帰路
機体は安定した高度を保ち、窓の外には広大な太平洋が広がっていた。白い雲が流れ、沈みかけた夕日が機体を赤く染める。真は深く息を吐きながらシートに体を預けていた。長い休暇を終え、現実に戻ることへの名残惜しさと、少しの安堵が入り混じっていた。
「ねえ真」
隣で足を投げ出すように座っていた樹璃が、不意に声をかける。手に持ったグラスの水を揺らしながら、にこっと笑っていた。
「なんだか、あっという間だったよね。三日間くらいしかいなかったのに、もっと長くいた気がする」
「うん……そうだな」
真も同意する。実際は数日程度の滞在だったが、海辺で過ごした時間や、ショッピングで笑い合った瞬間が濃く、記憶がぎゅっと詰まっている感覚だった。
「やっぱりさ、贅沢ってホテルのランクとかブランド品とか、そういうのだけじゃないんだと思うんだよね」
樹璃は視線を外の空へ向け、少し夢見るような口調で続ける。
「誰とどんなふうに時間を過ごすかで、価値って変わるんだと思う。……真と海で遊んだのとか、すごく楽しかったし」
「それ、ハワイの海辺で歩いていた時にも似たようなこと言ってたよな」
「そんなこと言ってたかな?…言ってたかも。忘れてたごめんね」
樹璃はふわりと笑った。真は思わず苦笑する。樹璃の言葉はいつも柔らかくて、どこまで本気なのか、計算なのか分からない。それでも不思議と心に残る。
「なあ樹璃くんってさ。いつも余裕あるように見えるよな」
「え、そう?」
「そうだよ。なんか……悩みとかしてなさそうに見える」
樹璃は一拍置いて、肩をすくめた。
「実はけっこうあるんだよ? 仕事のこととか、家のこととか、考えるときりがないし。幻人みたいに完璧にやれるわけじゃないし、翠みたいにクールでもないし」
「へえ……」
「でもね。悩んでても時間って過ぎちゃうから。だったらなるべく楽しいほうがいいでしょ? 笑って過ごしてたほうが、なんとなく気持ちも楽になるし」
真はうなずいた。
「……なるほどな」
「真は真面目だから、すぐ結果とか順位を気にしちゃうけどさ。そういうのも大事だけど、全部をそれで埋めなくてもいいと思うよ。僕がハワイに誘ったのも、真くんにちょっと肩の力抜いてほしかったから」
「……ありがとな。確かに、あの海で遊んでるときは気持ちが軽くなった」
「でしょ? 僕も楽しかったよ」
樹璃はグラスを空けて、にこりと笑った。ほんのり頼りないようでいて、不思議と真の心を支えてくれる。そのバランス感覚が、彼の魅力なのかもしれない。
しばらくの沈黙の後、真がぼそりと呟いた。
「なあ、俺……ああやって誰かと旅行に行くの、慣れてないんだよ。家族で出かけることも少なかったし、七宮に入ってからは余計に。だから……ありがとう」
「ふふっ」
樹璃は嬉しそうに笑った。
「礼なんていらないよ。僕が行きたかったから誘っただけ。真とだったら、どこでも楽しいと思ったから」
「……本当にそう思うのか?」
「思うよ。だってさ、僕ら家族でしょ? 家族って、そういうもんだと思うんだ」
真は自然と笑みをこぼした。
「お前って……ほんとふわふわしてるな」
「え、褒めてる?」
「たぶん」
「たぶんかあ。まあいいや。僕は僕だから」
二人で小さく笑い合い、窓の外に目をやる。太陽はゆっくりと沈み、群青の空が広がっていく。
「ねえ、次はどこに行きたい?」
「……次?」
「うん。また一緒に出かけようよ。国内でも海外でもいいし、真が行きたいって思った場所で。僕はついていくだけで楽しいから」
「そんな簡単に……」
「簡単でいいんだよ。難しく考えすぎなくていい」
真は少し照れながら答えた。
「じゃあ……そのときは遠慮なく」
「約束だよ」
樹璃は人懐っこく笑った。
プライベートジェットは東へ進み、夜の帳へと飛び込んでいく。二人の笑い声は、機体の静かな振動に溶けていった。
-
プライベートジェットは、夜明け前の三日月家本邸の滑走路に静かに着陸した。長い滑走路を駆け抜け、減速していく機体の震動が、旅の終わりを告げているようだった。
「ふわぁ……日本に戻ってきたね」
樹璃は軽く伸びをし、目を細めた。まだ薄暗い空港の誘導灯が、窓の外に点々と並んでいる。
真は深呼吸をし、言葉を漏らした。
「……あっという間だったな」
「うん。でも濃かった。僕は結構満足してるよ。真もそうでしょ?」
「まあな」
「ほら、素直に言えばいいのに。楽しかったって」
「……楽しかったよ」
「よし、それでいい」
にこにこと笑う樹璃に、真は苦笑を返すしかなかった。
飛行機を降りると、すでに黒いスーツの護衛たちが出迎えていた。無言で深々と頭を下げ、二人を先導する。タラップを降りると待っていたのは黒塗りのリムジンだった。
車内に乗り込むと、ほっとしたように真はシートに体を預ける。樹璃は窓の外を眺めながら、ふわりとした口調で話し始めた。
「真さ、こうやって護衛に囲まれて移動するの、最初は落ち着かなかったでしょ?」
「まあ……正直言うと今でも慣れてない」
「だよね。でも、仕方ないよ。三日月家の人間になるっていうのはそういうことだから」
真は黙って頷く。まだ自分がその一部にいることに戸惑いがある。しかし隣で気楽そうに笑う樹璃を見ると、不思議と肩の力が抜けた。
やがて車は滑らかに高速道路へ入り、街の明かりが流れていった。東の空が少しずつ白み始める。
樹璃はそれ以上追及せず、窓の外に目を戻した。流れる街並みの光を見つめる横顔は、旅の余韻に浸っているようにも、次の予定をすでに思い描いているようにも見えた。
数十分後、三日月本邸の正面玄関へ。夜明けの光に照らされた白亜の邸宅は、帰還を迎えるかのように静かに佇んでいた。
真は思わず息を呑む。旅で得た自由と、ここに戻ったことでの現実。その二つが胸の中で交錯する。
樹璃はそんな真の横顔を見て、ふっと微笑んだ。
「おかえり、真。ここが、僕らの拠点だよ」
玄関の扉が音もなく開き、二人は再び三日月の世界へと足を踏み入れた。




