(15)あまりにも短かかった夏休みの思い出
ナナモは鎌倉の主だった観光地を足早に回ると、陽の落ちたユイガハマを後にして、夜遅くに東京のマギーの家に帰った。マギーから頼まれたからではないのだろうが、相変わらず室内はきれいだ。きっとキリさんが今は誰も住んでいないのだから汚れるはずもないのに、空気を入れ替え、少しでもカビが生えないように、常に見張ってくれているからだろう。だから、ナナモは昨年もそうだが、東京に居たときと同じような寝心地でベッドに横たわることが出来た。
ナナモは、鎌倉はヨウカイが住むところだと聞いていたので何か夢でも見るのかと、それが現実でもVRでも異世界でも構わなかったし、多少期待するところもあったが、解剖実習や医学部剣道大会でスゴク疲れていたのか、蘇りどころか、ぐっすりと、もう少しで身体が溶けてなくなってしまいそうだったが、それでも、溶かすまいと誰かの金切り声が聞こえる。
ナナモはその声にハッとして飛び起きた。
六時前だ。ナナモはまだ頭も体も時間の推移におぼつかなかったが、それでも身に染みた生理が勝手に動き出す。だから、洗顔を済ますとTシャツと短パン姿だったが、急いで家を出た。
もちろん向かったのはあの場所だ。ナナモは一礼し、鳥居をくぐると、手水舎で清めてから、二礼二拍し、参拝すると、もう一度一礼してから、帰宅しようと、鳥居をくぐりかけた。
「ラジオで体操、の時間です。では始めましょう」
狛犬の首根っこを掴むように誰かが引き戻す。
ナナモは思わずその声に向かって振り返った。
去年までビルの谷間にひっそりと身を隠すように佇んでいた神社の境内だったのに、いつの間にやら広くなっている。ナナモはもしかしたらここは異世界なのかと、頬をつねった。もちろん痛い。それでも異世界でも五感は働く。だから痛いからといって異世界ではないとは限らない。
ナナモの目の前には子供たちが十数名いて、ラジオから流れる曲に合わせて皆、おなじような動作をしている。
「懐かしいでしょう。参加されませんか?」
ナナモの前に急に神主さんが現れた。
アヤベさん……と、ナナモが言いそうになったが、アヤベとは似ても似つかない皺だらけの白髪の老人はまるで仙人のようにニコニコしている。そして、今しがたナナモの前に居たのに、子供たちの前に立って案外一つ一つの動作を手抜きすることなくラジオに合わせて身体をなめらかに動かしている。
ナナモはこの光景を見ながら、確かに懐かしいと思った。でもなぜだが分からない。
「夏休みの間子供たちの中にはこうやって朝はやく起きて体操する催しが町内会や神社が中心になって催されていたんですけど、周りに民家があれば朝からまあまあのボリュームだからクレームが出たりして、都市部では次第に催さなくなってきたんです。ここは周りはビルばかりで騒音は気にしなくてもいいんすけど、そういうところは反対に子供が少なくなっていますから……。難しいですね」
神主さんはいつも間にかまたナナモの傍らに立ってナナモに話しかけて来る。
ナナモは、夏休みか……と、もしかして僕も子供の時にここに来ていたのではないのかと、つい記憶の部屋を訪れようとしたが、頭痛がして、また首根っこを掴まれた。
「子供たちの胸の所にぶら下がっている小さなビニール製のポシェットが見えますか?あれ、体操カードが中に入っていて、体操が終わったら私がそのカードに出席したことを証明するハンコを押してあげるんです。古風でしょう。本当はここに来なくてもスマホを使えば家で出来るし、カードにしても何か操作をすると、スマホでハンコというかスタンプを押せるんでしょうけど、子供たち全員がスマホを持っているわけじゃないですし、この通り私は昔の人間でスマホの操作が苦手ですから」
神主さんは頭を掻きながらナナモに体操カードを見せた。
「カードと言っても少し硬い再生紙で創ったものなんです。それでも、その方が今の子供には新鮮な様で、こんな都会の真ん中なんですけど、友達にも会えるし、ハンコを集めればその個数によって、商品がもらえるんで、案外人気なんですよ」
「その体操カードのすべてにスタンプが押されていたら、何か良い商品がもらるんですか?」
「皆勤賞っていうんですよ。やはり気になりますよね。ただね、ここは神社ですから、お菓子が主ですけど、子供には相応ということで納得してもらっています。ただ年々皆勤賞の子供が少なくなっているんですよ。勉強やゲームだったらいいんですけど、家庭環境が複雑な子もいて、ここが唯一のオアシスだと考えている子もいますからね。だから、最近は夏休みの朝早くになかなか起きられなくてハンコがもらえなかったらかわいそうだから、本来はラジオの時間に最初から体操することが大事なんですけど、少しぐらいなら遅刻しても構わないって、本当は子供の教育には良くないのかもしれませんけど、ちょっとだけ甘くしてあげているんです。ただね、そうしてしまうと、体操にこれなくてハンコが押されていないのに、そのところだけくりぬいて、カードを持ってくる子がいてね。でも、唾をめい一杯つけた人差し指で障子に穴をあけて覗いているように、不安げなんですけど、くりくりした瞳でカード越しに見つめられると、ついね。もしかしたら誰かの入れ知恵なんじゃないかって思ったりもするんですけど、本当はその子供は皆勤賞ではないってわかっていて、意味がないとは思っているに違いなんですけど、何らかの理由でお菓子を持って帰らなければならなかったのでしょうね。だから、他の子供に言っちゃだめだよと諭してから、無垢ないたずらだと、結局許してあげたりもするんです。
でもね、ここは神社なんですけど、体操が目的だから必ず参拝しなければならないということはないんですけど、子供たちは、いつも私がハンコを押してあげると、ありがとうって言ってくれるし、特に、何か事情がある子供に限って熱心に、社に向かって手を合わせて帰ってくれるんですよ。なんかありがたいですよね。そういう気持ちが……」
神主さんの眉毛の下がった笑顔を見ると、ほっこりする。
「あの女子も、学校で色々あった様なんですけど、ここには頑張って来ているんです」
真っ白なTシャツに、赤いパンツを履いた、くりっとした瞳の女の子がナナモの目に映る。ナナモは、いじめ?と一瞬思ったが、それよりその女子をどこかで見たような気がして仕方がなかった。結局、思い出せなかったが、ほらあの男の子もと、神主さんに言われた時も、その男子はどこかで見た事はなかったが、覚えておこうと思わせるような気になった。
「あなたも参加されませんか?」
神主さんは、また、同じことを言ってきた。
ナナモは、いや、僕は大人ですし、今日、大学に戻るんで、明日の朝は来られませんから……と、言おうとしたが、あれだけ神主さんと話していたのにまだラジオで体操は終わっていなかったので、いつの間にか、身体を動かしていた。
ナナモはあの女子の動きに見よう見まねで一生懸命だったが、ラジオから流れてくる音に合わせていると、案外軽やかに出来ているように思えてきた。しかし、今まで一度も顔色を変えなかったあの女子が、一瞬頬を緩めたので、僕が思っているほど僕の身体の動きはイケてないんだと、ナナモは苦笑いでごまかすしかなかった。
いつしか、ラジオからの音が聞こえなくなっていた。神主さんの言っていた通り最初にナナモが見た時より若干子供たちは増えていた。子供たちは神主さんの前にきれいに一列に並ぶとポシェットから体操カードを取り出し、神主さんにスタンプ、いやハンコを押してもらっていた。皆、ありがとうございますと、ナナモが参拝するときよりも丁寧に頭をさげ神主さんに挨拶すると、社へ行って手を合わせていた。その後、何人かはすぐに神社をあとにしたが、何人かは神社にとどまっていて、今まで体操をしていた子供たちとカードを見せながら何やら楽しそうにしゃべっていた。ナナモはあの女子はすぐに帰ったのだろうかとあたりを見渡すと、帰らずに社の前で手を合わせて何やらカミ様と話している様だった。ナナモはスゴク気になっていたので、その場から動けなかった。
「はい、体操カードです」
神主さんがあまり手触りが良いとは思えなかったが、それでもしっかりした紙質の二つ折りになっているカードを一枚ナナモに渡してくれた。ナナモは思いがけなかったが、ありがとうごさいますと、自然と頭を下げ、両手で受け取った。
ナナモはどんなハンコが押されているのだろうと、そのカードを見てみると、日付が書いてあるカード一面に隙間なくハンコが押されていた。でも、このハンコってどこかでみたような……。
「シンモンです、ジェームズ・ナナモさん。やっと皆勤になりましたね」
ナナモはえっと、思わず神主さんの顔をもういちど見ようとカードから視線を上げたが、目の前から神主さんは消えていた。それどころか、子供たちは誰一人いなくなっていた。それでもナナモはあの女子だけは、まだ社の前でカミ様と話しているような気がしたが、閑散としていて、もはや完全に夏の日差しに戻っていたのに、ビルの谷間である境内はその影に埋没していた。
ナナモは誰も居なくなったのを幸いに、もう一度そのカードを今度はじっくり見ながら嬉しさを噛みしめようと思った。しかし、あれだけハンコで埋め尽くされていたのに、ナナモがもう一度見た体操カードには、何か所かに穴が開いていて、最後のマスにぽつんと一個だけハンコが押されているだけだった。
「ハンコの種類も違う」
ナナモがそう呟き、首をひねった途端、また、誰かに首根っこを掴まれた。
「当たり前じゃ」
カタリベ……さんと、ナナモはまるでマギーと何やら取引しているような光景が映ってゾッとした。だから、新しいカードを届けておきますからと、神主さんの優し気な言葉がそよ風に紛れるように届いても、ありがとうございますと、もはや言えなかった。
ナナモはやけにけたたましく鳴る目覚まし時計の電子音で起きた。夢を見ていて眠りが浅くなっていたのか、案外すっきりしている。だから、六時前だということがすぐに分かった。ナナモはいつものようにさっと起き上がると、夏なのにもはや秋の気配を感じる気候に応じて、薄手だが真っ白なトレーナーを着て、クリ―ム色のチノパンを履くと、急いで洗顔を済ませてから、いつもの神社に向かった。一年ぶりだったが、全くそんな感慨にふけることもなく、一礼してから鳥居をくぐり、手水舎で清めると、社に向かって二礼二拍し、手を合わせた。そして、また、一礼し、振り返ると改めて境内に身を置いた。久しぶりだったが、いつもの境内が目に映る。都会のど真ん中なのに静かだし、誰も居なかった。きっと、この場所だけは代わっていないのだろうなと思いながら、でも神社の周りは時代時代に応じて消えたり蘇ったりして変化してきたのだろうか、そしてその移り変わりを神社だけは知っているのではないのだろうか、と思うとなんか複雑な気持ちになった。
僕は昔参拝ではなく他の目的で来ていなかったのだろうかと、ナナモはふと神社に祀られているカミ様に尋ねてみたくなって振り返ろうとしたが、ここは異世界ではないし、カミ様は答えてくれないだろうとそのまま前に進もうとした。
「ラジオで体操をしませんか?」
誰かの声がする。もしかしたら、アヤベかと、ナナモは思ったが、そんなはずはないし、神主さんなら話が長くなりそうな気がして、申し訳ない気持ちを抱きながらも、それより早く家に戻らないとと、振り返ることなく鳥居をくぐった。なぜならナナモが起きた時に食卓に載っていたスコーンとクロテッドクリームとイチゴジャムと紅茶のテイーパックを思い出したからだ。ナナモは振り返り、キリさんありがとうと、一礼すると、神社を後に走って家に戻った。
貴重な夏休みだったはずなのにナナモはどこかに行くこともなく、イチロウもいなかったこともあって、キリさん宛に丁寧な英語で感謝の手紙を書き終えたあと、中田教授との約束を果たすために大学に戻った。
ナナモは、アヤベとの語らいはあったものの、解剖学の再試験を本当に日本語だけで書けるだろうかと不安だった。もし書けなかったら、ナナモはまた蘇りに悩まされるかもしれない。けれども教授が言っていたように、学年末の進級試験には日本語だけで回答しないといけない。ナナモは中田教授から形だけの再試験だと言われていたので、白紙で答案を提出しようかと思ったが、結局、名前の欄にはクニツ・ジェームズ・ナナモとは書かないで、七雲 Jamesと書き、四問あった試験問題も半分は英語で半分は日本語で書いた。ナナモは半分だけでも日本語で書けたことにほっと一息という気分になったが、やはり蘇りというか、オンリョウの声がまた聞こえてくるのではないかと、その反面不安は消えなかった。だから、どうしても授業が再開される前に一度カタスクニに行きたいと思った。なぜなら、ハルアキ師ならナナモに何か対抗策を与えてくれるはずだと、強く思ったからだ。
しかし、きっと、解剖実習がすべて終わらなければカタスクニには行けないだろう。ナナモはそれでも前に進むしかないと、八月の最終週からまた前倒しで始まる第二解剖学教室が主催する神経解剖学実習までの残り少ない夏休みの日々を悶々としながら、寮で過ごしていた。
「ナナモ君も一緒にやらない」
日曜日の昼下がりナナモがコンビニから帰ってくると、寮の前で小岩がまだおぼつかないながらもなぜか一輪車に乗っている。ただし、ナナモ君……とは、妙に寒気がする。
「どうしたんですか?」
ナナモはそれでも先輩を無視することはできない。それに小岩はいつになく楽しそうだ。
「いやね、弓道がはじめられるようになったんだけど、馬には乗れないからね」
小岩は唐突にナナモに話しかけてきた。
ナナモは何を小岩が言っているのかわからなかったし、寮のおきてで弓道部には入れないと言っていたのを思い出した。
「じゃあ、僕も弓道ができるんですか?」
ナナモは、弓道にものすごく興味があったわけではなかったが、鎌倉に行っていたこともあり、小岩に近づくとつい尋ねていた。
「何を言ってるの、ナナモ君はまだできないよ。もう一年もたってるのにまだ寮の規則を読んでなかったの。それに僕だって、今年になってやっとやぶさめの許可が出たんだから」
どうやら小岩とは会話がかみ合っていない。しかし、ナナモはそのことにもはや慣れていた。だからイライラしなかったし、小岩のプチいじめだとも思わなかった。それにヤブサメなんかわけのわからない言葉を使っている。
「じゃあ、寮の規則では4回生にならないと始められないんですね」
ナナモはやっぱりかと思いながら小岩に確認するように尋ねた。
「だから、さっきも言ったところじゃないの。寮の規則」
ナナモはだから寮の規則を知らないんですよ。いや、結局、寮の規則書を手にすることはなかったんですよと、半ばふてくされてように言おうと思ったが、やはり先輩なのでぐっとこらえたし、弓道と一輪車とどういう関係があるのかわからなかったし、一輪車に今は興味がなかったので、スールーしようと思ったが、なぜか、ナナモ君、良いの、僕の話を聞かなくて、本当に良いの?と、聞こえてきて、すいませんが、寮の規則を教えてくださいと、頭を下げていた。
「いや、ナナモをいつも見上げていたんだけど、なんか気持ちいいね」
小柄な小岩は、ナナモと同じくらいの目線で話しているのが楽しいのか、別にへらへらしているわけでも酒に酔っているわけではないのに、身体を前後に揺らしながら、一輪車から降りようとしなかった。
「解剖実習が終わって、三回生に進級出来たら弓道をはじめられるんだよ」
ナナモは寮の規則を知らないので頷くしかない。きっと、そのことを小岩は知っているのだろう。ナナモの顔色を伺いながら言葉を選ぶということは一切しなかった。
「でも、小岩さんは四回生じゃないんですか?」
「そうだよ。だから、去年から弓道場に時々通っていたんだ」
ナナモは初耳だった。確かに寮の武具庫には弓道に必要な武具が全て揃っている。しかし、もし、それを取り出して寮内を歩いていたら、さすがにナナモでも一度くらいは目にしたはずだ。
「寮の弓道用の武具はヤブサメの時にしか使えないんだよ。だから、弓道部に頼んで練習させてもらっていたんだ」
良く練習させてくれましてね、小岩さんは剣道部なのにと、ナナモが尋ねると、寮生だからねと、また、わけの分からない返事をしてくる。
「ところでさっきから小岩さんヤブサメって僕に言ってきましたけど、ヤブサメって何ですか?それと、弓道や一輪車ってどういう関係があるんですか」
あれほど千鳥足のような一輪車だったのに、急に身体も一輪車もピタッと止まった。それどころかナナモをじっと見つめている。それからどうしようかなという風に表情が崩れていったが、一輪車からは落ちなかった。
「ナナモ、ヤブサメって知らないんだ」
小岩は先ほどの静止画からまた動画に戻っていたが、先ほどよりは安定している。
「スマホ持っているよね」
ナナモは、小岩が説明してくれるのかと思っていたが、はいと返事をするとスマホを取り出し、小岩が意図するようにヤブサメを検索する。
流鏑馬と漢字に変換されてもすぐにはピンと来なかっただろうが、画像がすべてを物語っていた。サブサメってこういう漢字だったっけと、ホースバック・アーチェリーとして記憶していたナナモは、ああと、頷くしかなかった。と同時に、まだ、英語と日本語がうまくかみ合っていなんだと、解剖だけではないことに驚いた。もしかして、メスを持った時にも感じたあの違和感が、モノノフと関係するすべての武具にも影響していて、アヤベの言っていたように、英語と日本語がうまくかみ合わないことでナナモを守ろうとしていたのかもしれない。
「流鏑馬ですね。度忘れしていましたけど知っていますよ」
ナナモは強がりで言ったのではない。ただ、叔母から教わったのではない。ルーシーから教えられたのだ。だから、ナナモは鎌倉の歴史館に入った時に飾られていた流鏑馬のパネル写真を偶然見つけた時は、日本の伝統を顧みたのではなく、ルーシーへの雄姿を思い描いた。
「そう考えると俺も勇ましく見えないかい?」
小岩はナナモが小岩に見とれていると思ったのかもしれない。
「でも、それ一輪車じゃないですか」
「うちの大学には馬術部なんてないだろう。だから馬に乗れないんだ」
小岩はさっきも言ったよねという顔をする。それでも、一輪車を器用に前後に揺らしながらため息の言葉を継いだ。
「昔は、この辺りにも牧場があったらしいけどね。今じゃね」
「でも、探せばあるでしょう」
ナナモは東京のど真ん中じゃないんですからと続けようと思ったが、ぐっとこらえた。
「田舎だから、広いから、ビルがないし、空き地が一杯あるから、牧場ぐらいって思っているんだったら偏見だよ。でもね、本当は少し車を走らせたら馬術場は在るんだ。でもね、毎日俺が通うってわけにもいかないし、流鏑馬が出来る馬は特殊だし、相当練習して馬と呼吸を合わせないとだめだからね」
「だから、一輪車に乗っているんですか?」
小岩はナナモの問いには答えてくれなかった。だから、ナナモは話題を変えた。
「でも小岩さん、去年から弓道を始めていたのに、去年、流鏑馬に出たって聞いたことなかったし、僕の記憶では全く一輪車にも乗っていなかったですよね」「それは、ナナモが居たからだよ」
「僕が?」
「だって、君は弓道部に入りたがっていただろう。これは弓道ではないけど、弓道をしていないと出来ないし、俺の雄姿を見たら、あの時きっとナナモは剣道部をやめるって言いかねなかったからね」
自信満々なはずなのになぜか小岩の呼吸に変化が見える。だから、ナナモはそれだけじゃないでしょうと、わざと鎌をかけるように小岩の視線を追った。
「もしかして、寮の規則に何か書いてあるんじゃないですか?例えばギリギリまで、再試験を受けていたら、翌年からになるとか」
ナナモは一年前に寮で最初に小岩と出会った時の事を思い出していた。
ナナモの問いに小岩はそれまで平然とした顔をしていたのに、急に一輪車から落ちた。尻餅をついたのかしかめ面でしばらく座ったままだった。
ナナモは大丈夫ですかと小岩に近づいた。しかし、小岩はナナモの優しさをはねのけるように、こう言った。
「流鏑馬は神事だからね。昔は当然馬に乗っていたし、乗らなければならなかったんだけど、さっきも言ったけど練習が難しくなったし、それでも、一輪車で練習して体幹を鍛えてから、何度か馬に乗って本番に臨んでいた学生もいたんだけど、ある年に落馬事故が起こってね。それから、馬ではなくて一輪車になったんだ。それでも、甲冑を身に付けないといけないから、出来れば剣道部からって要望なんだよ」
ナナモは、でもそれとさっきの話は違いますよね、という顔をする。
「神事だからカミサマのお告げがなければ開催されないんだけど、ここは杵築だろう。武力放棄した街だからね。開催時期は気まぐれなんだ。でも、正装姿で、できるだけ早くこぎながら的を射っていくんだ。たとえ一輪車でも、カッコイイとは思わないか?」
ナナモは正直格好良いとは思えなかったが、それより誰の誰に対する気まぐれなのだろうとそのことの方が気になった。
「なんか怪しいですね」
ナナモはつい声に出していたのに自分では分からなかった。
「流鏑馬には寮生の誰かが必ず出ないといけないんだ。だからかもしれない」
ナナモが黙っていると、小岩は急に顔を挙げ、「寮の規則なんだ」と、念を押すように言い放つと、また一輪車に乗って今度は弓を大きく射る構えをしながら、別の痛みがあるかのように眉間に皺を寄せていた。
夏休み前の解剖実習で、もはや、頭蓋骨から脳実質は取り出されていたので、第二解剖学の実習は、その脳全体のスケッチをした後、指導された通り、大きな包丁のような刃物で輪切りにしていく作業から始まった。一つの脳に四人で実習を行う。それも同じメンバーだ。だから、身体解剖学を済ませ、夏休みなどあってないようだったが、それでも、学生気分から一皮むけたような顔つきになっていた皆はそれほど作業が困難だとは思わなかった。
割面が全く同じではないが、劇的な変化があるわけではない。だから、解剖実習の手引きに従って、切離し、その割面をスケッチをしていくのだが、内臓や骨格を解剖した時のような、ご遺体には申し訳なかったが、感動は薄かった。
「脳が働かなくなっても手足はある程度動きますし、心臓だってすぐには停止しません。しかし、脳が働かなければ、脳細胞の信号は発せられません。そのことはどういうことを意味するかわかりますよね」
解剖実習が始まる前に教授からそのことは聞かされていた。そして、教授はその見極めが難しいので脳は我々が想像できないほど奥深いのですと、付け加えた。
しかし、目の前の脳の切片からはそのような雄大さなど微塵も感じられなかった。ただ、物言わぬご遺体の記憶がこの中に詰まっていたはずだと思うと、どうにか出来ないのかと、ナナモは蘇えりの事もあって、皆よりスケッチが遅かった。
「脳って何でしょうね」
久しぶりに四人が集まったことで、定時で終わった実習のあと、喫茶室を兼ねている食堂へ行った際に、珍しくキガミが各々の近況を伝えあったあと、まるで頭の毛をかきむしったあとに放心状態になったかのようなか細い声で呟いた。ただしキガミだけが特別ではない。脳実習の時には一度は医学部生が考えることである。それは、ナナモとおなじようにあまりにも特徴がない脳実質の輪切り断面を見たからかもしれない。
「だから、さっき教授が言ってたよね」
テニス部であるキマタは真っ黒に日焼けした顔で少しけだるそうだった。
「キガミは教授が言っていたことをすべて理解したの?」
きっと、少しは日焼けしているのだろう。しかし、おくびにもださない美白が命のクツオキが、すぐに反応した。
「だって、僕らがいくら脳を切ったとしても、何もでてこないし、隣の解剖グループをちょっと覗いたんだけど、僕らの脳とあまり変わらなかったからね」
隣のグループのご遺体は女性だった。
「私、心臓や肝臓も同じだったからって、何も思わなかったのに、なぜか今日は特別なことを感じてしまったの」
キガミの声がいつものキガミに戻るにはまだ時間がかかりそうだった。
「やはり脳は特別なのかもしれないな」
ナナモはなぜかいつもなら話さないのに、今日、脳の実習で感じた事を話していた。
「脳がどんなに精密でも、生きていないと細胞からの刺激は発せらられないし、発せられなかったら、その刺激がそのヒトの記憶になっているから蘇ることはないですよ」
キガミではなくキマタの声だった。
「でも壊れたコンピューターでも復元出来るっていうじゃないか?」
ナナモはそんなバイトをしたことがあると以前イチロウから聞いたことがあった。
「僕は工学部の学生じゃないですからよくわからないですけど、脳はもっともっと複雑なんじゃないですか?だって、脳は宇宙だって言うでしょう」
宇宙と同じだと言われても宇宙がよくわからない者にとっては、それは哲学で科学ではないように思えた。しかし、だからと言って宇宙が哲学だとは言い切れない部分もあるし、実際ナナモは分からないが、数式が宇宙の原理を一部解明している。
「もし、宇宙が科学で、医学も科学なら、いつか脳も解明されて、記憶も取りだせて復元することが出来るかもしれないな」
「そうとはかぎらないわ。だって、コンピューターは一度プログラミングされたら変わらないけど、脳は変わるし、年齢とともに、衰えていくから」
「記憶が代わるって事かい?」
「そうじゃないわ。記憶の回路が働かなくなったり、都合のいいように回路を作り直したりするっていうことよ」
キガミはやっといつものキガミに戻った。
「そうだよな。だって、医学部に合格した時、あんなに嫌だった受験勉強の思い出が輝いたからな」
キマタは、でも一瞬だったけどと、やっぱり、嫌だったり、つらかったりしたことはそう簡単に変わらないんじゃない?と、呟いてから、そうだよねと、キガミ以外に言葉を投げつけて来た。
ナナモは思わずそうだよ、僕もあの時……と言いかけて慌てて口を閉じた。
他の三人が一斉にナナモの方を見て来たのでナナモは焦った もちろんナナモのあの時は再受験の時ではない。だから、ナナモは、記憶が全く書き換えられるって事ってあるのかなと、尋ねた。
「ナナさんまたおかしなことを聞いてくるんですね」
キマタが今度はナナモ以外の三人に視線を送る。
「子供の時の、お化けを見た事があるって、どうしても、記憶の中に残ってることってあるよね。でも、それって、事実じゃないはずだよね」
「医学的なことはこれから勉強するからその時に答えは出るはずだと思うけど、さっき私はヒトにはそう言うミスマッチがあるから、記憶が代わるし、その記憶に支配されるって言ったわよね。そういうことって幼児体験には多いのよ。それにその体験がとても強烈だったら、たとえ事実じゃなくても脳がそう認識してしまうし、それが脳を支配したら、人格形成にも関わるから、ちょっと問題になるかもしれないわね」
キガミはでもそれって現実がまだ十分理解できていないからだから、小学校の高学年以降にはないはずよと、付け足した。ナナモは確かあの時と、もはや中学生になっていたことを思い出した。
「代わったり、衰えたりするんじゃなくて、記憶が完全にある日からなくなることもあるのかなあ」
ナナモは特に口調を変えることなく、話しのついでだからという雰囲気で尋ねた。
「外傷性健忘症。僕の友達がバイク事故でなったんだ」
キマタが何かを思い出したような悲し気な顔で口をはさんできた。
「それだけじゃないけど、記憶がなくなることはあるようね。でもそれも医学的なことはこれから勉強するからその時に答えは出るはずだと思うけど……」
勘のいいキガミは、どうしてそう言うことを聞いてくるの、やけに今日は記憶のことに食いついてくるけど、何かあったの?という顔をしている。しかし、ナナモはその事に気づかない。だから、「本人だけでなく本人の周りの限られたヒトもだったら」と、まだ、続けていた。
「よっぽどショッキングな出来事だったらありうるかもしれないけど、当事者以外は普通しばらくしたら記憶が戻ってくると思うけど」
クツオキはそうよねという顔をした。しかし、キガミもキナミもすぐにうんと頷かなかった。それより相変わらずキガミはナナモを見ている。もしかしたらあの夜のことを思い出しているのかもしれない。
「もし、ある人がとても詳細な日記を付けていたとするよね。そして、そのヒトが亡くなって、その脳を取り出して、脳細胞や細胞のつながりを巨大コンピューターで解析して、その日記と照らし合わせて、それをAIに学習させたとするよね。そうしたら、そのある人の考えをある人の死後も、AIがある人に代わって再現してくれるかもしれないかな」
ナナモはそこまで言ってからハッとした。なぜなら自分はなぜこんなことを話しているのだろうと思ったからだ。それでもナナモは心臓がバクバクと動く音が皆に聞こえていても構わないと思った。それでもナナモは三人の意見を聞きたかった。
三人は、ナナモの期待を無にするように黙っていた。それは意見がないからではない、皆より年上のナナモの言ったことが、冗談なのか本気なのか測り兼ねているからだ。
ナナモはキガミだけは違うと思っているかもしれないと、それまで能面のようだったのにニコッと頬を少し緩めて見た。
キガミはえっという反射で声が出なかったようだ。だから、ナナモはわざとキガミからクツオキに視線を動かして、映画の世界だよねと、口角を戻して言った。キガミはまだくちをパクパクさせている酸欠の金魚の様だったが、キマタとクツオキはほっとしたいう声が聞こえてきそうな口の動きで両肩から力が抜けていた。
「真面目な話だとおもったのに」と、クツオキが少し口を尖らせたが、「これから顕微鏡とプレパラートの世界がしばらく続きますから、その時に何か分かるかもしれませんね」と、キマタは、ナナモの話しを完全に冗談と決めつけなかった。
キマタの前向きな言葉を聞いたからか、キガミがナナモの方をチラッと見てから頷いた。ナナモはキガミが一瞬微笑んだように思えたので身体に電気が流れたかのようにぞくっとした。しかし、それはキガミから受けたものではなく、ナナモがある光景を思い出したからだ。
似てる……。
武者震いだったら良かったのに、ナナモの記憶は、ふとマギーの事を思い出して、ぶるっと、そして、暗い洞窟で急に誰かに出会って、ゾッとする震えだった。もちろん書き替えられた記憶ではない。しかし、今のナナモはそう信じたくはなかった。