妹よ、服を貸せ
俺は慌てて駆け出す。
振り向いた雫はそのまま後ろ向きで歩いていたのだが、階段に気づかず、そのままバランスを崩してしまった。
俺は慌てて駆け出し、雫の頭を抱えるようにして階段を落ちていった。
背中側を下にしてリュックで衝撃を殺したおかげで怪我はない。幸い、雫も見たところ怪我はない。問題は、
「女の胸というのは本当に柔らかいんだな。興味はないが、後学のために知っておいて損はないだろう」
「イテテ……すまん友。大丈夫か?」
「大丈夫だ。俺を誰だと思っている。この世界で最強の悪運を持っている男だぞ」
「そうか。って俺、お前の顔面に胸押し付けてた?」
「ああ。今だけはお前が男じゃなくて良かったよ。男だったら筋肉か骨で鼻を潰されていたところだ」
俺に覆いかぶさるようにしていた雫は体を起こす。俺の顔を包んでいた柔らかな感触は、たしかに男のものとは思えない代物だった。
「女の価値は胸の大きさではないという言葉の意味が、今なら分かる気がする」
「そ、そうか」
苦笑いを浮かべる雫に手を借りながら立ち上がる。
「ところで怪我はないか、雫」
「おう。お前のおかげで無傷だ」
「それは良かった。その体はもはやお前だけのものじゃないからな」
「すっげえ意味深に聞こえるセリフだけどさ、お前の場合は異能の方を言ってるんだよな?」
「当たり前だろ。この研究はお前と俺がいて成り立っているんだ。その体が傷つけられては研究に支障が出るかもしれないからな」
「そりゃどうも」
雫はそう言って、自分の荷物を背負い直し俺の肩をバシバシと叩く。その手はとても華奢で弱々しく、絹のように滑らかで柔らかかった。男らしさをかけらも感じない手を取って、やはり女だということが分かる。
「まさか……」
俺はある結論と仮定を思いつき、そしてこの時、日曜日に行う実験の一つが決定した。
それから金曜土曜は男状態を挟み、見事に日曜日、雫は四度目の性転換を迎えた。
「おはよう雫ちゃん!」
「お前絶対バカにしてるだろ!」
日曜日の朝。俺は自宅で雫ちゃんをお迎えした。見事にジャージで体のラインを隠した雫ちゃんは男にも女にも見える。髪が短いため、ボーイッシュガールと少年の間という印象だ。
「今日呼んだのは他でもない。これに行くためだ」
「なんだそれ」
「石山パークランドの入場チケットだ」
「懐かしいな。小学校低学年の時に行って以来だ」
「だろう?」
石山パークランドはうちの近所にある遊園地で、あまり大きくはないが、近くに動物園もあるため子連れの客が主なターゲットになっている。
「それで、そこに何しに行くんだ?」
「男と女が二人で遊園地。それはデート以外にないだろう」
「お前まさか、とうとう女に目覚めたのか!?」
「ちっがーう! まったくもって的外れな答えだよ雫ちゃん。これはお前の深層意識にある欲求を満たすことで変化に対しアプローチをしようという検証だ」
「深層意識?」
「そう」
俺の今回の仮説一つ目。
雫の深層意識、心の奥底にある願望や欲求が異能という形で現れたのではないかというものだ。そしてその欲求が女になりたい、というものだと仮定し、今日一日女として雫ちゃんを扱おうということだ。これにより転換に何かしらの変化があればよし。なければそれもよし。
「で、男二人で遊園地デートに行くのか?」
「男二人? 雫ちゃんには女として行ってもらうのだよ。マイシスターカモンヌ!」
「……誰も来ないぞ?」
「あいつ、打ち合わせ通りにって言ったのに」
どうやらマイシスターは徹底抗戦の意思を示しているようだ。であるなら俺も戦うとしよう。
「雫行くぞ」
「どこに?」
「まあ、一回上がれ」
「お、おう」
俺は雫を連れ立って妹の部屋の前へ。
「奏、入るぞ」
ノックのタイミングと同時に声をかけ扉に手をかける。部屋の中では奏がスマホを持ってベッドに横になっていた。
「お兄、何?」
「こいつに服貸して欲しいんだけど」
「「は?」」
雫と奏の声が重なる。
奏は雫を見て「誰だこいつは?」という顔をしている。
雫は「いきなり何を言っているんだこいつは?」という表情で俺を見ている。
二人はお互いに状況を飲み込もうと必死に頭を動かしていることだろう。そんな二人に分かりやすいように俺が説明をしてやる。
「奏。今からこいつと遊園地デートに行くんだが、見ての通り可愛げもへったくれもない格好をしている。故に哀れなこいつに服を貸して欲しい」
「そ、それは妹さんに迷惑だろ」
「雫。お前は他人に気を遣っている余裕はあるのか? この実験がうまくいけばお前は解放されるのだぞ?」
「で、でも……」
「安心しろ。俺の妹で俺の身内。つまり俺の許可は妹の許可になる。いいか、この世に兄より優れた妹などいないのだ!」
「いや、勝手に話進めないでくれる!?」
と、今まで静観を決め込んでいた奏からツッコミが入った。話に割って入るタイミングを伺っていたようだが、漸く自分の話すターンが来たという顔をしている。
「それで、その人は?」
「我がクラスメイトの雫だ。こいつに服を貸してやってくれ。お前たちは背丈も一緒だしちょうどいいだろう」
「ちょうどいいって……お兄は妹をなんだと思ってんのさ」
「妹だが?」
「はぁ、いいよ。今用意するから待ってて。それから服はあげる。人に服貸すの嫌だから」
「そ、それは申し訳ない……」
「雫さんでしたっけ? 遠慮しないでください。返されても困りますから。それに、この後いらなかったら捨ててもいいんで。私は私でお兄に新しい服買ってもらうんで」
それを聞いた雫は俺の顔を見上げる。見上げると言ってもそこまで差があるわけじゃないが。
「気にするな。奏、村島でいいよな?」
「は!? ユニムロに決まってんじゃん!」
どうやら安価で済ませようというのはダメらしい。村島、俺は好きだけどな。
とりあえず、妹の説得と服の確保が完了したことで俺たちは奏の部屋を去る。雫は着替える必要があるため俺の部屋に招いた。
「……いや、出てけよ」
「ああ、すまん」
雫が女になっていたということをすっかり忘れていた。というかあいつの心は男のはずで、男同士風呂も共にしたことがある仲の筈だ。なのに今更何を恥じらう必要があるのか。まさか女の体になったことで精神にも変化が発生し始めている? さらに本人は気づいていない。これはかなり重要なことなのでは?
そう考えた俺は、気づいた時には行動に移っていた。
「ぎゃーっ!? 何入ってきてんだ、バカ!」
「ちょ、どけ!」
俺は机に向かいノートを広げ今思いついた仮説を書き込んでいく。部屋に入った瞬間だ、下着姿の雫が視界に映ったが、今はそれどころではない。
肉体が精神に与える影響は、肉体の変化が劇的であればあるほど、大きくより早くなるのか。
例えば、体を鍛えていたらメンタルも強くなった。これは肉体が強くなったことが自信となり精神が強くなった。であるとするならば、肉体が女になった時、精神も女になっていってしまうのではないか、と考えられる。
「雫、お前の心は男のままか!?」
走り書きしたノートの上にペンを投げ捨て雫に問う。
中途半端に服を着ている雫の方を向いて話しかけると、そこには女物の下着をチラ見せさせている雫が、呆れた表情で立っていた。
「男だよ。だけどお前はもう少し気にした方がいいと思うぞ?」
「俺に常識がないみたいに言うな。お前が男であるならばこの行動はなんらおかしなものではない。それにお前が女物の下着を身につけていても、俺は何も思わないし何も言わない」
「それは本当に助かる。正直下着姿見られんのが一番恥ずかしかった。でもよ、着ねえと痛えの。こればっかりは、分からねえよなあ」
「ああ。分からないな」
雫の悩みは俺では解決できそうにない。これは一刻も早くこの能力を解明して問題に対処する必要がある。
「では、お前の着替えも済んだことだし、いざ行かん遊園地!」
「おう!」
デートという言葉に難色を示していた雫だが、意外と乗り気である。懐かしの遊園地が楽しみなのだろう。




