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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
16/30

(16)カタスクニの実習

 脳実質の実習中、何らかの声が聞こえてきたり、何らかの記憶が思い浮かんだりするのではないかと、不安と期待の二極を行ったり来たりしていたが、ほぼ何も起こらず、また、解剖用語も日本語と英語で暗記することが出来たし、脳実習後の口頭試問でも特に記憶が飛んで行ってしまうこともなかった。だから解剖させていただいたご遺体の臓器を全て元通り袋に戻し、それらの前でもう一度四人で合掌したことで、ナナモ達のご遺体による系統解剖学実習は終了した。

 ご遺体は荼毘に臥される。ただし、家族がおられる場合もあるから、ナナモ達医学部生が立ち会うことは出来ない。その代り、正常人体解剖機能学の試験が始まる前に慰霊祭が行われ、ナナモ達学生は必ず参列する。そしてもう一度慰霊碑の前で合掌し、ご遺体に敬意を払い、そして、学年末の試験への決意を誓うことが恒例となっていた。

 しかし、系統解剖学実習が終わったからと言って、ふーと一息ついた状態が続くわけではなかった。確かに解剖実習は二回生にとっておおきな山場だったが、今度はマクロの世界からミクロの世界へ、静的な機能から動的な機能へと、組織学、生化学、生理学と、講義と実習が途切れることはなく、その膨大な量に圧倒され続けていた。

 それでも二回生に進級してから初めての医学専門科目である解剖実習を乗り越えたことで、医師になるという覚悟がより強く芽生えたのか、ナナモだけではなく、皆、なんとかなるという自信と、なんとかしなければという熱意を持ったまま、日々の学生生活を仕切り直そうと、前に向かって歩みだしていた。

あれからナナモを悩ますことは何一つ起こらなかったし、蘇りのことをあれほど気にしていたのに、全く関係のない専門分野が始まるとすっかり記憶から消えて行ってしまっていたので、ナナモは週末久しぶりに道場に足を運んだあと、寮で夕食を済ますと、気のゆるみではないのだが、フジオカを強引に連れだして、タカヤマと三人で飲みに行って、夜遅くに寮へ帰るため一人でゆっくりと歩いていた。

 中秋の望月がいつもは真っ暗なのに杵築の街並みを浮きあがらせている。ずいぶん軽くなった空気がほろ酔い気分を冷ましてくれる。道すがら虫の声が幾重にも重なって聞こえてくる。

 ナナモは俳人の気分で寮に戻って来たのだが、玄関の扉を開けようとした時に、「お前は、何様のつもりなんじゃ~」と、言われたかのように首根っこを掴まえられた。

 ナナモはドキッとした。まったく気配を消した誰かにいつの間にか背後に回られている。ナナモはそれでも何とかしなければと力を込めた。その瞬間、地面に押さえつけられていて身動きできなかったからだが急に軽くなる。ナナモはそれでも先ほどの感覚がまだ残っていたので、きっと大男なのだろうと思わず見上げた。

 巨大化した満月が目に入る。そして、その眩しさの中、月の中をウサギが一匹元気よく駆け回っている。

 ナナモは、あっと、声に出す前に、寮の扉を押し、靴を放り投げるように脱ぐと、自室に戻り、白布に巻かれた神木のタブレットをリュックに入れて肩に掛けると、履きかけた靴に足を取られそうになりながらも、学校の敷地から一刻も早く出て行かなければと、ただ足を交互に出来るだけ早く動かしていた。

 ナナモは十分に学校の敷地から離れていることを確認すると、ずいぶん使っていなかったのに埃ひとつ付いていることも、妙に変色することもない真っ白な布をゆっくりと外して、神木のタブレットを取り出すと、どこからか雲が流れてきて邪魔されないように急いで月にタブレットを向けた。

 にゃあ~という起動音が聞こえてきたわけではないが、そう思えるほど、眩しく一瞬光ったあと、ネコ マネキが作動した。

 ナナモが向かったのはもちろん苺院だ。

「こんばんは」

 ナナモは胸躍る気分だったが、扉を開ける前に一呼吸置いてから中に入った。

いつもならアメノがすぐに出迎えてくれる。しかし、店の中は明かりが灯っているのに、アメノは現れてくれなかった。

 ナナモはもしかして穢れだと思われているのだろうかと、それが意味のないこととはわかっていながら両腕をくんくんと交互に嗅いだ後、僕は一体何をやっているんだ、解剖実習は穢れなどではないと、久しぶりだという不安な気持ちより、憤りの方が強くなっていた。だからナナモは折角席に着いたのに、再び立ち上がろうとした。

「いらっしゃいませ」

 アメノが優しい声でいつの間にかナナモの傍に立っていた。ナナモはその声に癒されてまた席に着いた。

「こんばんは」と、ナナモは久しぶりに会ったのに全く変わらないアメノの口調にホッとしたのに、そこまで言ってから、「どうしたんですか」と、また立ちあがろうとした。何故ならアメノのおでこに大きな絆創膏が貼られていたからだ。

「いい年齢としをしてなさけないのですが、兄弟げんかをしまして、でも、弟に殴られたわけではありませんよ。勢い余って自分で滑って転んでしまってんです。本当に情けないです」

 アメノはナナモを制し、苦笑いを浮かべながらしきりに絆創膏をしばらく触っていたが、私のことはどうでも良いのですと言わんばかりに、急に絆創膏から手を離すと笑顔を消し、かしこまった。

「ご注文を戴く前に、やっていただかなくてはならないことがあります」

「何ですか」

「祓えたまえ清えたまえと三回言って頂けませんか」

 ナナモはそうか、それが禊ぎなのだと、これまで何かとアメノに勧めれた王家のしきたりに従おうとした。しかし、ナナモはアメノの言うことを口にしようとしたが、「僕は穢れてはいません」と言い切った。

 アメノはしばらくナナモを見つめていて、そうですよね……と何かその続きを口の中でごもごもさせたあとに、奥に下がってから急いで戻って来た。そしていつもの倍の大きさのコップに水を入れ、そして、傍らに果物を置いた。

「桃です」

「これでナナモさんは地下の世界から遮断されるはずです」

「これも禊ぎなんですか?」

「しきたりです」 

 ナナモはその言葉でそれまで上がっていた心拍数が下がったことが分かるほど落ち着いた。だからナナモはアメノの言う通り、桃を食べ、そして、コップの水を一気に飲み干した。

「ご注文は?」

 ナナモの目の前に何事もなかったかのようにアメノから笑顔がこぼれている。

そして、目の前からコップと皿は消えていて、神木のタブレットが目の前に置かれていた。

「紅茶をお願いします」

 ナナモは確か、つい先ほどアメノから何か言われたような気がしたし、アメノの顔に何か貼られていたように思ったが、どうしても思い出せなかった。ナナモは気にはなったが、それでもイライラすることはなかった。

「また騙されおって」

 アメノが煎れてくれた紅茶の香りをゆっくりと味わうことなく、一口喉に流し込んだ途端、神木のタブレットが作動した。当然目の前にはカタリベがいる。

 ナナモは何をだまされたのか分からなかったが、この紅茶には何か入っているんですか?と、反射的に尋ねたのだが、水じゃ、脇に置いてある清水を飲んでみろと、カタリベの声がする。

 ナナモは言われた通り清水だと言われたコップの水を口にする。すると、先ほどの記憶が蘇ってきた。

 まさか絆創膏を貼っていたのは、アメノ弟……と、ナナモは独り言を呟いた。

「そうじゃ」

 ナナモは、でも本当に現実に起こった事だったんだろうかと半信半疑の目を向けていたのだろう、カタリベから、わしを疑っておるんかという怒号がして思わず首をすくめた。

「でもどうやらうまくいっていたみたいじゃのお」

 ナナモはカタリベのにやっとした顔が気になったし、カタリベ以外神木のタブレットに誰も映っていないのにカタリベが、したり顔で誰かと視線を合わせているのが気になった。

「どういうことですか?」

 ナナモは黙っていられなかった。

「ナナモの記憶を制御していたんじゃ」

「制御?」

「ああ、ナナモは蘇りの事に縛られていて心に隙が出来ていたじやろう。だからオンリョウに入り込まれる。だから、蘇りが思い出される学校の授業の記憶を制御していたのだ」

 カタリベは周りくどい言い方をする。

「でも、僕は解剖学の用語を日本語でも今度はきちんと記憶できていましたよ」

 カタリベは一瞬眉をひそめたようにナナモには見えたが、ナナモはそれでもかまわないと、もう一度、「脳実習ですけどね」と、カタリベにわざと強めに言おうとしたが、そよ風のように、「ここのしきたりですから」と、声が聞こえた。 

 ナナモはその声はきっとアヤベだと思ったが確かめようがない。それでも、「そうだ。せっかく苺院に来られたのだし、確かにオンリョウの声をしばらく聴かなかったし、それはそれで感謝しなくては……」と、ナナモはコップの水ではなく紅茶をまた一口飲んだ。

「クニツジェームズナナモにとっては必要な記憶は残し、オホナモチジェームズナナモにとって不必要な記憶は忘れさすようにしたのじゃよ」

 カタリベは何食わぬ顔に戻っていたし、穏やかではないが荒ぶる声でもなかった。

 ナナモはつい先ほどまで気を落ち着かせていたのに、僕はクニツでもオホナモチでも同じ人物だ。だからカタリベさんはクニツであろうが、オホナモチであろうが、都合の良し悪しで記憶を調整していたんじゃないですかと、また、語気を強めて言いそうになったが、「しきたり」という言葉を思い出してぐっとこらえた。

「でもどうやってそんなことが出来たんですか?」

 ナナモはわざと話題を変えた。

「首飾りじゃよ。あれがナナモの記憶を取捨選択してくれていたんじゃよ」

ナナモは、そう言えばと、鎌倉でマギーからもらった簡素な紐に付けられた水晶の事を思い出した。

「何が思い出したじゃ!その前にコトシロがナナモに勾玉のブローチを渡したじゃろ。だから、ナナモはあの時守られていたんじゃ。コトシロはあれだけ解剖実習の時は付けて置くようにって念を押したのに、時々忘れおって、それに寮では外すように言われたはずじゃ。それなのに、付けたまま風呂場になぞ行きやがって。どういう了見じゃ。だから、また、渡さなくてはらなくなったじゃろうが」

 ナナモはハッとしてコトシロとの会話を思い出した。しかし、コトシロは、あの時オホナモチジェームズナナモにとって必要な記憶は残し、クニツジェームズナナモにとっては必要な記憶は忘れさすようにしたのだと反対の事を言っていたように思う。

 ナナモは始めて二人の異なる記憶が交差して戸惑ってしまった。もしかしたら、グラストンベリーの記憶があやふやなのはそのためかもしれない。

 しかし、ナナモはその想いを声に出すことができなかった。カタリベも全くナナモのこころを読もうとはしてくれなかった。

 いや読めないのかもしれない。でも、どうしてだろう。

 ナナモは先ほどカタリベが微笑んだ視線の先が気になったが、訊けるはずもなかったし、なぜかコトシロではないと思った。

 ナナモは気を落ち着かせようと胸に手を当てた。確かにごつごつした何かが胸にある。あの時のマギーは一体誰だったのだろうと、ナナモのさらに揺れる思いが、思わず手を突っ込み取り出したくなったが、取り出したとしても何も解決されないのではないかと、それでも父の話をしてくれたマギーとの会話は現実世界のはずだったと信じたかった。

「随分苦労したみたいだが、ハダが何日も徹夜で創ってくれたんじゃぞ」

 ナナモの迷いを打ち壊すようにカタリベの怒鳴り声がする。

何日も徹夜って?と、その言葉にハッと目覚めて、ナナモは、カタスクニなんだから一日で出来ないことはないんじゃないですかと、きっと心を読まれているだろうけれども、カタリベに言い返したかったが、そこはぐっとこらえた。その代り、「AIみたいですね」と、軽い気持ちで呟いた。

「なんじゃあAIって」

 カタリベはナナモの言い方にまた毒ついてきた。ナナモはたぶんカタリベは知っているのに知らないふりをしている。いや、神託こそがAIより優れていると考えているのではないかと、とぼけてみせたのかもしれない。

「ナナモよ。そんなに蘇りのことが気になるのか」

 カタリベは一瞬フリーズした様だったが、意外にもいつもより柔らかな口調でナナモに唐突に尋ねてきた。

 ナナモはカタリベにかしこまって言われると言葉がすぐには出なかった。その代り、誰の蘇りの事だろうとカタリベから視線をそらし、考えてみた。もちろんその始まりは解剖実習のご遺体だ。しかし、それから両親を含め、ナナモの周りの人々のことに拡がっていた。

いや、そうではない。僕自身の事だ。だから、僕はいつまでも蘇りに縛られているのかもしれない。

 ナナモは再び視線をカタリベに戻すと、「ハイ」と、正直に言った。

「だったら、ナナモには新しい事を学んでもらう。きっと、今後役立つに違いないじゃろうから」

 ナナモは、アヤベからの指令なのかと思ったのだが、いつもなら何らかの前ぶれがあるのに、いつの間にか神木のタブレットに吸収されていた。


 ここはカタスクニなのだろう。しかし、建物の中ではない。ナナモは野外にいた。広い土のグランドの様だ。しかし、グランドの土は乾いていない。かすかに湿っている。それは少し黒ずんで重そうな砂粒から伝わって来る。それでいて、周りの空気は乾燥している。どうやら晴天の様だ。透き通るようなブルーだけの空がドーム状にグランドを覆っている。

 ナナモは野球場のように柵がないのか周囲をぐるっと見渡したが、やはりここはカタスクニなのだと、まるで、永遠に続く世界の中で一人立っていた。

「デヒラと言います」

 誰も居ないのかと思っていたのに、急にナナモの隣に白髪の男性が立っている。カタスクニであるはずなのに、上下とも背広を着ているし、よく見ると口髭も生やしている。もちろん白髪だ。それに長靴のようなものを履いている。それも白色だ。つまりこの男性は全てが白い。

 いや、待てよ。瞳は黒い。案外大きいが、ナナモと同じように眼窩が少しくぼんでいた。

 ハーフ?だからナナモはつい英語で、ここはカタスクニなのですか?と、尋ねようと思ったが、もしそうであったとしても、いきなり見ず知らずの人に尋ねるのはどうかと思って止めた。

「ジェームズ・ナナモです」

 ナナモはまずは自己紹介だと、日本語で名乗った。特に意図した目的はなかったが、あえてオホナモチもクニツも省いた。

「コトシロから伺っています」

 デヒラはきちんとした日本語の発音で応じた。だからといってハーフでないと言い切れない。それでももはやそのことはどうでも良かった。それよりここは本当にカタスクニなのだろうかともう一度周りを見渡した。

やはりここは野外である。それに周りにそれらしき建物は全く見当たらない。

「あの~」

 デヒラは背筋をピーンと伸ばし、特に眉間に皺を寄せているわけではなかったが、無表情さが却って不気味だったので、ナナモは漫画や映像の世界によく出て来る鬼教官を連想して、つい口ごもってしまった。

「ナナモさんは、神代カミヨ五種競技を行ってもらうようにコトシロから託宣されましたね」

 いいえと、ナナモはすぐに答えたかったが、デヒラが言うのだったらその通りだろうと、今度はぐっと言葉を飲み込んだ。

「え~っと、でも、その神代五種競技の内容までは聞いていません」

 そうですか……と、一瞬、誰かと話しているかのように黒い瞳が動いたようだったが、すぐに、何事もなかったかのように、ナナモにその黒い瞳を向けた。

「神代五種競技とは、水泳、馬術、剣術、射的、そして、陸上の五種目のことを意味します。ただし、ここはナナモさんもご存知のように、カタスクニです。ナナモさんが地上の世界で考えておられるものと若干異なります」

 やはりカタスクニなのだと、ナナモはほっとしたが、そうであれば、今デヒラが言ったことがかえって気になる。だから、もう少し具体的に説明してほしいと思って、例えば……と口にしようとした途端デヒラはナナモを制して言葉を継いだ。

「例えば水泳ですが、これは水に関することの全般を意味します」

「例えば……」と、今度は、ナナモはすぐに尋ねた。

「もちろん、字のごとく水泳はそうですが、例えば、飛び込みなども含まれますし、ボート競技や水球や、サーフィンなども含まれます」

「それじゃあ、陸上などはもっと広範囲になりますよね」

 ナナモはまるで二回生になって次々に始まった専門科目のように、その膨大さに少しめまいがした。

「そうですね。だから、この中で、文字のままの競技である馬術と剣術を私は担当させていただくことになったのですが、コトシロから、ナナモさんは剣術をもはややっておられるとお聞きしました。したがいまして、私はナナモさんに馬術だけを教えれば良いことになります」

 ナナモはほっとしたが、その瞬間ナナモにある記憶が蘇ってきた。しかし、はっきりした映像ではない。だからその記憶が正しいかどうかはわからない。しかし、もしその記憶が事実なら、ナナモは誰かに馬に乗せられて全速力で走ったような気がする。ナナモはただ誰かにしがみついていただけなのだが、馬の背に乗っていた時の振動と、振り落とされないだろうかという恐怖だけと闘っていたように思う。

「乗せられていたから恐怖を感じたのです。自らが手綱を持てばそうはならないと思います」

 本来なら、デヒラもナナモのこころを読むのか、それともコトシロとやはりつながっているのか、いや、カミサマと繋がりのある者なのかと、訝しむはずなのに、ナナモは、ただ、デヒラの言ったことに、そうだろうかと、ぐずぐずと音が鳴るくらい、全く納得できずにいた。

「でも始めなくてはなりません。よろしいですね」

 ナナモはハイと返事するしかなかった。すると、急にひひーんと馬の泣き声が聞こえてきたと思ったら、デヒラの横に真っ白な馬が現れた。

「えっ、これは……」

 ナナモが驚いたのも無理はない。その馬はあまりにも小さかったからだ。もしかして、ポニー?でも、それよりは大きいような気がするし、筋肉質だし、足も太い。そして何よりもその白い毛は風も吹いていないはずなのに少し波打っているようだったし、何よりもキラキラと輝いていた。

「神代の時代の馬はナナモさんが見た事がある馬よりもかなり小さかったのです」

 ナナモはロンドンで嫌というほどではないが、事あるごとにパレードなどで馬上に乗っている衛兵たちを見た事がある。だから、余計にそう思ったのかもしれない

「まず、馬の右側に立ち手綱を持って、鼻の頭を優しく指の腹の部分で撫でてあげてください。それから身体を手のひら全体でゆっくり優しく滑らせるように撫でてあげてください。この馬はおとなしい馬ですがそれでも緊張しています。だからナナモさんがその緊張を解いてあげてください」

 ナナモは少し身をかがめデヒラの言う通り優しく馬に触った。その瞬間、少しピックと反応したが、それでもぶるっと鼻息を立てたり、前足を上げたりすることはなかった。

 馬の気持ちをいつも感じてあげてくださいと、デヒラが言った。だからナナモはファーストタッチで衝撃的な出会いを感じるのかと思ったが、特にナナモに劇的な反応は起こらなかった。ただ、その馬が相変わらずおとなしく微動だにしなかったことで、もしかしたらこの馬はカミ様が遣わした神馬で、ナナモが触っている間にナナモの心を読んでいたのではないかと、ふと疑いの目で見てしまっていた。

「ここは天上の世界ではありませんよ。それにそんな考えを持っていたら、馬は決して寄り添ってくれませんよ」

 デヒラのはっきりした声が、まるで、何を甘えたことを考えているんじゃというカタリベの声にかぶせるように聞こえてきて、ナナモは思わず握っていた手綱を少し引いた。すると、馬は少し驚いたのか耳をぐるぐると回した。しかし、ナナモが直ぐにそのことに気が付き、ごめんなさいと、もう一段階身をかがめるように謝ると、馬はまた落ち着いたのか、耳を回さなくなった。

「踏み台が要りますか?」

 デヒラがおそらく馬の乗り降りに使う台のことをナナモに尋ねて来たのであろうが、どう見ても要るはずもなく、格好良くジャンプして馬の背に乗ることもないだろうと、それでもわざと大きくまたぐようにしてその小馬に乗ろうと左足を上げかけたところ、今までナナモの背よりも低かった馬が急に大きくなった。

 えっと、ナナモは大きな声を発していた。

「言い忘れていましたけど、馬が安心して騎乗を許した途端に騎乗者に身体を合わせることになっているのです」

 言い忘れなどあり得ない。それにさっきデヒラは神代の時代の馬は今よりずいぶん小さかったと言ったばかりではないかと思いながらも、ナナモは全く動かない馬なら何とか飛び乗れるのではないかと、ジャンプした。

 どすんという音がしたわけではない。それでもそんな衝撃が身体中を走った。もしかしたら、どこか強く打って骨折でもと気が気でなかったが、案外黒土は柔らかかった。

「踏み台を下さい」

 ナナモは、飛び乗ったと思った瞬間反対側に落ちていたのだ。それでも、軽く衣服に着いた土を払い、また馬の右側に回ると、何事もなかったかのようにデヒラに頼んでいた。

「手綱は私が持っていますから、馬の背に乗ったら、恐いからといって前かがみにならないで、背筋はまっすぐ伸ばして、そのままどすんと腰掛けるようにリラックスしながら座ってください」

 デヒラは慌てないでゆっくりとした声でナナモを誘ってくれるのだが、先ほどのことがあったからか、相変わらず動かないのに、踏み台を使ってもその馬の背に乗ることはやっとだった。

 ナナモは言われた通り、背筋を伸ばして座った。最初は周囲に何もなかったので思わなかったのだが、手綱を持ったデヒラと眼下の黒土で空間を理解した時、案外高いんだと、先ほど落ちたのに怪我しなかったは奇跡だったのかもしれないと、もしもっと固い、例えば岩場やアスファルトの道だったらと、急に怖くなって、あれほど言われていたのに自然と身体が縮こまってしまっていた。

「タイフって呼んでいるんですけど、正式にはタイフホワイトって名前なんですよ。覚えておいてくださいね」

 この馬もハーフ?神馬かもしれないのにと、いつものナナモなら突っ込みどころ満載なのにそれどころではなく、ナナモの心情を読み取ったのか、デヒラが手綱を引いて付き添いながら馬をゆっくり歩かせてくれたし、タイフもそれなりに気を使ってくれているのか出来るだけ揺らさないような常足で歩いてくれていたのに、ナナモはただ前方の一点を見ただけで、ある意味あっという間に、ある意味とてつもなく長く、ナナモの乗馬体験の初日は終わった。

 結局、初めて乗馬が出来た嬉しさより、高い視線になかなか慣れないのに身体が上下に揺れたことで、少し気分が悪くなったことしか記憶に残らなかった。

 しかし、それはナナモのせいでタイフが悪いわけではない。それでもナナモがまた踏み台を使って降りようとした時、初めてぶるっと、ため息というか、申し訳なさそうな悲し気な鼻息が周囲にかすかに響いていた。

 ありがとう、楽しかったよと、騎乗しようとした時と同じようにタイフに頭を下げればよかったのに、きっとそれほど長い時間ではなかったはずなのに、ナナモはマラソンを走り切ったようにぐったりしていて少しも口を開くことができなかった。だから、手のひらで胸板をありがとうと軽く触ってあげるだけで精一杯だったし、タイフには悪いが、まだ自分で走っている方がましだとロンドンの街中を、アヤベを追って地に足を付けながら全速力で執拗に追いかけていた時の事がふと脳裏をかすめた。

 あれは本当だ。記憶がすり替えられているわけではない。だから、僕は今ここに居る。だから、もっと頑張らなくては。

 ナナモは自分を鼓舞しながら、懐かしい思い出を記録として確かめていると、突然、先ほど誰かに馬に乗せられて全速力で走った時の記憶が蘇ってきた。でも、この記憶と記録は微妙にぶれている。

 ナナモはそれでも誰だったのだろうと、その誰かの名前を思い出そうとしたが、なにがしの朝臣としてだけしか思い出せなかった。やはり、思い違いなのだろうかと、ナナモは疲れているのだと首を横に振ってリフレッシュさせようとしたが、すればするほど、なぜか記録としての映像が脳裏で鮮明に浮かびあがって来る。

 なにがしかの朝臣、いや、きっとその誰かは、皇家と関わりがある武官だ。だから、ナナモを後ろに騎乗させ、その上ナナモが降り落ちないように気を使いながら、全速力で右に左へと馬を操りながら旋回し、障害物に邪魔されても回避し、最後には、手綱を離し人馬一体となって、自ら馬上で弓を引き、流鏑馬のように見事何度か的を打ちぬくことが出来たに違いない。

 あんなこと僕に出来るのだろうか?

ナナモは急に鳥肌が立った。

 でも、僕は弓道がまだ出来ないはずだ。

 ナナモはそれでも神代五種競技の中に、射的が入っていたことと、ここはカタスクニだということが気になって、再び記録と記憶の迷路に足を踏み込んでしまっていたのか、ありがとうございましたと、デザワにもタイフにも言わずに、いつのまにかカタスクニの馬場から苺院に戻っていて、アメノが煎れてくれた紅茶を自ら口に運びながら大きな溜息をついていたことにさえ気づかなかった。



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