毒のイレーナと一途な第二王子〜嫌な第一王子に捕まりましたが、結局なるようになりました〜
イレーナは恐ろしい令嬢だと王城の使用人たちからもっぱらの評判だった。
ある日イレーナが王城の池を憂い顔で覗いていたので、それを後ろから覗き込んだ従僕はあまりの事に悲鳴を押し殺すのに失敗した。
池の魚がいくつも死んでぷかぷか浮かんでいたのだ。ゾッとして、イレーナ嬢と目を合わせた従僕は、イレーナが無表情で見返してくる瞳が闇のように光を全て吸い込んで虚のようだったとのちに語ったが、イレーナは緑の瞳である。
そしてイレーナの口からは「かわいそうなことをしたわ」と言う言葉が紡がれ、手に握られた皿からはぽたりと雫が落ち、その雫が触れた芝生の葉からは、ジュッという音がしたような気がしたのだと。
しかし、死んだのは魚だ。人でもないし、ペットの犬でもない。従僕が訴えてくるのを、執事は少し悩んだが、黙っておくようにと諭した。貴族に冤罪を着せたということになったら、一介の使用人の命などすぐに消えてしまうからだ。
しかしその後も何度かそのような疑惑の事件は続いた。イレーナが「気に入らない」と窓の外に料理を投げ捨てたのだ。全くあの令嬢は気が狂ったのだろうかと、うんざり顔のメイドが片付けに行った先には料理を食べたネズミの死骸が転がっていた。メイドはあまりのことに気絶したという。
イレーナの周りには、毒がついてまわる。そんなことが幾度も続き、いつの間にやら「毒のイレーナ」使用人たちから、彼女はそう呼ばれるようになっていた。
それが大きな話に発展しない理由は、彼女が第一王子の婚約者だということがある。
〜〜〜
イレーナがこの国の第一王子であるナルニスの婚約者になったのは八歳の頃だった。父の仕事場である王城に遊びにきたところをナルニスに見初められてしまったのだ。二つ年上のナルニスがイレーナの手を掴んで引きずり、会議中だった王の所へ連れ込み、この女を婚約者にすると宣った時は、その部屋に集まっていたこの国の重鎮たちは度肝を抜かれたものだった。しかし十歳の子供の言うことだ、思春期がくればまた気も変わるだろうと、暢気な王は「まあいいだろう。好きにしなさい」と二人を部屋から追い出した。ナルニスはイレーナをそのまま自室に連れ込むと、嫌がる彼女のスカートを捲ったり、服を脱がせようとしたりの傍若無人さを見せ、イレーナを大泣きさせたが、そこについていたメイドたちは、子供のすることだと、微笑ましがって何も手出ししなかった。
イレーナの度重なる悲鳴と泣き声に、助け舟を出したのは近くの廊下を歩いていた第二王子のアルフレッドだった。
「兄上、一体何事ですか」
「何だアルか。どうだ、見てみろ俺の婚約者だ」
「婚約…?」
アルフレッドは二人を交互に眺め、驚愕した表情を見せていた。
「ああ、さっき庭を歩いているのを捕まえてな、なかなか可愛かったので父上のところに行って許可をもらってきた」
「……そうです……か」
アルフレッドは絶句していた。
「羨ましいだろう?」
「その、彼女はそれを了承したんですか?」
「はぁ? 俺はこの国の第一王子だぞ? 俺の言うことは絶対なんだよ!」
ナルニスはイレーナの髪を乱暴に掴むと、強引に引っ張り回した。
「やめてください兄上! わかりました、わかりましたから。彼女に乱暴しないでください」
「なんでお前にそんなことを言われなければならないんだ? 俺に命令するな」
「命令では…お願いです、兄上。女性には優しくしてください。お願いします」
「ふ、まあいいだろう」
ナルニスはこの時から可愛くないアルフレッドにいうことを聞かせるためにイレーナが使えることを覚えてしまったようだった。
アルフレッドはナルニスにとって目障りな存在だった。
剣の腕は自分の方が上だが、アルフレッドは物覚えがよく、勉強がよくできた。それが憎らしいのだ。別に自分と比べられるわけではない、だが自分のスペアでしかない弟が自分を差し置いて褒められているのが憎たらしくて仕方ないのだ。こいつが落ちこぼれだったら、俺の立場ももっと気楽だったものを、目障りなやつだ。それがナルニスの世界の唯一の不満だった。
以降ナルニスはことあるごとにイレーナを王城へ呼び出した。女というのはいつもひらひらと横幅を取る服を着ていて、走れと言っても遅いし、声も小さい。上品ぶってゆっくり歩いてお辞儀して、見ていて退屈で仕方ないといつも不満を言っていた。ナルニスはすぐにイレーナという存在に飽きた。だが、飽きたからといって捨てられるものでもない。もう婚約は成立してしまっていた。
ナルニスは気にしてなどいなかったが、イレーナは伯爵令嬢だった。同年代には他にももっと高位の令嬢たちもたくさんいたため、イレーナはどこに行ってもとても居心地の悪い思いをしていた。世間でもそうなのに、いつも行きたくない城に呼び出され、ナルニスに連れ回されて、足が遅い、声が小さいと罵倒され、そうかと思えば王妃に教育がなっていない、ドレスが汚い。姿勢が悪いとお小言をくらう。教育はまだ八歳の子に物理学を聞いてくる方がおかしいし、ドレスが汚いのはナルニスに棒で突かれたからだし、姿勢が悪いのはナルニスに蹴られてお尻が痛いからだ。使用人たちはそれを全て見ていたのだから、無表情を装いながらも、小さな女の子だというのに、貴族というのは大変だなと心の中で同情を感じるのであった。
ナルニスは十五歳となった。段々と成長するにつれ、弟の第二王子であるアルフレッドが邪魔に感じ出していた。有能すぎるのだ。頭が良く、落ち着いていて礼儀正しいと、自分の取り巻きでない貴族たちが褒めているのを漏れ聞く。
剣の授業の時、あんな頭でっかちのもやし野郎、剣で戦えば俺に敵うわけがないと言ってみれば、「あの方は剣はそこそこですが魔法の方が素晴らしいので、ナルニス様にも難しいでしょう」と朗らかに笑われた。魔法はナルニスにも使えるが、魔力は豊富でも単純なものしか使えない。一向に難しい魔法が使えないので剣の方の授業が多く取られていた。だから知らなかったが、アルフレッドは魔法の操作が異様にうまく、そちらの授業を重点的に組まれているらしい。また一つ憎らしいところが増えた。ナルニスは腹が立って近くの木をめったうちにして木刀を叩き折ってしまった。そして今日の剣の教師をクビにした。
「ナルニス、あまり傍若無人なことばかりしていてはなりません」
ある日母に叱責された。腹が立って怒鳴り返すと、畳んだ扇子で頬を思いっきり叩かれた。
「そのような振る舞いばかりしていれば、次期王の座が危ういというのがわからぬのですか!」
そう言われて、びっくりした。この国の第一王子はこのナルニスだというのに、王になるのは俺に決まっているではないか。
「アルフレッドが随分と出来が良いのです」
「あいつは俺の予備のはずだ!」
「ええ、私もそうだと思っておりました。しかし第二王子に擦り寄る貴族が増えてきているのは確かです。このまま指を咥えているだけでは……何が起こっても不思議はありません」
ナルニスの母はそれっきり黙ってしまった。
ナルニスとアルフレッドの母は違う。アルフレッドの母は街に降りた元メイドだ。父上が酒に酔って手をつけたのだ。すぐにメイドは追い出されたが、その後妊娠が発覚し、王家は生まれた子供を引き取った。放っておいても火種になるだけだ。処分させたとて、いずれ実は生きていたなどと偽者を立てられることもあるかもしれないということだった。最初の頃母上は予備を自分の腹から産まなくて良くなったからよかったと喜んだらしいが、今ではあいつを幽閉して、自分でもうひとり産んでおけばよかったとこぼしている。
十八歳となった。
ますます婚約者のイレーナはくだらない女なっていた。友達のいない冷たい女だ。口を開けばお小言ばかり。ツンとしていけ好かない。どうやら使用人にまで恐れられているらしい。ナルニスは学園に入り、すぐに美しい女性は世の中に溢れていることに気づいた。美しさで言えばイレーナももちろん素養は持っているが、なにせ表情が乏しい。目つきは鋭く、可愛らしさのかけらもない。声もダメだ。まるで氷のような冷たさ、華やかさもない。地味な女教師のようだ。子供の頃の自分は何を考えていたのか、まったくつまらない女を選んだものだ。
ある時、王に婚約者の愚痴を言おうとしたら「お前は意外と真面目だな、小さな頃に選んだ女だから、すぐに飽きると思ったが、長く続いているようだ。見直したぞ」と声をかけられた。なんだ、代えてよかったのか。ナルニスは目の前がぱっと明るく視界が開けたように感じた。そうか、俺は第一王子だった。王は世界で一番偉い、そして俺は次の王になるんだった。母上が何かと「静かにしていろ」というものだから我慢していたが、女は代えてもよかったのか。
ナルニスはその次の日、学園の気に入っていた女に声をかけた。「ずっと君を美しいと思っていた」というと「冷たい婚約者様のせいで冷えた貴方の体を私の愛で温めてあげますわ」と鈴のような声で返された。何だ、可愛い女を手に入れるのはこんなに簡単だったのか、ナルニスはそのご令嬢の言うまま、誰もいない部屋に連れ込まれ、幸せな時間を味わわせていただいた。
人生は薔薇色だ!
ナルニスの学園生活はとても充実したものとなりはじめた。
しかしもう学園を卒業するのも時間の問題だった。ナルニスは学園で真面目に(当社比)生活しすぎたのだ! 可愛く、優しく、楽しい新しい恋人を手放す気はなかった。今こそあの冷たい婚約者と手を切る時だ! ナルニスは卒業式、卒業証書授与の最中、壇上から会場全てを見下ろし、大声で宣言した。
「イレーナ! 貴様は私の恋人ヒーナをいじめた! よってお前との婚約を破棄する! そして私は新しく婚約者をヒーナとさだめ、二人でこの国の次代を担う! お前は王妃の座を手に入れたと思っていただろうが、残念ながらお前は牢獄行きだ!」
まるで用意されたような大舞台!
ナルニスは大満足だった。
〜〜〜
アルフレッドはこの国の第二王子であるが、その生母は王城で働いていた一介のメイドであった。
しかも当時としてもそれほど若くもなかった。王城のような決まりのしっかりしたところの使用人というのは、若いうちは目に触れない裏方の仕事から始めて、責任の伴う目につくようなところで仕事をできるようになるのは、そこそこ歳を重ねてからのことだ。若い女をウロウロさせておくのは、城の紳士たちを刺激することになって、大変に不謹慎なことだからだという。
だからというのもおかしいが、そんなそこそこ歳のいったアルフレッドの母は、別に王に見初められたわけではなかった。
ただ、深酒をした王に、執事から命じられて嘔吐用の洗面器を持って行っただけだった。ただそれだけで酔って見分けのつかなくなった王に、手込めにされてしまった。駆けつけた執事にはすぐに事故だと分かった。下半身のみ丸出しにした王はベッドに突っ伏してすやすやと眠っていたし、メイドはスカートをぐちゃぐちゃにされ、破られた胸元を隠すため自分の体を抱きしめて真っ青になって泣いていたからだ。しかしこういうことの処分ははっきり決まっている。手をつけられた使用人はふしだらとして、貴族女性は忌み嫌うのだ。女の敵は女というのか、どのような状況であろうと、誘惑したのは女となる。彼女は執事の手によって即座にクビにされ、ほとんど身一つで王城を追い出された。
しかし人の口に戸は立てられない、すぐに王妃の知ることとなり、追い出された女は逆に動向を見張られることとなった。しばらくして妊娠が発覚し、またしばらくして子は生まれた。
そして即座に子供は王家によって取り上げられ、実母の手には口止め料のみが残った。
王妃はメイドの子であるアルフレッドを自身の子とし、第二子を産むことを拒否した。出産などという苦しみは一度で十分だったからだ。淑女の鑑である自分が、あの様な苦しみに身を置くことは納得できない。予備の息子は用意したので、もう妊娠は致しませんと避妊薬を常用した。
アルフレッドには物心ついた時から、自分が王妃の子ではないことは知らされていた。使用人たちの口は軽いものだった。王城内にいる全ての貴族が知っていて、堂々と話すのだから、使用人もそれを黙っている必要のないことだと理解しての行動だった。「どちらにしても予備は予備ですから」これがいつもの締めの言葉だった。
アルフレッドは予備という言葉の意味を知った時、なるほどなと思っただけだった。特に傷つくものでもなかった。子が一人だったらそれが死んだら、次の世代がいなくなるのだから、予備を作るのは当たり前か。
生まれてから一度も愛情を受けずに育ったアルフレッドは当たり前のこととして受け取った。
そんなアルフレッドにも好きな人ができた。アルフレッド五歳。イレーナ六歳の時だった。
父の働く王城に遊びに来ていたイレーナとアルフレッドは出会った。春の花の咲き誇る中庭で走り回り、喜びに声をあげるイレーナを初めて見た時、アルフレッドは雷に打たれた様だった。あんなに天真爛漫に笑う人を見たのは初めてだった。アルフレッドの周りには能面のように感情を殺した使用人たちと、愛情のない王妃、仕事に気を取られ、こちらに視線もよこさない王しかいなかった。
ドキドキしながらイレーナに声をかけ、彼女に手を取られて、アルフレッドは気づいたら光の溢れる中庭を走り回っていた。二人はとても気が合い、笑い合い、ふざけ合い、無邪気に遊び回った。その時から、アルフレッドはイレーナが大好きになった。イレーナのふくふくした温かい手を握るのが好きだったし、彼女が顔いっぱいに笑うと、その柔らかそうなほっぺたをツンツンとつつきたくて仕方なかったが、ドキドキしてできなかった。アルフレッドは彼女といると、いつもドキドキして、ワクワクして、ムズムズして、人生が薔薇色になったように感じていた。一人の時も、ずっと二人の時を思い出して、幸せを感じられた。大きくなっても、ずっとずっと彼女と一緒にいられたらいいのになと想像して、毎日眠りについた。
七歳になった時、恐ろしいことが起きた。
廊下を歩いていたところ、ドアの開いた部屋からイレーナの小さな悲鳴が聞こえたのだ。アルフレッドは慌てて中に入ると、目を見張った。
第一王子のナルニスが、イレーナの腕を掴んで引きずっていた。イレーナは困惑した様子で、ひどく怯えていた。
アルフレッドはナルニスが苦手だったが、彼がイレーナに触れているのを見て、ますます気分が悪かった。イレーナが汚れてしまう、触らないで欲しいとさえ思った。
「兄上、一体何事ですか」
「何だアルか。どうだ、見てみろ俺の婚約者だ」
ナルニスが得意げな様子で言った。
「婚約…?」
アルフレッドはイレーナに目を向け、驚愕した表情を見せた。目の前が真っ暗になった。耳鳴りがするのか、何だか世界が遮断されたような心地がした。体が冷たい。
イレーナは悲しそうな顔をしている。青ざめてもいる。一体何が起こったのか、何が何だかわからない。
「ああ、さっき庭を歩いているのを捕まえてな、なかなか可愛かったので父上のところに行って許可をもらってきた」
信じられない話だった。捕まえて、父上のところに許可を?
「……そうです……か」
アルフレッドはそう返すのがやっとだったが、その顔を見て調子に乗ったのか、ナルニスは「羨ましいだろう?」とアルフレッドを煽った。
何と言っていいかわからなかった。羨ましい、では済まない。今目の前で恐ろしいことが起こっているのだ。自分の唯一であり、最愛であったイレーナが、まるで蜘蛛の巣に捕まった蝶のように、目の前で動けなくなっているのだ。アルフレッドは手を伸ばしたかったが、ナルニスが機嫌を損ねるといくらでも乱暴になれることを知っていたので、言葉を選ばざるを得なかった。何より、彼は今イレーナの手首を必要ないくらい強く握りしめているのだ。イレーナはその手に力が入るたびに眉を歪めている。
それでも、アルフレッドはどうしても聞きたいことを尋ねた。
「その、彼女はそれを了承したんですか?」
「していません!」
イレーナが声を荒げた。こんな声は初めて聞いた。僕の前で彼女が不機嫌だったことはなかったからだな、とぼうっと考えた。そして、彼女の意思ではないことが知れて、ホッとしたのだが、話はそれで済みはしなかった。
「はぁ? 俺はこの国の第一王子だぞ? 俺の言うことは絶対なんだよ!」
ナルニスはイレーナの髪を乱暴に掴むと、強引に引っ張り回した。彼女は痛みに顔を顰めて、小さな悲鳴をあげて膝を突いた。アルフレッドはゾッとして、すぐにナルニスに声をかけた。
「やめてください兄上! わかりました、わかりましたから。彼女に乱暴しないでください」
「なんでお前にそんなことを言われなければならないんだ? 俺に命令するな」
「命令では…お願いです、兄上。女性には優しくしてください。お願いします」
「ふ、まあいいだろう」
アルフレッドは、この場は諦めるしかなかった。自分の最愛の人を人質に取られたような形の七歳の少年に、三つ上の乱暴者の兄をどうにかできるだけの方法はなかった。
十三歳の頃から、食後に具合が悪くなることが頻発する様になった。色々と考えるに、王妃とナルニスによって仕組まれているらしい。具合が悪くなる日に限って、食事中二人から嫌に視線を感じる。そして不思議なことにそれはイレーナがいる食事会の時にばかり起こった。
王妃はイレーナのことをナルニスの婚約者として認めているわけではないことは有名だった。王城の廊下で紳士たちに堂々と愚痴をいっていたからだ。王は王で特にイレーナを気に入っているわけでもないらしい。「子供らしい初恋は、そのうちおさまるだろう」と王妃を慰めるように声をかけていた。なるほど、この婚約は誰もが本気で成就させる気もないらしい。全く腹立たしくて仕方ない。そんなに気軽に婚約させ、それを取り消せばイレーナの今後にどれ程の傷がつくかなんて、ここにいる誰もが一ミリも気にかけていないのだ。ナルニスは、ずいぶん前からイレーナに気持ちがないのは誰が見ても明らかだ。そもそもが、恋などではなかったのだろう。その辺を歩いていた犬が可愛かったから俺のものにする。と気まぐれに言ったくらいの気軽さだ。「お前ら全員呪われろ」と毒を吐きたいのをグッと我慢する。
それよりも毒といえばこの皿だ。
今日はイレーナがいる食事会。アルフレッドの前にあるスープ皿には、他の皿にはない何か淀みの様なものを感じる。スプーンを掴んだまま目を上げると、王妃と目があった。アルフレッドを見ると、顔を逸らす。やはりこれには何かが入っているようだ。ワンパターンすぎて、もう覚えたよ。この二人は勉強が得意で頭角を表しつつある僕のことが邪魔なのだ。最初は予備として喜んで受け入れたが、自分達の立場を脅かす様になれば、邪魔というわけだ。
アルフレッドは鼻で笑って、スプーンをスープにつけた。嫌なものだが、仕方がない。食べないわけにもいかないのだから。
イレーナのいる席でだけ毒を仕込まれて、私が倒れたら、イレーナのせいにして全ての罪を被せるのだろうな。そんなことに巻き込むわけにはいかないのだから、そろそろ何とかしないといけないが、おそらくこれまでのことを考えても、まだ致死量は入っていないだろうし、今日は何とか耐えるしかあるまい。
「このスープ、気に入りませんわ」
突然、イレーナがヒステリーに叫ぶと、「そちらと換えてくださいまし」とアルフレッドの皿を引ったくった。
「何をするんだ!」と慌てて叫ぶと、イレーナと目が合った。彼女はグッと眉間に力を入れると「あら、ごめんあそばせ。わたくしったら」と言うと皿を持ったまま席を外してしまった。
みんな呆然としてその場を動けなくなっていた。
しばらくして、使用人たちの中で「イレーナが池の魚を毒殺した」という噂が流れていた。彼女はあの後帰ってこなかったので、その後のことがわからなかたのだが、あのスープをどうやら池に流したらしい。彼女が飲んでいないでよかったと、心底ホッとした。どれだけアルフレッドがイレーナに話しかけたくても、彼女は兄であるナルニスの婚約者で、馴れ馴れしく声をかけることができないし、家を訪ねるわけにもいかない。アルフレッドはずっと気を揉んでいたのだ。
そして、以降のイレーナがいる家族の食事会では、たびたびアルフレッドの皿をイレーナがひったくり、窓の外に放り投げたり、床にぶちまけたりが繰り返されることとなった。彼女は自分の評価が落ちるのなど気にすることなく、アルフレッドが毒を口にするのを防いでくれていた。言葉を交わすことはなかったが、アルフレッドは心がジンとして、いずれ彼女の危機が訪れたら自分が助け、そして時が来たら、彼女を取り戻そうと心を決めていた。
学園に入ると、しばらくはおとなしくしていたらしい兄が、何をきっかけにしたのかイレーナという婚約者がいるにも関わらず他の女を侍らせ始めた。何と都合の良いことだろう。どうやら兄は男性らしい欲求ももう我慢していないらしい。兄とその女の間には、そんな淫靡な雰囲気が流れていた。
その衝動がイレーナに向かわずに済んで、アルフレッドはナルニスが連れ回している女に感謝の歌を送りたいくらいだった。こうも都合よく兄の気を引くために現れたあの女は、もしかしたら天から遣わされた女神かも知れない。アルフレッドは事あるごとに、彼女に感謝の念を送ることとなった。
そして訪れたナルニスの卒業式。在校生として、後ろの席で兄の卒業証書を受け取る背中を眺めていたら、振り返った兄がイレーナに婚約破棄を言い渡したのだ。
「馬鹿だな」
つい口に出してつぶやいてしまったため、左右に座っていた同級生が詰まったような咳払いをしたが、もうどうでもよかった。自分で何をする必要もなく、兄が自分からイレーナを手放してくれた。兄に罰を与えるのはこの場でなくて良い。ここで話に割り込んで、問題を大きくするのは自分もバカの仲間入りをするだけだ。それでは後々のために良くない。アルフレッドは黙って立ち上がると、隣の席の同級生に「家族の修羅場は見ていられない、席を外させてもらうよ」と声をかけてそこから脱出した。
廊下で待っていると、イレーナが肩を怒らせて出てきたのを呼び止める。
「お疲れ様」
にっこり笑って声をかけると、気づいたイレーナがやっと体から力を抜いて微笑んだ。
「ここで待っていてくれたのね」
「渦中に加わって引っ掻き回すのは性に合わないからね」
アルフレッドも笑い返して、手を差し出すと、すぐにイレーナの手が乗せられる。二人が手を繋いだのは、実に九年ぶりのことであった。
ついつい、二人の繋いだ手を見下ろして、その事実をじっくりと味わっているとイレーナがクスリと笑った。
「ずいぶん嬉しそうですね」
「やっと君と話して、手を繋いで、笑い合うことができる様になれて、とても嬉しいよ。そうだ、これから城に帰って、昔みたいに中庭を走り回ってもいい」
「そんな昔のことを覚えてるのね」
「ああ、僕にとって、忘れられない一番幸せな思い出だからね。あの春の緑の光の中を笑いながら駆け回っていた君は、ずっと僕の心の祭壇にしまってあったんだ」
「ああ、今からあなたの夢を壊してしまわないか心配だわ」
「大丈夫さ、君は今この時も、僕の心を癒し続けているよ」
イレーナは満足そうに微笑んだ。アルフレッドの大好きな昔と変わらぬ無邪気な笑顔が返ってきていた。
「君のその笑顔を久しぶりに見られて、僕は幸せだよ」
「あなたのそばにいられる私に戻れて、私も幸せだわ」
二人は笑い合って廊下を歩いた。卒業式は急遽、第一王子によって、リアルなショーに変わっているだろう。学舎の中は人っ子ひとりいないかのように静かなものだ。二人は迷いのない歩みで学園を後にした。おそらく飛び級での卒業試験のためにまた来る事になるだろうが、今日のところはこの場所からはおさらばだった。
〜〜〜
後日、第一王子の継承権の放棄が国民に知らされることになった。ナルニスは心に決めた女性(アルフレッドにとっては救いの女神であるヒーナ)とともに、末席貴族として爵位を叙され王城を去ることが決定された。どうやら不適切な相手であるようだと国民の間で噂になっている。そうでなければ継承権の放棄に理由がつかないからだ。
それはともかく、継承順位の変更に伴い第二王子のアルフレッドが継承権第一位に変わったことで、一部のアルフレッド贔屓だった貴族だけでなく、噂に詳しいほとんどの国民が安堵したと言う話だ。第一王子であったナルニス殿下が傍若無人で学園に入ってからは定期的に問題を起こすのはゴシップ中心の新聞によって有名になってきていて、学園の卒業式で起こした婚約破棄と冤罪(イレーナがヒーナを虐めていたというのはもちろん冤罪であった)騒ぎは、ずいぶん騒がれた。王族の起こした事件として歴史のなかで語り継がれることになるだろう。
王妃は自分の息子の継承権が外されることにずいぶんと抵抗したが、ナルニスと一緒になってアルフレッドに毒を盛っていたことが明らかになると、諦めて口をつぐんだ。使用人の中で静かに囁かれていた毒のイレーナと言う呼び名に危機感を持った近衛の調査部が調べたところ、イレーナが毒殺したと思われていた動物たちの食べた料理が、全てアルフレッドから彼女が奪い取って来たものだということがわかったのだ。
国王は、彼女のあの奇行が自分の息子である第二子を守るためのものだったと知り、彼女を軽く見積もっていた事を深く恥じた。そして王妃を首都から引き離すことに決めた。第一王子がいなくなった今、第二王子まで失うわけにはいかないからだ。
それから、継承権第一位となったアルフレッド王子は、その事件の渦中であったナルニス殿下の破棄された婚約者、イレーナと婚約を結んだ。
新聞の中で語られるには、どうやら元々はアルフレッド王子の思い人だったイレーナ嬢を、ナルニス王子が横から無理矢理奪い、二人の恋を弄んでいたのだとされている。国民たちはありそうな事だと頷き合った。
アルフレッド王子と婚約者であるイレーナ嬢は、その後しっかりと関係を育み、結婚パレードには、とても幸せそうな姿を民衆にお見せになったと言う話だ。
読んでいただき、ありがとうございました。
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