弱さ
黒金学院の新学年を迎える前の休暇の最中、七宮真は三日月本邸の広大な庭園をひとり歩いていた。
空は冴え渡るように澄み、春の陽気がする。
だが胸の奥には重く冷たい影が居座っていた。
――自分は守られるだけの存在だった。
誘拐事件。
そして翔や三日月家の護衛による徹底した残党狩り。
自分はただ連れ去られ、怯え、救い出されるのを待つしかなかった。
「……僕は、このままでいいのか」
吐き出した声は、広い庭園に吸い込まれる。
生徒会で補佐として働き始め、自分の存在を公表し、少しずつ前へ進んできたつもりだった。
だが現実はあまりにも無力で、結局は従兄弟たちや護衛に守られるだけの立場だった。
その時、背後から低い声が響いた。
「――悩んでいるな、真」
振り返ると、そこには七宮入鹿の姿があった。
鋭い眼光を宿す老練の男。その背筋はまっすぐ伸び、佇まいだけで圧を放っている。
真の祖父であり、七宮家の当主。七宮流剣術の師範。
「入鹿さん……」
入鹿は真の傍らに立ち、同じ景色を眺めた。
「お前は、自分の弱さを噛み締めている顔をしている」
「……はい」
真は視線を落とした。
逃げるように目を逸らすことは、もうできなかった。
「僕は無力でした。誘拐されて、何もできず……結局、守られてばかりで」
「当然だ。お前はまだ剣を持っていない」
入鹿の声は厳しいが、非難ではなかった。
「だが、弱さを自覚したなら、そこから先は選べる。七宮の名を背負う者として、立ち向かうか、逃げるかだ」
真は深く息を吸った。
そして震える声で、覚悟を口にした。
「……僕に、七宮流を教えてください」
入鹿の眼光がわずかに細められた。
「その言葉を待っていた」
翌朝。
真はまだ夜明けの気配が残る頃、三日月本邸の道場へ向かった。
畳張りの広間は広く、空気が冷たく張りつめている。
入鹿はすでにそこに立っていた。白い稽古着に身を包み、木刀を片手に。
「遅いぞ、真」
「す、すみません!」
真は慌てて正座した。
だが入鹿は眉を動かさず、淡々と告げる。
「今日からお前に剣を教える。だが勘違いするな。七宮流は型を振るだけの芸ではない。心を鍛え、体を鍛え、そして技を磨く。その三つが揃って初めて剣になる」
「はい」
「まずは基礎だ。立て」
真は立ち上がり、木刀を両手に握った。だが握りはぎこちなく、肩に余計な力が入っている。
「力むな。剣は腕で振るものではない。腰からだ」
入鹿の声に合わせて、真は何度も振り下ろす。
だが最初は空振りのように軽く、次第に腕が疲れて形が崩れていった。
「遅い。雑だ。足の踏み込みを忘れるな」
叱責が飛ぶ。
真は必死で木刀を握り直し、汗が額を流れるまで繰り返した。
稽古は午前中いっぱい続いた。
素振り、足捌き、姿勢。
ただの基礎。だが基礎こそが最も厳しい。
昼頃、真はついに膝をついた。
木刀は畳に落ち、荒い息が道場に響く。
「……情けないな」
入鹿が呟いた。
だがその眼差しには、失望ではなく観察の光があった。
「お前の筋力はまだ足りん。だが、目の使い方は悪くない。動きを盗もうとする視線をしている」
真は顔を上げた。
「僕に……才能があると?」
「才能など曖昧なものだ。だが、努力を続けられること、それも才能だ」
その言葉に、真は再び木刀を握った。
「もう一度お願いします!」
入鹿は小さく頷いた。
夕刻。
真は全身を汗で濡らし、腕は痺れて震えていた。
だが最後まで木刀を手放すことはなかった。
「……今日はここまでだ」
入鹿が告げる。
真は崩れるように正座した。
息は荒く、だが胸の奥には奇妙な充実感があった。
「入鹿さん」
「何だ」
「僕は、強くなりたい。守られるだけじゃなく、自分の足で立ちたい」
入鹿の眼光が一瞬だけ柔らいだ。
「ならば続けろ。剣は一日にして成らず。だが続けた者だけが辿り着ける場所がある」
真は強く頷いた。
そして再び、己の弱さを乗り越えるための道を歩み始めた。




