新年
年が明けた。
俺は今、三日月本邸の大広間にいる。普段は静謐で重厚なこの館も、新年ばかりは華やぎを増し、金襴の掛け軸や漆塗りの膳、巨大な門松が並び、どこもかしこも正月の趣に満ちている。まるで歴史書の挿絵に飛び込んだかのようだ。
黒金学院に入学してから数ヶ月。数奇な縁でこの本邸に居候している俺にとって、初めて迎えるここでの正月は、どうしても背筋が伸びる。七宮の名を継いでいなければ、いや、偶然が重ならなければ、この場に居ることなど決してなかっただろう。
「新年、明けましておめでとう」
重厚な声が広間に響いた。三日月家第五十二代当主、三日月蓮。
白髪交じりの髪を後ろに撫でつけ、長身の身体に品格が宿る。彼が口を開けば、その場の空気そのものが一瞬で張り詰めるようだ。
「今年も我が三日月家、そして月蓮会に連なる者たちが、揺るがぬ歩みを続けられるよう祈念する。……翠、奏、樹璃、翔。そして七宮真」
最後に呼ばれ、俺は慌てて背筋を正した。
「はい」
声が裏返らぬよう必死に答える。
「まだ若く、学ぶべきことは多いだろう。だが己の歩みを恥じるな。試練を糧とせよ。若き者の一歩は、やがてこの世界を揺るがすものになる」
深い言葉に、俺は息を呑んだ。
それは叱咤でもなく、慰めでもなく、ただ真っ直ぐに背中を押す言葉だった。俺を一人前として扱いながらも、未熟さを否定しない懐の広さに、三日月蓮という存在の大きさを改めて思い知らされる。
「はい、精進します」
絞り出すように答えた俺に、蓮は微かに目を細めた。
それが笑みだったのか、それとも眼光の強さだったのか、俺には判別できない。ただ、次の瞬間、場が一気に緩み、皆が膳の前へと移動していった。
正月の祝膳。
屠蘇に、重箱に詰まった黒豆や数の子、鯛の塩焼き。普段の食事も豪華だが、今日ばかりは格が違う。
「真くん、お雑煮は関東風と関西風、どっちがいい?」
声をかけてきたのは、水無月奏だった。
やや眠たげな目元に穏やかな笑みを浮かべ、まるで人懐っこい猫のような雰囲気を纏っている。
「え、選べるのか?」
「うん、こっちはすまし汁、こっちは白味噌仕立て。両方食べてみる?」
「……ああ、じゃあ少しずつ」
緊張で胃が固くなっていたはずなのに、奏の柔らかな調子に釣られて自然と頬が緩む。
ふと視線を感じて横を見ると、翠がこちらを見ていた。
端正な顔立ちに一切の感情が浮かんでいない。だが、こちらが雑煮をよそう姿を見て、ほんの僅かに頷いた。
「食べすぎるな。後で席を立てなくなる」
それだけを告げ、また黙々と箸を動かす。
この人の言葉には余計な装飾が一切ない。冷たいと感じることもあるが、不思議と嫌悪感は抱かない。むしろ、的確すぎて反論の余地がないのだ。
「真、こっちも食べなよー」
隣では樹璃が黒豆を差し出してくる。
彼の仕草は相変わらず柔らかく、ふわふわとした空気を纏っている。男なのに妙に中性的で、近くに居ると緊張が解けてしまうのが不思議だ。
「黒豆は“まめに働けるように”って意味があるんだって。真にもぴったりじゃない?」
「……褒められてる気がしないんだが」
「えへへ、褒めてるよー?」
にこにこと笑う樹璃に押し切られ、俺は豆を口に運ぶ。甘く、ほろりとほどける味わいが、緊張をほぐしていくようだった。
食事が一段落すると、皆それぞれに歓談を始める。
その最中、ふと目の前に立つ影があった。
「七宮真、だな」
低いが温和な声。
見上げると、そこには三日月楓人がいた。三日月グループの社長であり、次代当主。先ほどの蓮の厳粛さとは対照的に、穏やかさと余裕を湛えている。
「は、はい。初めまして……いや、学院でご挨拶はしましたが」
「ふふ、あのときは大勢の中だったからね。こうして顔を合わせるのは初めてだ」
楓人は軽く笑い、俺の隣に腰を下ろした。
「黒金学院での暮らしはどうだい?」
「ええと……大変ですが、なんとかやっています」
「それは結構。あの学院は自由度が高い分、己を律せねばならない。君がどう歩むか、私も楽しみにしているよ」
圧迫感はない。だが、その言葉の奥底には、やはり大財閥を率いる者の視線がある。軽やかな笑みの裏で、確かに見極められている感覚がした。
「……はい、必ずや」
不器用に答えると、楓人は肩をすくめて笑った。
「気負うことはない。だが、気を抜きすぎてもいけない。うまく、楽しみなさい」
そう言って立ち去る姿に、俺は呆然と見送る。温和さと鋭さを併せ持つ人物――それが三日月楓人の第一印象だった。
広間に響く笑い声や箸の音を聞きながら、ふと思う。
ここは自分の生まれ育った家ではない。けれど、奇妙なことに心が落ち着いている。
七宮家と縁を切った両親のもとへは、年始の挨拶にも行っていない。だが、それでも今、俺は孤独ではなかった。
――
新年を迎えて三日目の朝。澄み切った冬の空気は冷たく、吐く息が白い。
三日月本邸の玄関前には、黒塗りの車列が整然と並んでいた。
「今日は混むだろうな」
真が呟くと、隣でストールを巻いた翠がちらりと視線を寄越す。
「だから護衛を増やしてある。人混みの中でも問題はない」
短く淡々とした言い方だが、配慮の意図が含まれているのが分かる。
「まあまあ、初詣は人混みを楽しむものでもあるでしょ」
樹璃がふわりとした笑みを浮かべ、車に乗り込んだ。
目的地は都内でも有数の古社だ。正月三が日の参拝客数は数十万規模。格式の高さと歴史の深さは、三日月家や誨冥院家にとっても相応しい場所だった。
境内へ続く参道に足を踏み入れた瞬間、真は圧倒された。屋台の香ばしい匂い、響き渡る太鼓の音、吐く息が交錯する人々。
その中に現れた六人は、否応なく視線を集めた。
翠の冷ややかな眼差し、奏の柔らかで品のある佇まい、幻人の落ち着きと気品、樹璃の中性的な魅力、翔の豪快な体格、そして真の端正で凛とした顔立ち。
「ねえ、今の子たちモデル?」
「やば、あんなの見たことない……」
人々のざわめきが背後から聞こえる。
真は少し居心地悪そうに肩をすくめた。
「目立ちすぎだろ、俺たち」
「仕方ない。事実だからな」
翠が淡々と答える。
「真、気にするなって。こういうのは慣れだよ」
翔が肩を叩く。力強さに真はわずかに前へよろめき、樹璃が笑った。
「ほらほら、怪我人出す前に落ち着いてね」
長い行列に並ぶ。周囲のざわめきや視線に慣れてきた頃、真はふと隣の翠を見た。
「こうやって普通に参拝するんだな」
「当たり前だ。伝統に従うことに身分は関係ない」
翠の横顔は揺らぎなく、まるで神社そのものの厳かさを体現しているようだった。
「僕はおみくじが楽しみだな〜」
「樹璃はほんとお気楽だな」
幻人が苦笑する。
「いやいや、こういうのは運試しだよ。ね、真?」
「まあ……確かに」
樹璃の柔らかな声につられて、真の表情も和らぐ。
やがて六人は拝殿前に進み出た。鈴を鳴らし、二礼二拍手一礼。
冷えた空気の中で響く柏手の音が、胸の奥まで浸透するようだった。
真は目を閉じ、心の中で祈った。
(……今年は、少しでも前に進めますように)
参拝を終えると、それぞれおみくじを引くことになった。
「お、俺は吉」
翔が紙を広げる。
「小吉だな」
翠は表情を変えずに淡々としまい込む。
「僕は大吉!やったー!」
樹璃が嬉しそうに紙を振る。
「俺も……大吉だ」
幻人が淡々と告げると、樹璃が「さすが従兄弟だね」と笑った。
「俺は中吉か……」
真が呟くと、樹璃が覗き込み、にこりと笑う。
「中吉ってね、一番現実的で堅実なんだよ。真に合ってる」
真は苦笑するが、不思議と悪い気はしなかった。
参道に並ぶ屋台を回ることにした。
「俺、たこ焼き!」
翔が元気よく注文する。
「……朝からよく食うな」
真が呆れると、翠がさらりと言った。
「翔はいつでも食欲旺盛だからな」
「僕は綿あめ〜。ふわふわでいいよね」
樹璃が白い綿あめを手に、笑顔を浮かべる。その姿に周囲の視線がさらに集まった。
「真も何か買えば?」
奏が控えめにすすめる。
「……じゃあ焼きそばで」
「お、いい選択」
幻人が軽く頷いた。
屋台の明かり、香り、笑い声。普段の三日月本邸の格式ある空気とはまるで違う庶民的な正月風景。それを一緒に楽しんでいる自分に、真は少しだけ驚いていた。
参拝と散策を終えた六人は、護衛に導かれて車へ戻る。
「やっぱり初詣はいいね」
樹璃が満足そうに微笑む。
「来年も一緒に来れるといいな」
真が思わず漏らすと、翠が静かに答えた。
「来年も、だ。必ず」
その言葉に、全員が自然と頷いた。
冬の冷たい空気の中に、確かな絆の温かさがあった。




