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ジェームズ・ナナモと蘇りの輝跡  作者: まれ みまれ
12/30

(12)エノシマノイワヤ

 タカヤマは個人戦を最後まで観戦したがっていたが、部員はすべて負けてしまっていたので、明日の団体戦にかけたい主将に促されて全員が会場を後にした。ホテルに戻り入浴し、少し早い夕食を摂ると、明日開かれる団体戦のミーティングが行われた。部員は全員参加だが、ナナモのように団体戦には出場できない者もいる。だから、全体ミーティングといっても決意表明のようなもので、主将のヒライが皆を鼓舞した後は出場する選手だけで集まって、タブレットを用いて対戦相手の分析と対策を行うことになっていた。だから、個人戦が終わった選手は、必ずこのミーティングに参加しなければならないことはない。しかし、昨年、主将のタケチの項垂れた姿を見てからは、たとえ出場しないとはいえ、杵築医科大学剣道部を皆が団結して盛り上げなければと、ミーティング中、ナナモは新主将のヒライから視線を外さなかった。

 今年は団体戦にタカヤマが出る。経験者が三人も入って上位に食い込めそうなサクラギも出る。だから、昨年以上に二人は気合が入っているのか、ミーティングで二人は今まで見た事がないような高揚感からか、目じりが挙がっていて、クーラーがガンガンに効いているのに幾分顔が赤かった。

「ねえ、ナナさん、ちょっと出かけない」

 フジオカがミーティング終わりに声を掛けてきたのでナナモは驚いた。もちろん試合という意味で二人はもはや大会が終わっている。それに大人だ。フジオカも大会前に二十歳になっていた。だから団体行動だといってもホテルに缶詰めになっている必要はない。

「飲みに行くってやっぱりまずいよ」

 ナナモはここはやはり自制が大切だし、先ほどの主将の熱弁がまだほやほやで耳に残っている。それになぜかこういう時に限って、ナナモの日本人としての血が、年上だからという変な気負いと相まって、ナナモはフジオカにはっきりとではないがやんわりと拒絶というか、指導の意味で答えた。

「いやだなあ。そんなことしたら、ナナさんと違って僕はタカヤマさんに、いやタカヤマに殴られるかもしれませんよ」

 フジオカはナナモのことを決まってナナさんというが、タカヤマのことはタカヤマさんと言ったり、タカヤマと言ったりする。きっと、タカヤマからタカヤマでいいよと言われたからだと思うが、サクラギがこの頃ずっとタカヤマのことをタカヤマ君ではなく、タカヤマと呼んでいるからかもしれない。

「じゃあ、出かけるって?」

 ナナモは首を傾げた。

「必勝祈願に行こうと思って」

「必勝祈願?」

「そうですよ。ここは鎌倉ですから。武士は戦の前に必ず参拝して神様の御加護にあやかろうとしていたんです」

 そう言えば平安の世で貴族はお祓いをしていたとは聞いていたが神様に祈願していたとは聞いたことがない。

「武士といったら戦だから勝ち負けだろう。必勝祈願って言っても相手を負かす為にご加護をって、少し虫が良すぎないかい。それに、武士の世界の勝ち負けって生きるか死ぬかだろう。僕は何となくそういうのはね」

 ナナモは少しひねくれた物言いだったのかもしれないが、言わざるを得なかった。

「確かにナナさんの言う側面があったのかもしれませんが、本来の必勝祈願って、相手を完膚なきまで叩きのめして勝利することを祈るものではなくて、どんなに強くて困難な相手でもひるむことなく心に力がみなぎってくるようにと自らを鼓舞するために願うものなんですよ。神様も都合よく勝たせてくれませんし、もともと神様は戦など嫌いなのですから。でも、もし、ひるまず前に進むことで皆が幸せになるんだったらと願う気持ちに神様は少しだけ微笑んでくださるんじゃないかって僕はおもっているんです」

 フジオカはさらりと言ったが、「鎌倉ってよく知らないんだ」と、以前呟いたナナモを諭すような物言いでは全くなかったし、その内容も決して軽いとは思えなかった。

「フジオカは結構信心深いんだな」

 ナナモに言われて、フジオカはきょとんとした顔をしている。

「何言っているんですか?僕よりナナさんの方が信心深いですよね」

 ナナモが今度は反対にきょとんとした顔で返すと、フジオカは話しを継いだ。

「僕は地元だからこっそり一人で行ってきますって、主将と話していたら、急に小岩さんが現れて、ナナモ君を誘ってみたらと言ってきたんですよ。僕はどうしてですかって尋ねたら、ナナモ君は毎日寮の神棚にお参りしているからって。それで、本当ですかって尋ねたら、ああ、入学してからずっとだよって。解剖実習中も剣道の練習には来ないくせに、朝六時には必ず寮の神棚に手を合わせて拝んでいたからって」

 小岩がフジオカに話したことより、よりによってどうして主将がいる前で話したんだよとナナモは思ったが、事実だし、だからといって参拝を止めてまで道場に行くつもりもなかったし、今朝もホテルのひと気がない所でスマホに向かって参拝していたことも事実だった。

 でも、ナナモにとって参拝の意味は少し違う。必勝祈願のように神様の徳を少しでも分けてもらおうと思っているわけではない。最初はマギーに言われたから神社を訪れていたし、その後は、その事で、医学部に合格出来たからそのお礼の意味も含めて参拝していたし、今では王家のしきたりだから行っている。だから、フジオカに信心深いなんて言われると背中がむず痒い。

「でもこんな時間に参拝できる神社があるのかい?」

 外はまだうっすらと視界がとらえられているがもはや日暮れ時を過ぎている。それに参拝は一日の始まりに行うのが良いとマギーに言われたような気がする。だから、ナナモは朝の六時に参拝し始めたのだ。

「エノシマならと思っています」

「……、まさかナナさん、エノシマって知らないっていうんじゃないですよね」

 フジオカは一呼吸置いてから念のためと尋ねたようだが、ナナモはイエスともノーとも明言せず、ただ黙って知らないという顔だけ見せた。

 フジオカは、スマホの画面をナナモに提示しながらナナモにエノシマの地理や歴史などをについて簡単に語ってくれた。

「でもどうしてエノシマなんだい?鎌倉だったら確か大きな神社があったよね」

 ナナモは鎌倉に詳しいわけではない。しかし、日本史の教科書には確かあの神社が出て来る。

「そうですね。でも、この時間ですよ。きちんと参拝できないですから」

 確かにそうかもしれない。でも、そうであるなら、エノシマの神社も一緒ではないのだろうか?ナナモはその事をフジオカに尋ねようしたが、フジオカに遮られた。

「エノシマには神社があるんですけど、ここに祀られている神様は、女性で、楽器を奏でたり、学問をしたりと、とても魅力的だったから、エノシマ近辺を支配していた荒くれ者も、心惹かれておとなしくなったと言い伝えられているんです」

「女性?」

「そうですよ、三姉妹の」

三姉妹……。ナナモの思考はあらぬ方向へ行きかけた。

「もしかしたら、ナナさん、荒くれ者は三姉妹と……って考えていたんじゃないでしょうね」

 ナナモはまさかと口では平静を装っていたが、実際はそう思っていたので、、もしかしたらフジオカに見透かされていたかもしれないと、少し動揺していた。

「そんなことはありませんよ。それに、エノシマに最初に来られた神様は一人だけですから。荒くれ者は一途なんですね。そうじゃないと、神様は心を開いてくれませんからね」

 フジオカはナナモよりずいぶん大人なのかもしれない。

「だったら、必勝祈願というか恋愛祈願が主なんじゃないのかい」

 今度はフジオカは一瞬びくっとしたようだった。だからかナナモの問いにすぐに答えなかった。

「ところで明日の試合の必勝祈願とその言い伝えと何か関係があるのかい?」

 別に被せるつもりではなかったが、フジオカが黙っていたのでナナモの口から思わず言葉がこぼれた。

「戦わずして勝つが本来理想ですから」

 フジオカは得意げだったが、剣道の大会は必ず試合があり、勝ち負けがある。だから、戦わずして勝つなんてありえないし、もし、皆がそう思っているなら大会などしなくていい。

「でも、剣道といっても本当の戦いではないんだから、命を懸けることもないし、勝ち負けがあるから、みんな勝とうと体を鍛えたり、技を磨いたり、作戦を練ったりするんじゃないのかな。だから、そう思うことが個人の能力を高めることにもなるし、体だけでなく心も成長させることになるし、剣道っでやっぱ奥が深いし、楽しいなあって思えるんじゃないのかい」

 あからさまにフジオカの言うことを否定はしなかったが、ナナモはなんとなく腑に落ちなかったのだ。ただ、言動一致とは程遠いなあ、と、タカヤマの声が聞こえてきて言い終わったナナモはむず痒かった。

「だからさっき僕言いましたよね、あくまで理想だって。それに、初めて幕府を開いた武将達が参拝していた神社だから武運が授かるのではないかって後世の人達は考えたみたいなんですけど、神さまはそんな都合よく味方してくれませんからね。だって、どう考えたって、人一倍練習した方が強いに決まっていますから」

 武道に限ったことでないが、練習だけでは測れない、持って生まれたセンスというものもある。しかし、フジオカの言う通り、そのセンスに胡坐をかいただけではそう簡単に試合に勝つことは出来ない。

「だったら、参拝の意味がないんじゃないのかい?」

「そうかもしれませんね。でも、それでもいいじゃないですか、行きましょうよ」

 杵築よりは外灯が多いがそれでも東京の夜に比べると物凄く少ない。それでも鎌倉を走るローカル電車に乗ると案外車内は混んでいた。時間がら仕事帰りの人が多かったが、浴衣を着ている男女が少なからず乗っている。ナナモはその事を車中でフジオカに尋ねた。

「神社はエノシマの階段を登って行った先にあるんですけど、エノシマ灯籠っていって、夏の間、その参道に灯籠が千基置かれるんです。それだけでも少し厳かなんですけど、最近プロジェクションマッピングが施されて、より幻想的になって、さっき僕が話した言い伝えと相まって、若者には人気なんですよ」

 若者ではなく、カップルだろうとナナモは思ったが口にはしなかった。

「でもどうして神社なのにそんなことをするんだい?」

「エノシマですよ。若者が集まって来るんです。でも、ほとんどが昼間の海水浴が目当てですからね。でも、本来エノシマは神社のシマなんです。だから、このようなイベントをして、夜に参拝してもらおうと、一種のお祭りですよ」

「お祭り?」

「そうです。お祭りって、単なるイベントではないんですよ。神事なんです。ナナさんなら知っているでしょう」

 ナナモは神社で行われている祭りに行ったことがない、というか、その記憶がない。だから、知らないと言いたかったが、祭りが神社で行われることを叔母から教えられたことがあるし、教科書にも書いてある。ただ、発音の問題はさておき、フジオカに日本語でイベントと言われると、なぜか違和感を覚えた。

「だったら余計に明日の必勝祈願には程遠いんじゃないのかい。それに男二人だし」

「一人で行くよりはましでしょう。それに、やはり武運を願う神社ですし、その後、もっと先に進むと、ある場所に着くんですよ」

「ある場所?」

「僕達に関係がある場所です。それにナナさんにも知ってほしかったから」

「僕に?」

「はい。だから、本当は小岩さんに言われても僕は一人で行こうと思ったんですけど、ナナさんに声をかけたんです」

 ナナモは全く想像がつかなかった。フジオカはそうだろうなという顔でしばらくナナモを見ていたが。それでもしびれを切らしたという風に口を開いた。

「あるイギリスの商人が、頂上に別荘を建てたんですよ」

「さっき、エノシマは神社のシマだって言わなかった?」

 えっ、と、思わずナナモは声を出してしまったが、フジオカは特に表情を変えない。

「まあ、良いじゃないですか?時代時代で代わって行くことってありますから」 

フジオカは涼しい顔で自ら話したくて仕方がないという風だった。

フジオカの話によると、あるイギリスの商人がその別荘地に庭園を造ったそうで、その歴史をかいつまんで話してくれた。

 しかし、イギリスと言うだけで自分と結びつかれてもと、ナナモはそれじゃあ、日本にはいくつナナモと関係があるところがあるんだと、少しため息が出た。

「でも、そのイギリス人、鎌倉に来て、日本人の女性と結婚したんで、ある意味あの言い伝えに似ていますから」

 フジオカは、当時は、まだ、外国の人が日本に少なかったし、体格差もあったし、瞳も髪の毛も異なりましたからと、控えめに付け足した。

「さっき、僕達に関係あるって言わなかった?それじゃあ、僕だけになるよ」

 ナナモは少し気まずくなって一呼吸置いたフジオカに言った。

「ああ、そうでしたね。実は、この庭園に灯台が建てられていたんですよ。それが、まあ、紆余曲折はあるんですけど、最近、庭園が整備される時に観光と灯台という二つの役割を担った塔として建て替えられたんです」

 スカイツリーのようなものかなと、フジオカは付け足した。

「良く晴れた日にその塔に登ると、鎌倉の海岸線から太平洋まで見渡せるんですけど、実は、富士山が見えるんです」

 地理的にナナモは何となく想像出来たが、だからと言って、「僕達」にはまだ結びつかない。

「エノシマと富士山を結んだ方向のずっとずっと先をたどると僕達の大学とつながっているんですよ。だからこの塔に登ってから富士山の方向に向かって参拝したらきっとご利益があると思って」

 フジオカが最初にナナモに説明したこととはずいぶんかけ離れてしまっていたが、それより、そのつながりに驚いた。と同時に塔という言葉に心の奥底を揺さぶられていた。

「だったら明日早く陽が登ってから行きたかったな」

 ナナモはあえてそう言うことで心を落ちつかせようと思った。

「シンガンキセキ(心眼軌跡)を産むですよ」

 シンガン?キセキ?どういう漢字なんだろう?ナナモはしばらく日本語の難しさに戸惑っていたが、フジオカの涼し気な顔を見るとナナモはフジオカに聞き返せなかった。


 降りた駅からエノシマまでしばらく歩く必要があった。極端に涼しいということはないが、海からの夜風が、クーラーの効いた電車から出てすぐに噴き出しかけた汗を何気なく押し返してくれている。もう夜なので、店が閉まっているかと思ったが、四~五人が横並びでやっと歩けるくらいのアスファルト道の両側に隙間なく軒を並べている飲食店の何軒かからは、浴衣すがたの客の出入りが見られた。

「昔はエノシマって海岸から離れていたんですよ。でも、ある時シマが隆起して、そのために砂洲が出来て、歩いて行けるようになったんです。でも潮の満ち引きが関係するんで、情緒っていったら少し冷めるですけど、やっぱり利便性っていうか、工業が発達したんで、今では立派な鉄筋の橋が架かっていて、潮の満ち引きに関係なくいつでも渡れるようになったんです」

いつの間にか浴衣姿の女性陣が多くなっている。彼女たちの漏れ出る声につられたわけではないのだが、フジオカの声は少し大きくなっていた。

「あと、塔の先に進むと……」

 フジオカがその先を言いかけた途端急にフジオカのスマホが鳴った。

「ナナさん悪いんですけど、一人で行って来てくれませんか?」

 メールなのかフジオカはしばらくスマホの画面にくぎ付けなっていたが、夜なのにフジオカが珍しく青ざめていくのがわかる。

「どうかしたのかい?」

「ちょっと、急用が出来たんです。この地下通路を降りてまっすぐ上がったら橋が見えますから、それをまっすぐ歩いて階段を登って行けば神社に着きますし、その先が塔ですから。暗いですが灯籠があるし、ヒトが一杯いますからきっと迷うことはないですよ。さっき言ったようにプロジェクションマッピングで輝いていますから、それも楽しんできてくださいね。神社の参拝はもちろんですが、塔にも上ってきてくださいね。それがナナさんの僕達からの使命ですからね」

 フジオカはなぜ使命っていう言葉を使ったのだろうと考えていたら、いつも間にかフジオカはいなくなった。ナナモはまあ仕方がないやと言われた通り前に進もうとしたが、地下通路の交差路で急に体が動かなくなった。それどころか頭痛がする。ナナモは、うずくまりはしなかったが眉間を抑え、目を閉じた。

 その時、スマホの着信音が何度か鳴った。なんだやっぱり戻ってくれるのかと、ナナモはスマホを耳に当てる。もしもし、フジオカ?と、ナナモは当然のように話しかけたが、全く音がしない。あれっと、思ってスマホを放すと、電話ではなくメールだった。勘違いしたのは頭痛で音が共鳴されたからかもしれない。

()()()()()()()()()()()

 ナナモはその文面を見て、すぐにフジオカではないということがわかった。何故なら何度か復唱するとその文字が消えたからだ。もちろん送信元は分からない。それでもナナモは気にしなかったし、やはりあの時、ナナモの試合を観ていたのはマギーだと確信した。

 でも、イワヤって?

 ナナモは先ほどフジオカが言いかけた言葉ではなかったのかと、スマホで検索しようとしてハッとした。

 ナナモが手にしていたのはスマホでなく。三角縁神獣鏡だったからだ。

 そうか、僕は異世界に居るのだ。

 先ほどまで何人も行き来していた地下の交通路には誰も居なかった。ナナモはイワヤがどこなのか分からなかったが、エノシマのある場所なのだろうと、とにかく前に進むしかないと、地下からゆっくりと地上に出た。緩いスロープ状になっているが靴底の感覚が少し柔らかくなっていて、ギュギュと少しめり込む摩擦音がした。

 地上に出るとフジオカの言っていた鉄筋の橋はなかった。しかし、ナナモは特に驚かなかった。きっとフジオカの言っていた、浮き上った砂浜の道である砂洲なのだろう。両脇に灯された灯籠がさざ波のない黒色のまっすぐな砂道を照らしながら、ナナモを誘おうとしている。この砂洲の向こう側にエノシマがあるはずだ。ナナモは島中を飾る千基の灯籠の輝きがこの場所からでも見えるだろうと期待したが、映画に出て来る昔のロンドンの霧ではないが暗闇に遮られているのか、ガス灯のように連なる砂洲の灯籠だけしか見えなかった。

 ナナモはとにかく砂洲をまっすぐ歩き出した。先ほどより靴底がめり込んでいく様に思えたが、それでも足を掬われるほどでもない。それに海からのそよ風が、優しく団扇で煽ってくれているかのように心地よかったし、かすかに聞こえる波の音は単調な旋律だが却って心穏やかな気分にさせてくれた。

でもいつまで歩いて行くのだろう。本当にここはエノシマに続く道なのだろうか?ナナモはたとえ異世界だとしてもどうしてもエノシマに行かなければならない。ナナモは誰も居ない砂洲の上をゆっくりと歩いて行くしかなかった。

 ナナモの視線とほぼ同じ高さで等間隔に灯籠は置かれていたが、しばらくするとナナモがずいぶんかがまないといけない高さで灯籠がひとつ輝いている。ナナモはその灯籠に近づいて行くと、その灯籠はナナモから離れて行く。ナナモが、一瞬あれっと思ったが、すぐにその理由を理解した。

 あれは灯籠でない。きっと提灯の灯りだ。そして、その提灯は姿こそ見えないが誰かが持っている。当然ナナモよりずいぶん背が低い。

 ナナモは物の怪ではないと思った。だからある人物の名前を想像してから声を掛けてみた。一瞬、明かりが止まったように思えたが、その姿を捉えることは出来なかった。

 ナナモとその提灯の持ち主とは適度な間隔が保たれていたが、急に狭まり、もう少しで追いつけると思った途端、急に灯りが消えた。他の灯籠の輝きも無くなり、ナナモは漆黒の暗闇にひとり置き去りにされた。

 ナナモは縛られているわけではない。却って身軽だ。それでも一歩も動けなかった。

ナナモは在るはずであろうエノシマを確かめるために視線を挙げて前を見た。すると、向かって右側だけが急に明るくなった。もちろん、灯籠が再び灯り始めたのではないし、ましては異世界だからと、昼間に戻ったわけでもなかった。

 西空の雲の隙間から月が輝きだしたのだ。ナナモはもしかしてと思ったが、やはり満月にウサギが跳ねていた。だから、今度こそと、再び前を向いたがやはりエノシマは見えなかった。

「イワトに行くのかい?」

 誰かの早口で威勢のいい声がする。ナナモはびくっと身体が不自然に動いたが、気にせず声の方向へ視線を動かした。

 人影はなかった。ただ、木船が浮かんでいる。以前どこかで見た事のあるような質素な一人乗り用の小舟ではない。釣り船くらいの大きさはある。その上、船の上には社のような木製の建物があって、月明かりに反射して輝いていた。 

 きっと神木で出来ているのだ。だから、色彩がない。でもよく見るとどこかで見た事がある。ナナモはしばらくその形状を見つめていた。

 牛車だ。でも、どうして牛車だと思ったのだろうか?

 ナナモは首をひねりながらも、御簾が下げられていないかキョロキョロと瞳を動かした。しかし、社には格子状の扉しか見当たらなかった。

 やはり牛車ではなく船なのだ。だいたい牛車で海を渡れるわけはない。それに牛車なら前から乗らなければならない。前は海だし、暗闇でそう簡単にはたどりつけない。

 ナナモはこの船がイワヤに導いてくれるのではないかと思ったが、どのように乗れば良いのか分からず、しばらく立ち尽くしていた。すると、一瞬グワーンと手が伸びて来たのかと思ったくらいの素早さで渡し板がナナモの足元に伸びて来た。この上を登って船に乗り込めと言わんばかりにカタカタと音を立てながらたわんでいる。

 ナナモはゆっくりと確かめるように歩を進めた。身体は上下するが横揺れはしなかったので、ナナモは難なく船の上に乗ることが出来た。しかし、ナナモが社の扉の前に立っても扉は開かない

 ナナモはその扉の前で二礼してから手を合わせ四拍する代わりに、その扉に三角縁神獣鏡を軽くそして素早くくっつけた。すると、ピンという電子音がなり、扉が開いた。

「乗船の方法がよくわかりましたね」

 ナナモが社の中に入ると扉がしまり、目の前にアヤベが座っていた。

「アヤベさん」

 ナナモは驚きというよりなつかしさの方が強かった。なぜなら、何となくアヤベに会えるような気がしていたからだ。

「お久しぶりです」

 アヤベから声を掛けられ、座ろうとしていたのにあわてて立ち上がると直立不動になって頭を下げていた。外観の大きさから社の中でナナモが立ち上がると当然頭が天井にぶつかるはずだったが、四方を木板の壁で覆われている社の中は思ったより広かった。

「無事に二回生に進級出来ることになりましたし、今度は大学を辞めませんでした」

 きっと、そんなことはアヤベはすべて知っているはずだ。それでもナナモはあえて口に出してアヤベに言いたかったし、実際言えて心弾む気持ちだった。

「そんなかしこまらないでください。それに腰かけてください」

 アヤベが一瞬微笑んだようにナナモには感じられたが、アヤベの顔はあえてそうしているのか分からなかったが、感情がないような固まってしまったままだった。

 嫌な予感はしなかったが、アヤベの表情に違和感を抱きつつもナナモはゆっくりと白木の椅子に腰を降ろしてアヤベと対峙した。

「カタスクニへ僕は行けなくなったのですが、また、アメノ弟さんの仕業だったのですか?」

 ナナモは解剖実習が始まってからカタスクニに行けなかったのだ。しかし、それはネコマネキが作動しなかったというよりもそうさせているカタスクニの意志を感じていた。

「そう思われたのですね」

 アヤベはコトシロだ。だから、ナナモのこころを読める。しかし、反対に自分のこころのままに言葉を発することは出来ない。神の託宣のみを言葉として伝えるだけだ。

 しかし、ナナモは知っている。コトシロとアヤベが異なることを。だから、コトシロとしてのアヤベは一方通行だが、アヤベとしてのコトシロはそうではない。

「アヤベさんが現れなくなったということはまた僕の何かが気になって様子を見ていたのですか?」

 ナナモは素直な気持ちで訊いた。

「ナナモさんの()()()()は解決されましたか?」

 アヤベは表情を変えなかった。

「いいえ」と、ナナモは少しうつむき加減になったが、すぐに顔を起こすと言葉を継いだ。

「もし受験許可書を提出せずに入学したことが僕にとって穢れであるならば、そして、祓い切れない、いや、祓い切れなくなった穢れであるならば、僕はその事を受け入れながらも前に進むしかないと思っています」

 ナナモは事務の田中からナナモが学校を止めてもナナモが受験した年の不合格者が繰り上がって合格することはないということを聞かされていた。そして、そのためにカタスクニでも学び異世界で使命を果たそうとしたのだ。

「だから、ナナモさんは一度も再試験を受けることなく勉強されていましたし、二回生に進級されてから始まった解剖実習でも一生懸命だったのですよね」

 アヤベはナナモをやはり見守ってくれていたのだ。ナナモはその事が嬉しかった。

 しかし、それもつかの間のことで、「私は寮のナナモさんの部屋には行くことが出来ません」という、アヤベの単調な言い方になぜか冷気を感じた。いや、霊気かもしれない。

「解剖実習は穢れなのですか?」

 ナナモは自分で言っておきながらなぜそんなことが口に出たのだろうと驚いた。きっと、真っ赤ではないが、鏡があれば相当ひきつっていたかもしれない。

「なぜそう思われたのですか?」

 わざとではない。きっと、アヤベはナナモのこころが読めなかったのだろう。しかし、ナナモもすぐに答えられなかった。だから二人の間でしばらく沈黙の時間が流れる。

「解剖実習中、僕はカタスクニに行けませんでしたから……、いや、もう二度とカタスクニはいけないとさえ思っていましたから……」

 ナナモの口からやっと言葉が漏れた。また、自分では思ってもいなかったことだ。きっとアヤベが姿を現してくれたからつい漏れ出てきたのだろうし、ナナモはそうでないと思っていても、実は不安で仕方がなかったのかもしれない。 

 しかし、ナナモは、もし、アヤベが穢れですよと言ってきたらどうしようと思った。確かにナナモはたとえ死者といえども肉体に傷をつけた。しかし、医学にとってそれは避けては通れないことだ。それに生者を助けることが医学の根本であり、その行為だけが穢れでないというのであるならば、死者から多くの事を学んできた医学はそもそも成り立たなくなるし、医学を学ぼうとしているナナモの存在は無くなる。つまり、ナナモは王家の継承者でも何でもない。そして、医学部を再受験した意味もなくなるし、ましてや、日本に戻っていないし、ロンドンにも行っていない。

 僕はだったらあの時のまま……。

「ナナモさんは蘇がえったのではありませんよ」

 やっとアヤベは一凛の花を渡してくれるようなやんわりとした感情を添えてくれた。

「以前、ナナモさんにお話しましたが、カミは天上の世界に、死者は地下の世界に、そして、ヒトはタミとなって皇家とともに地上の世界にいると言いましたよね」

「はい。でもそれだけではなくて、中間の世界があって、オンリョウは地上と地下の中間の世界に、王家は天上と地上の中間の世界にいるともお聞きしています。でも、オンリョウはヨウカイを使って本来こられない地上の世界に姿を現すので、王家の継承者として選ばれたヒトが皇家の影となってタミを助けなければならないのでしょう」

「その通りです」

「でもそれはあくまで異世界の出来事ですよね」

 ナナモはまた自分で言っておきながらその言葉が鼓膜を揺らしている事実に驚いている。だから、すぐにごめんなさいと謝っていた。

「いいんですよ。でも、異世界といってもそこではナナモさん自身が存在しているのですよ。だから、誰かを自ら傷つけることもあれば、自ら誰かに傷つけられることもあるのです。そのことも以前お話ししましたよね」

 ナナモは大きく頷いた。

「解剖実習が始まった時に、ナナモさんはまた穢れを感じるのではないかと我々は考えたのですが、それは取り越し苦労だったとすぐに分かりました。ナナモさんは前を向こうとされていましたし、自分がやるべきことを見つけ、やっとそのことに集中出来ることを喜んでおられました。王家の継承者は現実世界では自分のやりたい事を持たなければならないと私が言ったことがついに実ったわけです。しかし、同時に、ナナモさんは、その事で王家の継承者たる自覚がより強く芽生えて来たようです。以前にもお話ししましたが、ナナモさんはオンリョウの影響を人一倍受けやすい。だから、骨学実習が始まった時に、勾玉のブレスレッドを渡したのです」

「でも確か……」

「そうです。解剖実習の初日にメスを持った時と、寮で風呂場にいた時に、ナナモさんはオンリョウの言葉を聞いたはずです。いずれも短い間だったので、我々も安心していたのですが……」

 アヤベはまた少し感情を添えていた。

「でも、解剖実習の時はブレスレッドを付けていたはずだったけど……」

ナナモはうる覚えだった。そして、アヤベの顔を見て、忘れていたんだと言うことを知った。

「とても緊張されていたんですね。だから、朝の参拝はきちんと行っていたのに、つい忘れてしまったのでしょう」

 アヤベはアヤベとしてナナモに今話している。

「やはり僕はクニツカミと関係があるんですか?クニツカミはオンリョウと関係があるんですか?オンリョウは王家と関係があるんですか?」

 ナナモは矢継ぎ早に質問を重ねた。そして、最後に蘇りと言おうとしたときに、アヤベの冷静な瞳が寄り添ってきてナナモは我に返った。

「ナナモさんは蘇りのことがそんなに気になりますか?」

 だって、あの解剖実習室に書かれてあった言葉をアヤベに言おうとしたが、そんなことはアヤベはもうとっくに知っているんだとナナモは言わなかった。その代わり、そのことについてアヤベがどう語ってくれるかを待っていた。

 アヤベはナナモの心を今読んでいる。それすら、本当は読まれているのにそれでもかまわないと思った。

「死者を蘇らせてはなりません。蘇れば死者は何かを話したくなります。その言葉を聞いて生者は戸惑うかもしれません」

「どうしてですか?」

「蘇るということは、良いことも悪いことも蘇るからです」

 ナナモはドキッとした。しかし、それでもナナモは両親と一緒にいた時のナナモに戻ってみたかった。

「あれだけ辛かったのにですか?」

 ナナモは死者ではない。だから、蘇れない。アヤベの声がもう一度する。そしてそれはナナモ自身にも今まで言い聞かせて来たことだ。

「それに、記録と記憶は事実と異なることもあるのです」

「どういうことですか?」

 アヤベはその事については答えてくれなかった。

 ナナモは両親の記憶がない。それでもかすかに脳細胞に辛うじてひっかかっている記憶の断片を繋ぎ合わせて父や母のイメージを自ら作り上げていた。

 もしかしたらその事を言っているのだろうか?

 ナナモは反対にアヤベのこころを読もうとした。しかし、こういう時のアヤベは本来のコトシロとして、自らの考えを封印してしまう。そして「私はコトシロです。カミの託宣しか伝えらえません」という顔で平然としている。

 ナナモは薄れていく異世界の記憶の中で、決して消えてはいけないであろう譲りの書についてもアヤベに聞きたかった。しかし、先ほどのことでも答えてくれないのに、このことはもっと答えてくれないだろうとアヤベの急に変わった無表情の能面からあきらめた。

「あの~、アヤベさん。僕は解剖実習中手を抜いていたわけではないんですが、なぜか英語でならきちんと覚えられるのに日本語だと記憶があいまいになっていくんです。なぜだかわかりますか?」

 ナナモは、話題をわざと変えるつもりではなかったが、重い空気にもがいて酸欠の金魚のようにパクパクと口をもう少しで開けなければならなくなったので、中田教授から言われたことを、差し障りがないような、それでも現実のナナモにとって差し迫った課題だったので尋ねてみた。

「ナナモさんは薄々感じておられたのでしょう。まさしくその通りです」

 やはり、カタスクニの力なのか。勾玉は神木ではない。だから、ナナモを大学内でも見守ることが出来たのかもしれない。でも、どうして?

「クニツでも、ナナモでもない。ジェームズの力を強めようと思ったのです。そうすることでナナモさんを守ろうとしたのです」

「どういうことですか?」

「ロンドンでは我々はなんの制限もなく自由にナナモさんの傍に居られることを昨年知ったからです。その意味は分かりますよね」

 アヤベは、アヤベとしてのコトシロに戻っていた。

「でも、カタリベさんは、ロンドンに行かないようにと僕に言いましたよ」

「カタリベは、ある事を気にされていたんです」

「あること?」

 アヤベはナナモの問いかけに何かを言い返したかったようだし、実際口が動いていたが、ナナモには聞こえなかった。だから、ナナモはもう一度 えっと、聞こえないという仕草と意志を示したのだが、今度はアヤベの口元は微動だにしなかった。

「カタリベさんに会えばわかりますか?」

 ナナモは恐る恐る尋ねた。

「カタリベはひねくれていますから。特にナナモさんに対してはね」

 また答えてくれないだろうと思ったが、アヤベからはっきりと言葉が聞こえる。ただし、先ほどのナナモの質問に対する答えではなかった。だから、アヤベはここで会ってから初めて大きく微笑んだ。きっとその微笑みはカタリベ以上にナナモもひねくれているとでも言いたげだった。

「僕はそれでもかまいません。何とかしていただけませんか?」

「わかりました。でも、それなら、これからあるところに行っていただかなければなりませんね」

 アヤベはまたかしこまったように顔を正した。

「エノシマのイワヤに居るのですね」

 アヤベは答えなかった。

「イワヤとは何ですか?」

 ナナモは質問を変えた。

「イワヤとは洞窟の事なのです」

「洞窟?」

「そうです。そこには神様が祀られているのです」

でもエノシマが誕生した時に女性の神様がこられたと言い伝えがあったはずだと、ナナモは、あっと思って、「ク」と、言いかけたが、アヤベのヤオヨロズという思いが伝わってきて遮られた。

「でも、僕はエノシマのイワヤではなく、トウに行かなければならないんです」

「なぜですか?」

「フジオカという僕の同級生に頼まれたからです」

 知っているんでしょうと、ナナモは言いたかったが、私はフジオカさんのコトシロではないですからと、反対に聞こえてくる。

 ナナモはフジオカに説明されたことを出来るだけ丁寧に、覚えている範囲で話した。

「安心してください。イワヤこそフジノオヤマに繋がっているんです」

 アヤベは珍しくきりっとしていた眉を下げるほど優し気な表情でナナモを見守るように静かにナナモを見つめた。

「本当に死者は蘇ってはいけないんですか?死者も何かを語りたいと思っていないのですか?」

 ナナモは迷いを断ち切るために尋ねただけなのだが、アヤベは、カミサマから急にスイッチを切られたようにナナモの前から姿を消した。



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