水無月 奏
学年末試験も終わり少し落ち着いてきたある日のことだった。
三日月本邸の応接間で、真は冷徹な声を浴びることになる。
「七宮」
ソファに腰掛ける翠は、淡々と告げた。
「お前の立ち位置はもう“ただの転校生”ではない。三日月家の一員として、それに相応しい装いを整えるべきだ」
その言葉に、真は思わず背筋を伸ばした。
「……装い、ですか」
「服装は人の印象を左右する。場に相応しくない姿で立つことは、我々全員に対する侮辱となる」
翠の言葉には一片の感情もない。まるで冷たい刃が突き刺さるようだった。
「だから、奏に同行させる。彼が選ぶものなら外れることはないだろう」
そう告げられた瞬間、真は胸の奥で小さく溜め息をついた。
――奏と二人きりで買い物、か。
休日の朝。
真は黒塗りの車に乗り込み、奏と共に都心へ向かった。
目的地は三日月グループ傘下の最高級百貨店。芸能人や政治家、大企業の役員すらも利用するという、特別な顧客専用のフロアだった。
車内で、奏は窓の外を見つめたまま一言も発さない。
真は何度か口を開きかけたが、言葉が出なかった。
(……相変わらず、会話が続かない)
やがて車が到着し、二人は重厚なエントランスをくぐった。
すぐに外商担当の社員が姿を現す。
「七宮様、水無月様。本日はご来店いただきありがとうございます。特別室へご案内いたします」
柔らかな笑顔を浮かべながらも、その態度には畏怖が滲んでいた。
――七宮の名と、奏の存在。どちらも彼らにとっては絶対的な重みを持つ。
特別室は広いリビングのようで、壁際にはずらりとブランドの最新コレクションが並んでいた。
真は思わず息を呑む。普段着ている制服やカジュアル服とは、まるで別世界だった。
「では、七宮様にお似合いになるものを」
外商が説明を始めようとした瞬間、奏が一歩前に出た。
「必要ない。僕が選ぶ」
短く放たれた言葉に、外商は深く頭を下げた。
「かしこまりました。ご自由にご覧ください」
それからは奏の独壇場だった。
無駄のない動作でラックから服を取り出し、真に差し出す。
「着替えて」
「え、あ、ああ……」
試着室に押し込まれ、真は次々と与えられる服に袖を通していく。
ダークグレーのジャケット、ネイビーのスーツ、シンプルなシャツにハイブランドのコート。
どれもこれも、鏡に映る自分が別人のように見えた。
着替えるたびに奏は淡々と評価を下す。
「それは肩が合っていない。次」
「その色は似合わない。もっと明るい方がいい」
「……悪くない。だが靴が合わない」
的確ではあるが、感情の籠もらない声。
真はなんとか会話を広げようとする。
「奏って……普段からこういう買い物するのか?」
「必要なときだけ」
「へぇ……じゃあ、ファッションに興味あるんだな」
「別に。身分に合うものを着るだけ」
「……そうか」
会話は途切れる。
真の努力もむなしく、奏の返事は常に最小限だった。
(やっぱり難しいな……でも、何か少しでも知りたいんだ)
真は諦めずに言葉を探す。
「じゃあ、奏は俺にどんな格好をさせたいんだ?」
奏はふと目を上げ、真をじっと見つめた。
無機質な瞳の奥に、わずかな光が宿る。
「……“七宮真”ではなく、“三日月家の一員”として恥ずかしくない姿」
短く、それだけを言って視線を逸らした。
それ以上の説明はなく、また淡々と服を選び始める。
外商担当は、その光景を固唾を飲んで見守っていた。
「……水無月様がこれほど熱心にお選びになるとは……」
小声で漏らす。
普段は徹底して冷静で、余計な感情を見せない奏。
だが今日だけは、わずかにその姿勢が揺れているように見えた。
「これと、これ。それからこのアクセサリー」
奏は迷いなく指示を飛ばす。
時計、革靴、シルバーのカフス。全てが一流ブランドの逸品だった。
真は慣れない重厚感に戸惑いながらも、着こなしを整えられていく。
「……これでいい」
奏が最終的に選んだのは、ネイビーのスリーピーススーツに白いシャツ、細身のタイ。
無駄がなく、それでいて若さを損なわないスタイルだった。
鏡に映る自分を見て、真は思わず息を呑む。
「……俺、本当にこうなるんだな」
「当たり前」奏は淡々と答える。
「君はもう、そういう場所に立つ人間だから」
真は返事を飲み込み、ただ小さく頷いた。
買い物を終え、再び車に乗り込む。
外は夕焼けが街を染めていた。
真は窓の外を眺めながら、勇気を振り絞るように口を開いた。
「……ありがとう、奏」
奏は隣で無表情のまま視線を外に向けていたが、ほんの一瞬だけまぶたが震えた。
「礼は不要」
それだけを告げる声は、どこか柔らかく聞こえた。
真は気づいていない。
だが奏の心には、わずかながら“彼を支える”という確かな意志が芽生えていた。
買い物から戻った夜。
三日月本邸の長い廊下を抜け、真は新しい衣服の入った紙袋を抱えて自室へ消えていった。
その背を無言で見送った後、翠はゆっくりとソファに腰を下ろす。
しばらくして、奏も同じ空間に現れた。
静かに足を止め、翠の隣に座る。
いつもの無表情、しかしどこか疲れの色が滲んでいた。
「終わったか」
翠が低い声で問いかける。
「うん。必要なものは揃えた」
奏は簡潔に答えたが、その言葉の裏に含みがあることを、翠はすぐに察した。
「……どうだった、七宮は」
「……」
奏は少しだけ言葉を選ぶように視線を伏せ、やがて小さく息を吐いた。
「思ったよりも……似合ってた」
翠の眉がわずかに動く。
「ほう。お前の口からそんな評価が出るとはな」
「事実だから」
淡々と返す奏。だが、その声はいつもより柔らかい。
しばし沈黙が落ちる。
やがて翠が静かに言葉を重ねる。
「奏。お前は必要なこと以外、滅多に言わん。だが今日の顔は、少し違うな」
「……」
奏は無表情のまま、窓の外の庭園に視線をやった。
夜気に照らされた樹々の影が揺れる。
「……僕は、無駄を嫌う。でも、今日は……無駄ではなかった」
「七宮と過ごすことがか」
「うん」
奏は頷いた。
「彼はまだ何も知らないし、覚悟も揺らいでる。だけど……服を選んで、姿が変わっていくのを見て、思ったんだ。――少しずつなら、本当に“ここ”に立てるかもしれないって」
翠は瞼を閉じ、僅かに口元を緩める。
「らしくもないな、奏。お前が他人を認めるのは珍しい」
「僕が認めたんじゃない。……事実を見ただけ」
それでも声は、どこか温かさを帯びていた。
翠はしばし黙し、やがて目を開ける。
「七宮は未熟だ。だが、その未熟さを補うのは我々の役目ではない。奴自身が這い上がるしかない」
「分かってる」
奏はすぐに答えた。
「僕は導くつもりはない。ただ……支えるくらいなら、してもいいと思った」
「支える?」翠は視線を鋭くする。
「珍しい言葉を使うな」
奏は少しだけ目を伏せた。
「……君と違って、僕は冷徹にはなれないから」
翠の瞳が微かに揺れる。
従兄弟である二人の間に、わずかながらも感情の波が走った。
沈黙がまた訪れた。
しかし今度は奏が自ら破る。
「翠。……僕は七宮に、少し似ているのかもしれない」
翠は眉をひそめる。
「何を言っている」
「僕も“影が薄い”なんて言われてきた。存在感を消すのは得意だ。でも、それじゃあ何も築けない。……七宮も同じだろう。だけど彼は、それでも前に出ようとしてる」
「……」
翠は黙って聞いていた。
「だから……少しだけ、応援してみたくなった」
奏の声はいつもより低く、どこか自分自身を確かめるようだった。
やがて翠が息を吐く。
「奏。お前がそう思うなら、それでいい。だが忘れるな。七宮は“家の跡取り”だ。感情だけで関わるな。……必要以上に深入りすれば、お前自身が傷つく」
「分かってる」
奏は短く答えた。だがその瞳は、静かな決意を湛えていた。
翠はその横顔を見て、再び瞼を閉じる。
――奏がここまで言うとは。七宮、お前……思ったよりも影響を及ぼしているな。
時計の針が深夜を指し示す頃、二人はそれ以上言葉を交わさなかった。
ただ同じソファに座り、静かな夜を共有した。
外では冬の風が木々を揺らしている。
その音を聞きながら、翠は心の中で呟いた。
――七宮。お前がどこまで這い上がるか、見せてもらおう。
こうして、真がいない場所での短い会話が交わされた。
冷徹な翠と、寡黙な奏。
そのどちらもが、わずかながら真という存在に心を動かされ始めていた。




