金曜日の放課後
金曜日の放課後、2年2組の教室を出て、南館へ向かおうと本館1階の調理実習室の前を通り過ぎたとき、どすん、どすんと床に響く鈍い音が聞こえて来た。何だろうと思って、調理実習室の入口の引き戸を開けて、中をのぞいたら、同じクラスの麦子さんと目が合った。米吉君は、高校の入学式後、教室の右隣の座席の麦子さんを一目見たときからずっと好きだ。けれども、話したことは、まだない。
「あのね、きょうも、ひとりで、調理研究部の部活なの」とピンクの三角巾をかぶった、白いエプロンを紺色の制服の上からつけた麦子さんは言った。
麦子さんは、床に敷かれたグリーンのシートに白い固まりを入れたビニールの袋を勢いよく叩きつけた。
どすん。
「あのね、ピザの生地をつくっているの。これは、こんなふうにうんといじめてやるとおいしくできる。
「世界中で思いっきりいじめていいのはピザの生地だけよ」と麦子さんは言った。
「手伝おうか」。
「あのね、いつもひとり、で、やっている、から、大丈夫」。
どすん。どすん。
「あのね、ピザができたら一緒に食べよう、生地の発酵に時間がちょっとかかるけれども、ね」。
「やったぁ」と米吉君が喜ぶと麦子さんが笑顔になった。ピザの生地は、無慈悲にやられっぱなしだ。
ピザの生地を「思いっきり」床で「いじめ」た後で麦子さんはピザにのせる具を切りはじめた。トマトを切っているとき、
「あのね、トマトって栽培するのが難しいみたい。
「うちのお父さんが家庭菜園でトマトを時々つくるんだけど、すぐに病気になっちゃうし、できてもちっともおいしくなくて、ね」と言った。
トマトをつくったことのない米吉君は、そうなんだ、と素直に聞いた。
トマトは、彼の童話にでてくる。
朝にも午后にも仕事がつらい。学校でももうみんなともはきはき遊ばない。授業中は分かっていたはずのこともはっきりしなくなる。お父さんは長い間帰って来ない。お母さんは病気だから、学校がすむと印刷工場で働く。そして、工場でもらった小さな銀貨でお母さんのために角砂糖を買い、勢いよく走って、やっと裏町の小さな家に戻る。トマトは、お姉さんがジョバンニに用意しているおやつだ。
最初にやって来た生意気な三毛猫がお土産にもってきたのがトマトだった。十日後に「交響曲第六番《田園》」を演奏する金星音楽団の、あんまり上手ではないと評判の、実は、仲間の楽手の中で一番下手なセロ弾きがゴーシュだ。ゴーシュは、暮らしている水車小屋のまわりの畑でトマトをつくっていた。三毛猫は、それを勝手に取ってきた。だから、ゴーシュは怒った。しかも、まだ半分しか熟さない青いトマトだ。だから、さらに怒った。
実際にトマトをつくろうとしたんだ。東北の農村の人たちが貧しい生活に苦しんでいるのを傍観してはいられなかった。窮乏する人々が現金を手にするには、お金の集まる都会で高く売れる商品作物をつくればよい、単純で実際的な結論だ。だから、まだ東北の人々になじみのなかったトマトを作ることを勧めた。米をつくってこそ農民だと思っている人たちに米作りをやめてトマトの栽培を勧めた。その結果がどうなるのかが分からなかったのだろうか。痩せた、冷夏におびえる土地で、つくるのが難しいというトマトを育てようだなんて。
無料でトマトの苗を配った。人々は喜んで受け取った。そして、苗は納屋の片隅で萎れて枯れた。
空想家だと言われ、相手にされなかったが、高等農林学校を出た農学者だった。学校にそのまま残れば教授になれた。けれども、東北の地質調査をするうちに、この地に生きる人々の暮らしぶりが目に焼き付いた。そのままにしてはおけない。自分にできることを少しでもしたい。
肥料の設計を人々に訴えた。肥料のやり方を教えた。新しいやり方に、しかし、人々はついて来ない。昔ながらの方法を守るばかり。新しい試みは、金持ちの息子の道楽にしか思われない。陰で嘲られ、人前で罵られ、殴られた。それでも淡々と人々の暮らしをよくするにはどうすべきかを考える。
そんな無謀さ、純粋なところが彼らしいと言えば、言えるかもしれない。けれど、何だかとても悲しい。結局、彼がトマトを実らせるのができたのは、童話の中だけだったではないか、と米吉君は思った。
「あのね、図書室で『美味しんぼ』を読んでいたら、トマトってアンデス山地が原産地なんだって。だから、もともと寒くて痩せた土地で栽培するといい野菜で、日本の二月くらいの気候があってるんだって。水もあまりやらなくていいみたい。本当のトマトは糖度がとても高くて、甘い林檎のようなんだって。そんなことがかいてあったの」と麦子さんは、のばしたピザの生地に具をのせながら言った。
「あのね、だから、本当はさ、作るのが案外簡単だったりして、ね。うちのお父さん何やってるんだろう、ね」。
ジョバンニが食べていたトマト、ゴーシュが裏畑でつくっていたトマト、それがなぜ、トマトだったのか、麦子さんの話で分かった、と米吉君は言った。
寒く、土地のやせた東北だから、トマトを作る。彼は空想家ではなかった。
彼を理解する人はいない。たった一人の理解者だった、たった一人の妹は亡くなった。言うことをきかずに勝手なことばかりする彼を父は妹の葬儀に参列させなかった。町の中を妹の棺が運ばれて行く。遠くから手を合わせた。町の人たちが自分のことを悪く噂するのを聞いた。自分はひとりの修羅だ、と思った。
ピザが焼ける間米吉君は麦子さんに彼の話を初めからし、さらに続けた。
農作物は育つことなく枯れ、すべての努力が無に帰していく。貧困の上にさらに貧困が襲う。「お世話になりました」ということばを残して、貧しさのため学校をやめて行く生徒の背中に自分の不甲斐なさを詫びた。傍観できなかった。農学校の教師を辞めた。羅須地人協会をつくった。農村に科学の知識を普及したい。働く人々のための文化を築きたい。都会に対して自信をなくし、疲弊した農村に誇りをとりもどし、楽しく明るく生活できるようにしたい、きっとできる、と思った。が、それも奇矯なふるまいと見捨てられる。
計画はいつも失敗する。冷夏や干害に嘆息する人々のために無力な自分を責める。無限に寂しい。
疲れると山を見上げる。あの山に多く雪が積もれば、次の年の実りは豊かになると言い伝える。人々の暮らしを託すことができるのは、結局、山に降る雪ばかりか。山を仰ぎながら、自分の行いの空虚を振り返る。
くらかけ山の雪
友一人なく
ただわがほのかに
うちのぞみ
かすかな
のぞみを
托するものは
それでも、人々の田の稲が倒れることを心配して風と雨が入り混じる冷たい夜の中を走りつづける。
肺炎になって倒れた。彼の目には自分と同じく土地も人もすっかり衰弱してしまったように思われる。だから、まだこの土地と人々のために働くことをやめるわけにはいかない。人々が不幸なままで、自分ひとりの幸福というものがあるとは、どうしても思えない。
次の計画は土壌改良だった。石灰の入った重いトランクをひとり提げて東京と東北とを往復した。土壌の改良を説いて回った。トランクがじっとひと所に休んでいることはない。東京で意識を失った。家に連れ戻された。篤い看病を受けたけれども、回復の兆しはなかった。
昭和六年の、その秋、死を覚悟した。
もう死はやって来る。そう思って、遺書を二通書いた。けれども、もし、生きられるのなら、こんなふうに生きたいのだがと思う生き方があった。十一月三日手帳にそれを書き留めた。他人には、敗北後の弱い生き方だと映るだろう。人に勧めるのではない。自分が、せめてそう生きたいんだ。
雨ニモマケズ 風ニモマケズ
その年の冬は生き延びた。春には奇蹟的に回復したが、もう思うようには体は動かない。けれども、どういうふうに肥料をまけばとよいかと相談に来る人があれば、病床から起き、急いで答えを求めるその人の前に行き、両膝をそろえて座って、丁寧に答えた。
彼が手帳に書き留めたように生きたいとは誰も知らない。だから、誰も彼の重い気持ちを分からない。彼の部屋には、歌川広重の東海道五十三次の「池鯉鮒」、急行に乗れば10分くらいで知立に行けるね、「池鯉鮒」の版画が飾ってあって、それを見て、すがすがしい気分になると言っていたって。
イツモシヅカニワラッテヰル
それはできた、と思っただろうか。
「雨ニモマケズ」と手帳に書いて二年足らずで亡くなる。その手帳のことばが知られるのは、まだ、ずっとあとだ。
彼がどう生きたかったのか、井上陽水は「ワカンナイ」って歌っているけれど、「ワカンナイ」が本音だよね。手帳に「一日ニ玄米四合ト/味噌ト少シノ野菜ヲタベ」と書いてある。彼が寄り添いたかった人々の中には米を全く口にできない人だってたくさんいたのに、一日に「玄米四合」を食べると平然と言ってしまえるのは、何かおかしいし、かなしい。
「でも、日本の近代農政のもとではお金も人も都会に一方的に吸い上げられて、消耗するしかなかった東北の農村にわずかでも希望が見えるようにと願った彼の生き方がどう生まれ、流されていったのか、僕はちゃんと考えたいと思う。それは、人が、というよりも、僕が、生きて死んでいくことがどういうことか、どうすることかを知ることに通じると思うから」と米吉君は言った。麦子さんは、ひと言も口をはさまずに耳を傾けてくれた。夏のはじまりをしのばせる薄い夕闇に調理実習室が音もなく浸っていく。
「あのね、ピザ、焼けた、ね」。それで、明かりもつけず一緒にトマトのピザを食べた。