないあまりの運の悪さに、少しばかり同情すら覚えていた。
「だって、しょうがないだろ! あんな、一目で国宝級だって分かるすげえお宝、あんたみたいな見るからに素人のぽっと出が持ってたら、そりゃあ狙われるに決まってんだろ!」
開き直ったように、リナが顔を上げて叫ぶ。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「まあ、そうかもなあ。自分でも分不相応だとは思うよ」
「そうなんだよ! こっちは、生きるために必死なんだ! 私は孤児で、親も金もなくて、盗みをしなきゃ、明日食べるパンの一枚だって買えないんだから!」
涙目で必死に訴えるリナの腹が、その時、ぐぅぅぅぅぅぅ……と、広場のざわめきの中でもはっきりと聞こえるほど盛大な音を立てた。
気まずい沈黙が、俺たちの間に流れる。リナの顔が、先ほどの荷車のリンゴのように、一気に真っ赤に染まった。
俺は、その様子にふっと笑みをこぼすと、懐からくしゃくしゃの紙袋を取り出した。昨日、なけなしの銅貨で買ったはいいが、串焼きで腹一杯になって食べきれなかった、少し硬くなったパンだ。
「ほらよ。腹、減ってるんだろ?」
「……え?」
「いいから、食えよ。俺、もう腹一杯だし」
無造作に差し出されたパンを、リナはただ呆然と見つめている。怒鳴られるでもなく、衛兵に突き出されるでもなく、ただ、温かいパンを与えられた。そのことが、ずっと一人で生きてきた彼女には、信じられなかった。
おずおずと、震える手でパンを受け取り、小さな口で、ゆっくりとかじりつく。パサパサで、味も素っ気もない、安い黒パンのはずなのに。なぜか、ぼろぼろと涙が滲み出てきて、しょっぱい味がした。
「……うっ……ひっく……ぐすっ……」
「お、おい、なんだよ、泣くなよ。もしかして、パンが不味かったか?」
「ちが……う……ばか……あんた、ばかだよ……」
リナは、しゃくりあげながら、それでも必死にパンを喉の奥へと押し込んだ。それは、今まで食べたどんなご馳走よりも、温かくて、美味しい味がした。
その時、ギルドでの手続きを終えたソフィアが、俺たちの元へと静かにやってきた。
「ユウキ、依頼の受理は済みま……あら?」
彼女は、俺の隣で泣きじゃくりながらパンを食べている、見すぼらしい身なりの少女を一瞥し、そして俺の優しい眼差しを見て、状況を瞬時に、そして正確に理解したようだった。
「じゃあ、リナ! そういうことなら、お前も俺たちと一緒に来いよ!」
俺は、世界を変えるような名案を思いついたとばかりに、ぽんとリナの肩を叩いた。
「仲間になれば、みんなで依頼をこなして稼げるだろ? そうすりゃ、もう危ない盗みなんてしなくていい! 飯も腹一杯食えるぞ!」
「え……な、仲間……? 私が……?」
「おう! 俺と、ソフィアさんと、そしてリナ! 今日から三人パーティだ! どうだ、いい考えだろ?」
俺は、ニカッと歯を見せて笑った。何の裏も計算もない、どこまでもまっすぐな、太陽のような笑顔。
その、あまりにも眩しい笑顔に、リナの心の中の、長い間固く凍てついていた何かが、ポロポロと音を立てて溶けていくのを感じた。
「……うん……」
小さく頷いたリナの瞳から、また大粒の涙が堰を切ったようにこぼれ落ちた。そして彼女は、子供のように俺の腕に、ぎゅっと強くしがみついてきた。
「ユウキィ……! ユウキィ……!」
「よしよし。泣くな泣くな。これからは、俺がしっかり守ってやるからな!」
そんな、心温まる感動的な光景。
それを、少し離れた場所から、ソフィアは、完璧なまでの美しい微笑みを浮かべて、ただ、じっと見ていた。
だが、その微笑みは、いつも浮かべている慈愛に満ちたものとは、何かが決定的に違っていた。
口角は、寸分の狂いもなく完璧なカーブを描いている。しかし、その深く澄んだサファイアのような青い瞳の奥に、ほんのわずかだが、温度というものが感じられない、まるで絶対零度の氷のような光が宿っていた。
ユウキと、その腕にまとわりつく小汚い少女に向ける笑顔が、いつもより、コンマ数ミリほど、引きつっているように見えたのは、決して気のせいではなかった。
広場を吹き抜ける爽やかな風が、なぜか彼女の周りだけ、ひやりと肌寒く感じられた。
「……新しい仲間が、増えたのですね。それは、本当に……本当に、よかったですね、ユウキ」
ソフィアが紡いだ祝福の言葉。
しかし、その声は、いつもの慈愛に満ちあふれた天上の響きとは、ほんの少しだけ違う、どこまでも平坦で、一切の感情が乗らない、美しいだけの音色をしていた。
女神の、清らかで穢れを知らない心に芽生えた、初めての黒い染み。
それは、彼女本人すらいまだ自覚していない、ちっぽけで、しかし確かな『嫉妬』という名の、極めて人間らしい感情の種だったのである。