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変化

 雫が女になってしまう前日。火曜日の放課後に、俺は雫を家に招いた。


「よし、では作戦行動Aに移る!」

「A?」

「風呂だな」

「ああ。一緒に入ろうぜ!」

「うちの風呂はそこまで大きくないが、二人なら問題ない」

「今日は男だからな!」


 着替え一式を持って浴室へと向かう。意外にも初めて俺の家に来た雫。家族には普通に友人として紹介し、奏には双子だと説明しておいた。

 奏は初め驚いていたが、双子という単語の妙な説得力に沈黙させられていた。

 余談だが、俺の家族は俺に友達という存在がいないと思っていたらしい。だが、今日のことで分かったが、友達という言葉はとても便利だ。大抵のことはこれで説明が済む。世の中の人間たちが、お互いを友達と呼び合う理由が分かった気がする。

 世の中の人間にとって、友達というのは肩書きであって、本当の意味での友、親友と呼べる存在はいないのだろう。

 だが、俺にとって雫と優子は盟友だ。異能という特殊なつながりを持った。そう考えると、たしかに友達というのはいらないかもしれないな。


「行くぞ、我が盟友よ!」


 雫と風呂に入った後はご飯を食べて支度を整えた。

 眠らないようにテレビゲームを始めた俺たちは、対戦型のパーティゲームを二人でやっている。


「なんで双六なんだよ。眠くなるだろ」

「仕方ないだろ。奏が貸してくれたのがこれだったんだから」

 俺の部屋にゲーム機はない。ゲームをしないからだ。

 情報収集のためのパソコンとテレビがあるため、テレビにつないでゲームをしている。あの有名ゲーム会社「忍転堂」が作ったモリ夫パーティを、NPCを含めた四人で対戦している。

 しかしこれはかなりキツイ。NPCのターンでどうしても眠気が襲ってくる。


「今何時?」

「二十五時だ」

 ゲームを始めてから二時間。既に三つ目のコースである。コントローラーを片手に雫は舟を漕ぎ始めた。

 現時点で、十二時がきっかけではないということの確認が取れた。シンデレラではなかったようだ。


「おい。起きろ」

「起きてるよ……」


 もう少しで寝落ちしそうな雫は俺を非難するように答える。しかし非難されるべきはお前の方だ。


「喰らえ!」

「いた……」


 雫の頭に手刀を叩き込む。しかし帰ってきたのはとても淡白で弱々しい反応だった。このままでは本当に眠ってしまいそうである。


「おい、雫。今寝たら実験が……」

「大丈夫だ。俺は男だから、それを俺が知っていればお前なんだ」

「頭が回っていないぞ。しっかりしてくれ」


 寝ぼける雫は何を言っているか分からない。完全に脳が働くことを放棄している。

 俺のターンが回ってきたためキャラクターを操作する。サイコロを振り、出た目の数だけマスを進んでいく。


「あ、もう終わりか」


 三つ目のステージも終わり結果発表の映像が流れ始めた。結果発表の間、プレイヤーが操作することはセリフのスキップくらいで、この時間が最も眠気に負けそうになる。


「今回の一位は……三番!」

「おい、雫。お前一位だぞ」


 結果を見届けた俺は視線を横に向けた。雫はコントローラを握りしめたままの姿勢で固まり返事をしない。


「おい」

「……」


 返事がない。ただの雫のようだ。


「おい、起きろ」


 雫の体を揺するが全く起きる気配がない。バランスをなくした雫はそのまま俺の肩に頭を預け寝息を立て始めた。


「仕方ない。一人で観測を継続する」


 俺はノートに書く準備をして雫の体に変化が訪れるのを待った。

 雫が睡眠状態に入ってから三十分。俺はその変化の瞬間を目の当たりにした。


「なんか、光ってる?」


 雫の体が淡い光を放ち始めたのだ。そこまで強い光ではないが、部屋の隅が照らされるかどうかという、ギリギリの薄ぼんやりとした明かりだ。

 これが肉体の変化の前兆であるのなら、転換のトリガーは睡眠で間違いないだろう。


「雫、起きろ」

「……」


 返事がない。ただの光る雫のようだ。


「ノンレム睡眠か?」


 雫の眠りは深く起きる様子はない。雫を横に寝かせ俺はノートに今の状況を細かく書き込んでいく。一つも情報を逃さないように、準備していた定点カメラは既に起動している。


「光が収まっていく……」


 数秒から十数秒ほどで光は力を失っていった。雫の体は今どちらなのか。見て確かめるまでもなく今は女なのだろう。


「能力の発動条件はノンレム睡眠状態に入ること。つまり、深く眠っている状態ということだな」


 ほぼこの答えで間違いはないだろう。決めつけるのは固定概念に縛られるためあまりしたくないが、今回はほぼ正解を導けたはずだ。そして、


「対処法は分からず、と」


 最後に一文を書き足し、俺も雫の横に倒れこんだ。


「眠い」


 疲れのせいか、俺が落ちるまでは一分もかからなかった。



『ピピピッ、ピピピッ!』

「うるさい」


 聞き慣れたアラームの音で目を覚ます。手の届く位置にあるアラームを、半ば叩くようにして停止する。


「うん?」


 まだ寝惚けている頭を起こすと体の上に何かが乗っていた。


「雫か。寝相悪いなこいつ」


 俺の体に覆いかぶさるようにして雫が眠っていた。

 あの後すぐに眠った俺は、雫の下敷きにされたおかげで身動きが取れず、この姿勢のままだったようだ。


「痛っ……。首寝違えてるし」


 動こうにも雫が邪魔になって起きられない。さっきから起こそうとしているのだが、なかなか起きない。


「起きろ!」

「起きてるよ……」

「おい、二度寝するな」

「俺低血圧なんだよ」

「知らん」


 雫は人の腹の上で二度目を始めようとした。俺の上に乗っていることに気づいていないのだろうか。有ろうことか俺を抱き枕のようにして顔を埋めてきた。


「お前寝惚けるのもいい加減にしろ。襲うぞ」

「あ? 俺は男だっての。それにお前そういうの興味ないだろ」

「今のお前の体は女だってこと忘れてるだろ」

「オンナァ? 知らねえやあ」


 雫はそう言いながら寝返りを打った。俺の上から転がり落ち頭を床にぶつけていたが、逞しくそのまま二度寝を決め込む。


「学校でもたまに寝起き悪い時あるけど、その比じゃないな」


 雫はTシャツがはだけへそが出てしまっている。


「おい。本当に誘ってるのか? もう朝だぞ。襲っちゃうぞー?」

「友ならいいよ。好きにしろ」

「は? お前本当に起きろ。その発言は男としてアウトのラインだぞ」


 まだ寝惚けているのか雫は俺の言葉を無視してむくりと起き上がった。


「俺がいつまでも寝惚けてると思ってんの?」

「それは、どういう……」


 起き上がった雫は俺の腰に跨る。体を起こしかけていた俺はベッドのへりに背中を預けた姿勢で固まってしまう。


「お前ならいいって言ってんの。この意味分かってんのか?」

「お前こそ正気に戻れ。お前は越えてはいけない一線を越えようとしている」

「俺は気づいたんだよ」


 何を――

 その先の言葉は出なかった。唇が塞がれた。これが何か分からないほど俺は鈍感じゃない。


「やめろ!」


 俺は慌てて雫を突き飛ばした。


「何のつもりだ!」

「お前がいけないんだろ!」


 怒鳴る俺に対し雫も声を荒げた。雫が何を怒っているのか俺には分からない。


「お前の立てた仮説の話。深層意識の話だよ。最初は馬鹿にしてた。そんなのありえないって否定してた。でも遊園地でお前と一緒に遊んで気づいちまったんだよ。俺は男なのに、女になりたかったんだって。でも、女でいられるのは一瞬で、お前の女にはなれないって気づいちゃったんだよ。あの観覧車で見た景色は、お前にとっては男の俺との景色なのかもしれない。でも、俺にとっては、女として好きなお前との景色だったんだよ。そしたら涙が勝手に出てきて、それで、どうしたらいいか分かんなくなって……」


「雫……」

「男の時はこんなことなかったのに、女になってから変なんだよ。もう、自分が分からねえよ……」


 雫は胸の内を明かすと静かに涙をこぼした。足元に落ちる滴が、これほどまでに切なく見えるのは、目の前の雫が女だからなのか、それとも俺が雫を男として見ているからなのか。


「お兄? 朝から何騒いでんの?」

「気にするな。先に下に行ってろ」

「りょー」


 奏は中に入ってくることはなく、そのままトタトタと足音を鳴らしながら一階に降りていった。

 もしかしたら今の会話を聞かれたのかもしれない。


「友、俺さ、力のコントロールできるようになったんだよ」

「本当か!?」

「お前と遊園地から帰ってきた次の日さ、女のままだった。それでその次の日男に戻ってみたらできたんだよ。でも、それならさ、今日は女にならないはずだろ?」

「そ、そうだな」

「俺さ、もう女なのか男なのか分かんないんだよ。学校行くときは男じゃなきゃいけないけど、お前はこんな俺とも仲良くしてくれるか? 今までと同じように接してくれるか?」


 雫は俯いたままそう言った。俯いたまま視線だけ伺うように俺を見ている。視線が合うと少し逸らしてまたこちらを見る。


「お前は俺を誤解している。俺だって男と女の区別くらい付けてる。今の時代、LGBTは認められてくる。お前がその価値観を持っていようとも蔑むことはない。だ、俺にも価値観というものが存在する」


 俺の答えはいつだって変わらない。誰に対してだって変わらない。


「俺にとってのお前は男で、それ以上に、友人だと思っている」

「……。うん、そうだよな」

「だけどな、人を好きになれるっていうのはすごいことだ。お前の気持ちに応えることはできないが、それでも、俺はお前の友人でいたいと思っている」


 こんな答えしか持ち合わせていない自分が情けない。雫を傷つけたくないのと同じくらい、傷つきたくないと思っている自分が情けない。


「友、ありがとう。お前のおかげでこの能力のことは解決したし、ちゃんと応えてくれたから吹っ切れた。ああ、泣いたらスッキリした!」


 雫は言いながら笑った。曇りのない笑顔に涙の跡を残しながら。


「友。いきなりキスして悪かった。すまん」

「気にするな。初めてが男とでも俺は気にしない」

「初めてとか、照れるじゃねえか……」

「いや、その反応はキモいぞ」

「てめー!」


 いつもの調子の雫に戻ってくれたようで何よりだ。そして俺も、自然体でいられている。


「てか今日も学校じゃん!」

「そうだったな」


 俺たちは慌てて支度をして一階に駆け下りた。

 俺の部屋にはもう憂いも後悔も残っていない。あるのは解き放たれた想いと一粒の滴だけ。


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