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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
18/30

(18)崩れる律と寮 目覚める式と黙

「ねえ、どうかした?」

 ナナモは生理学の実習が始まろうとした時、もう見てられないという顔でキガミに話しかけられた。

「別に」

 ナナモは特にいつもと変わりがないと思っているので、そう答えた。

「なんかロボットみたい。それに、こんなこと女子から言いたくないんだけど、お尻、痛いの?」

 キガミ達はナナモの事をまだナナさんと呼んでいたが、年上のハーフであるナナモに以前は少し遠慮していたのか、それともナナモの性格がそうさせたのか、言葉づかいが丁寧だったが、第一、第二解剖学の実習が終わり、生化学や生理学の講義と実習が始まる頃には、ずいぶん打ち解けてきて話し言葉に遠慮が少しずつ消えていた。

 ナナモは、丁寧さがこそばゆかったのでそうされることの方が良かったのだが、キガミだけは、ボート競技の練習でキガミ妹らに言い含まれてから、なんとなく距離を置こうとしていた。別にキガミから何か言われたとか、言われなくても何か態度で示されたということなど一度もなかったのに、別に知られても良いのだが、キガミは本当はボート競技のことを知っていて、ナナモと同じようにキガミ妹に口止めされているのではないかと、キガミの何気ない声掛けに、ナナモは、ドキッと、身体が痙攣するような反射を起こしていた。

 真意はともかく、実は、キガミの言う通り、ナナモは乗馬とボート競技のため、お尻がかなり痛かった。異世界と現実との出来事なのに、ナナモの体はひとつであると改めて思い知らされた。

 乗馬では最近障害物走の練習に入ったので、以前より体の上下動が激しくなったからだ。一方、ボート競技はオールを漕ぐためには腕の力だけでいいんだと思っていたのに、足の脚力でオールを漕がなくてはならないことが最も重要だと教えられたからだ。特にボート競技の方は、ボートに備えられている可動式の特殊な椅子を蹴り上げながら前後に動かさなければならなくて、付け焼刃の猛練習だったことも相まって、お尻への負担が予想以上に大きかったのかもしれない。それでも、そんなことはキガミには当然言えなかったので、素知らぬ顔をするしかなかった。ただ、タカヤマに、そのへっぴり腰はなんや、と言われた時には閉口した。なぜなら背筋をピーンと伸ばして竹刀を構えなくてはならないのに、腕と大腿はパンパンで、その上腰とお尻は痛い。だから、きっと、実際には極端にそういう姿勢をとっているわけでないのだろうが、タカヤマから見ると、まるで初めて剣道の竹刀を持った時のように、完全に猫背で、おそらく手足もプルプルと震えているように見えたに違いない。だから、この頃は道場へも足が遠のいてしまっている。

「最近、一輪車の練習に参加してくれないね」

 そんなナナモが、大学での実習や道場を素通りして帰宅せざるを得ない気遣いから解放されてほっと一息つきながら遅い夕食を寮の食堂で一人摂っていると、小岩がナナモの横にいつの間にかぴったりとくっついていた。

 ナナモはある程度馬に乗りこなせるようになってきたし、ボート競技の事もあって、これ以上、お尻に負担をかけたくなかったので、このところ講義と実習が立て込んでいて忙しいし、それに同居人が僕の部屋にはいますからと、出来るだけ小岩と目を合わせないように、出来るだけかまないようにサラッと答えた。

「俺なんかずいぶん手こずったというか、留年かもと結構冷汗ものだったのに、第二解剖学の筆記試験は一発で合格したって聞いているよ。それに、同居人が居ることと一輪車の練習とは関係ないだろう。それとも、その同居人と何か企んでいるのかい?」

 ナナモは小岩と今はあまり話したくなかったので、出来るだけ早く食事を終わらせようと口いっぱいに詰め込んだ。第二解剖学の試験のことはタカヤマから聞いたのだろうが、ボート競技のことは秘密だと言われていたからナナモは黙っていた。でも、小岩はもしかして知っているのかと、ごくんと一気に飲み込もうとして、もう少しでのどにつっかえるところだった。

「お茶でも飲んだら、ナナモ君」

 ナナモは言われなくてもと、もうすでに湯呑を口に付けていたが、ナナモ君と言われたことと、小岩は何を知っていて何を話したいのだろうかと、あらゆることを想像しているうちに思わずむせてしまった。

「何ですか?」

 ひとしきり咳き込んだ後、目じりに溜まった涙を拭きとると、少しタイムラグが出来たことで、ナナモはもはや開き直るしかないと、上級者と闘う剣士の心境になって、小岩の顔を直視した。

「実は調べてほしいことがあるんだ」

 小岩は誰もいないのに先ほどよりもいやらしく身体を寄せて来る。

「なんですか?」

 ナナモが少し煩わしそうに声を高くしたので、小岩は慌てて周りをキョロキョロと見渡した後。眼光を鋭くさせて、先輩としての威圧でナナモを抑え込んできた。

 それハラスメントですよと、ナナモが言えればよかったのだが、そうできるわけもなく、ナナモはひそひそ声で、小岩からの命令に耳を傾けるしかなかった。

「同居人の事なんだけど」

 オオエ先生のことなら何も知りませんよと、ナナモは即答しようとした。なぜなら、あのボート競技のための練習の初日でお互いの挨拶は終わったからだ。もちろん、職場なり学校なりで起こった些細な事や、日常のニュースなどを話題として話すことはあったが、お互いの過去の事については全く訊かれなかったし訊けなかった。

 ナナモが知りたいことを訊けばナナモの知られたくないことは訊かれる。

 ナナモはロンドンで過ごしたことは話せるが、いじめられていて、自ら命をたとうとしていたことや電子工学部に在籍していたことなどは言えなかったし、両親や自分の過去については何らかの創作をしなければならなかった。そう考えると、ナナモの好奇心を封印しても、ボート競技だけの人間関係に集約されることを選ばざるを得なかったのだ。

 小岩はナナモの眉間に皺を寄せた答えを予期していたのか、ナナモに気を使ってわざと話題を変えたのではなく何気なくという雰囲気で、「なぜオオエ先生はトモナミの部屋に入らなくなったのか知ってる?」と、訊いてきた。

 ナナモはそのことをオオエから聞いた。確か、急に大学の事務長から連絡があったと、オオエは言っていた。

「実は、オオエ先生に伝えたのは、大学の事務長じゃないんだ」

「えっ、本当ですか?」

 小岩から、ああと、それ以上答えてくれないのかと思ったが、先ほどより小さな声で、アライという名前が鼓膜をゆっくり振動させた。

 誰ですか?と、ナナモは言おうとしてすぐに、言葉を飲み込んだ。なぜならアライはトモナミの部屋にいる同居人で、ナナモはトモナミに頼まれて、他の同居人であるナンジョウとフルタを加えた四人に英語のリスニングのアドバイスというかちょっとした家庭教師をしてあげたことがあったからだ。

「やっぱり、ナナモは何も知らないんだな」

 小岩はナナモの何かを知りたがっていたのかもしれないが、ナナモの反応を見てひとまずほっとしている様だった。

「アライ君がどうかしたんですか?」

 ナナモは気になって小岩の胸ぐらをつかみそうなぐらいの勢いて尋ねた。それでも小岩は表情一つ変えずに小声のままだった。

「アライはバレー部だろ。ということはどういうことか分かるかい?」

 ナナモは首を横に振るしかなかった。

「本来なら、アライが四月にあの部屋に入るはずだったんだよ。それなのに、トモナミが先に入ってしまったんだ」

「そんなことってあるんですか?」

「今まではなかったよ。でも、ナナモも知っていると思うんだけど、僕らはどうして寮に入らなければならないか知らなかっただろう」

 ナナモはそれどころか入寮の案内を見た事もなかったし、いまだに寮の規則も十分理解していない。

「だから、アライも入学してしばらくは入寮するなんて知らなかったんだ」

 小岩はナナモの気持ちなど全く気にしていないかのように一方的に話し続けている。

「でも、トモナミとアライは高校は別々なんだけど塾が一緒で面識があったから、二人とも現役で大学に入学した時は、やあ、という一言でもう友達になっていたそうなんだ」

「だから、寮に入れたのですか?」

「いや、アライのご両親は、トモナミが勤めている会社とはまるっきり関係がないんだよ。だから、本来なら、入寮することはなかったんだけど」

「じゃあ、どうして?」

「アライはバレー部だってさっき言ったよね。ナナモと違って経験者だから一回生なのにもうレギュラーでエース格だったんだ」

 どうして小岩はいつも余計なことをはさむのかとナナモは思ったが、それでも小岩の先の話の方が今日は魅力がありそうだ。

「僕らと同じようにバレー部の医学部大会があったんだけど、志村さんが今勤める病院の近くでの開催だったから応援に行ったんだ。残念ながら彼らも優勝できなかったんだけど、志村さんが慰労会を開催してあげて、その時にアライに、寮生だってねと言ったらしいんだ。でも、当然、アライはそうではなかったので、いいえと答えたんだ。そしたら、志村さんは不思議がって、音楽部に入った?と、訊いてきたので、また、いいえと答えたら、とにかく大学に戻ったらすぐに音楽部に行ってみて、そうしたらわかるからと、言われて、志村さんの言う通りに音楽部に行ったら、何があったのかはわからないんだけど、急に、ここにやってきて、ヌノさんに、僕はどうしたら入寮できますかって尋ねたそうなんだ」

「ヌノさんはなんと言ったんですか?」

「入寮するには、入寮に関する書類を手にしたものだけしか入寮できませんと答えたそうなんだ」

 確かにそうかもしれない。

「じゃあ、ダメですよね」

「それがね、アライは入寮の書類を持っていたんだ」

 えっ、と、思わずナナモは叫んでいた。そして、当然ながら、どうして手に入れたんですか?もしかして、音楽部が関係していたんですか?と、ナナモは間髪入れずに尋ねたのに、小岩は全く聞いていないかのように、話を進めていく。

「ヌノさんは驚いて、慌てて、スマホで誰かに電話を掛けたそうなんだけど、その後で、満室ですって答えて帰らせたらしいんだ」

「アライ君はすんなり引き下がったんですか?」

 そんなわけないだろう。もしそうなら今アライはこの寮にはいなんだからという顔を小岩はしている。

「だから、さっきの話に戻るんだけど、アライは友達のトモナミに頼んでみたらしいんだよ。そうしたら、良いよって、僕の部屋なら今空いているから何とかなると思うからって。トモナミ、当然許可が下りるだろうと、自信満々で事務長に頼んでみたらしいんだ。そうしたら、はじめは反対されたというか、怒られたそうで、だから、アライにはやっぱり駄目らしいってすまなそうに答えたそうんだけど、しばらくしてから、急に事務長からトモナミのところに連絡が来て、許可が下りたらしいんだ。でも、本来なら、そういう寮の運営なんかは僕たちにも相談があってしかるべきだろう。でも全くなかったんだぜ。トモナミもトモナミだけど、事務長も事務長だし。ヌノさんもおとぼけだったからね」

 小岩は別にナナモが悪いわけではないのだが、他に誰も居ないのでナナモを睨んだ。

「で、晴れて入寮になったんだけど、その代わり、条件としてもう二人入寮させることになったんだ」

「それがナンジョウ君とフルタ君ですか?」

「そうだよ。本当は、トモナミとアライ、そして、ナナモとオオエ先生という構図にしたかったんだ。実際そう動いたんだけどね。色々とね」

 誰がそういう構図にしたいとたくらんだのだろう。それに誰が何のために動いたんだろう。それに、何が色々だったんだろう。ナナモは小岩がそのうちの一つでも今から話してくれるだろうと思ったのだが、小岩はしばらく何も言わず今度は悔しそうに下唇を嚙んでいた。

「じゃあ、ナンジョウ君とフルタ君はどうして入寮することになったんですか?」

 ナナモは他にもまだ訊きたいことがあったが、話しの流れで尋ねた。

「そのことについてはまだナナモには言えない。ただね、フルタはよくわからないんだけどナンジョウのお父さんは、今単身赴任しているそうだ」

「もしかしたら、小岩さんが以前話してくれたある企業にですか? 」

 ああとも、さあとも小岩は言わなかった。それどころかまたナナモの質問を無視して一方的に話して来る。

「トモナミは地元の出身だけども、お父さんはこの寮を所有していた企業の関連会社に勤めている。オオエ先生はその企業から研究費を支給されている。

トモナミとオオエ先生との間に何かつながりがあるとは思わないかい?」

 僕が知るわけないじゃないですかと、言えばよかったのだが、実際は言えなかった。なぜなら、ナナモはそう思わなかったし、オオエが小岩が考えているような策士だとは思えなかったからだ。でも、そう小岩に言えば、ナナモはいつまでたっても甘ちゃんだなと、一蹴されるかもしれない。それでもやはり怪しいですねとナナモは小岩に合わせてうなずくことはできなかった。

 ナナモはオオエとはオオトシの時のように色々と深い話はまだしていない。それに今の所できる雰囲気でもない。それでもボートの練習のために隣町へ行くときはいつもオオエの車の中で一緒だ。お互い過去についてのプライベートの話はしなかったが、それでもオオエが何かを企んでいたり、寮の規則を変えようとしていたりしているとは到底思えなかったし、そういう話題も全く出なかった。ただ、一度だけ、オオエが東北の大学の医学部の解剖学の教室で研究させてもらっていた時にクニツというナナモと同じ苗字の外科の先生がいて、その先生に言われたことが、僕が農学部ではなくて医学部で、それも解剖学の教室でこれから働こうと思ったきっかけになったとオオトシと同じように話してくれたことがあった。

 ナナモはトモナミとの関係はさておき、小岩に話すと、意外に小岩は、それで?と、食いついてきた。

「医者だけなんだ。合法的に生きているヒトを傷つけて良いのは。でもね、本当は法律の問題じゃなくて、そのヒトが幸せになると思うから許されるんだ。だからもしそうじゃなければ、必ず罰せられるんだ。当たり前だけれどもね。だから医者は、特に外科医は人体の解剖を熟知していなければならない。でもね、医学部であれだけ一生懸命勉強したはずなのに、人って悲しいけど忘れてしまうんだよ。それとね、覚えているって勘違いしてしまうんだ。でもね、勘違いしたまま手術したら怖いだろう。だからね、もう一度解剖の教科書を見直さないといけないんだけど、それでも教科書は所詮教科書だろう。だから、ご遺体でもう一度勉強しなおせられることがどれだけ僕に勇気を与えてくれるかって。だから、こうやって解剖学の教室に来て、そういう機会を与えてくれた教授や教室員やご遺体に僕は感謝しかないんだ」

 ナナモはオオエがクニツという医師から聞いた話をまるでクニツという苗字が一緒だけなのに自分の分身のように小岩に話した。

「合法的に生きているヒトを傷つけて良いのは医者だけだって、それに悲しいけど忘れてしまうし、覚えているって勘違いしてしまうって、そう言ったんだね」

 ナナモはオオエではなくクニツという僕と同じ苗字の先生ですよと、慌てて付け加えたが、小岩は何かを考えているのか、しばらく黙っていた。

「わかったよ。でも、僕はもう少しオオエ先生のことが知りたいな。だから、身を切ってもいいからオオエ先生からもっと色々なことを聞きだしてくれないかな。ほんの些細なことでもいいんだよ」

 だから、何故ですかと、ナナモは先輩であるのに、やっと声に出してその理由を求めた。

「だって……」

 小岩はそう言うと、でも、これ以上言うとねと、いつもの含み笑いだけ残して、ナナモの傍から離れて行った。

 ナナモはまた小岩から混乱させられただけで何も理由を聞かされなかったが、まあ、別に、普段通りにしていればいいんだし、普段通り会話すればいいんだと、小岩がああいう態度ならと、あえてこちらから協力する義理もないと、小岩のおかげでずいぶん冷たくなった残りの食事を掻き込んだ。

 ごちそうさまと、手を合わせた時に、急に小岩の身を切ってまでという言葉が気になった。小岩はナナモの何かを知っているのだろうか?そう言えば、同居人達が入寮したあと、しばらくしてから、小岩がこの寮のWiFiもセキュリティーが甘くなったからねと、呟いていたのを思い出した。ナナモはカタリベから、神木のタブレットを寮では使わないよう言われていたが、もしかしたら、小岩は知っているかもしれないが、大学の事務長やあの企業が何か操作し始めているのではないかと、もはや、寮では個人情報が丸裸にされつつあるのではないかと、寒気がした。

 ナナモは自分の部屋に戻ろうと、ドアノブに手を掛けた。いつもなら何も考えずにドアノブを回して中に入るのに、まるで、静電気が走ったかのように、ナナモはびくっと、思わずドアノブを離しそうになった。それでも、中に入らなければまた小岩に言い寄られる。だから、ナナモは目をつぶってドアノブを思い切って回した。

 目をつぶりながら中に入ったが、目を開けてもオオエはいなかった。それでも、ナナモは先ほどの事もあって部屋中のぐるぐると眺めながら、もしかして、隠しカメラが備え付けられているのではないかと、目を凝らした。当然、それらしきものはなかったし、それらしきものがあればもはや見つけているし、それらしきものがなければ、あっても見つけられないしと、大きな溜息とともに椅子に腰かけた。

ナナモは一人ぽつんと座りながら、やはり、小岩からの依頼が気になった。

 ナナモがオオエと色々な話をするためには、小岩の言う通り、ナナモも色々な話しをしなければならない。でも、いじめに遭ったことは話せるが、自ら死を選ぼうとしたことは話せない。二十歳で大学に入学したことは話せるが、電子工学部に在籍していたことはまだ話せない。父が日本人で母がイギリス人であることは話せるが、両親との思い出は全く話せない。そして何よりもロンドンへ行く前のナナモ自身の記憶と記録は誰に訊いても知らないし、持ってもいない。

 身を切るって言ってもどうしたらいいんだろう?僕は僕を蘇らせることなんて出来ないから……。

 ナナモは部屋で一人だけだということを確認し、それから扉を開けて、ヌノさんが聞き耳を立てていないかを確信して、それでもまさかともう一度扉を開けて小岩が居ないことを確認してから、おもむろに自分のパソコンを開けてリモートしようとしたが、やはりここではと、夜遅くに大学まで行ってからパソコンを開こうとしたが、結局、翌日図書館へ行ってイチロウに手紙を書いた。

 イチロウからの返事がナナモの手元に戻るまで、もしかして誰かに盗み読まれるのではないかとドキドキしていたが、一週間ほどしてから、イチロウからリモートがあった。

 手紙に書いたし、ここじゃますいんだよなと、オオエは部屋にはいなかったが、ナナモが答えると、イチロウの顔はイチロウの顔なのだが、ちょっと雰囲気は異なるように思えたし、話せないはずの英語でイチロウが今大学で研究している課題について珍しく一方的に話してきた。

「ナナモ、AIの僕はどんな印象だい?」

 それほど長い時間ではなかったが、しばしのタイムラグの後に、急に画面が代わって、リモートとはいえ、違和感がないイチロウの顔と聞き慣れたイチロウの声が聞こえて来た。

「僕が何となくイチロウと顔を合わせていたわけじゃないよ。だから、まだまだAIのイチロウは不完全だね」

「そうか?まだ詰めがあまいか?でも、僕が話していた英語はどうだった?」

「そうだね、イチロウには悪かったんだけど、イチロウより優しく解説してくれたんで内容はわかりやすかったし、特段変な英語でもなかったよ。ただね、もしAIイチロウが僕のことを親友だと思ってるなら、もう少し感情がこもった英語で話してくれたら嬉しいし、もし僕の切羽つまった悩み事の相談だと気がついてくれたら、もう少し前向きな英語で励ましてほしいなあと思っただけさ」

 ナナモは、日本語だけどイチロウはいつもそうしてくれているという含みを添えて答えた。

「僕だとしてもAIとはナナモは初対面だから仕方がないよ」

 イチロウが笑いながら、いつものように冗談とは言えない冗談を少しまぜてナナモの気持ちを汲み取ってくれた。

「ところで、僕が依頼したことは出来上がったのかい?」

「ああ。でも、俺が創ったんじゃないんだ」

「どういうこと?」

「だって、俺はナナモの過去を知らないし、最近の事だって全て知っているわけじゃないからね。それに、知っている事でも俺の感情や希望が入るから。だから、もし、俺がナナモの知らないナナモを創ったら、ナナモは自分でもびっくりするくらいいい人になってしまうだろうね」

 イチロウもナナモも同時に笑った。

「だから、今回はAIに創らせたんだ。だって、ロンドンに行く前に日本にいた時の記憶って、ナナモは憶えていなんだろう。御婆さんに聞いても知らないって、教えてくれないんだろう。それに、折角ロンドンに行って叔父さんや叔母さんにあの時俺は会ったのに、なんでか知らないけどそういう話題にならなかったからね」

 あれはアヤベが邪魔したのだ。

「だったら、AIでも無理だったんじゃないのかい」

 ナナモは今イチロウとだけ話している。

「ナナモに、俺、前言ったよね。俺は記憶じゃなくてナナモの記録を探そうとしたんだけど、なぜかブロックされたって。でも、これも前に話したと思うだけど、AIなら、人が考えつかないような方法を考えられるって。だから、AIに掛けてみたんだ。ただね、それだけだとさすがにね。だから、俺が知っているナナモとの記憶を記録として入力したんだよ。でも、ナナモは俺には話したくないことも必ずもっているからすべてではないんだけどね」

 ナナモは、そんなことは……と言いかけたが、イチロウは、でも仕方がないよ、僕もそうだからと、最後まで言わせなかった。

「それで……」

「AIから、ナナモの何かを完成させたって、俺に連絡があったんだ。でも、心配しないでくれ、俺はAIが創ったナナモのプロフィールをのぞき込むようなことはしてないから。だから、どのような内容か全く知らないんだ。でも、ナナモにはこれだけは言っておくよ。AIが創ったナナモが全て正しいとは思わないでほしいんだ。それに、そのナナモがいくら話しかけてきても、それはナナモじゃないんだ。いいかい、ナナモは残念だけど蘇ったりしないんだよ。あくまでも、僕がナナモにこれまで何度か創り上げたVRの世界と同じなんだ。それだけはわかってほしいし、AIじゃなくて俺を信じてほしい」

 ナナモが始めて見るイチロウの目力だった。きっと、リモートだけど対面でナナモに直接伝えたかったに違いない。そして、何よりも、イチロウは、誰からも二人の会話に入り込めないように圧倒的なセキュリティーをこの時間だけかけているに違いない。

「データも送ろうと思ったんだけど、なんかね。だから、出来上がったデータをUSBに入れてそのまま、郵便で送ろうと思ったんだ。でも、こういう機会だし、今後の事もあるから、杵築旅行に行かないって、俺の友達に頼んで手渡しでナナモに届けてもらうことにしたんだ。むろん、USBはナナモ以外にはあけられないパスワードがあるから大丈夫なはずさ」

「パスワード?」

「アナログ的だけど、ちょっとスパイ映画みたいだろ。今日から一週間以内だけど、もちろん、いつどこで誰に渡されるかは秘密だし、渡された誰かの事を詮索してはいけないよ。それに、なんか寮やWiFiが怖いって言っていたから、そういう機能が盛り込まれたそして簡単に他からアクセスできないタブレットも一緒にプレゼントするよ。でも心配しないでくれよ。それほど高価じゃないし、ちょっと教授の研究を手伝った時に教授からもらったものを少し改良したものだから」

 少し?と、ナナモは気になったが、神木のタブレットのほかにもう一台タブレットを持たなければならないのかと思うと、WiFiも役に立つのか立たないのか分からくなったし、個室なのにプライバーシーがなくなりつつあるのかと思うと恐くなったし、早く以前のような寮のみんながのほほんと過ごせるような状態に戻らないだろうかと、ナナモだけが知らない寮の規則を是が非でもきちんと実行してほしいとナナモは願った。

「ところでパスワードって?」

「僕とナナモとの思い出さ」

 アヤベが言っていたが、ナナモがイチロウに話したことのある部分はイチロウの記憶から削りとられている。だから、なんだろうと不安がよぎったが、ああ、それならと、ナナモは大きく頷いた。

「ところでナナモ、あの楽器ちゃんと使っているだろうね」

 ナナモは、まあと、きっと使っていなんだなとイチロウに思わせながらも、曖昧な返事をした。しかし、実はナナモは時々使っていたし、きちんと作詞作曲した歌を完成させていた。ただし、その歌はイチロウからの着信音にはしていなかった。急に自分の声が聞こえてきたら恥ずかしいからだ。

 でも、ナナモは自分の音程はアンバランスな方ではないと思っている。ただ美声が発せられないだけだ。

 

「今夜も遅かったんだね」

 以前なら、夕食を寮で摂ったあと、そのまま次の日まで大学の研究室に泊まり込むことが多々あって、特にナナモがカタスク二で乗馬訓練をしている時はほとんど会わなかったが、最近ではなぜかナナモがカタスクニへ行っていた時をまるで待ち構えていたかのようにオオエに会うことが多かった。

 ナナモはAIが作成した自分の過去をすでに手に入れていたが、まだ、怖くて開けていなかった。なぜなら、オオエは小岩の予想通り、あれから、練習へ行く際に車の中や、夜部屋で二人きりになった時に、色々と話しかけてくることが多かったが、ナナモが自分の過去をあえて披歴しなければならないことはなかったからだ。

「打ち上げがあったので」

 嘘ではなく、ナナモは、今年も杵築で行われた全国剣道新人戦の手伝いを去年あまりできなかったし、イチロウが今年も協力してくれて派遣してくれたサポーターとの橋渡し役を担っていたので、ナナモは当然出席していたタカヤマと顔を合わせたくなかったが、行かないわけにはいかなかった。打ち上げでは、キャプテンでもないのに、一挙に増えた女子新人部員の活躍も相まって、クツオキが感極まって涙を浮かべて、ありがとうと、ナナモだけでなく、タカヤマやフジオカに、頭を下げてくれていたのに、「クツオキも泣くんや」と、今までどう思っていたかのかわからないが、タカヤマがいつの間にか新人女子に、説教というか、先輩ずらして話しかけていたので、ナナモは全く酔っていなかったが、酔ったふりをしてあのことをタカヤマに話そうかと、何度か腰が浮きかけた。それでも、新人戦が杵築医科大学剣道部主催で無事終えられたことと、またイチロウの世話になったことと、今年も完ぺきにサポートしてくれたイチロウの仲間のために、なんとか最後まで楽しく時を過ごすことに終始した。

 打ち上げは結構盛り上がり予定時間をオーバーしていたが、二次会や!というタカヤマの掛け声に特に女子達は全く反応しなかったのでタカヤマがナナモに近づいてきたが、ナナモはサポーターの皆さんとちょっとと、別にちょっとどころか何もなかったのに、嫌がるフジオカにタカヤマとの二次会を押し付けて、早々と寮に戻ってきた。

「今夜はいつになく楽しそうだね」

 興味がなければ言ってくださいねと前置きしてから、ナナモは剣道部の新人戦の話を昨年のことからさかのぼってオオエに話した。

「ねえ、ここの寮生は何らかの武道をしなければならないのかい?」

 オオエはナナモの話を一切さえぎらなかったが、やはりそれほど興味を持てなかったのか、ナナモが一息ついたところで尋ねてきた。

「はい。そういう規則らしいです」

「らしい?」

「僕は良く知らないんです」

「どうして?」

「だって、誰も僕に寮の規則をきちっと教えてくれたことがないからです」

「入寮説明書が自宅に送くられてくるんじゃないの?」

「はい。だから、送ったはずだと言われたんですが、僕は手にしていないんです」

「だったら、余計に教えてくれてもいいはずだけどね」

「たぶん、入寮の条件がそれぞれの寮生で異なるからなんじゃないかあと思うんです」

「誰かがそう言ったの」

 小岩さんが何となく、と言いかけてナナモは思わずハッとして口を閉じた。そして、わざとと悟られない程度で、あくびをした後に、すいませんと謝ってから、僕の想像です、と答えた。

 オオエの目が一瞬鋭くなったように思えたが、気のせいかもしれない。

「だからアライ君はバレー部なの」

「よくご存じですね。ああ、そうか、トモナミから聞いたんですね。彼も寮の規則のことを気にしてましから」

 ナナモは寝言でロンドンのジュードっていう知人の名前を叫んでいただけなのに、柔道だと勘違いしたんですよと、トモナミと最初に会った時のエピソードを交えて話しながら、わざと本題からはずしてみたが、オオエは顔色一つ変えなかった。

「僕からも少し質問していいですか?」

 オオエは、ああいいよと、返事しておきながら、少しだけ目つきがきつくなる。

「ボート競技って本来は夏に行うんですよね」

「ああ、そうだよ。OB戦も昔は夏に行われていたんだ。その方がOBも何かと休みが取れて遠方にいても帰省しやすいからね」

 オオエから少し肩の力が抜けて来る。

「でも、もうとっくに過ぎていますし、紅葉どころか西風が強くなってきているこの時期にどうして変わったんですか?」

 それは……と、オオエが言いかけたのに、急に口を閉ざした。ナナモはオオエが入寮したことと何か関係があるのではないかと期待したが、オオエは、より肩から力を抜いてから口を開いた。

「いやね、参加をお願いしておきながらこんなことクニツ君にいうのは何なんだけど、一般の人が参加するOB戦が終わると、ボートの各パーツやオールが傷むんだよ。この時期にやれば、その後冬になるし、競技が出来なくなるから、その間に修理が出来るからって、在校生からの要請があったんだ」

 ナナモが最初の練習に参加した時、在校生やボート部のOB達はナナモに優しかったが、それなりに意味があったのだ。だから、ボートやオールを運ぶ際もナナモは手伝いはしたが、医学部生であるナナモに怪我をさせられないという大義名分で、ほとんど負担のない場所を配分されたし、練習が終わったあと、ナナモ達だけでかたづけをすることもなかった。ナナモはオオエが気を使っているのだと思ったがそうではなかったのだ。

 縁の下の力持ち。

 彼らにはもちろん一般参加のOB戦を盛り上げようとする共通の目的がある。しかし、彼らには別の目的もある。その目的にはナナモは関わりたくとも関われない。いや、関わらない方が良いのかもしれない。ナナモはつい先ほど別れた新人戦のサポーターの人達の事を思い出した。今なら彼らの名前をすぐに言えるだろうが、そのうち忘れてしまう。だからと言って記録にとどめようとはしない。そう言えば、ナナモがカタスクニで気軽に乗馬の練習をしているが、タイフの世話や馬場の整備を誰かがしている。記憶にとどめようとしても、名前どころか顔さえも知らない。ナナモの人生に関わっている誰かが居るはずなのに、ナナモの記憶に記録として全く残らない人がいるのだと、ナナモはふと、寮生でありながら、他の寮生の事を知らなすぎる現実を重ねていた。

「そうですよね。部員にとってはボートは身体の一部ですからね」

 ナナモはああ見えていつも事細かくきれいに道具を手入れしているオオヤマを思い出した。

「だから僕も在校生のときはそう思ったんだ。でもね、今はやっぱり夏にするべきじゃないかって思っているんだ。だって、夏の方が、燦燦と太陽が照り付けているけど青空の下で思い切り汗を掻けるし、ほとんど無風なのに競技中はどの季節より風を感じられるからね。それに、ボートの備品が傷んでため息は出るんだけど、やっぱり、夏だと観客も多いから、大勢の人にボート競技を味わってもらえるだろ。それはそれで嬉しいし、トラブルがない方がいいけど、あればより強く記憶に残るからね」

 そうかもしれない。ナナモも去年の夏の剣道大会のことを思い出していた。ナナモは話題にされたくはないし、オオヤマはもはや鉄板ネタにしているが、どの試合よりもナナモの試合のことを仲間は憶えている。

「この寮も、だから、もっと寮生を多くしたら楽しいのにね」

 オオエの何気ない言葉が、今のナナモにはすんなりと入って来る。

「昔はそうだったらしいですよ」

 ナナモはオオトシから聞いた話を思い出していた。

「でも、今どき古ぼけた寮に。それも、集団生活なんて、流行らないですし、そうするんだったら、寮の規則もきちんと条文化して皆に公表しないといけないですからね」

 ナナモはついしゃべりすぎたと、オオエの顔を見た。オオエは黙っていたが、ナナモが言ったことに対して何かを考えている風だった。

「オオエ先生は、本当はトモナミ君の部屋に入ったほうが良かったのかもしれませんね」

 オオエの沈黙が少し重く感じただけで、ナナモは別に意図していたわけでも、オオエとの同居を嫌がっていたわけでもない。だから、慌てて、変な意味で言ったんじゃないですよと、付け加えた。

 オオエは一人あたふたしているナナモが確実に視野に入っているはずなのに、

「でも、やっぱり同じ部屋にいると色々とあるからね。特に医学部生は賢すぎるからかもしれないのかな。それともそれは偏見で、性格なのかなあ」と、ナナモにではなく自分に対して呟いていた。

「トモナミ君の部屋で何かあったんですか?」

 ナナモは何気なく言ったつもりだったが、オオエはその夜一番ののっぺり顔でナナモをしばらく値踏みするように見つめると、「ああ、そうそう、言い忘れていたけど、OB戦は、師走の最初の日曜日に行われるから」と、今まで二人で色々と話していたことをかき消すように、ほんの少しだけ語気を強めてナナモの記憶に上書きした。



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