6 そりゃまあ、妹ですから
「――そこ、違います」
問題集を解いていると、本を読んでいたはずの本倉が紙面に指を立ててそう言った。
ピンと伸びた白く細身な人差し指。
綺麗に整えられた爪に、俺の顔が小さく映り込む。
まさか本当に教えてくれるとは……というか、聞いてないのに教えてもらえるとは思ってもいなかった。
「ここの計算が違います。ええと……正しくはこうなります」
本倉は自分のノートを取り出し、余白の部分に数式を書き連ねていく。
若干丸みを帯びた文字、見やすく綺麗にまとめられた板書の内容から、やはり成績優秀者は違うな、などと考えていると、
「楠木さん、聞いていますか?」
下から覗き込むような形で声が響く。
光に照らされて白く輝く髪と、透き通るような瞳。
「っ、ああ、聞いてた」
「……本当ですかね。とにかく、こうなります。詳しくは教科書の……56ページを見てもらえればわかるかと」
今度は数学の教科書を取り出してパラパラとめくり、「ここです」と開いて差し出された。
そこには確かに間違っていた問題に使われている基礎と応用が記されている。
「まさか、教科書の内容をページで全部覚えてるのか?」
「偶然です。このページの内容は間違いを生みやすいなと感じていたので付箋もつけていましたし」
それをパッと思い出して開けるのは覚えてるってことになるのでは……?
なんというか、知られざる本倉の超人ぶりを目の当たりにした気がする。
開かれた教科書のページを見つつ、解答を正していく。
あくまで間違いを教えてくれるだけで、答えは自分で考えろというスタンスらしい。
助かることに変わりはないけど。
俺が解き始めたのを見てか、本倉は読書に戻った。
静かなまま過ぎる時間。
会話がないまま、俺は課題を終わらせる。
一段落ついたところでペンを置いて身体を伸ばす。
「助かったよ、本倉。ありがとな」
本を読んではいるけれど声は聞こえると信じて言うと、本倉は本から視線を上げる。
心なしか柔らかさを湛えた眼差しのまま、
「……大したことはしていません。私は間違いを指摘して、解決するための方法を提示しただけですから」
「それが助かったって言ってるのだけどな」
「そうでしょうか」
「この前から思ってたけど、本倉は自己評価が低すぎないか?」
「………………」
本倉の表情が硬さを帯びる。
固まった目線は僅かに見開かれた後に、すっと真冬のように冷え切った感情の一切感じられないものになった。
――地雷を踏んだ。
理解したときには遅く、かけるべき言葉が喉を上がってこない。
しかし、本倉の冷たい雰囲気はすぐに普段の平坦なものへ戻る。
さっきまでの不穏な気配は霧散していた。
空目をしたのかと思ったが、幻覚や演技とは思えない。
「……私には、このくらいしか出来ませんから」
呟いて、本倉は本へ視線を落とす。
その姿はどこか小さく、寂しげに映る。
何を言っても届かないであろう予感。
自分とは違う世界にいるのかと錯覚するほどに、机を挟んだだけの距離が遠い。
「……今日は帰るよ。課題、教えてくれてありがとな」
「約束ですからお構いなく」
俺と本倉は顔も見合わせないまま言葉を交わして、図書室を後にした。
校舎の外に出る。
吹いた風は生暖かく湿っていて、あまり心地が良くはない。
グラウンドで部活中に励む生徒の声が響いていた。
それを眺めながら懐かしさを覚えて、
「……ほんと、情けねぇ」
悪態をつきながら、学校の門を過ぎる。
イヤホンをしてスマホに入れているプレイリストを流しながら、アスファルトを一定の速度で歩いていく。
まだ明るい時間。
照る太陽は夏に備えてか、全く衰えている様子はない。
部活をやめたのは二か月前のはずなのに、ずっと昔のことに感じられる。
なるべく考えないよう曲に集中して帰っていると、途中で肩を後ろから叩かれた。
驚きながら勢いよく振り向くと――頬に指が突き刺さる。
そのまま指が離れたかと思えば、隣を自転車が駆け抜けていく。
キキーッ、とブレーキをかけて止まったのは、ジャージ姿の楓だった。
楓は悪戯っぽい笑みを浮かべながら手を振ってくる。
全く驚いて損した。
「……楓か。マジでビビるからやめてくれ」
「いやー、辛気臭い雰囲気をプンプンさせてるお兄ちゃんがいたら、悪戯したくなるじゃん?」
「当然のように言わないでくれ。てか危ないだろ。転んでけがしたらどうすんだ」
「結果オーライなんだからいいじゃん」
「何もオーライじゃねえよ」
ダメだ言葉が通じない。
勉強的な意味では悪くない楓だが、基本的に頭が悪い。
それも含めて可愛い妹であることは否定しないが。
「一緒に帰るか?」
「うん! ひっさびさだねーお兄と帰るの。あ、自転車任せていい? 任せるね!」
「返事聞く気なかったよな今。いいけどさ」
「さっすがお兄っ! 出来る男は違うねー!」
グーっと親指を立てる楓に託された自転車を押しながら、並んで帰る。
薄っすら雲がかかった空、俺たちと同じように帰宅途中の学生が楽しげに話しながら歩いていた。
「お兄ちゃん」
「なんだ」
「学校、楽しい?」
ふと、楓はそんなことを聞く。
「藪から棒だな。なんでそんなこと聞くんだ?」
「いやさ。怪我の後、誰から見てもわかるくらい沈んでたじゃん。けど、最近それも少し変わった気がして。今日の朝とか……上手く言えないけど、なんか楽しそうだったから」
合ってる? と答え合わせでもするように、えへへと屈託なく笑った。
楽しそう……か。
朝考えていたのは本倉との約束。
それが顔に出ていたのか? だとしても、楓の目に楽しそうだと映ったのなら――
「楓」
「なーに?」
「お前、俺のこと好きすぎるだろ」
「そりゃまあ、妹ですから」
太陽のような笑顔を浮かべる楓が、パチリとウィンクを飛ばした。