素質
雪解け、春の訪れを感じる柔らかな日差しが差し込む午後、生徒会室の空気はいつもより張りつめていた。
机の上には書類が整然と並び、窓際にはまだ咲き残る梅の花びらが風に舞っている。だが、その穏やかな光景とは裏腹に、部屋の中には沈黙が支配していた。
中心に座るのは三日月翠。無表情のまま、長い指先でペンを弄び、誰も発言しない空気を切り裂くように淡々と告げる。
「……七宮真を、この生徒会にどう位置付けるかを決める必要がある」
その一言で場が動いた。
最初に口を開いたのは大林翔だった。背もたれにだらりと体を預け、いつも通りの軽薄さを装いながらも、その眼差しは鋭さを隠していない。
「扱う、ねぇ。正直、あいつは普通の生徒として放っとくわけにいかねぇだろ? 試験の結果も悪くなかったし、何より“自分は七宮家の跡取りだ”って公言しちまった。あのクラスの連中だって動揺してるはずだぜ」
「そうだね」
今度は奏が口を挟んだ。彼は相変わらず声量は小さいが、言葉ははっきりしている。
「……でも、僕は無理に特別扱いする必要もないと思う。真が選んだのは“自分の立場を隠さない”っていう勇気ある選択だ。それを尊重してあげるべきじゃないかな」
幻人は腕を組み、じっと考え込んでいたが、やがて低い声で口を開いた。
「補佐の立場は維持すべきだ。少なくとも学内での影響力を考えれば、彼の存在は利用価値がある。七宮家の名は、世間に対してもこの学園に対しても大きな意味を持つ。だが……」
そこで言葉を切り、翠を見た。
「君はどう考える? 従兄弟としてではなく、生徒会長として」
翠は淡々と応える。
「僕は生徒会の機能を乱す要因は排除する。それが誰であれ、僕の方針は変わらない。七宮真が“七宮の跡取り”を名乗ることは構わない。だが、それが周囲に余計な波風を立てるならば……その都度、制御するまでだ」
翠の冷徹な言葉に、場の空気がさらに冷えた。
だが、その直後に樹璃が明るい声を出す。
「でもねー、翠。真、すっごく頑張ってたじゃん。生徒会の雑務とかも、文句ひとつ言わないでやってたでしょ? 僕はむしろ信頼できると思うなぁ」
「信頼、か……」
翔が肩をすくめる。
「確かにあいつは不器用なりに真面目だよな。俺も嫌いじゃねぇ。でも、それと“この生徒会にどこまで関わらせるか”は別問題だ」
翠は短く頷いた。
「七宮真の能力は、現状では補佐レベルに留まる。だが学年順位を上げたのは評価に値する。……彼自身が望むならば、これからも補佐として継続的に関与させる。ただし、正式な役職は与えない」
「それは……距離を置くってこと?」
奏が問いかける。
翠の瞳が一瞬、鋭さを増した。
「必要以上に表へ出すべきではない。彼はまだ“揺れている”。七宮家の跡取りとしての覚悟と、普通の高校生でありたい自分との間でな」
沈黙が再び広がった。
その言葉が誰も否定できない真実だからだ。
幻人が口元に微かな笑みを浮かべ、椅子に深く座り直す。
「……つまり現状維持、ということだな。彼を排除せず、かといって特別視もせず。ただ、利用価値は見極める、と」
「そういうことだ」
翠の声は冷ややかで揺らぎがない。
だが奏はまだ納得しきれない表情で、ぽつりと呟いた。
「……真は、僕らみたいに最初から“血筋”を背負って育ってきたわけじゃない。だからこそ、急に周囲から利用価値とか、立場とか、そういう目で見られるのは……少し酷じゃないかな」
その言葉に、翠は一瞬だけ表情を動かした。
だがすぐに冷淡な笑みに戻り、こう言い放つ。
「酷かどうかは問題ではない。三日月家の血を引く時点で、彼は既に背負わされている。あとは本人がそれに耐えられるかどうかだけだ」
重く鋭い言葉が、生徒会室に響いた。
樹璃は少し眉を寄せながらも、最後に明るい調子を取り戻そうとした。
「ま、でもさ! なんだかんだ言って真は頑張ると思うよ。あの真面目さはホンモノだから。少しずつ、この空気にも慣れていくんじゃないかなぁ」
誰も返さなかったが、その場にわずかな和らぎが戻った。
議論は終わり、生徒会室にはいつもの静かな日常が戻りつつあった。
だが全員が理解していた。
七宮真は、もはや“ただのクラスメイト”ではない。
彼がこれからどのように成長するのか――生徒会の誰もが注視しているのだった。
-
七宮家であることを公言した教室では数日経ってからもざわついていた。
「……七宮家の跡取り?」
「え、マジで? 三日月家の血筋ってこと?」
「いやいや、冗談だろ……」
数日前、試験結果発表の後に勇気を振り絞って口にした一言は、想像以上に大きな波紋を呼んでいた。
僕は七宮家の跡取りであり、三日月家の一員である――。
当たり前のように隣にいた同級生たちの目が、一瞬で変わったのを覚えている。尊敬とも羨望とも恐れともつかない、複雑な色。あの視線は、まだ慣れない。
翌日から、教室に入る時の空気が張り詰めているのを肌で感じた。
「おはよう」
声をかけても、返事がすぐに返ってこない。
以前は当たり障りのない会話をしていた相手が、急に敬語を使ったり、逆に気まずそうに距離を取ったり。
「……七宮って、本物なのか?」
「新聞とかに名前出てるあの七宮グループ?」
「三日月家って、世界経済のフィクサーだろ……やば……」
昼休み、僕の机を囲んでいた数人の男子が小声で話しているのを耳にした。聞こえないふりをしたが、胸の奥がざわついた。
一方で、女子の方からは妙に声をかけられるようになった。
「ねえ、真くん。数学ノート見せてくれる?」
「帰り一緒に駅までどう?」
以前なら全くなかった誘いに、戸惑いばかりが募る。笑顔の裏に本心があるのか、ただの好奇心か、僕には見抜けない。
中には露骨な態度を見せる者もいた。
「……俺たちとは住む世界が違うんだな」
ぼそりと呟いたクラスメイトの言葉は、妙に重く響いた。
教師陣の反応もまた、変化していた。
現代文の担当教師は、いつもより言葉遣いに気を遣っているように見えた。板書の後ろからちらりと僕を見ては、咳払いをして言葉を選んでいる。
ホームルームの担任も、これまで以上に丁寧な物腰になった。
「七宮、いや……真。体調はどうだ? 無理はするなよ」
名前を呼ぶだけで一瞬ためらうその姿に、逆に息苦しさを感じる。僕はただの生徒でありたいのに。
また、職員室では噂になっているのだろう。廊下ですれ違った別の教師から、妙に丁寧に挨拶を受けた。
「ご機嫌よう、七宮君」
そんな言葉、高校で聞くとは思わなかった。
日を追うごとに、僕の周囲には目に見えない壁が築かれていった。
休み時間、周囲で楽しそうに盛り上がる輪の中に入りづらい。話題が止まることもあれば、逆に僕に話を振られて気まずくなることもある。
「真って、翠様たちと住んでるの?」
「今度七宮さんの家に行っていい?」
質問攻めにあうことも増えた。冗談半分のものもあれば、純粋な興味もあるのだろう。しかし僕には、その境界線を見極められない。
答えれば浮世離れした話になり、答えなければ「やっぱ秘密か」と距離を置かれる。どちらにせよ壁は消えない。
廊下を歩けば視線を感じる。食堂に行けば、背後からひそひそ声が聞こえる。
「……七宮家の御曹司だってよ」
「生徒会と一緒にいるのも納得だな」
言葉の端々が、僕を別の存在に押し上げていく。
ただ、その中でも変わらない声があった。
「よぉ、真」
軽く肩を叩いて笑ったのは翔だった。廊下でばったり会った時、いつも通りの調子で話しかけてくれる。
「別に気にすんなよ。周りのやつらは勝手に騒いでるだけだ」
その言葉がどれほど救いになったか。
奏も、休み時間に静かに一言だけ言ってくれた。
「真は真だよ」
その簡素な言葉に、胸の奥の緊張がふっと和らいだ。
翠や幻人、樹璃は特に何も言わなかった。だが、生徒会室で一緒に仕事をする時の視線や態度は変わらず、むしろ自然体だった。彼らの中では、僕の告白も想定内だったのかもしれない。
公言から数週間。教室の空気も少しずつ変わってきた。
最初は困惑や畏怖の色が濃かったが、次第に「同じクラスにそういうやつがいる」という現実が受け入れられ始めた。
「真、体育でペア組もうぜ」
ある男子が自然に声をかけてきた時は、思わず驚いた。僕がためらうと、彼は笑って言った。
「お前が七宮だろうが関係ねぇよ。下手なのは変わらねぇだろ?」
そう言って肩を組んできた時、思わず笑ってしまった。
その瞬間、少しだけ壁が溶けた気がした。
もちろん全員がそうではない。未だに距離を置く者、露骨に態度を変えた者もいる。だが、時間と共に少しずつ馴染んでいく予感もあった。
夜、三日月本邸の部屋でひとり考え込む。
「僕は、これで良かったんだろうか」
普通の高校生として過ごす夢は遠ざかり、三日月家や七宮家の名に縛られる未来が見えてくる。
けれど、それを拒むことはもうできない。あの日、勇気を振り絞って名乗ったのは、紛れもなく僕自身だ。
「背負うって、こういうことか……」
誰にも聞こえない呟きが、静かな部屋に吸い込まれていった。
たとえ迷いや不安があっても、僕はもう逃げない。
クラスメイトの視線も、教師の態度も、すべてを受け止めて進むしかないのだ。
クラスに公言したことで、僕の環境は大きく変わった。
好奇と畏怖、距離と期待――そのすべてが入り混じる中で、僕は「七宮真」としての立場を受け入れ始めていた。
だが同時に、胸の奥にはまだ小さな願いが残っている。
従兄弟たちのように圧倒的な存在感を放つことはできなくても、「真らしく」歩む道があるはずだ、と。
その答えを見つけるのは、まだこれからだ。




