夫の日記で色々と明るみになった
夫が亡くなった。ガンだった。
葬儀には、たくさんの人が来てくれた。夫は商社勤めの部長職。仕事の関係者が多かった。
私は、弔問客一人一人に頭を下げた。夫と関わりを持ってくれたことに感謝した。葬儀を仕切るのなんて始めてだから、右も左も分からなかった。けれど、喪主として最低限のことはできたと思う。
葬儀が終わって、娘は自宅に帰った。彼女は現在、二十八歳。結婚しているが、まだ子供はいない。現在妊活中だという。
私は自宅で一人きりになった。
私の心の中は、夫を失った喪失感でいっぱいだった。覚悟していたとはいえ、いざ夫がいなくなると、胸にポッカリと穴が開いたような気分になった。
夫のガンは、発見した時点ですでに手遅れだった。無駄な足掻きはせず、緩和ケアをした。苦しまずに逝けたのが、不幸中の幸いと言えた。
「ありがとう。愛してるよ」
最後にそう言って、私の手を握った夫。その手の感触を、まだはっきりと覚えている。優しく、暖かく、だからこそ悲しかった。
パチンと、私は両手で自分の頬を叩いた。
いつまでも落ち込んでいられない。悲しんでもいられない。私にだって仕事がある。忌引き休暇が終わる前に、夫の遺品整理をしないと。
私は、夫の部屋に足を運んだ。
夫には、私と一緒の寝室の他に、自室があった。4LDKのマンション。子供が一人だからこそ、彼の自室を作ることができた。彼はここを、仕事の勉強等をする際に利用していた。
まずは机の整理をしよう。引出しは四つ。一番大きな引き出しを開けてみた。中には、大量のノートが入っていた。
仕事用のメモだろうか。私はその中の一冊を取り出した。表紙には、たった五文字。
『1996年』
その年ごとに、仕事に関することをまとめていたのだろうか。首を傾げつつ、私はノートを開いてみた。
――1996年4月28日――
今日、娘が産まれた。初の我が子だ。病院から連絡があったが、なかなか仕事を抜けられなかった。なんとか定時で帰って病院に行くと、妻はもう分娩室に入っていた。
長い長い出産だった。産まれたのは、3211グラムの元気な女の子だった。
どうしよう。嬉しい。自分の子がこんなに可愛いだなんて、想像もしていなかった。
産まれたばかりでも、妻の面影がある。正直、俺の面影は感じられなかったけど。それでも可愛い。
妻に「ありがとう」と告げた。もっとも、彼女は出産疲れでぐったりとしていたが。
妻と娘のために、これからガンガン働くんだ
――――――
このノートの束は、夫の日記のようだ。彼が日記をつけていたなんて、今の今まで知らなかった。どこか照れ屋な彼だから、日記をつけているなんて言えなかったんだろう。
最初の日記は、娘が産まれた年――二十八年前から。ということは、このノートの束は、二十八年分の夫の日記ということだろうか。
娘が産まれてから、二十八年。夫が何を思い、何を感じ、私達に対してどんな気持ちを抱いていたのか。
ほとんど興味本位で、私は日記を読み進めた。
――1996年11月12日――
最近、娘の夜泣きがひどい。妻の疲れている様子がよく分かる。
とはいえ、俺も余裕がない。仕事を頑張って、彼女達のために稼がないといけない。けれど、この家の構造上、娘の泣き声は寝室にも届く。
いっそ、マンションでも購入しようか。俺の給料ならローンの審査も通るはずだ。明日、妻に相談してみよう。
――1997年2月8日――
マンション購入の契約を締結した。
購入の動機は娘の夜泣きだが、最近は、少しずつ治まっている。病院の先生によれば、夜泣きが治まるのがなかなか早いらしい。
もしかして娘は、優秀ないい子なんじゃないだろうか。可愛いし、賢いし、将来有望だ。
せっかく買ったマンションだ。この子が大きくなったら、部屋を一つ使わせよう。4LDKだから、娘に一つ、妻に一つ、俺にも一つ部屋が割当てられる。残る一つは、俺と妻の寝室だ。
まあ、俺と妻の寝室で、さらに子供が増えるかも知れないが(笑)
――1998年2月9日――
最近、娘がワガママだ。何でもかんでも「いやいや」と繰り返す。しまいには「パパいや」とまで言われた。
正直、少しイラッときた。
妻によれば、これは、子供のイヤイヤ期というものらしい。親に反発することで自我を確立していくそうだ。
妻も疲れているのだろう。娘の反発の理由を理解していても、理解しているだけで楽になるわけではない。
そういえば、最近、妻にまったく化粧っ気がない。家事と育児で疲れているみたいだ。
結婚前は、あんなに綺麗にしていたのに。
そうだ。今度の休みは、俺が娘の面倒を見よう。そうすれば、きっと、妻もリフレッシュできるはずだ。
――2003年4月7日――
娘が小学生になった。今日は入学式だった。
娘が産まれてから、もうすぐ七年。長いようで短かった。
なんとか有給を取れてよかった。今日休みが取れなかったら、妻に怒られるところだった。仕事ばかり優先していて、本当に申し訳ない。
もう少しで、俺の部署にも新入社員が配属されてくる。
俺も、入社してそこそこ長い。しっかり新人を指導して、上に認めさせて、出世するんだ。妻のために。娘のために。
何より、この家庭を守りたい俺自身のために。
――――――
夫の日記を読み進めて、私は、つい苦笑してしまった。
夫は不器用な人だ。だからこそ一生懸命で、真面目な人だ。
不器用だから、私と付き合うまで誰とも付き合ったことがなかった。それなりに遊んでいた私に、実直に告白してきた。夜泣きする娘を必死にあやしていたが、さらに大声で泣かせてしまった。娘のイヤイヤ期に子守を任せたが、失敗ばかりだった。
それでも、なんでも真剣に取り組む人だった。
この頃の夫は、きっと、自分の稼ぎだけで私達を守り続けるつもりだったのだろう。実際に、夫はそれなりの出世を果たした。娘が小学校に入学した時点で、係長だったはずだ。
でも、夫の思惑は崩れることになる。
会社の経営が傾いて、給料が少し落ちた。ボーナスカットも何年か続いた。
だから、私も働きに出ることになった。
私は、娘が小学校二年のときから仕事をしている。一時は経営が傾いた夫の会社も、数年で立て直した。経済的には困らなくなった。けれど、私は働き続けた。いつ同じことが起こるかも分からないし、娘も手がかからなくなっていたから。
当時、夫は、少し心苦しそうだった。
でもね、あなた。
私は仕事が嫌いじゃなかったし、そんなに気に病まなくてもよかったんだよ。
たとえ何をしても、私の愛情はあなたにあったんだから。
だから、こんなに早くあなたを失ってしまったことの方が辛いの。
「本当に不器用なんだから」
私は、あたなの稼ぎがそれほど上がらなくてもよかった。そんなに出世しなくてもよかった。その分、私が働けばいいんだから。
「そんなに頑張らなくても、生きていてくれればよかったのに」
つい溢れそうな涙を堪えつつ、私は日記を読み進めた。
――2003年9月12日――
新入社員の村上愛美さんに、相談があるといって飲みに誘われた。
彼女の上司として、先輩として、悩みがあるなら聞かなければ。そんな気持ちで、彼女の誘いにOKした。
場所は、会社から少し離れた居酒屋だった。社内の人に聞かれたくないから、ということらしい。
店に入ってからしばらくは、何気ない会話をしながら飲んだ。
「少し話しにくい悩みなんで、ちょっと酔ってからでいいですか」
一時間ほど飲んでから、ようやく、彼女が本題を話し始めた。
「私、会社に好きな人がいるんです。でも、その人には、奥さんも子供もいて……」
少し頬を赤く染めた彼女は、どこか恥ずかしそうだった。
俺は彼女の上司であり、先輩だ。だから、彼女に悩み事があるなら、できるだけ解決に導いてあげたい。でも、いくら何でもこれは専門外だ。
俺は、妻が初めての彼女だった。もちろん妻以外に経験がないし、妻以外の女とそういう雰囲気になったこともない。
俺の目から見ても、村上さんは可愛い子だ。まだ二十代前半だが、俺よりも恋愛経験豊富だろう。頬を赤く染めながら上目遣いで見つめる姿に、つい、俺も変な気分になりそうになった。
俺は理性を総動員して、思考を巡らせた。どんな回答が適切か。どんな回答をすれば彼女を納得させられるか。いや、そもそも、妻子ある人を好きになるのはどうかと。いやいや。好きになるのは仕方ない。でも、そこは胸に秘めておくべきじゃないのか。
色んなことを考えた。酔って正常に回らない思考の中で、どうやって彼女を慰めるべきかを思案した。
上目遣いで見つめてくる彼女から、目を逸らしてしまっていた。
だから気付かなかった。彼女の手が、そっと、俺の手に触れたことに。
手の感触に驚いて彼女を見ると、唇を尖らせていた。
「課長代理は鈍いです」
そう言って、すねたような、悪戯っぽく笑うような――複雑な表情を見せた。
「私が好きなのは、課長代理なんです」
酔った俺の頭では、状況を正確に理解できなかった。なんなら、思考も正確に働かなかった。
だからだろう。
俺はそのまま、彼女の手を握り返してしまった。居酒屋から出て、そのままホテルに行ってしまった。
ほんの二時間の、休憩時間での逢瀬。
別れ際に、村上さんは「好きです」と再度告げて、帰宅していった。
人生で二人目の女性経験。現実味を感じられないまま、俺も帰宅した。
家では、妻が寝ないで待ってくれていた。
急激に、村上さんと寝た事実が現実味を帯びてきた。同時に、どうしようもない罪悪感に包まれた。
もう、社外で村上さんと会うのはやめよう。今日のことを彼女に詫びて、関係を清算しよう。
そして、この秘密は、墓場まで持って行くんだ。
――2003年12月24日――
今日も残業と偽って、愛美と会ってきた。
クリスマス・イブ。本当は妻や娘と過ごす予定だったが、愛美が会いたがった。
愛美とこういう関係になってから、もう三ヶ月になる。彼女とベッドを共にするのも、当たり前になってしまった。
わかっている。こんなことは許されないと。
けれど、好きになってしまった。
年甲斐もなく、若い愛美に惚れてしまった。
こんなことはいつまでも続けられない。しかし、どうしようもない。どうしようもなく、愛美を愛している。
これからどうすべきか。
もちろん、愛美と別れて家族を大切にすべきだ。
でも、俺の心は愛美を諦めてくれない。彼女が好きで、彼女に見つめられると抱き締めたくなってしまう。
クリスマス・プレゼント、喜んでくれたな。奮発してよかった。かなり高い買い物だったけど、愛美の笑顔を得られるなら、安いものだ。
――2004年6月25日――
今日、愛美に妊娠を告げられた。
しっかり避妊をしていたはずだが、コンドームだって、万能でもなければ確実でもない。
頭を抱える俺に、愛美は「産みたい」と言ってきた。
「奥さんと離婚しなくてもいいし、私と結婚しなくてもいい。認知もしなくていい。ただ、大好きなあなたの子を産みたいの」
俺を愛してくれて、俺の家庭のことまで考えてくれる愛美。
情けないが、彼女の言葉に甘えることにした。
ただ、できるだけの支援はしよう。愛美は、たった一人で母親になるのだから。
愛美へ支援する金銭面の問題はどうしようか。子育てに困らないくらいの支援がしたい。
妻には、会社の業績が落ちて給料が下がった、とでも伝えておこう。だからボーナスもカットになった、と。そうすれば、愛美を支援するだけの金がつくれる。
――2005年2月18日――
愛美が出産した。3418グラムの元気な男の子だ。
出産直後から愛美の面影がある。こいつは二枚目になりそうだ。ただ、娘のときもそうだったが、俺の面影はあまりない。
どうしよう。嬉しい。
もちろん、妻や娘に罪悪感はある。俺は彼女達を裏切っているのだから。
ただ、反面、思うんだ。
俺の運命の人は愛美なんじゃないか、と。だって愛美は、こんなにも俺を愛してくれる。俺も、こんなにも愛してる。さらに彼女は、俺の息子を産んでくれた。
そうだ。俺の運命の人は、愛美なんだ。それなら、愛美と一緒になるべきだ。
とはいえ、今すぐ、というわけにはいかないだろう。最低限、俺は責任を取らなければならない。娘が独り立ちし、自分で生きていけるようになるまで。
娘は今年9歳になる。小学校三年。問題なく進学、卒業したとして、高校卒業まで9年、大学卒業まで13年もある。
永い年月だ。でも、これは乗り越えないといけない試練だ。俺が、俺自身の幸せを掴むために。
――2013年12月29日――
最近、芸能人の不倫が話題になっている。なんでも、DNA鑑定で自分の息子ではないということが判明したそうだ。二人はすでに離婚していたが、女性側の不誠実さと節操のなさが波紋を呼んでいる。
つい失笑してしまったが、同時に、面白そうだとも思ってしまった。
今度、俺もDNA鑑定をしてみようか。
もう高校生の娘は無理そうだが、まだ小学生の息子には検体を提供してもらえるだろう。ゲームで釣れば簡単だ。
――2014年1月25日――
信じられないことが起こった。
愛美の息子は、俺の息子ではなかった。
DNA鑑定の結果を突き出し、愛美に真相を問いただした。彼女は、意外なほど素直に白状した。
なんでも、当時、愛美には彼氏がいたという。もちろん俺ではない。
彼氏は貧乏で、とても結婚など考えられなかった。そのくせ、セックスはコンドームなしでやりたがった。
だから保険をかけたのだという。
愛美は泣いて縋ってきた。当時の彼氏とはもう別れた、と。今はあなただけを愛している、と。
愛美は現在、俺とは別のところで働いている。給料はそれほど高くない。子供と二人で生活するのは大変だろう、という程度の稼ぎ。
愛美達親子が苦労なく暮らせるのは、俺の支援があってこそだ。
でも、もう、俺には関係ない。
今まで、息子だと思っていた子供。彼に抱いていた愛情も、一気に失せた。
もちろん俺にも責任がある。不倫などという、倫理に反することをしていた。だから、今までの金を返せとは言わなかった。
ただし、もう完全に赤の他人だ。俺は、彼女達親子と縁を切った。
情けない。俺は今まで、何をしてきたのか。会社の業績が落ちたと妻に告げたとき、彼女は自ら率先して仕事を始め、家計を支えてくれた。
娘も、反抗期とはいえ、家の経済状況には文句一つ言わなかった。
馬鹿で不器用な俺は、初めて気付いた。愛美に騙されていたと知って。
本当の愛はどこにあったのか。俺が愛すべき家族は、誰なのか。
こんな過ちは、二度と犯さない。俺は、もう二度と間違えない。
――2019年3月25日――
娘が大学を卒業した。袴姿がよく似合っていた。妻に似て、美人な娘だ。
よかった、と心の底から思った。娘が巣立っていくのは寂しいが、彼女の成長は嬉しくもある。
俺のたった一人の娘。たった一人の子供。
これから社会の荒波に揉まれることになるだろうが、どうか、誠実な人であってほしい。間違っても、男を騙して子供を産むような女にはならないでほしい。
ここまでくるのに、本当に色んな事があった。
俺を騙したあの女が、今、どこで何をしているのか。数年間息子だと思っていた子供が、何をしているのか。そんなこと、もう知らない。興味もない。
ただ、家族の大切さを思い出させてくれたことだけは、感謝している。
本当に愛すべき家族。
照れ臭くて面と向かっては言えないが、妻と娘に伝えたい。
愛してる。俺の生涯を、お前達に捧げたい。
――――――
夫の日記は、娘が大学を卒業した後も続いた。
娘が彼氏を紹介してきたときのこと。娘の結婚が決まったときのこと。娘と、バージンロードを歩いたときのこと。
全て丸く収ったように書かれていた。
日記は、夫が入院する直前で終わっていた。病院では、日記をつけていなかったみたいだ。
全て読み終えた私の手は、プルプルと震えていた。口から、ハハッと乾いた笑いが漏れた。
直後、全身全霊の力で、日記を床に叩き付けた。
「ふっ……ざけんな馬鹿男が!!」
スパーンッという音が部屋の中に響いた。日記帳が叩き付けられる音。
間髪入れず、私は日記帳を踏みつけた。階下の人の迷惑なんて、頭になかった。ドスドスと、何度も何度も踏みつけた。
「なに綺麗にまとまったと思ってんだ! 散々不倫しやがって! 私達を裏切りやがって! くそっ! くそっ! 緩和ケアなんてするんじゃなかった! 苦しんで苦しんで死なせればよかった!」
日記にあった一文が、私の苛立ちを高めていた。
『どうしようもなく、愛美を愛している』
散々日記を踏みつけた後、私は、息を切らしながらスマホを手にした。電話アプリを立ち上げ、履歴を開いた。
トップにあるのは娘の名前。彼女との通話履歴をタップし、発信した。
ほどなくして、娘が電話に出た。
『もしもし? お母さん、どうしたの?』
「旅行行くよ! パーッと散財して、滅茶苦茶贅沢するよ! あんたもついてきて!」
『は? 何言ってんの?』
「いいから! お金なら私が出すから! あの馬鹿旦那の遺品全部売っ払って出すから!」
『ちょっ……お母さん!? 何があったの!?』
混乱する娘に、私は事情を全て話した。夫が不倫していたこと。私が家計を支えるために仕事を始めたとき、夫は、見ず知らずの女に貢いでいたこと。
たとえ何をしても、私の愛情は夫にあったのに。
本当に馬鹿みたいだ、と思う。それだけに腹が立つ。
――結局、夫の遺品は、売ってもそれほどの金額にはならなかった。私と娘夫婦で、二泊三日の温泉旅行ができる程度の金額。
親子水入らず、ではないけれど。
それなりに溜飲を下げられる旅行ではあった。娘と一緒の旅行だったから。
娘は、いくつになっても可愛い。結婚して、誰かの妻になっても可愛い。
なんと言っても、お腹を痛めて産んだ一人娘。たとえおばさんになっても、可愛いに決まっている。
私は、唇の端を上げた。
何より娘は、あの馬鹿旦那の子供じゃないんだから。
(終)
本作表紙イラストは七海いと様よりいただきました。
この場を借りてお礼申し上げますm(_ _)m