25 その瞳は、涙に濡れていた
――とても、楽しかったです。
美鈴さんから借りていた浴衣を畳んで入れた鞄を下げながら、家までの夜道を一人で歩いていた。
まだ夏祭りの余韻が残る思考。
頭の中で空に打ちあがる綺麗な花火の光景がリフレインされていた。
等間隔で設置された街頭が照らしてくれているおかげで暗さは感じない。
けれど、繋ぐ手があったらな……と考えることはやめられず、さっき別れたばかりなのに恋しく思っている自分に気づき、羞恥で頬が熱くなる。
「私、蓮くんって、名前で呼んでしまったんですよね。しかも、悠莉って呼んでくれて」
今でも思い出せる声色と響きと……蓮くんの少しだけ恥ずかしそうな雰囲気。
それが私を意識してくれているのだと理解できて自然に頬が緩んでしまい、慌てて表情を引き締める。
悠莉と名前を呼んでくれて嬉しかった人は、久しぶりだった。
それこそ亡くなった祖母以来かもしれない。
学校の人はみんな名字で呼ぶし、名前を呼ばれるほど親しくなる人も珍しい。
そう思いながらも住宅地の街路を歩き続け、家につくと――いつもはない、黒い車が止まっていた。
傷も汚れもない、高価そうな車。
どくん、と心臓が大きく跳ね、息苦しくなるのを感じた。
どうして家に、なんの用で……そんなありきたりな思考だけが、脳の奥で渦を巻く。
手先が小刻みに震えを帯びる。
うすら寒いものが背筋を伝って、脚が鉛のように重く感じた。
喉の奥から酸っぱいものがせりあがってくる感覚に耐えながら、私は胸に手を当てて呼吸を整えようと試みる。
ひゅっ、ひ、なんて滑稽にも聞こえる呼吸音、少しずつ視界から色が抜けてセピア色に近づいていく感覚に襲われた。
こんなところで倒れないようにと家の前の塀に手をついて、よろけそうになる身体を支える。
そんな私を嘲笑うかのように家の扉が内側から開かれ、出てきたのは明るい茶髪を揺らすビジネススーツ姿の女性。
万全に施された化粧、怜悧な印象を与える鋭い目元が、私へと向けられた。
私の母、瑛理だった。
彼女は私を見つけるなり、まなじりをきつく吊り上げて、
「いないと思ったら、こんな夜まで遊びほうけていたの。ほんと、いけ好かないわね」
冷たく鋭い、刃のような言葉。
ぞわりと逃げ出したい感情が広がってくるも、身体はいうことを聞いてくれない。
舌の根が乾いて、胸に手を当てながら必死に呼吸を整えることしか出来ない。
反論も、かけるべき言葉すらも浮かばなかった。
頭が真っ白に染まっていく。
助けて、と声にならない感情が小さな呻き声として漏れ出した。
「会いたくなかったのはこっちよ。わざわざ用事があってここに来るだけで憂鬱だったけれど、家に来てみればもぬけの殻。折角会わずに済むと思っていたのに、このざまよ。アタシの機嫌を害さないで欲しいわね」
一方的なそれに、私は何一つ返すことは出来なかった。
その沈黙を返答としたのか、「ほんと、可愛くないわね」と彼女は吐き捨てる。
「別にアンタが何をしようがアタシには関係ない。精々迷惑だけはかけないで頂戴。関わりたくないのはアタシもアンタも同じなんだから」
「…………はい」
唯一返せたのはそれだけだった。
しかし生意気にも返事をしたのが気に障ったのか私にも聞こえるように舌打ちをして、私の存在なんて見えていないような足取りですれ違い、車に乗り込んだ。
すぐにエンジンはかかり、静かな駆動音を響かせながらバックライトが遠ざかっていく。
私は呆然としたまま、しかし家には入らないとと思って、残された気力を振り絞って数歩の距離をなんとか歩いて玄関を潜り、扉を閉めて。
――扉に背を預けて、ずるずると座り込んでしまった。
すっかり四肢から力が抜けてしまい、立ち上がることも難しい。
色は少しずつ戻ってきているが、今度は耳鳴りが酷い。
そして、自然と涙があふれてきた。
嗚咽が漏れだし、間もなく私は両手で顔を覆う。
それでも全てを塞ぎ止めることは出来ない。
さっきの邂逅で記憶が呼び戻され、トラウマが蘇る。
自分ではどうしようもない過去を思い出し、胸の奥に氷の塊を詰め込まれたような冷たさを感じて。
「――蓮、くん」
手のひらに残された僅かな温もりが手繰り寄せた名前を呟いて、私はその寒さを耐えるように腕を擦り合わせた。
■
夏祭りの翌日、木曜日。
その日の悠莉は、明らかに様子がおかしかった。
魂が抜け落ちてしまったかのように悠莉の視線は焦点があっておらず、ぼんやりと虚ろだった。
本も読まなければ授業に集中している様子もなく、普段が優秀なだけに教師から困ったように注意までされていた。
昼食にも誘ったが、「今日は遠慮しておきます」と断られ、どこかへ消えてしまう始末。
涼太と美鈴に聞いても、思い当たる節はないとのことだ。
それは俺も同じだったが、なんとなく聞ける雰囲気ではないことを感じながらずるずると時間だけが過ぎて、放課後。
普段は俺よりも先に教室を出て図書室で待っている悠莉が、まだ自分の机の椅子に座っていた。
やっぱり、おかしい。
断言できる。
「……悠莉、行こう」
横からそっと声をかけると、緩慢な動きで悠莉が振り向いた。
――その瞳は、涙に濡れていた。
つぶらな瞳が、ゆっくりと俺を映す。
瞳の奥にあったのは風邪を引いていたときに見たものよりも深く濃い、寂寥。
あまりに不釣り合いな感情に息が詰まり、伸ばす手が止まってしまう。
けれど、それを強引に伸ばして、悠莉の手を掴んだ。
「図書室に行こう」
消えてしまいそうなほどに希薄な気配の悠莉を一人にはしておけなかった。
今手を伸ばさなかったらどこかへ消えてしまうのではないかという確信めいた予感を、ひしひしと感じていた。
それだけを避けたい一心での行動だったが、悠莉は静かに頷いて立ち上がったのを確認し、安堵を覚える。
悠莉を急かさないように、ゆっくりとした足取りで図書室へと向かうのだった。




