(17)現れた同居人
「解剖実習が終わったって、次から次へと専門科目が始まるし、その記憶と小テストの連続で結構大変だと思うんだけど、ナナモ、大丈夫なの」
ナナモは相変わらず寮の周囲で一輪車の練習をしている小岩の隣で一輪車に乗って前後に身体を揺らしていた。
小岩に一輪車の練習をさせてくださいと頼んだのは、ナナモがカタスクニでの乗馬訓練中何度か落馬していたからだ。バランス感覚はいい方だと自分で思っていたのだが、きっと、初日の落馬が尾を引いているのだろう。だから人馬一体になるどころか、少し馬が動いたり止まったりしただけで、すぐに身体のバランスを崩してしまっていた。きっと馬を信用していないからだし、信用することで恐怖に打ち勝てるはずなのに、なぜかナナモはもう一歩が踏み出せないでいた。そんな失意の中、夜遅くに苺院から寮に戻った時、寮の玄関に一輪車が置かれていたので、小岩には無断で乗ってみたのだ。一輪車なら自分のタイミングだけで乗れるし、それほど高くはない。たとえ転倒しても大きな怪我はしないだろうと、だから乗馬よりは簡単だと半ばやけくそ気分で、何度か挑戦したのだが、その夜は全く一輪車を操ることが出来なかった。
だめだなと、ため息とともに結局部屋に戻ったのだが、翌朝、カンファレンスルームでいつもの参拝を済ませたあとソファーにだらんともたれかかっていたら、気配を失くして近寄ってきた小岩に、「シャフトが微妙に曲がっているんだよな」と、呟かれた時はびくっとした。だからその時、誰か一緒にやってくれると助かるんだけどなあと、肩を叩かれたように言われたナナモは、すぐにハイと返事をしていた。
「流鏑馬は出来ないよ」と、小岩のいやらしい念の押し方が気になったが、別に流鏑馬が目的ではなかったし、僕は馬に乗っているんだからという密かな自慢もあって、どこからかもう一台小岩が持ってきた一輪車にまたがることに躊躇はなかった。
「ねえ、ナナモ君、近々同居人がくるそうだよ」
小岩は何食わぬ顔だったが、ナナモの一輪車は危うく傾きそうだった。それでも何とか体制を整えると、「ヌノさんからは何も聞いていませんよ」と、ウソではないという顔をした。
「それに、もし、そうだったとしても、今年はトモナミの部屋に入るのが筋じゃないですか?だって、あの部屋日当たりが良い南部屋だし、なんといってもトモナミは一回生で僕の後輩だから」
ナナモは当然と言う顔で一輪車を前後に揺らしていると、小岩が素早く自分の一輪車を反転させてナナモの横にくっつけてきた。
「ナナモ、まじでそう思っているの?」
小岩はにこりともしない。それどころか冷ややかな視線でナナモを憐れんでいる。
「いいえ」
先ほどの威勢はナナモ自身なのにナナモの影から生まれたものだったのかもしれない。だから小岩はナナモの横でその影を消し去ろうと一輪車をしきりに前後に動かしていたのかもしれない。
「だってナナモは選ばれて寮に入ったんだから。そうだろう」
何が、「そうだろう」か、わからないが、小岩はいつものように核心には触れてこない。だから、小岩は、また、ナナモから離れて行ったし、ナナモは追いかけなかった。いや、一輪車では追いかけられなかった。ただ、それほど離れていないのに、遥かかなたから小岩の、ジェームズ先生はたいへんだねと、いう声が聞こえる。
ナナモは、やはりそうだったのかと、昨年、オオトシに英語のレッスンをしていたことを思い出した。
でも、あの時、僕もオオトシ先生から教えてもらったし、励まされたから。それに僕の部屋の机の中には万年筆があって、時々見つめては励みになっている。
「何かお礼でも貰ったの?」
ナナモは当然声には出していない。それなのに小岩が目を細めてナナモを見つめている。しかし、ここは踏ん張りどころだ。だから、一輪車は不自然だが微動だにさせないように我慢しながら、本当は「金の延べ棒でした」と言って、小岩の反応を見たかったが、きっと、眉ひとつ動かさないだろうと思って、「内緒です」と、わざととぼけてみせるしかなかった。
小岩は自分で尋ねておきながら本来関心がなかったのか、それ以上ナナモに尋ねてこなかった。それより、また、弓を引く動作をしながらナナモからおおきな円を抱くように一輪車を動かし始めていた。
ナナモは近づき遠ざかる小岩を見て、やはりこれから毎年期間限定で僕の部屋に誰かが同居人として来るんだ、と思った。去年のオオトシは卒業生で医者だったけれど、今年はそうとは限らないし、ナナモの役目が英語を教えることなのかどうかもわからない。それでも、案外同居人が居ても気にならならなかったし、一緒にいてそれなりに楽しかった。もちろんオオトシの性格によるものだろうが、何よりオオトシとナナモの生活時間があまり被らなかったことが、一番の理由だったように思う。
仕方がないと、それでもなぜかため息が出る。でも、それで寮に入れたかもしれないし、ひょっとしたら寮費も、もしかしたら学費までも免除されているかもしれない。
そんなことはきっと寮の規則に書かれていないだろうと、ナナモはマギーからは何も聞かされていないことを今更ながら悔やんだ。だからではないが、ナナモは一輪車に乗りながらポケットに手を突っ込みスマホを握ったが、マギーに今から連絡して何になるんだとあきらめた。それにナナモは医学部に入る前に関東西部大学に通わせてもらっていたのだ。いや、ロンドンから東京に戻ってきてから、ずっと、マギーの世話になっている。
「また忙しくなるな」
今度は溜息ではないがふっと肩から力を抜いた。
「今年の同居人は四人だそうだよ」
いつの間にかまたナナモの真横にきていた小岩から珍しく困った声が漏れていた。四人ってどういうことだろう。一人余ってしまう。ナナモが出て行けば良いのだが、それでは本末転倒だ。それに四人相手ではさすがに疲れる。こっちこそ悲鳴を上げたいところだと、ナナモはいつしか一輪車から降りていた。
小岩はまだ一輪車に乗っていたが、ナナモが明らかなに何かを言いたそうな顔をしているのを素早く察したのか、ナナモからすっと離れて行った。
ナナモは、「小岩さん!」と、ちゃんと説明してくださいよという意味を含めて叫ぶと、小岩は先ほどよりも大きく、ゆっくりと円を描きながらナナモの所に戻ってくると、一輪車から降りた。
「一人はナナモの所だけど、あとの三人はトモナミ君のところなんだ。でも、そのことをヌノさんに訊いても、知りませんって、話してくれないんだ。何か怪しいだろう」
ナナモは、やって来るであろう同居人の事よりも、ヌノさんのおとぼけ顔を想像するよりも、ただじっと小岩を見つめていた。
トモナミの部屋にきた三人はトモナミと同じ新入生だった。ナナモは、トモナミも英語の教師に?と、一瞬脳裏をかすめたが、トモナミが英語が得意だとは聞いたことがなかったし、事実、何度かトモナミと風呂で一緒になった時には英語のアドバイスを求められた。だから、もしかして、何かナナモには想像できそうにない才能というか特技があるのだろうかと、ついトモナミ達の部屋を覗きたくなったが、なぜか張り切って新入寮生歓迎会を行いたいと言い出したヌノさんの変わりようを小岩に尋ねた時には意外な答えが返って来た。
「誰かが僕達の知らない間に寮の規則を書き替えようとしているんだ」
正確に言うと書き足そうとしているんだけどねと、言い直した口調は明らかに苦虫をかみしめたような不愉快さがにじみ出ていた。
トモナミの部屋に入ってきた新入生は皆トモナミと同じく地元出身者で現役入学だった。よくもそのような人たちを集められましたねとナナモが言うと、小岩は、だってここは杵築なんだよと、大学は別としても併設されている病院は杵築の人のために本来あるんだよと、ただ、医者になるためにこの大学に来たんじゃないんだよ、東京の人、と、えらく冷たい視線だった。確かに小岩の言う通り、各学年とも、杵築やその周辺地域出身者が多い。でも、なぜ、急に途中から入寮することになったのだろう。すると小岩は、入寮の動機はトモナミと同じだそうだけど、きっとまた大学の事務長がらみだと思うんだと、不吉な笑いを浮かべていた。
「もしかして、あの企業となんかつながっているんじゃないんですか?」
ナナモの問いに、小岩は案外冷ややかだったので、ナナモは念を押したつもりで言葉を継いだ。
「それにこの寮はあの企業とゆかりがあるんだし、そもそもあの企業の土地だったんでしょう?」
「ナナモに話したあの話。本当かどうかわからないんだ」
ナナモは小岩の話を全て信じているわけではない。それでも、この寮に初めて来たときの記憶は強烈だ。だから、小岩とあの時に話した会話はひときわ覚えている。
だったら……、寮の規則だとこれまでナナモに話してきたことはすべて嘘だったんだろうかと、少し口を尖らせたが、それ前言ったよね、規則って変わることがあるんだと、きっと相手にしてくれないだろうと、それに今は小岩のことではないと、別な方向で攻めてみた。
「寮の規則で何らかの武道をしなければならないって小岩さん話していましたよね。途中入寮なら、もはや武道以外のクラブに入部しているんじゃないんですか?それとも、そういう規則もなくなったんですか?」
「ナナモもそう思ったということは、俺がそう思わなかったとでも思うのかい?」
前置きはいいんだ、結論をと、いつものことだが口からこぼれそうになるのを先輩だからとナナモは必死で抑えた。
「それがね、一人は柔道部で、一人は弓道部で、もう一人はバレー部なんだ」
「柔道部はわかりますけど、弓道部には寮生はすぐに入れないんじゃないんですか」
ナナモは寮の道具部屋で小岩からそう説明された。
「そうなんだけどね、もう入部していたらやめさせられないんだ。それにナナモが言ったように弓道も武道だからね」
小岩は言い訳じゃないんだよという顔をしている。
「じゃあ、バレー部は?」
「あの部屋には誰が前住んでいた?」
あっ、と、ナナモは、あの部屋には志村が住んでいたことを思い出した。志村はバレー部だった。
「でもね、そのバレー部に入っていた新入生は寮に入ることに決まった瞬間、音楽部にも属すようになったんだよ」
「音楽部?」
「そう、志村さんと同じなんだよ、なんかねえ」
小岩の顔は、おかしいだろうと、言葉を続けたいようだったが、かといって志村と音楽部とに何か関係があるのかまでは説明してくれなかった。
「そういえば、小岩さん、弓道部に出入りしていたって言っていませんでしたか?その時、弓道部に属しているその新入生から何か聞かれませんでしたか?」
「いいや。だって、俺は同級生に習っていたからね。彼がいたことすら、あまり覚えていないんだ」
「でも、入寮するんだったら、挨拶くらいあってもいいんじゃないですか?」
「俺はナナモみたいに有名人じゃないんだ。だから、俺が寮に住んでいるなんて、彼は知らないだろうからね」
そうかもしれないし、そうじゃないかもしれないと、それに、僕の顔はハーフだけど、有名人ではないと思いますがねと、ナナモは言いたかった。
「ナナモは新入寮生歓迎会に出るのかい?」
小岩が意外な質問をしてくる。ナナモは、自分のために昨年してもらったし、ヌノさんが拒むどころか積極的なら断る理由などないし、どんな人たちなのか気にならないことはなかったので、ハイとすぐに答えた。
「やっぱりそうだろうな、でも、それは寮の規則を変えたことを容認することになるんだよ、それでもいいのかい?」
小岩はいつになくいやらしい視線を送ってくる。ナナモはでももう決まっているんだし、トモナミの部屋に入るので他の寮生には影響が及ばないし、人が多くなるけどまだまだ手狭になるわけでもないし、地元出身者ならおそらく週末にはいなくなるだろうし、また、あの企業が支援してくれるのならもっと快適になるかもしれないし、弓道を止められていたナナモだったがすぐにでもはじめられるかもしれないしと、昨年同居人と生活していたこともあって、良いことしか考えなかった。
「僕は別にいいよって、そう思っているんだろう」
小岩はナナモの心を読めるのかと、少しのけぞるような気持ちだったが、小岩が反対する理由がわからなかったので、じゃあ、小岩さんは出席しないんですかと、尋ねた。
俺は別に良いんだけど、これから、どんどん寮生が増えていくかもしれないし、そのたびに寮の規則が変えられそうだし、せっかく少数精鋭でまとまっているのに乱れるかもしれないし、理由がわからないけど今は喜んでいるヌノさんがひとりできりもりできなくなるかもしれないし、それどころか結局大学に吸収されて寮が消滅するかもしれないしと、とどまることもない屁理屈をあれこれ並べていたが、最後には出席するよ、だって、ごちそうが食べられるんだぜと、言った時には驚いた。
「でも、譲れるものと譲れないものがあるし、寮に代々受け継がれてきた規則はそう簡単に変えられるはずがないし、変えてはいけないと思うんだ。伝統は大切だし、もし、誰かがこの寮に足を踏み入れようとするなら大儀名分が必要だから。だいたい聖域は決して侵されないし侵してはいけない」
別にナナモが冷やかな目で見たわけでもないし、却って、小岩さんらしいなと思っていたのに、小岩の最後の言葉はもっとも強い口調だった。
予定通り、何の異論もなくナナモの部屋の同居人以外ではあったが、新入寮生の歓迎会が行われた。きっと企業からの何がしかのカンパがあったのだろう、ナナモやトモナミの入寮歓迎会の時よりは数段豪華な料理が、まるでホテルの超豪華料理フェアのように、装飾が施されている金属トレイの上に何種類も盛られて置かれていた。
ヌノさんが全て作ったわけじゃないんだよねと、炊事場の勝手口に珍しく見知らぬヒトが出入りしていたところをこっそり見ていたキシさんが、ナナモに教えてくれた。
歓迎会には寮生全員が珍しく出席していて、ナナモは久しぶりに大学院生である坂井さんの顔をみて、知ってはいたが、まだ、寮から出ていないんだと改めて驚いた。
ある部屋に急に四人が住むことになったということは、今までの寮の規則からは逸脱しているし、明らかに何等かの力がこの寮に及ぼうとしているのに、まだ、自分の部屋だけはプラーべートが守られていることから、皆、新入寮生に優しく接していたし、小岩などはあれほどナナモに意味深な言葉を眉間に何度も皺を寄せながら語りかけていたのに、歓迎会では一番先輩風を吹かせていたし、料理に舌鼓と言う風に堪能していた。
ナナモの入寮時の歓迎会は食事がすむとすぐにお開きになったが、今回は皆がなかなか自室に戻ろうとしなかった。もちろん、学食の数倍の値段がしそうな果物がふんだんに盛られた生クリームケーキがデザートとして振る舞われていたのだが、旧入寮者が新入寮者をなかなか返さなかったのは、自分の時間を犠牲にしてまでも何か新入寮者から聞き出そうと皆が実は団結していたんだと、何故ナナモだけはその輪から外されていたのか分からなかったが、小岩が数日経ってからナナモにそっと耳打ちしてくれた。
ナナモはそれで何かわかったんですかと尋ねたが、小岩は耳打ちしてくれたのに、これからだから、でも、罠を仕掛けておいたんでねと、ニヤリとまるで歯がぴかりと光ったような、不吉な、そして、自信ありげな笑顔を見せた。
ナナモは小岩とともに一輪車の練習を続けていたからか、次第にカタスクニでの騎乗が胴に入ってきていた。もちろん、タイフはナナモに従順だったからかもしれないが、それでもバランス感覚は以前に比べて数段良くなったように思えた。なぜならお尻から伝わる振動のリズムと視線のぶれが少なくなってきていたからだ。
ナナモは、カタスクニの馬場で、少し早く走らせてみようかとデヒラに言われ、調子に乗ってハイと返事をしたのだが、タイフが思いのほかスピードを出したので戸惑っていると、そんなナナモに気が付いたのか、きっとタイフの気遣いなのだが、急に減速したので、もう少しで落馬どころか前方に放り出されそうになった。ナナモはしばらくその感覚に苛まれ、恐怖に打ちひしがれながら寮に戻って来たので、自室の鍵が開いていたことも、部屋の灯りが付いていたことも知らずに、神木のタブレットが入ったカバンをいつものように机の上に置いた時にハッとした。
「ずいぶん今夜は遅いんだね」
ナナモの視線の向こう側には誰かが座っている。
「同居人の先生ですか?」
ナナモはその容姿からオオトシを思い出したのか、反射的にあいさつなどせずに質問だけを投げかけていた。
「クニツ君だったね。僕はオオエって言うんだ。よろしくね」
ナナモは、色黒で、比較的のっぺりとした顔だちのオオエが、椅子から丁寧に立ちあがって、それでも少し頭を下げて来たので、それまでのぶっきらぼうさに赤面する思いで、クニツです。クニツ・ジェーズム・ナナモですと、オオエよりも頭をさらに下げながら自己紹介した。
オオエはナナモの丁寧さに驚いたようだったので、僕はイギリスと日本のハーフですけど、ここに来てからはほとんど日本人ですからと、ナナモの思いがどこまで届いたかは分からなかったが、オオエは細い目をより細くしながら、それでもナナモの本意を受けとめてくれている様だった。
「先生は何科の医者なんですか?」
オオトシのことがあったのでナナモは軽い気持ちで尋ねた。もちろん何がしかを専門にしていると言う返事が帰って来るだろうと思っていたからで、もしそうなら、ナナモに課せられた寮の規則のひとつがわかったことになる。
「僕は医者じゃないんだ」
ナナモはほっと溜息をつこうと思っていたのに、予想に反する答えだったので、少しむせてしまった。
ナナモは、すいませんと、きっとナナモが驚いていることに気が付いているんだろうと思って謝った。
「クニツ君はもう解剖学実習は終わったようだね。実は、だから何だけど、しばらく第一解剖学教室で研究させてもらえることになったんだ」
オオエはさらりと説明したあと、さらに言葉を継いだ。
「ある企業が研究費を寄付してくれたんだけど、その条件が、短期間杵築で勉強することと、その間は栄光寮で過ごすことっていう条件だったんだよ」
オオエは、ある企業と、具体的な名前こそ言わなかったが、ナナモは、おおよその想像はついた。
「僕にとっては特にその点にこだわることは何もなかったんだ。中田先生は発生学では世界的に有名だし、短期留学ですけどよろしいですかと、条件を提示してオファーしたんだけど快く受け入れてくれたんだ」
「学生寮で生活することもですか?」
「ああ、だって、費用は全て免除してくれるんだ。食事つきだし。そんなありがたいことってないだろう。ただね、僕はいいんだけど、寮生は困るだろうからって、僕が尋ねたら、もう話していて了解を得ていますと、言われたものだから」
ナナモは確かにナナモの部屋には同居人が来るとは言われていたが、オオエの事を全く知らされていなかった。
「クニツ君の顔を見ると、どうやら知らされていなかったんだね。でもそれは無理もないことかもしれないな。だって、本当はトモナミ君の部屋に入ることになっていたからね。でも、急に、満室だって言われて、それでクニツ君の部屋に入ることになったんだ」
ナナモは、いいえ、僕は構いませんと、改めてオオエに伝えた。
「悪いね。でも、去年も誰かがクニツ君と一緒だったって聞いたものだから」
ナナモは昨年いたオオトシという耳鼻科の医者の話を少しした。そして、僕がこの寮に入ることになったいきさつも少しした。
「先生は医者じゃないんであれば何学部出身なんですか?」
そうだったのとオオエが頷いてくれたのでナナモは思い切って尋ねてみた。
「農学部だよ」
オオエはナナモも知っている東北のある大学名を言った。
「農学部でも人体解剖を行うのですか?」
確か人体解剖が出来る学生は医学部生だけだと聞いていたようだったが、第一解剖学教室で勉強するのならと、ナナモはほとんど思い付きで尋ねた。
「いいや。でも、人間は哺乳類だからね。ある意味動物なんだ。だからその発生には共通するところがあるんだよ」
オオエが何の研究をしているのか、発生学という以外具体的には話してくれなかった。ただ、医学部であろうが農学部であろうが、研究の目的が同じで同じ方向を向いているなら、学部など関係ないと言いたげだった。
そう言えば、オオトシも耳鼻科医なのに物理の先生の所で研究していた。
それでもナナモは農学部だと知って、単純に、馬に乗ったことがありますか?と尋ねた。なぜなら、もしかしたら馬術部に属していて、だからナナモの部屋に急きょ来ることになって、ナナモにアドバイスを送ってくれるかもしれないとふと思ったからだ。しかし、オオエは申し訳なさそうでも、つっけんどんでもなく、乗ったことはないんだと、なぜそんな事を訊いてきたのと、声には出さなかったが、明らかにそういう顔だけした。
ナナモはいや別にと、農学部イコール馬という発想だったことを後悔するというか、オオトシの時にはうまくはまったのにと、なんだが今回は変だなと、いや、別にいいんですと、気まずくならない程度で、ロンドンでの衛兵交代の騎馬の話しをしようかな思って口を開きかけた時に、あっ、と心の中で音がした。
「あの~」
ナナモは昨年英語の教師をしていたことは言わなかったし、別にしても構わないし、それがもうひとつの条件のように勝手に思い込んでいた節があったが、先ほどからのこともあって、また、肩透かしにあうのではないかと、それに、そうなれば、またナナモの同居人受け入れの条件が異なることになる。だから、やはり、聞かない方がいいし、もし、そうならオオエの方から言ってくるんじゃないかと、せっかく思いついたのに、自分から口をつぐんでしまった。
「なに?この際だから遠慮しないで何でも言ってくれないか」
オオエは相変わらずのっぺりとした顔だちだったが、全く悪意はないように思えた。ただし、そういう人ほど怪しいんだ、という小岩の声が聞こえてくる。それにオオエはトモナミの部屋に入ることになっていた。
「僕はハーフですし、英語はそれなりに話せますよ」
ナナモはそれだけ言った。もちろん、ハーフなんで英語が苦手なら教えてあげますよ、なんて、初対面、しかも、先輩研究者に言えるわけはない。
ナナモの言葉にオオエははじめ、眉間に皺を寄せるような仕草を見せていたが、何かを思い出したのか、急に笑顔になって、ああ、その事ねと、呟いてから話しを継いだ。
「小岩君から聞いたんだけど、クニツ君は英語がペラペラらしいね。だから、もし、お困りでしたらこき使ってくださいって。小岩君は剣道部で、クニツ君の先輩らしいね」
もはや小岩がオオエに近づいているとは驚いた。もしかしたら、小岩はオオエから何か情報を聞き出しそうとしていたのかもしれない。
小岩はオオエに何を話したのだろう。ナナモは先ほどオオエに入寮のいきさつを少ししか話さなくて良かったと、そっと胸をなでおろしたい気分だった。
「ナナモ君ほどではないと思うんだけど、実は、アメリカに留学していたから英語は少し話せるんだ。中田先生ともその時に出会ったんだよ」
オオエは英語でナナモに言ってから、どう?って、日本語で訊いてきた。少し日本語的英語だったが、意味は十分通じたし、発音も悪くなかった。
「でも、ヒアリングがね。早口で言われると、どうしても理解できないからね」
オオエは何かを思い出しながら一瞬また眉間の皺を寄せたが、それでもそのことも楽しい思い出であったかのように、自然と後頭部へ手を持って髪の毛を掻いていた。
ナナモは深夜だし、明日、いや、今日、お互いやらなければならないことがあるのに、オオエと小一時間ほどたわいもない話しをした。ナナモはまだ話し足りなかったが、オオエが、そう言えば小岩君が、クニツ君は毎朝カンファレンスルームの神棚を拝んでいるって言っていたけど本当?と、訊いてきたので、ハイと答えたあと、でも理由は聞かないでくださいよと、マギーに言われたからですなんて答えられないから、わざと含みを持たせるような気配で答えた。じゃあ、もう寝ないと、と言われたナナモは、別に今日じゃなくてもいいんですけど、何か僕がお手伝いできることがあれば言ってくださいと、英語を教えなくてもいいんだと思ったことよりも、まだほんの少ししか話していないのに、オオエの人柄に引き込まれて尋ねた。
オオエはしばらく何かを考えている風に瞳だけを天井に向けていたが、どうしようかなと、言うべきか言わない方が良いのかと悩んでいる気配を発していた。
ナナモは出会ってから始めて煮え切らないオオエを見た。だから、遠慮しないでくださいと、言うだけならタダですからと、ダサかったが、そう促した。
「じゃあ、でも、忙しかったらいいんだよ」
オオエは、日曜日なんだけど大丈夫かな、やっぱり、休みたいよねと、なかなかなか前に進んでこなかったが、最後に意を決したのか、丸い瞳がきちんとみえるくらい目を見開いてから、
「クニツ君は剣道部なんだろう。だったら、腕力には自信があるよね」と、言った。
ナナモはどう答えていいのか分からなかったし、確かに剣道を始める前に比べて腕回りが少し太くなったような気だけはしていたので、まあと、答えると、
オオエは、瞳を隠すようにまた目じりを下げた。
「ボート競技に出てくれない?」
その言い方は、まるで初めて会った時に頭を下げられたようなやわらかさだった。
オオエは毎晩寮に居ると言うこともなかったし、ナナモは英語の教師をすることもなかったので、平日は学校の授業と時々カタスクニに赴いて乗馬の訓練を行っていた。当然夜遅くカタスクニから寮に戻って来ることもあったが、そういう時はうまい具合か意図的な力なのか分からないが、オオエが居ない時が多く、居ても友達の家に行っていたと言えば、学生なので特に疑われなかった。だからオオトシの時と同じで、同居人がいてもナナモは特にストレスを感じなかった。
オオエからはあれからボート競技の話はなかったが、ナナモは腕力の事を訊かれたし、乗馬にも役立つからと思って、このごろ道場に顔を出すことが多くなっていた。
タカヤマは、どうしたんやと、素振りだけでなくバーベルまで挙げ出したナナモに何度も近づいてきたし、そんなに練習したら身体壊すでえ、と、珍しくそのへんで止めて飲みに行こうと誘ってきたが、マギーからのあのことがまだ言えていないし、もし、二人きっりの飲みの席でついうっかり軽口に話してしまったらと思うと、身の毛がよだつような思いだったので、解剖学の試験に落ちたのは僕だけだからと練習が終わるとさっさと寮に戻っていた。
それでも、タカヤマの誘いを断れなくて飲みに行くこともある。その時は最大限の緊張と気合を入れて、絶対、油断しないと心に決めてから酒席に着いてタカヤと対峙した。ナナモはその度に、もしいつもこれほどの集中力があれば剣道の試合でタカヤマにすぐに勝つことはないにしても、そう簡単に負けることはないだろうと思った。だから、最後まで戦い抜くことができたと、何事もなくタカヤマと別れて寮に戻った時には、その達成感と安堵感からぐったりと倒れるように勉強机の簡素な椅子に座ると、あ~あと、大きくのけぞることが多かった。
「明日、大丈夫?」
そんなある夜、ナナモはいつものようにのけぞった身体を反対に曲げ、机に覆いかぶさるようにうつらうつらとしばらく眠ってしまっていたのかもしれない。まだ朦朧としていたが、顎が外れそうなほどの大きな欠伸をしたあと、トイレに行こうと重い腰を持ち上げようとしているナナモを待ち構えていたかのように、オオエの声が聞こえて来た。
ナナモは、あっ、はいと、反射的に答えながら、明日は日曜日だし、朝の参拝が終われば二度寝しようと思っていたのにと、視界に映るすこぶる元気そうなのに相変わらずのっぺりした顔を直視出来なかった。それでも、すぐに、でも楽しそうと、それに、あれだけ腕を鍛えていたんだからと、先ほどまで抜け殻のようにフニャフニャだったのに、急にヘリウムガスを注入されたかのように、身体に張りが戻っただけでなく、声も数オクターブ上がっていた。
昨日の会話が嘘ではなかった証拠に、翌朝ナナモは朝の参拝を済ませ、なぜか日曜日なのに食堂に用意されていたおむすびを食べると、オオエの車に乗って寮から出ていた。昨夜のヘリウムガスのような高揚がまだ残っているのかと思ったが、ナナモは、テムズ川で練習していたボート競技を見た事があったのでそれほど身構えるということはなかったことも相まって、つい、オオエの前で欠伸をしてしまって、オオエから笑われた。それでも、オオエは上機嫌だったし、ナナモをボート競技に誘った理由をもう少し詳しく話してくれた。
「僕が杵築の隣町の出身だったってことは話したよね」
「高校まで居て、高校の時はボート部だって。それで、今回OB戦が催されるんだけども、メンバーが足りなくなったから僕に頼んだって」
ナナモは、僕はOBでもないし、経験者でもないんですけど、いいんですか?って尋ねたのだが、オオエはでも杵築医科大学の学生だろうと言ったきりだった。
「高校のOB戦だけど、今回、杵築医科大学チームで出場するんだ」
オオエは、卒業生は卒業生でだけで集まるのではなく、卒業生が一人はいなければならないんだけど、会社なり、気の会う仲間なり、出来ればそういう人達にボート競技に参加してもらってボート競技に共感してもらおうとする、地域の町おこし的な要素が強いと却って初心者歓迎だと説明してくれた。
「ボートは何人乗りなんですか?」
ナナモはロンドンで見た細長いボートがアメンボのように川面を走る姿は思い浮かんだが、何人乗っていたかまでは覚えていなかった。
「色々なボートの種目があるんだけど、今回は漕ぎ手が四人と舵手が一人の五人でチームを組む、ナックルフォワという競技なんだ」
ナナモは五人と聞いて剣道の団体戦の事を思い出したが、舵手はコックスと呼ばれ、実際、オールを持つことはない。しかし、ボートの進行方向からバウ、二番、三番、ストロークと呼ばれる残り四人の漕ぎ手が力まかせにただ漕いでもうまくボートは進まない。まるで指揮者のような、最後尾にいるコックスの掛け声で、両手で木製のオールを持つ漕ぎ手がお互い統制をとることで、ボートは水面をすべるように一直線にコントロールされる。
「うまくいけば本当にきれいなんだ」
オオエは、すごいんだ、とは言わなかったが、ボート愛に溢れているような満足げな顔をしていた。
ナナモはオオエから道すがら他にもボート競技についていろいろと説明を受けたが、実際、漕いでみないとわからないし、漕いでみてわかることもあるしと、結局、オールをナナモが漕げるかどうかが出発点だと、カタスクニでまず馬に乗れるかどうかが出発点だと思ったことと同じだと、完全に緊張が取れているわけではなかったが、やるしかないと、無理してではないが、肩の緊張をやわらげた。
オオエの通っていた高校は、杵築の隣町で、同じ行政区だが水運が発達していて、テムズ川とはいかないまでも、ボート競技が出来そうな幅広で直線的な川が町の中央部に流れていた。だから、高校はこの街の中心部にあるお城から少し離れた山間にあったが、ボートを保管している倉庫は、学生が何とか通える範囲で、その河川に常設されていた。
隣町と言ってもそれほど近くはない。ナナモ達が倉庫に着いた時、寮から出発してから小一時間は経っていた。珍しくよく晴れていて、少し近代的なビルも散見される街並みを透き通るような青が染めていた。
二人が車から降りると、もう、何人かが忙しそうに倉庫から出入りしている。
「おはよう」
オオエが、おそらく競技に参加するクルーだろう仲間に声を掛けた。
ナナモも誰がいるのかわからなかったので、オオエに続いて、「おはようございます。今日はよろしくお願いします」と、誰か特定の人に向かってではないが頭を下げると、おはようございますと、てんでばらばらの方向からてんでばらばらの高さで、声が聞こえて来た。
ナナモは視力が悪いわけではない。しかし、下げた頭を戻した瞬間目を細めてある人をじっと見つめていた。
「キガミじゃないのか?」
ナナモは思わずそう叫びながら、いや、何かが違う、いや、どこかで見たような顔だと、相手に向かって言葉を発しておきながら、また、その人を見続けていた。
「知り合い?」
オオエが尋ねると、まあと、ナナモはあやふやな返事をせざるを得なかった。なぜなら、始めての場所で初めての人に会うことでやはり多少なりとも身体が硬くなっているのがわかるくらい緊張していたのに、知っている人がいると思ったら、急に身体から力が抜けていたナナモに、キガミだとナナモが思っている女性は全くナナモに近づいてこなかったからだ。
やはりキガミではないのだろうか?
でも、先ほどの声の中に、解剖実習の時に皆で議論していた時のキガミの声が確かにいた。
ナナモは自ら近づいて行った。そして、真正面に立って、ボート部だったの?と、控えめな声で話しかけた。
「姉がお世話になっています」
ナナモはその声を聴いてやはりキガミだと思ったのに、彼女はキガミだが、キガミの妹だった。
「一卵性の双子なんだよ、でも、彼女は、今年入学したんだ」
オオエが明らかなにキガミ妹に遠慮しながらナナモにこっそりと耳打ちするように話してきた。
ナナモは、そうか、だから何となく雰囲気が違ったんだ、と思ったのだが、反対に、その雰囲気を以前どこかで感じたように思えて仕方がなかった。でも、そう感じた理由にもう少しでたどり着けそうなのに、心の中で髪の毛をむしりながらイライラするだけで、そのきっかけすらもつかめなかった
もしかして……、そうナナモが思っていること自体、ナナモの思い過ごしなのかもしれない。それとも何か違う記録が刷り込まれてしまったのだろうか?それでもナナモはしばらくあきらめられなかった。
「クニツ君が助っ人に来てくれたんだ」
ナナモはキガミ妹のことに気を取られていて急に誰かに話しかけられたことに気が付かなかった。しかし、ナナモとキガミ妹との視線の間にその人が割り込んできた。ナナモに何かもう一度話してきたので、やっとナナモはその人を見た。
柔らかい声に柔らかい顔立ちだった。眼鏡を掛けているが、レンズ越しに伝わってくる。しかし、その一方で、ナナモは初対面だと思うのにどうしてそんなになれなれしいんだろうと、ふと、小岩の事を思い出して、キガミではなくキガミ妹だと知ったことも相まって思わず心の中で身構えてしまった。
「もう忘れたのかい?小谷だよ」
小谷?
ナナモは、まるで機関銃のように何度も口の中で小谷という名前を繰り返していたが特定の人物と繋がらなかった。
今日の僕の記憶と記録は混乱しているのだろうか?
ナナモは、すいませんと、謝ろうとした時に、その小谷という人が急に眼鏡をはずし、眉間に皺を寄せながら、ナナモを睨み付けてきたので、ナナモはびくっと身体がのけぞるような衝撃とともに、あっと叫びそうになりながらも、激しい頭痛がした。
「そんなにお前は嫌われていたのかい?」
小谷に対してではなく、頭痛に対して苦虫を嚙んでいたのに、オオエが笑いながらそっと小谷の肩に手を置いた。
「解剖実習の時は厳しかったかもしれないけれど、本当はいいやつなんだ」
小谷は解剖実習の時に中田教授の下でナナモ達の解剖実習を手伝い、かつ指導してくれていた教室員だ。オオエとは近所の同級生で、中学までは同じ学校に通っていた。だから、中田教授とは面識があったが、実務的な手続きをしてくれたのは小谷だったらしい。
「クニツ君は優秀なんだよ」
ここは大学ではないんだし、教員と学生という関係ではなくて、ボート仲間だからと、小谷は軽くウィンクするような仕草を見せただけでそれ以上のことは何も言わなかった。だから、ナナモはあのメスの事を訊きたかったが、言いだせなかったし、ボート仲間か、そうだなと、小谷が言うようにはすぐには受け入れられなかったが、頭痛はいつしか消えていた。
ナナモはオオエの小谷との昔噺に付き合わされかけたが、そんなことより、準備だと、小谷が早々とナナモの前から去って行ったので、もしかしたら、ナナモに見せた穏やかさはただ仮面をかぶっているんじゃないかと、やはりあのことが聞きたくなった。
あの~、小谷先生!と、呼びかけると小谷が急に先生は辞めてくれないかと、照れながら、口元に人差し指をくっつけたので、杵築医科大学のメンバーだとはいえ、チームなんだと、小谷さんと、もう一度、呼び直そうと思ったが、一瞬のタイムラグがナナモから疑念を払いのけてしまったのか、ナナモはそれ以上声を掛けることが出来なかった。小谷は、何?という顔をしていたが、その顔は解剖学教室では一度もみたことのないようなこれからボートを楽しめるという期待で一杯のように見えた。
ナナモはだから小谷と比べてそれほど気力充実と伝わってこないキガミ妹に近づいた。なぜならナナモはキガミが双子ならキガミ妹を通して小谷にあのメスのことを訊いてもらえるのではないかと思ったからだ。
「姉には秘密にしておいてくれませんか?」
キガミ妹は憂鬱そうな表情を一切隠そうとはせずに近づいて行ったナナモに唐突に話しかけて来た。
ナナモは、先ほどの小谷のように、?という顔しか出来なかったが、キガミ妹は姉との関係を少しナナモに説明し出した。
キガミ姉妹はこれまで同じように生活し、同じように学校に通い、同じ医学の道を目指すことになったが、必然もあり偶然もあった様だ。特に医学についてはお互いの未来を始めて話し合った時にたまたまと一緒だったようで、驚いたそうだ。だから二人でその目標を目指し、おなじような学力が身に付いたので、二人で杵築医科大学を受験したのだ。
「でも姉は合格して私は合格しなかったの。姉より私はなぜかボート部にのめり込んでしまったからかもしれないわ。でもね、私はそれなりに一所懸命勉強していたのよ。合格する自信もあったのよ。でも姉はそれからボートが嫌いになったわ。だから、私がこうやってまたボート競技に参加してるって知ったらきっと怒ると思うの。だから姉には絶対言わないでね」
「キガミ、いや、キガミのお姉さんはボート部じゃなかったのかい?」
「始めはそうだったの、姉はコックスをしていたわ。でも、なぜか急に辞めたの」
「どうして?」
「わからないわ。私たちこれまで何でも話してきたし、お互いの思っていることが何となく伝わってきていたのに、それだけは姉さんは話してくれないし、何故だろうって、姉さんのこころを読もうとおもったのに読めなかったの。それからかな、何となく少しお互いに隙間風が吹いてきたのは」
ナナモにはわからない世界だ。ただ、ナナモはふと以前キガミから医学部を受験する動機を聞いたような気がしたが、その反面、その時キガミから双子の妹がいるなんて聞いていないような気がした。
「でもね、誤解しないでね、私は姉さんのことが好きだし、姉さんもきっと私のことが好きだと思うの。だから、姉さんがコックスを止めた時に、私は姉さんの代わりにコックスになったのよ」
いつしか二人の周りには他のメンバーが集まっていた。ナナモは思わず他のメンバーの顔をみた、オオエや小谷はもちろんの事、もう一人今日初めて会った、大学の事務職員の六原というナナモより大柄で体格のがっしりした男性も黙って頷いていた。
そうか、ここで集まってボート競技をすることも、其々のメンバーの私生活の事も、ここで何気なく会話した内容も全て秘密なんだ。いや、記録どころか記憶に残してはいけないんだと、和なのに、和ではない。それでも純粋に一つのことを楽しもうとするナナモが初めて体験する和になりそうだった。
「私はクニツさんの前ではまぼろしみたいなものなのよ」
キガミ妹はそれだけ言うと、初めてにっこりと微笑んだ。そして、今にも真っ赤な舌が飛び出てきそうなキガミ妹の顔は久しぶりのボート練習を楽しもうとする元気印で溢れていた。ナナモはこれからずっと大学でキガミと会っても、双子なんだってねえと、言えないと、キガミ妹に誓わされたし、少なくともボート競技が終わるまで、小谷に近づいてあのメスの行方について探求出来ないのだと、悟らざるを得なかった。
ここはある意味異世界かもしれない。
ナナモは初めてのボート競技に参加出来ることに、もっと大きなもっと真っ赤な舌を出してもいいはずなのに、なぜか鳥肌が立つようなため息が漏れていた。