自覚
黒金学院の放課後。春の夕暮れはまだ早く、真が校舎を出たときにはすでに陽が傾き、空は藍に染まり始めていた。普段なら三日月家の専属車両が門前まで回ってきて、護衛と共に本邸まで送り届けてくれるのだが、その日はふとした気まぐれが心を動かした。
(……たまには歩いて帰ってみるのも悪くないかもしれない)
学院と本邸は敷地こそ繋がってはいないが、距離にして数キロ。車なら数分だが、歩けば三十分ほどだろう。街の風景を眺めながら歩く時間は、むしろ今の真にとって必要な余白に思えた。
生徒会の補佐としての日々、三日月家としての立ち居振る舞い、そして七宮家後継者であることを公表してからの周囲の変化。そのすべてが心の中で渦を巻き、気づけば呼吸さえ浅くなる。少しでも気分を切り替えたい、そう思ったのだ。
真は学院の正門で待機していた護衛たちに「今日は歩いて帰ります」と伝えた。護衛たちは一瞬眉をひそめたが、「ご無理はなさらぬよう」と一礼し、それ以上は強く反対してこなかった。
だがその一瞬の油断こそ、後に大きな事態へとつながる。
校門を抜け、冬の余韻がまだ残る風を受けながら歩き出す。学生たちの帰宅ラッシュで賑わう道、制服姿の生徒が楽しげに笑いながら並んで歩いていく。真もまた普通の高校生として、この時間を過ごしたいと思った。
(僕も……こうしていれば、普通に見えるだろうか)
しかし、真の存在はすでに「普通」とは程遠い。七宮家の後継者であり、三日月家の一員。世界規模の経済と権力の渦中にある少年の一人歩きは、いわば無防備にして格好の標的だった。
学院から十分ほど歩いた頃、不自然な視線を感じた。
人通りの多い表通りから一本脇に入った途端、背筋に冷たいものが走る。
(……誰かが、ついてきている?)
気のせいかもしれないと振り返ったその瞬間、影が揺れた。
黒いバンが音もなく真の横に停まり、後部ドアが勢いよく開く。
「ッ――!」
声を上げる間もなく、後方から押さえ込まれる。口元に布が当てられ、強烈な薬品の匂いが鼻を突いた。世界が霞んでいく。必死に抵抗を試みるも、身体は思うように動かず、視界はすぐに闇に閉ざされた。
◆
意識が戻ったとき、真は狭い部屋にいた。金属製の椅子に座らされ、両手首は後ろ手に縛られている。薄暗い裸電球の下、冷たいコンクリートの壁が囲んでいた。
「……どこだ、ここは……」
喉が乾き、声はかすれていた。
その時、扉が開く。入ってきたのは複数の男たち。覆面をしているが、体格からして外国人も混じっているようだ。
「お目覚めか、七宮の坊ちゃん」
英語混じりの日本語が投げかけられる。
「世界的に後継者だと宣言してくれたおかげで、俺たちにとっちゃ最高の“商品”になったな」
冷笑が響く。
真は息を呑んだ。世界に名を公表した瞬間から、こうした危険は常に周囲で語られていた。だがどこかで「自分には関係ない」と思い込んでいたのだ。三日月本邸の鉄壁の防備、学院の厳重な警備。それらに守られている限りは安全だと。
だが――いまは違う。
「……僕をどうするつもりですか」
震える声で問いかける。
「どうするって? 金か、政治的な交渉材料か……まあ、使い道はいくらでもあるさ」
「おとなしくしてろ。お前が生きてりゃ、それだけで世界が動くんだからな」
真の胸に、冷たい恐怖が流れ込む。
自分の存在そのものが、誰かに利用されるだけの価値になっている――。
(……僕は、七宮家の……後継者だから……)
心が揺らぎ、視界が歪む。
だがその中で、ふと浮かんだのは翠や奏、幻人、樹璃、翔の顔だった。彼らの背中を思い出す。常に世界と向き合い、己の立場を背負って進む従兄弟たちの姿を。
(僕だけが……怯えているわけには、いかない……!)
縛られた手首が痛んでも、必死に力を込める。逃げ出せるとは思えない。だが、心だけは折らせてはいけないと、真は己を叱咤した。
その瞬間、外で銃声が響いた。
怒号が飛び交い、男たちが一斉に動揺する。扉の向こうから重厚な足音が近づき、次いで鋭い破壊音と共に扉が吹き飛ばされた。
「そこまでだ」
倉庫街の奥、真を縛りつけていたコンテナは、今や閑散とした残骸のように静まり返っていた。
縄を解かれた真は震える手で自分の手首をさすり、まだ抜けきらない恐怖を胸の奥に押し込んでいた。
「……大丈夫か、真」
翔が声をかける。乱れた髪に返り血が散っているが、その表情は妙に落ち着いていた。
真は小さく頷くしかなかった。
「助かった……ありがとう」
「礼はいい。ここからが本番だ」
翔の目は、すでに外を見据えていた。
誘拐グループの中核は潰した。だが、逃げた残党がまだ十数人いる。しかも彼らは国際ネットワークと繋がっており、再び牙を剥く可能性があった。
「お前を狙った連中を、根こそぎ潰す」
「……そんなこと、翔が一人で?」
「一人じゃねぇ。大林も三日月も、もう動いてる」
翔はスマートフォンを取り出し、短く指示を送る。暗号化された通信網を介して、裏社会の情報網が一斉に作動していくのが真にも分かった。
「真。お前は屋敷に戻れ。ここから先は……俺たちの仕事だ」
だが、真は俯いたまま首を振った。
「……僕は逃げてばかりでいいのか。七宮家の跡取りとして」
翔は一瞬だけ目を細め、そして肩をすくめた。
「なら、見届けろ。俺たちがどう動くか」
-
護衛の黒塗りの車列が三日月本邸の私設滑走路に滑り込む頃には、真の体力も精神も限界に近かった。冷たい夜風を受けながらヘリから車へ移された時、ようやく「助かったのだ」と実感できたのだ。だが全身はまだ小刻みに震えていた。
シートに深く沈み込む。窓の外には厳重に並ぶ護衛の姿。いつもの光景のはずが、今はまるで別世界のように見えた。
――普段はどれほど守られていたのか。
――その庇護を一歩でも外れれば、自分は無力に過ぎない。
車は十五分ほどで本邸の正門を抜け、石畳のアプローチを走り抜けた。玄関前にはすでに明かりが灯り、黒服の執事やメイドたちが一列に並んでいる。その中央に、従兄弟たちの姿があった。
「真!」
最初に駆け寄ったのは樹璃だった。普段はふわりとした笑みを浮かべる彼の顔も、今は硬い。
「無事で……よかった」
「……あ、ああ……」
言葉が喉に引っかかる。安堵のあまり、胸が熱くなった。
続いて幻人が前に出る。その瞳は氷のように冷たく光り、護衛の指揮官に厳しい口調で指示を飛ばしていたが、真の姿を確かめるとわずかに目を細めた。
「……無茶をしたな、真。生きて戻ってきただけでも幸運だ」
翔も肩を掴み、「マジで心配したんだぞ」といつもの快活な声で吐き出す。
奏は言葉少なに頷いただけだったが、その視線は真をひと時も離さない。
そして最後に翠が歩み出た。
「真」
短く名を呼ぶだけで、その声音には叱責も安堵もすべて含まれていた。真は何も言えず、ただ視線を逸らした。
◆
客間へ案内され、護衛医師による簡単な診察を受ける。外傷はなく、薬物の影響も数時間で抜けるとのことだった。執事が下がった後も、従兄弟たちは部屋を離れようとしなかった。
「真、君はもう世界中に名を知られた立場だ」
幻人が低い声で告げる。
「今日の件は偶発ではない。必ず第二、第三の試みがあると考えろ」
「だからって家に閉じこもってろってか?」翔が反発する。「真だって学院に通ってんだ。普通の生活くらい送りたいだろ」
「普通なんて、僕らには存在しない」翠の一言で空気が静まり返る。
真は拳を握りしめ、口を開いた。
「……僕が、甘かったんだ」
全員の視線が集まる。
「本邸や学院で守られてるうちは安全だと思い込んでた。でも一歩外に出れば、僕はただの無力な子供だった……。護衛を断ったのも、歩いてみたかっただけなんだ。普通の高校生みたいに……」
言葉が途切れる。情けなさと悔しさで、胸が締め付けられる。
その時、柔らかい声が響いた。
「……真は、真のままでいいんだよ」
樹璃だった。椅子に腰掛けながら、相変わらずふわりとした口調で続ける。
「怖い思いしたっていい。無力だと思ったっていい。でも、ここに帰ってきた。帰ってきたってことは、もう一人じゃないってことだ」
翔も頷き、「そうだ。俺たちがいる。真を簡単に誰かに渡すわけないだろ」と笑った。
その笑顔に、真の目頭が熱くなる。
◆
その夜遅く、扉をノックする音がした。現れたのは七宮入鹿だった。長い海外出張から戻ったばかりのはずなのに、疲れを微塵も見せず真の前に立つ。
「真」
低い声が名を呼ぶ。敬語を使わぬその響きは重く、真の背筋を正させる。
「……入鹿さん」
真が立ち上がろうとすると、入鹿は手で制した。
「座ってろ。顔を見にきただけだ」
隣に腰を下ろすと、しばし沈黙が続く。やがて入鹿は静かに口を開いた。
「怖かったか」
「……はい」
正直に答えるしかなかった。
「いい。怖さを知ったなら、それで十分だ。人は恐怖を知って初めて、覚悟を持てる」
入鹿の瞳は真を射抜くように鋭い。
「今日を境に、お前はもう『普通』ではいられない。だがそれは不幸ではない。七宮を継ぐ者にしか背負えないものがある。……真、お前はそれを担う覚悟があるか」
問いかけに、真は息を呑んだ。
心臓が早鐘を打ち、答えが喉に詰まる。だが従兄弟たちの顔、護衛に支えられた瞬間の記憶、そしていま隣にいる祖父の姿が背中を押した。
「……あります。怖いですけど、逃げません」
一拍置き、入鹿は小さく頷いた。
「それでいい。その覚悟さえあれば、後は俺も翠も支える。真、お前は一人じゃない」
その言葉に、真は初めて胸の奥から安堵の息を吐いた。
◆
翌朝、三日月蓮の前に呼ばれた。広間に並んだ従兄弟たちと共に座すと、蓮は深い瞳で一人ひとりを見渡した後、真に視線を止める。
「――真、よく生きて戻ったな」
その声音は冷徹に聞こえるが、どこか柔らかな響きもあった。
「お前が背負う名は重い。だが忘れるな。七宮家の名は、一人で背負うものではない」
短く、それでいて絶対の信頼を含む言葉。
真は深く頭を下げた。
「……はい」
その瞬間、真の中で何かが定まった。
もう「庇護されるだけの存在」ではいられない。
恐怖も、責任も、覚悟も――すべてを抱えて進むしかないのだ。
(僕は七宮真。七宮家の跡取りであり、三日月家の一員だ)
その想いが、静かに胸に刻まれていった。
数日後。
東京湾岸の廃工場地帯に、残党のアジトが潜んでいるとの情報が入った。
裏で糸を引いていたのは東南アジアを拠点とする武装組織。その日本支部にあたるメンバーが今回の誘拐を仕組んでいたのだ。
翔は大林組の部下数名を率い、さらに三日月家の特殊護衛部隊と合流した。
真も同席したが、戦闘に参加するわけではない。彼に与えられた役割はただ一つ――「見届ける」こと。
「敵は二十人前後。全員が銃器持ちだ」
「制圧はどうする」
「見せしめだ。二度と七宮家に触れようと思わねぇようにな」
翔の言葉に、部下たちは無言で頷いた。
夜。
工場地帯に足音が響いた瞬間、銃声が炸裂した。
「来やがったぞ!」
「応戦しろ!」
だが、翔たちは正面から突っ込むことはしない。
煙幕弾が投げ込まれ、視界が一瞬で奪われる。
次の瞬間、暗闇の中から低い声が響いた。
「――大林翔だ。覚えとけ」
それは死の宣告と同義だった。
一人、また一人と敵の腕がへし折られ、銃が弾き飛ばされていく。
三日月家の護衛は無駄のない動きで敵を制圧し、悲鳴だけが夜に響いた。
残党の中には一人、首謀者と呼べる男がいた。
中年で、背に龍の刺青を刻んだ元傭兵。
彼は最後まで逃げず、ショットガンを構えて翔の前に立ち塞がった。
「クソガキが……財閥の犬が何を偉そうに!」
「犬で結構だ。だがな……」
翔は一歩前へ踏み込み、鉄パイプを振り下ろす。
ショットガンの銃口が火を噴くより早く、金属音と共に銃が弾き飛ばされた。
「俺の仲間を、真を狙った報いは……ここで払ってもらう」
言葉の直後、男は床に沈んでいた。
翔の動きは一瞬だった。
数十分後、工場は沈黙していた。
残党は全員制圧され、指揮系統も潰えた。
三日月家の護衛部隊が拘束した者たちは国際的な裏ルートを通じ、存在を「消される」だろう。
翔は血を拭い、息を吐いた。
「……これで、ひとまずは終わりだ」
三日月の番犬。
彼の異名がまた裏社会で目を光らせることになる。




