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平凡と運命のあいだで  作者: 星月 ましろ
7/21

帰省

三日月本邸の庭に朝の光が差し込む。空は澄み渡り、控えめな鳥のさえずりが広大な敷地に反響していた。

 七宮真は手早く荷物をまとめ、護衛に案内されながら屋敷内を進む。今日の目的は福岡の実家へ顔を見せること。黒金学院での生活に少しずつ慣れ始めたタイミングで、両親の顔を見て、そして自分の心を整理するための帰省だった。


 「準備は整いましたか」

 護衛の一人が短く報告する。制服に身を包み、無表情だが鋭い眼光が安心感を与える。

 「はい、大丈夫です」

 真は静かに頷き、ジェット機へ向かう。


 三日月本邸の滑走路には、既に小型の自家用ジェットが待機していた。ヘリコプターも傍らに停まり、離陸準備は万全だ。

 「今回は福岡まで直行です。途中、ヘリでの降下も可能です」

 護衛の説明に、真は軽く頷く。移動手段の豪華さは相変わらずだ。三日月家の権威と資産を象徴するようなこの光景を見て、胸中には複雑な感情が湧く。


 座席に腰を下ろすと、窓の外に庭園の緑がゆっくりと遠ざかる。

 機体が滑走路を走り、静かに空へ舞い上がる。福岡への帰省は、単なる移動ではない。自分のルーツを再確認する旅だ。

 幼い頃の記憶、両親と過ごした時間、そして離れたことで生まれた微妙な距離感。思い出が次々と脳裏をよぎる。


 数時間後、ヘリコプターに乗り換え、福岡の市街地へ向かう。高層ビルの合間を縫うように飛ぶ景色は新鮮で、街のざわめきが小さく見える。

 ヘリが楯山家の近隣の公園に着陸すると、護衛が機体を警護しながら真を降ろす。

 「ここからは徒歩で実家まで」

 真は深呼吸をし、地面に足をつけた。福岡の空気は、東京や三日月本邸とは明らかに異なる。湿度、匂い、そして街の音すべてが、どこか懐かしく、どこか落ち着く。


 パン屋の店先には、変わらぬ両親の姿があった。母はエプロン姿で小麦粉まみれになりながら生地を整え、父はカウンターの奥で釜を覗き込んでいる。

 「真!」

 母の声が響く。彼女はすぐに駆け寄り、抱きしめるように手を取り、顔を覗き込む。

 「久しぶりね、元気そうでなにより」

 父は穏やかな笑みを浮かべ、肩を軽く叩く。

 「学院はどうだ?」

 真は一瞬言葉を探した。Sクラスとの距離、Dクラスの孤立、授業での苦労……。

 しかし、ここでは何も飾る必要はない。

 「少しずつ、慣れてきた」

 真は静かに答え、母の手を軽く握り返す。


 店内に入ると、パンの香りが広がる。窓から差し込む朝の光が、木製の棚と石造りの床を温かく照らしている。

 母はパン生地をこねながら話しかけてくる。

 「東京の学校はどう? 友達はできた?」

 真は言葉を選びながら答える。

 「うん、少しずつ…。Dクラスでも、周りとやり取りしながら学んでるよ…」


 両親は頷き、さらに質問を重ねる。

 「学校では何が一番大変?」

 真は机に置かれた焼きたてのパンを見つめ、少し微笑む。

 「まだ、慣れないことも多いけど、挑戦するしかないよね」


 店の外には常連客が訪れ、両親は手際よく応対する。真はその様子を眺めながら、学園での自分とのギャップを感じる。

 三日月本邸の贅沢な環境、Sクラスとの格差、Dクラスでの孤独。

 一方で、両親が作り上げたこの小さな日常は、質素だが温かく、安心感に満ちていた。


 午後になると、近所を散歩する時間が訪れた。

 真は福岡の街を歩きながら、学校で学んだことや課題のことを思い返す。

 Sクラスとの距離感、Dクラスでの序列、孤独の中での工夫。すべてが、ここでの時間と比べると不思議と鮮明に浮かび上がる。


 「ここでの生活も悪くない、2人があの家から出た意味がわかるな」

 真は心の中でつぶやく。

 しかし、胸の奥には再び学院へ戻る覚悟がある。

 黒金学院で待つ仲間たち、Sクラスの生徒会執行部、そして三日月蓮の期待に答えたい自分がいた。


 夕暮れの街に、パン屋の看板が柔らかい光を放っていた。

 真はパン屋の小さな店内に腰を下ろし、湯気の立つカップを両手で包み込む。母が淹れてくれた温かい紅茶は、どこか懐かしい香りがして、心の奥にまで沁みわたるようだった。


 「学院のこと、詳しくは話せないんでしょう?」

 母はカウンター越しに問いかけてきた。その声色には心配と興味が入り混じっている。

 「うん。まあ……少しずつ慣れてきたから、大丈夫」

 真は曖昧に笑う。学院の実態――授業料だけで一年一億円を超えることや、クラス分けが血筋と資産で露骨に決まること、そして自分が「七宮家の跡取り」として周囲に見られていること――それらを軽々しく口にするわけにはいかなかった。


 「無理してない?」

 母の視線が柔らかくも鋭く突き刺さる。

 「……してないよ」

 即答したものの、自分の声がどこか軽く響くのを真は自覚していた。


 父はオーブンの前に立ちながら、のんびりとした調子で言った。

 「真は真のままでいいんだぞ。どんな場所に行っても、最後に帰ってくるのはここだ」

 その一言に、胸の奥が温かくなった。豪奢な三日月本邸や、鋭い視線を投げかけてくるSクラスの同級生たちの顔が脳裏をよぎる。だが、この小さなパン屋と両親の声こそが、自分にとっての原点だと真は再認識した。


 夜になると、常連客が引けたあとに家族三人で食卓を囲んだ。

 母の作るスープは素朴だが滋味深く、父の焼いたバゲットは外は香ばしく中は柔らかい。東京や三日月家で出される高級料理とは違い、余計な飾り気のない味わいが、何より心を落ち着けた。

 「学院では、ちゃんと食べてるの?」

 「食堂もあるし……大丈夫」

 本当は、学院の食事は一流ホテル並みの豪華さだ。けれどその豊かさが、どこか味気なく感じられることを真は知っている。ここでの食卓こそが、心を満たす場所だった。


 食後、父がパン屋の奥から古いアルバムを持ち出してきた。

 「ほら、小さい頃の真だ」

 ページをめくると、幼い自分が笑顔で小麦粉まみれになっている写真が現れる。母の手を握ってパン生地をこねる姿や、父の背中におぶわれて市場に出かける姿――。

 「懐かしいな……」

 真は思わず声を漏らした。アルバムの中の自分は、まだ“七宮”という重荷を背負う前の、本当に普通の少年だった。


 「今も変わってないよ」母が微笑む。「どんなに立派なところに行っても、真は真だもの」

 その言葉に、胸の奥で何かがほどけていくような感覚があった。


 夜が更け、布団に横になると、外から虫の声が聞こえた。都会では決して耳にできない、福岡の夜独特の音。

 ――自分は、どこに向かっているのだろう。

 真は天井を見上げながら思った。黒金学院で生徒会執行部の面々と出会い、三日月蓮に責任を問われ、そして自分が“七宮家の跡取り”であると突きつけられた。

 それでも、こうして実家に戻れば「ただの真」に戻れる。だが、いつまでもそのままではいられないことも分かっていた。


 翌朝、店先にはすでに長蛇の列ができていた。母が笑顔で客を迎え、父が焼きたてのパンを切り分ける。

 真も久々にエプロンを身につけ、レジを手伝った。客たちは口々に「真くん、大きくなったな」「都会の学校はどうだ?」と声をかけてくる。

 「ええ、まあ……」

 真は曖昧に笑って答えた。心の奥では、ここでの温かい日常と、東京での冷徹な競争社会との落差に戸惑っていた。


 昼下がり、店の裏で父と二人きりになる。

 「真、お前に言っておきたいことがある」

 父の声が低くなる。

 「俺たちは七宮家と縁を切った。だから、お前がどんな道を選んでも、俺たちはパン屋の両親でしかない」

 その言葉に、真は息を呑んだ。父の瞳には迷いがなく、ただ息子を信じる光が宿っていた。

 「ありがとう……」

 それしか言えなかった。


 夕刻、再び護衛の車が迎えに来る。

 母は涙を堪えながら、紙袋を差し出した。中には焼きたてのパンが詰まっている。

 「これ、学院に持っていきなさい。友達と分けてもいいし、自分で食べてもいいし」

 「……うん、ありがとう」

 真は袋を抱きしめるように受け取った。


 車に乗り込み、街を離れる。窓の外で両親の姿が小さくなっていく。

 胸の奥に熱いものがこみ上げ、真は小さく呟いた。

 「俺は……負けない」


 やがて再びヘリに乗り換え、空へ舞い上がる。福岡の街並みが遠ざかり、雲の向こうに東京が待っている。

 両親の言葉とパンの香りを胸に、七宮真は再び黒金学院の日常へと帰っていった。

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