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本当は一日中剣の稽古に励みたいけれど、父上との約束で午前中だけと定められていた。レイジーに挨拶をして鍛錬場を後にする。屋敷に向かって歩いていると見慣れた背中が先を歩くのが目に入った。早足になってその背を追いかけ、追い付いた。
「ヨシュク!」
声をかけると初めてヨシュクはオレに気付いた。ぱっと表情が明るくなる。
「いつもご苦労様。手伝おうか?」
ヨシュクが抱える荷物に視線を送りながら尋ねると、ヨシュクは首を振った。
「お姉様方に叱られますので、大丈夫です」
お姉様方、というのは、ヨシュクより長くこの屋敷で働いている女たちのことだ。ヨシュクが屋敷で下働きを始めて二年ほどが経つ。初めてヨシュクを見たとき、こころの奥にある閉ざされていた鎧戸が勝手に開いて、清らかな空気が吹き込んできたような感じがした。訳も解らず、ただとどきどきしていた。そのどきどきの正体に気がついたのは次にヨシュクを見かけたときだ。そうかあれって、一目惚れってやつだったんだ、って。
ヨシュクがイオと同じ下町で生まれ育った仲だと知ったのは、ヨシュクがシャル姉さんの使いで鍛錬場に顔を出したときだった。屋敷で働く男も女も、オレが毎日鍛錬場に通っていることは知っているし、シャル姉さんやリコ姉さんの使いで鍛錬場にやってくることも少なくないけれど、ヨシュクにとってはその日が初めてのことだった。剣や格闘の鍛錬に励む兵たちの気迫に押され、声を出せずに入り口で佇んでいたヨシュクに気がついたのはイオが先だったらしい。ふたりが親し気に話す姿を遠目にして、どうにもうまく言い表せないもやもやを感じたことは、まるでついさっきのことのように思い出せる。ヨシュクが見せていた笑顔は、いつものお人形みたいな微笑みとは違って、こころから出た笑顔だって解った。オレにはあんなに、生き生きとした笑顔を見せてはくれないのに。イオに対して謎の対抗心が生まれた瞬間だった。
それからオレは、しつこいくらいにヨシュクに声をかけるようになっていた。最初のうちは身分を気にしてなかなか打ち解けてくれなかったけれど、繰り返すうちに少しずつ仲良くなっていった。他に誰もいないときには「ラル」と呼んでくれるほどに親しくなって、それがどうやら他の女たちは気に入らないらしい。
「楽しみですね。パレード」
ヨシュクがさらににっこりとした。ヨシュクには、儀式に乗り気ではないことを告白することができないままでいた。ちくっと小さく胸が痛む。
「パレードはどちらを通るんですか?」
「あー……っと、たぶん、リコ姉さんのときと同じ」
ヨシュクの瞳がきらきらする。やっぱりかわいいなあ。こんなにかわいいのに普通だなんて、イオの目はおかしい。
「きっとお綺麗でしょうねえ、ラルですもの」
「いやそれマジで言ってんの?」
ははは、と渇いた笑いが出る。ヨシュクはヨシュクで、きらきらの瞳のままで大きく頷いた。
「もちろんです。ルグレン家の四番目のお姫様ですもの」
胸のちくちくが強くなる。息も苦しくなってきた。
「どんなドレスを着るんですか?」
うきうきと話を続けるヨシュクに比べて、どうにも気の抜けたような声しか出ない。
「シャル姉さんに任せてあるんだ」
「シャルファル様のお見立てなのですね。だったらきっと素敵です。──ねえ、ラル?」
急に声のトーンが変わったので不思議に思ってヨシュクを見れば、その大きな瞳に翳が落ちていた。
「成人の儀式が済んだら──もう、今までみたいに気安く、ラル、なんて呼べないんでしょう?」
呼んでよ。ラルって。ヨシュクに『ラルファレッテ様』って呼ばれるなんて我慢できないし想像もしたくない。でもこんなことをヨシュクに言ったところで、困らせるだけなのは解っていた。だから言えなかった。話しながら歩くうちに屋敷の勝手口がすぐそこに見えていた。答えられなかったオレに気を悪くした様子もなくヨシュクは微笑む。
「──では、ここで」
「うん。お仕事、がんばって」
ヨシュクは微笑んだままで頷いた。そのまま勝手口に消えるヨシュクの後ろ姿を見送る。ヨシュクにばれないように、ちくちく痛む胸に手を当てそっと撫でていた。
あーもう。なんで。
剣の稽古に励んだり、家庭教師について勉強したりしているうちに日々は過ぎていく。成人の儀式が近づくにつれさらに気分は暗く沈んだ。仮縫いだとかで衣裳部屋に呼ばれて顔を出すと、シャル姉さんとトクナがいた。下働きの女たちの手を借りてあちこち糸が縫い付けられたままの服に袖を通した。シャル姉さんが、ほう、と深く息をつく。
「ああ──こんなに日に灼けていなければもっと美しいに違いないのに」
ほら、ごらんなさい──促されて大きな姿見に視線を向けた。
姿見の中で少女は、深い青の生地をベースにしたドレスに身を包み、頬を引き攣らせていた。
後頭部で一括りにされた、腰までも届くかという長い銀髪。毛先は傷んでばさばさだけれど、おそらく傷みのない部分で切り揃えればつやつやとした生来の美しさを取り戻すだろう。じいっとこちらを見つめる瞳は深い湖のように暗く沈んだ色をしている。日頃の鍛錬ですっかり日に灼けて精悍さをも感じる顔つきは、それでも、やっぱり。
どこからどう見ても、少女でしかなかった。
隣に並んで微笑むシャル姉さんのふくよかな身体つきに比べたら筋張ってはいるものの、どうしようもなく少女だった──オレは。
すぐにでも今着せられている仮縫いのドレスを脱ぎ捨てたかった。こんなのオレじゃない。でもそれはできなかった。そんなことをしたらシャル姉さんがどう思うか。ぐっとこらえてじいっと姿見を睨みつけた。どうして。泣きそうになった。オレの表情に気付いたらしい姉さんが眉を下げる。
「どうしたの? 気に入らない?」
気に入らないよ気に入る訳がない。でも言えない。唇を噛んで俯いた。
「髪も整えなくてはね」
それに対して姉さんはうきうきと楽しそうだった。まるで姉さんが成人の儀式を迎えるみたいに。姉さんはやさしく、オレの長い銀髪に触れている。
「ラルファの髪は細くてきれい。癖もなくて真っ直ぐで絹糸みたい。お母様とそっくりね。羨ましいわ」
胸がきしきしする。
「いかがでしょう、ラルファレッテ様。きついところや緩すぎるところはありませんか?」
トクナに聞かれるがそれもよく解らない。促されるまま腕を上げたり下げたり、鏡の前を行ったり来たりする。長い裾が絡まって歩きにくいったらない。こんなふりふり、物心ついてからは一度も着た試しがない。こんなの毎日着て過ごす姉さんたちもジュニもすごい。動く都度トクナがドレスをいじった。本当は普段からこういう形の服を着るように言われていたけれど、それは頑なに拒んで、簡素な作りの服を選んで身に付けるうち皆が諦めた。今はまだ成人前で正式の場に顔を出す必要もないからそれでやり過ごしてきたけれど、この先はどうなるんだろう。考えれば考えるほど気持ちはずぶずぶと暗い方へ沈むばかりだ。
「ドレスに合わせて髪飾りと靴と──ああ、それから、お披露目のパレード用に帽子も仕立てなくてはね」
下働きの女たちの手を借りて服を脱ぐ。すっかり肩が凝った。
「それからねえラルファ。その、お稽古、というの? まだ続けるの?」
「続けるよ」
シャル姉さんはそっと首を左右に振った。
「お父様も仰ってましたでしょ、これまでは子どもだったから大目に見て来たと」
そうだね。そうだけどさ。
「成人の儀式を終えたら貴女も、淑女としてのマナーを身に着けないと。あんなお稽古なんてもう必要ないでしょう?」
あんな? ひどい言い方。言い返そうと思ってやめた。これを言うべきは姉さんじゃない。顔を上げると姉さんの目を見た。姉さんがわずかに首を傾げる。
「──父上は、どちらに?」
「執務室にいらっしゃるかと思うわ」
「解った。ありがとう」
衣裳部屋を出る。足早に父上の執務室に向かって、遠慮も配慮もなく乱暴にドアをノックした。
「そのように乱暴なノックをせずとも聞こえている。入りなさい」
「失礼します」
ドアを開けて礼をした。
「ラルファか。まだそのような礼をするとは」
顔を上げると父上は、困ったようなカオでオレを見ていた。
「剣士としての正式の礼をして、なにが悪いというのです?」
言い返すと父上は途端に厳しい表情になった。
「男子ならそれでよいだろう。しかしラルファ、おまえは女子。いつまでも剣士の礼などせず、女子として相応しい所作を身につけねばならぬ。そろそろ成人の儀式を迎えるのだから」
そうだよね。そう言われるのは解ってた。そっと深呼吸をした。
「その、成人の儀式の件、なのですが」
「……またその話か。くどい」
くどいと言われても退くつもりはなかった。
「何度でも言います。──私は、女子としての儀式ではなく、男子としての儀式を受けたいのです」
「おまえがその儀式を受けたところで意味はないと言っているだろう。そこまでこだわるのは、儀式をまっとうし後継となることが目的なのだろう?」
「そのような大それたことはちらと考えたこともありません。女子としての儀式を受けることに我慢がならない、ただそれだけです」
父上が派手にため息をついた。
「確かにおまえは幼い頃から、立派な剣士になるのが夢だと言っていたな。いつか父上の片腕となり、この領地を守るために命を捧げましょう──と。いつまでもそのような戯言が通用するとでも思っているのか?」
何度訴えたら──いや、どれほど訴えても理解してはもらえないのかもしれない。それでも。ぶんぶんと強く首を振る。
「私は本気です。男子として儀式に臨むことを許されないのなら、このまま私は、この領地を出ます」
さっと父上の顔色が変わった。
「できもしないことを口にするな。それにそのようなことをすればおまえは、この先生涯言われ続けるのだぞ? ルグレン家の第四女は、気が触れている──と」
「構いません」
「おまえが構わずとも──」
「ならば私を除籍ください。ルグレン家と関わりを絶てばそれも、問題ないでしょう?」
「──────ラルファレッテ」
かなりの間を置いて、父上が静かにオレの名を呼んだ。どうにも馴染めない──自分のものとは思えない名。じっと父上を見つめる。
「私の育て方が悪かったのだろうか? 亡くなったリリアナがおまえの姿を見たら嘆き悲しむだろう」
「母上は──」
──七年前。ベッドに横たわる母上が力なくこの頭を撫でながら、言ってくれた言葉を思い出す。
ごめんね、ラル。ちゃんと立派な男の子に産んであげられなくて。
母上には、ことあるごとに「ラルは男の子だ」と訴えていた。はいはいそうね、と取り合ってくれなかった母上がそれを真剣に受け止めてくれるようになったのは、はたしていつからだったろう。
「──私を男子に産めなかったことを、詫びておいででした」
「ラルファレッテ!」
父上の叱責が飛ぶ。
「滅多なことを口にするものではない」
「父上、何度も申し上げております。私は──美しいドレスで着飾ることにはこれっぽちも興味がありません。ひとりの剣士として生きるのが目標です。成人の儀式を終え──どこぞの殿方に嫁すなど、想像さえできません。こんな私にわずかでも憐みの情があるなら、どうか、男子の儀式に臨むことをお許しください」
真っ直ぐにその顔を見て訴える。その瞳が哀しげに翳る。
「もしも男子の儀式を全うできなければそのときには──女子として生きます。成人の儀式──披露目のパレードの前に、男子として、成人の儀式に臨ませてください。お願いします」
膝を折り両手をつけ額づいた。
「お願いします」
どれくらいそうしていたのか解らない。やがて父上がぽつりと言った。
「──もうよい、下がりなさい、ラルファレッテ」
父上を見た。父上はこちらを見ようともしなかった。ただ深くため息をつくと、手元の書類にペンを走らせ始める。もう一度深く頭を下げると執務室を後にした。