(11)いざ波乱の鎌倉
ナナモが今年も試合に集中できなかったのは言うまでもない。ただし、昨年とは別な理由だ。
大会が行われる古びた体育館は六つの試合場を確保してもまだ余裕があるほどだだっぴろかったが、当然二階席はなく、余ったスぺ―スに部員や応援の人が混在していた。それなのに、ナナモは会場に入りるや否や、長身のまるで魔女のように白髪で皺の深い白人が目に飛び込んできた。すこぶる常識的な服装だったが、目立たないわけはない。そして、まだ開会式が終わったばかりだというのに、もはや剣道という武道にずっしりと身を置こうとしている。
「お前の御婆さんやろ」
ナナモに声を掛けてから、挨拶にでもと思ったのか、すぐに駆け寄ろうとするタカヤマの道着を素早く捕まえたナナモは、いや、違うよと、叫んだ。タカヤマは、ウソつくなやと、眉間にしわを寄せながら昨日のことは嘘でカリンを連れてきてくれたのかと思ったのかえらくご機嫌の様だったが、ナナモが本当だよと、実はナナモもはじめはマギーだと思ったくらい似ていたが、よく見ると違っていたことに気が付いたのだ。タカヤマはナナモが案外真顔なので冗談ではないのだとすぐに察知した様だ。だったら誰や、と聞かれても、こちらが聞きたいくらいだと思いながらも、似通ったヒトはいるものだと、それでもマギーでないことにほっとした。
今年も個人戦からまず行われた。今年はシード制ということもあって、ずいぶん組み合わせに苦労したのではないかと思っていたが、同じ個人戦に出るフジオカが、AIを活用したら簡単ですよと、まるでイチロウのようなセリフを吐いたので、武道にAIかと、それでも今や各大学がタブレットを堂々と持参しているので時代の流れかもしれない。
個人戦に出るのは同学年ではフジオカとナナモだけなので、タカヤマとサクラギは道具を付けていない。それでも昨年と違い観覧席がないので、二人ともというか、一般の人と区別する意味もあって、たとえ応援と言えども各大学の部員は皆剣道着を着ていた。
ナナモは開始早々の試合ではなかったが、それでもシードではないので杵築医科大学ではトップの試合だった。だから当然、道具を身に着けスタンバイの格好をして、少し離れたところで気分を高め、心を落ち着かせるために正座をして呼吸を整えていた。もし、去年のように異世界に引き込まれたらどうしようと思いながらも、あのイチロウの楽器で作ったというか作らされた曲を心の中で歌っていると心が和んだ。
「ジェームズ」
折角、もう少しで歌い終わると言うのに、ナナモを呼ぶ声がする。いや、ここは日本だ。それにジェームズという名前の人はナナモだけではない。
「ジェームズ・ナナモ」
もう一度声がする。今度はナナモの確立が高い。それに日本語ではなく、明らかにネイティブの発音だ。
ナナモは無視しようかと思ったが、仕方なく振りむいた。
ナナモの目の前に先ほどマギーと見間違えた年老いた女性がいた。
「ナナモ、私じゃよ」
ナナモはおっと叫びそうになった。なぜならマギーの声だったからだ。もちろん早口の英語だから、たとえ短いフレーズでも周囲には気付かれなかったかもしれない。そして、その老婦人は口元に指を持っていってから、ナナモの耳元に顔を近づけて来る。
「この娘に特殊メイクしてもらったんだよ。でも、声はむりだからね」
小声でナナモに語りかけるマギーの傍らにナナモと同世代くらいの女性がいる。女子としてはそれほど小柄ではない。だからもしかしたらカリンかと思ったが、カリンにもソフィアにももちろんルーシーにも似ていなかった。それでいて目がくりくりと大きく丸顔でナナモが知っている誰かに似ている様だが、はっきりとしなかったのは気のせいかもしれないが少し異国の香りがしたからだ。
「どうしたの?」
ナナモは純粋にマギーが特殊メイクするなんて思わなかったのだ。
「だって、私がいるとわかったらナナモは緊張するだろう」
当たり前だ。それにそのことを知っているんだったらどうして試合前に素性を明かすんだ。だから、「そうでもないよ」と、ナナモはわざとマギーに毒づいてみたかったが、とうてい言えるはずもない。
「いや、本当はナナモの試合をこっそり観ようと思っていたんだけどね、急用が出来て折角来たのにもうこの場所から離れなくちゃならなくなったんだよ。それにタカヤマ君だったね。あの男子は感が鋭いから、きっと私の事をいずれ見透かすだろうと思ってね」
ナナモは本当だろうかとマギーの方を見た。それに身近にいるのに、やはり見た目はマギーだとは思えない。もし、声だけを変える何がしらの装置を付けられていたら、ナナモはだまされたことになる。それでもタカヤマのことを知っている。だったらやはりマギーなのかもしれない。
「ねえ、僕の叔父さんと叔母さんの名前を知っている?」
ナナモは本当は僕は今どこの大学に入学したか知っているって聞きたかったが、タカヤマも知らないし、カリンもソフィアも知らないことはそう多くはない。
「あんた。ずいぶん成長したね。私を試そうって思っているんだね」
ナナモはドキッとして、しまったと思った。まさしく今の声はロンドンから日本に戻って来たときに空港で初めて聞いたあの声だったからだ。
「マレとミチだろ」
いつものマギーなら答えてはくれない。その事に少しわだかまりおぼえた。
「これで信用したかい?」と、言葉ではないが瞳がナナモに投げかけてくる。もちろん、ヘーゼルではない。きっと、カラーコンタクトを付けている。
「どうして鎌倉に来ているんだい?」
ナナモは一応尋ねた。けれども、去年の大会は京都であったから京都にいた。今年は鎌倉で大会があるので鎌倉にいる。きっと偶然ではないだろうし、なにか意図されている様に思うのだが、マギーは日本学の学者だ。だから鎌倉に来て仕事をしていると言われたら、はいそうですかと言うしかない。
「だから、さっきも言っただろう。ナナモの試合をこっそり観に来たんだよ」
本当だろうかと思って当然だが、なんと言い返して良いのか分からない。
「私が来たらダメなのかい」
そうじゃないけど、何かが気になる。だから、ナナモは思わず、身体の具合でも悪いんじゃないだろうねと、尋ねた。
マギーの瞳が突然まん丸くなる。と同時に、今にも大声で笑いだそうとしたのを必死に手で押さえながら、それでもその皺だらけの手から笑顔をこぼしている。
「何かあったのかい?」
手を静かに顔から放すと、マギーから笑顔は消えていた。その代わり眉間により多くの皺を寄せながらナナモをいたわるような物腰で言葉を投げかけてきた。
ナナモは、解剖実習が終わってから自分では意識していないははずなのに、マギーの事を考えていたのかもしれない。それでもマギーは死者ではない。だから蘇りもない。
ナナモはしかし、その事をマギーに言うことは出来ない。だから、何もないよ、ただ、タカヤマがマギーの事を心配していたからと、きっとそんなことはないだろうとマギーは思っていると思うけど、そう言ってみた。マギーは、そうかい、とだけしか言わなかった。
「ナナモが、私の事を思ってくれるほど余裕があるんなら、もしかしたら一回戦を突破できるかもしれないね」
マギーの優しさではない。しかし、いつもの表情に戻っていたので、ナナモはほっとした。
「もう、試合場には戻ってこないの?」
ナナモはゆっくりマギーと話したかったのでそう言った。
「用事がすぐに済んだら戻って来るさ。もちろんナナモの応援のためじゃないよ。私は剣道に興味があるからね」
マギーが剣道に興味があるとははじめて聞く話だ。ナナモが黙っていると、マギーは急に思い出したように話しを継いだ。
「ナナモに言ってなかったようだね。あんたの父さん、えーっと、嫌だね、名前が出てこないね。そりゃそうかもしれないね、娘の名前も出てこないんだからね。でもね。あんたの父さんも武道をしていたんだよ。もしかしたら、剣道だったかもしれないね。だから、ナナモの姿を見てなんか思い出すと思ったんだけどね。残念だよ」
「本当?」
ナナモはマギーから両親のことを聞いたことが一度もない。それなのに、今から試合が始まるというこの期に及んで急にナナモに話しかけて来るってどういうことだろう。ナナモは急にこれから始まる試合がかすんで見えた。それよりもマギーにもっと今の事を尋ねたかった。でも、ナナモが試合に出なくてはマギーは何も思いだせない。しかし、マギーはナナモがこれから行う試合を見れない。ナナモはそのジレンマの狭間であっと声を上げてから言った。
「僕が最後まで勝つかもしれないよ」
「そうだね。だったら間に合うかもしれないね。頑張りな」
明らかに高い声のトーンだったが、マギーは相変わらずの面持ちを変えなかった。
「ハイ」
ナナモはいつもなら試合前は緊張するのに気が大きくなったのか、「ああ」とは言わなかった。
「お守りだよ。首に掛けな」
マギーは去り際に急に丸い何やら宝石のようなものがついているペンダントを渡してくれた。お守りだというから、もしかしたら神社から授かった由緒あるものではないかと思ったが、単なる円形の透明な水晶に見えた。。
「ありがとう」
ナナモは丁寧に最後の言葉を二人の後ろ姿に投げかえると、また正面を向き、丹田に力を入れてから姿勢を整えた。
ナナモは先ほどの事を引きづっていないわけではなかった。しかし、その事で昨年、オンリョウに惑わされた事を全く思い出せないでいた。それどころか、マギーに自分の雄姿を見せなければと、その思いの方が強くて、ナナモは相手を観察するどころか、お互い礼をして蹲踞の姿勢から立ち上がるまで、なんとしても勝たねばとそればかり考えていた。
ナナモは、始め!の合図とともに中段に構え、竹刀で間合いを測ると、がむしゃらに声を上げ、当たればもうけもんだとばかりにまず相手に打ち込んで行った。昨年の相手と違って、やる気がなさそうにナナモの竹刀をただかわすわけでも、ナナモ以上の声ですかさず打ち返してくるということもなく、おそらくナナモと同じくらいの実力なのだろうとナナモは感じた。
ナナモは間合いを測りながら落ちつくことにした。それでいて呼吸を悟られないようにしていたが、相手もナナモと同じように、呼吸を悟られないようにしていた。
ナナモは案外持久力がある。だから、とにかく手数を多くとにかく打ち込めとタカヤマに言われていたのだ。もしかしたら万に一つでも相手に当たるかもしれないからだ。だから、ナナモは相手もナナモと同じように間合いを測ろうと、そして、呼吸を整えようとした矢先に猛烈に打ち込んで行った。もちろん、相手がナナモよりも上手ならナナモはうまくかわされるどころか、逆手に取られて打ち込まれるかもしれなかったが、ナナモの信念はマギーからの言葉もあって揺るがなかった。そして、その信念が、押して押して押しまくった結果、本当に相手の面に偶然当たって一本先制出来た。
新人戦でソフィアから一本取って以来だ。ナナモはこれならいけると、結構息が上がっていたが、再び始めと声がかかった瞬間同じように打ち込んで行った。
相手もナナモの猛攻に息が乱れている。だから、呼吸の具合が面を付けていないかの如く見えて来る。ナナモはだからと、もう一度猛攻をかけ、相手の息が吐くのではなく吸うタイミングで面を打った。
「小手あり」
ナナモが自信をもった間合いは間違っていないはずだ。それなのに、どうして?
ナナモはふとタカヤマの言葉を思い出した。油断なのかもしれないし、相手もナナモと同じように必死に何かを考えたのかもしれないし、先輩や同僚からアドバイスを受けていたのかもしれない。
それでもナナモは、そうだよな、そううまくは行かないよなと、いつも冷静というか悲観的に考えるのに、今回は一切そういうことは考えなかった。ただ、マギーの言葉マギーの言葉とそればかりが浮かんできた。だから、はじめ!と、三本目の開始の声がかかった時にも、相変わらずがむしゃらに打ち込んでいた。
ナナモに奇跡があったわけではない。ナナモがもはや燃え滾る炎のようにがむしゃらに前よりも早く打ち込んだので、たまたま相手の小手が当たらなかっただけだ。それでもナナモは構わなかった。それどころか、相手の事しか見えなかった。
その刹那。一瞬だったのかそれともとてつもなく長い時間だったのかわからないが、声がする。ナナモが恐れていた声だ。
「お前は蘇ったのだ。なぜだかわかるか、お前がクニツのカミであり、オホナモチの後継者だからだ。良いか。王家は蘇る。いや、蘇えらなければならない。それが王家の役割なのだ。お前もいずれわかる。王家のもう一つの宿命を。そしてオホナモチがなぜ次々と代わらなければならないのかを」
「僕は死者ではない。だから、蘇りなどしない。何度も言ったことだ」
「では、どうして過去の記憶がないのだ」
「……」
「良いか。蘇りの意味をよく考えるのだ。そして、その声をよく聞くのだ」
オンリョウ?いや、違う。今まで聞いたことがない声だ。でもなぜか懐かしい。もしかして父さん?でも父さんは死者ではないよね。そうであるなら蘇らないよね。それとも死者なの?だから蘇ったの?でも死者は蘇えらない。僕はそう思う。だから僕は今ここに居る。でも、確かに僕の記憶を僕だけではなくどうして皆が知らないのだろう。
ナナモは急に胸が熱くなった。いや、痛みを感じた。しかし、その瞬間あの歌が聞こえてくる。そして、ナナモは覚醒した。
やはり一瞬だったのかもしれない。しかし、ナナモが振り上げようとした竹刀は動かない。ただし、ナナモは現実の中にいる。そのことだけははっきりと分かった。
相手は甲手を狙いに来ているのだ。そしてその動きはまるでスローモーションの様で、手に取るようにわかる。
竹刀ではない。刃なのだ。
ナナモは一瞬早く相手の竹刀を弾くとまるで脳天から身体を半分に切り裂くように面を打ち込んだ。
「一本!」
旗が挙がった。その瞬間、ナナモは意識を失っていた。
「ナナモ、ナナモ……」
誰かの声がする。でも異世界だと思わなかった。だから思い切って目を開けた。タカヤマとサクラギとフジオカが心配そうにナナモを囲んでいた。
「なんぼ俺が打ちまくれって言っても、あれは無謀やで。それも三本目の時は肩がゼイゼイと上下に動いてたからな。呼吸を制するどころか、あれやったらさすがに過呼吸になるで」
タカヤマがえらくまじめな顔でナナモに言った。
「でも、よく最後まで頑張ったわよ」
サクラギの少し笑みを含んだ言葉が聞こえる。フジオカがサクラギに同調するように頷いている。
「また、意識がなくなったのかい?」
ナナモは誰にということもなくつぶやくと、タカヤマの珍しく目じりの下がった顔が目に入る。
「勝ったんや。ナナモ、三本目をとったんや」
完全に負けたと思っていたナナモはその言葉につられるように半身を起こした。それでも、昨年のことがあったので、みんなが僕をだましているんじゃないだろうかと一瞬思ったが、その言葉が嘘でないということを三人のニコニコ顔が物語っていた。
「本当なんだ」
ナナモは三人に言ったのでない。あの時、聞いた声の主に言ったのだ。きっとあの声は父ではなかったのだろう。マギーから聞かされたからそう思っただけなんだろう。それでも、今まで聞いたことのない声色だった。
ミナイザ。
ナナモは不意に浮かんできた言葉をすぐに打ち消そうとかぶりを振った。そして、その代わりにもしかしたら消えてしまった何かが思い出せるのではないかと思って、記憶の扉をノックしようとした途端激しい頭痛に襲われた。
「ナナモ、大丈夫か。あんなに喜んでいたのに急に青い顔して。次の試合があるんやで、出れるんか?」
タカヤマの声が聞こえる。ナナモはゆっくりと息を吸い、そして吐いた。すると血の気が戻って行くのが自分でもわかる。
「ああ、大丈夫だ」
蘇りはきっと後ろだ。ナナモは前だけを向こうとした。
ナナモはゆっくりではあったが自分の力だけで起き上がった。ふらつきはなかったし、もちろん頭痛もなかった。ただ、手が強張って動きづらい。それに両腕が痛かった。
「えっ~と」
「どうかしたの」
青ざめてはいなかったが、少ししかめっ面のナナモに柔らかいサクラギの声が届いた。
「いや、指が強張っているし、両腕が痛いんだけど、どこの筋肉なのか説明したいんだけど特定できなくて」
「なに?」
ナナモは腕から手に掛けて解剖学的な筋肉の名前をスラスラと日本語で呟いてから、あっ、これかな、いやこっちかなと独り言を続けた。
「あほか、ここは解剖実習室やないで、それに俺たちに対する当てつけか、試験に通ってないのにそんなスラスラ言いやがって。ええか、ナナモ、竹刀の振り過ぎと過呼吸で乳酸が溜まったんや。どこの筋肉とかの問題と違う。すべての筋肉や」
タカヤマは吐きすてるように言ったが、フジオカだけは、ナナさん、やっぱりすごいですねと、しきりに感心していたし、サクラギも、まだ試験が終わったばっかりなのにもうあやふやになっているわと、先ほどの柔らかさは消え硬くなっていた。
「今はそんなことはどうでもええんや、ナナモ、ちょっとここに座ってみい、筋肉をほぐしてやるから」
ナナモはタカヤマに言われて勘弁してくれと思った。タカヤマのごつい手でもまれたら、余計に筋肉が硬直しそうな気がしたからだ。
「サクラギにやってもらおうと思ったんちゃうやろうな」
タカヤマの目が急に鋭くなって一瞬光ったように思った。だからナナモはその刃に歯向かうどころか微動だに出来なかった。
タカヤマはナナモの予想に反して優し気なてさばきでナナモの両腕をほぐしてくれた。タカヤマのことだから気合や、痛くても我慢せえと、精神論を押し付けてくるのではないかと思っていたが、前主将のタケチを尊敬していたタカヤマは、たとえ武道といってもスポーツ医学的な観点からアプローチする事を厭わなかった。
「ありがとう」
ナナモに精気が戻ったのは言うまでもない。それどころか、先ほどより身体が幾分軽くなったように思う。
ナナモは立ち上がり竹刀を握ると中段に構えた。先ほどは両手から竹刀が飛び出すような感覚だったが、今は全くそんなことはなく、決して身体の一部になった様だとは言えなかったが、そう思えるくらいしっかりと握れていた。
ナナモはゆっくりと竹刀を振り上げ、そして、振り下ろした。竹刀の先にナナモの力と意志が伝わっていくのが分かる。
「なんとかやれそうだよ」
ナナモは英語で自分に言い聞かせてからはっきりと三人に向かって言った。「ナナさん、ファイト」
フジオカが少し場違いな応援の言葉を少し大きな声で言ったものだから、サクラギが笑っていたが、フジオカはその事にまったく気が付かなかった。
「ええか、ナナモ、出会いがしらや、それで一本取ったらさっきよりも早く竹刀を倒れる寸前まで打ち込め、そうしたら勝てる」
二人と違って、タカヤマは真剣な顔つきでナナモに話しかけてくる。ナナモはその緊張感にきっと次の相手が手ごわいのだろうと想像した。きっとタカヤマもそう言えばナナモはそのことに気が付くであろうと思いながらも、それでもナナモになんとか勝機を見出してほしいと願っているように思った。その証拠にフジオカももはや真顔に戻っている。
「ああ、わかっている」
ナナモは何も分からないのに、なぜかそう答えていた。そして、マギーの言ったことを思い出し、自分を鼓舞するように無言で自分で自分に気合を注入する。
「ナナモよ、刃でお前は……」と、どこからか声がしてきそうであったが、その声を竹刀で払いのけるくらいの大きな素振りをナナモはしばらく繰り返していた。
ナナモは一回戦を突破して二回戦に進んだのだが、二回戦の相手が急きょ出場を取りやめたために三回戦に進んでいた。三回戦からはシードの選手も参加する。だからタカヤマはナナモにああ言ったのだ。その事はナナモがしばらく意識をなくしていた間に決まったことだったのだが、あえて三人はその事をナナモに知らせずに、一回戦を突破したことだけを喜んでくれたのだ。
試合が始まる前にそのことを知ったナナモであったが、別に気にしなかった。タカヤマの言う通り出会いがしらと、相手の油断ということもある。そして、珍しくマギーに会ったこととマギーから聞かされた父の事と相まって、マギーに念を押されるまでもなくきちんと参拝していたこともあって、もしかしたら、カミサマが味方してくれるのではないかと、勝ったイメージしか湧かなかった。
「そううまいこといかへんなあ」
ナナモの出合い頭の一本が、淡い期待であったということを思い知らされるまで、数分もかからなかった。
ナナモはやみくもに竹刀を振ったわけではないが、それでも一回戦よりも早く、多く、そして何より相手の何倍もの大声で叫びながら試合に臨んだのに、相手は能を舞っているかのように、上半身はしならせ、下半身は地に着いた軽やかな動きでナナモの攻撃をきれいにかわすと、いつの間にか甲手を、そして面を打って、ナナモの杵築医科大学剣道部での二回目の夏を終わらせた。
ナナモは意識を失うことなく礼をして下がると、ゆっくりと面を取った。そして座りながらゆっくりと深呼吸した。手拭いや道着はびしょびしょで、いくら拭いても汗が滴り落ちてきたが、ナナモは意識を失わなかったということよりも、久しぶりにというか、剣道を始めてから、初めて胸の高まりを抑えられないほど興奮していた。
あの時、僕は蘇ったのかそうでなかったのかは関係ない。僕は今生きている。そう思えるだけで胸が一杯だった。
それでも体から吹き出る汗は無限ではない。ナナモは次第に悔しさがこみあげてきて、思わず天井を見上げた。あと一回勝てば、父の後ろ姿くらいとらえることができたかもしれない。しかし、その一方で、ナナモは、父は生きている。だから勝ち進んでも蘇りはしないと、自分に言い聞かせるしかなかった。
フジオカは二回戦で負けていたが、三回戦を突破した先輩もいたので、一呼吸おいたナナモは竹刀と面を抱えて立ち上がった。先ほど試合していた場所に向かって一礼すると、ゆっくりと静かに少し後ずさりしながら振り返った。
マギーがいる。ナナモはハッとして、もう少しで面と竹刀を落としそうだった。
「負けちゃったよ」
小声ではあったが、マギーに向かってナナモはそれでも下を向くことはなかった。
しかし、マギーからは返答がない。それどころかナナモを通り越した視線は始まった試合に釘付けになっている。
小声だったので聞こえなかったのかもしれない。だから、ナナモはもう一度同じことを少しトーンをあげて言った。もちろん英語だ。ナナモの声が一瞬マギーを振り返らせたが、試合観戦の邪魔だと言いたげな顔でナナモをチラ見しただけで、また視線を戻していた。
「どうしてこういう時に限って僕を突き放すんだよ」
ナナモはまたかと思いつつも、それでもマギーが今そこまでする理由がわからなかった。
そういえばあの時マギーの傍らにいた女性がいない。
もしかして、マギーじゃないのか?
ナナモを完全に無視しているが、どう見てもマギーとおなじような容姿の外国人の老婦人をもう一度凝視した。確かに見た目はマギーではない。でもそれは変装したからだと先ほど言っていたではないか。腹を立てているのだろうか?それとも負けてしまったナナモより上級者同士の試合に集中したいのだろうか?
ナナモは、もしかして……と、「アヤベさん」と、声を漏らした。
「誰に話しかけてるんや、ここに来た時ナナモがおばあさんやないって俺に言うたんと違うんか」
アヤベではなく、タカヤマの声だった。ナナモはそういえばと慌てて何かを言わなければならないと思ったのが、舌がうまく回らない。
「なんかあやしいな」
タカヤマはそう言うと、ナナモがあっと声を出した隙にその老婦人のもとに駆け寄っていた。
タカヤマは英語が苦手なはずだ。なのになぜいつもそう突っ走ることができるのだろうと、いつものことながら、ナナモはうなずくしかなかった。
「やっぱり、ナナモのこと知らんって。それに、さすが鎌倉やな。もう長いこと日本に住んでいて、日本語ペラペラやったわ」
ナナモのところに戻ってきたタカヤマはほっとしたようなそれでいて少し寂し気だったが、「英語苦手やのに、よお行ったなと思ってたやろう、でも、あのおばあさん、イギリス人じゃなくてフランス人やったで。ジェームズ・ナナモ君でもフランス語は話されへんやろ」と、いつもより上からナナモを見下ろしてきた。
いや、少しくらい話せるよ。イギリス人にとってフランス語は教養の一つだし、僕は一年間大学で一応フランス語を習っていたんだから。
ナナモは背伸びしてタカヤマを見下ろしてやろうと思ったが、到底そんなことを言えるはずもなく。そうだろう。マギーじゃなかっただろうと、もしかしたらと、冷や汗ものだったがタカヤマに合わせることにした。
でもこういう時には必ず何かがある。
ナナモは胸騒ぎというほどではないが、カタスクニのことを強く思った。解剖実習が終わり、ナナモの医学部での剣道大会も終わったのに、アヤベからまったく音沙汰がないなんて考えられなかったからだ。
ナナモは老婦人の後ろ姿をもう一度見た。老婦人はいなくなってはいなかったが、さきほどより幾分横に太く幾分縦に短くなっているような気がした。しかし、ナナモはこれ以上どうすることもできなかった。だから、マギーであろうと、マギーが変装した誰かであろうと、マギーでなかろうと、マギーでない誰かであろうと、振り返ることはやめようと思った。それでも誰かが話しかけてこないだろうかと聞き耳だけは逃さなかった。しかし、体育館のあちらこちらからまるで波のように掛け声が聞こえるだけだ。それも交わると大きな波になる。
ナナモは思わず耳を塞いだ。その瞬間、ナナモの手の甲を突き抜け、ある言葉が鼓膜に突き刺さって来た。
まさか……。
ナナモがその言葉を口にしようとした時、あの老婦人はナナモの前からいなくなっていた。