2 青春なんて
「ただいま」
なんとか雨が降り直す前に帰宅を成功させて扉を開けると、そこには濡れ鼠になった中学生の妹――楓が、頭をタオルで拭いている姿があった。
普段はポニーテールにしている黒い髪は降ろされ、雨に濡れたのか絶妙な光沢を帯びている。
すっかり濡れた制服が肌に張り付いていているのに、楓は呑気に髪を拭きながら視線を上げる。
「あ、お兄ちゃんおかえりー。傘忘れちゃって大変だったよー。待つのもめんどうだったから走って帰ってきちゃった」
「外、もう降ってないぞ」
「ええーっ!? もしかして濡れ損!?」
そんなのないよー、と気落ちしたような声を漏らしたものの、すぐに気を取り直して、
「まあ、雨も滴るいい女ってことで」
「水も滴るいい女、な」
「そうとも言うかもしれないねーっ。私、シャワー浴びてくるから。濡れたままだと気持ち悪いし。お兄も入る?」
「誰が妹と一緒に入るか。さっさと行け。風邪ひくぞ」
「はーいっ」
騒がしいやり取りを終えて、楓が脱衣所の方へ消えていく。
特に濡れなかった俺は自分の部屋にいって楽な部屋着に着替え、喉を潤すためにキッチンへ。
聞こえてくるリズミカルな包丁の音と、若干音を外した鼻歌。
その発信源は母――泉だ。
もう40歳は超えているというのに見た目だけは若い母は、夕食の準備をしているようだった。
大根をいちょう切りにして、湯が煮えた鍋に入れていく。
味噌汁だろうか? 完成まで時間がかからなさそうだ。
「母さん、ただいま」
邪魔にならないように声をかけると、すぐに振り向いて、
「あらおかえり。いつの間に帰ってきたの?」
「楓と同じくらいのタイミング。あいつは風呂だけど」
「濡れながら帰ってきたのね。蓮は大丈夫だったの?」
「止むまで雨宿りしてきたから平気」
冷蔵庫から冷えた麦茶をコップに注いで、一杯飲み干す。
もう一度麦茶を注いで氷を入れたコップを持って部屋に帰ろうかというタイミングで、母さんが「ねえ」と声をかけた。
「なんだか、今日は気分が良さそうね。何かいいことでもあった?」
「いや? 急にどうしたの」
「なんとなく表情がいつもより明るいように見えたから。あ、もしかして彼女でもできた?」
「出来てないし作る気ない」
「素直じゃないわね~。高校生なんだから、少しくらい青春しなさいよ。それと、あたしが早く蓮の彼女をみたいんだから」
「……ご飯できたくらいに降りてくる」
何を言っても無駄だと悟り、母さんから逃げるように自室の扉を閉める。
サイドテーブルにコップを置いて、飲むことなくベッドへ仰向けに寝転がった。
目元を腕で覆い、深い息が漏れる。
青春なんて、俺にはもう望めない。
バスケの試合中に脚を故障し、医者からも続けるのはやめた方がいいと診断を受けて、俺は春先にバスケ部を退部。
以来、自分でもわかるくらい、何事にもやる気が出なくなった。
勉強も、もちろん好きだったスポーツも。
元々微妙だった色恋沙汰は置いておくとして、楽しいと感じない日々が増えた。
友人も離れて、今も話してくれるのは二人だけ。
最近では授業も頭に入らず、小テストの点数も悪くなってきた。
期末試験が控えているのはわかっているけど、解決策は見つかっていない。
「……どうしろってんだよ、ほんと」
思わずついた悪態へ返事をするように、コップの氷がからんと音を立てた。
翌日。
ホームルームまで五分くらいの猶予を残して、俺は登校した。
今日の天気は昨日の雨が嘘のような、雲一つない快晴。
もしかすると、まだ六月中旬なのに梅雨が終わろうとしているのかもしれない。
自分の席に座って背負っていたリュックを降ろし、一息ついたところに二人の生徒が近づいてきた。
「よっ、蓮。昨日の雨凄かったなー。ずぶ濡れで帰ったぜ。お前も傘持ってきてなかったよな」
「おはよう、涼太。俺は雨宿りして止んでた時に帰ったから濡れなかったけどな」
「まじかー……タイミングが悪かったかー」
悔しそうに顔を手で覆いながら大袈裟にリアクションを取るのは、俺に残った数少ない友人――榊原涼太。
明るい性格でクラスの盛り上げ役としても知られる涼太は、俺の事情を知っても変わらず接してくれている。
茶色がかった短髪と、茶目っ気のある目元。
しゅっとした輪郭と整ったパーツが配置された顔はイケメンと呼んで差し支えなく、校舎裏に呼ばれたことは数えきれないとは本人の言。
まあ、それらは全て断ったのだが。
その理由が――もう一人、美鈴紗那だ。
「遅刻ギリギリよ、楠木。もう少し余裕を持った方がいいんじゃないの?」
凛としていて、どこか棘を感じさせる声音。
胸の前で腕を組みながら言い放つ表情は冷淡な印象を与えるが、それは美鈴の意図するところではない。
切れ長な目元、長い睫毛を瞬かせながら、俺の顔を見て薄く笑みを浮かべている。
可愛いよりは美しいという言葉が似合う美鈴がもう一人の友人であり、涼太が何度も告白をしてやっと射止めた彼女だ。
「間に合ってるんだからいいだろ、美鈴」
「遅刻したら指さして笑ってあげる」
「そこは助けてくれよ」
「嫌。安全な場所から眺めるのが楽しいんだから」
ケラケラと笑う美鈴だが、その笑顔に険悪な雰囲気は感じない。
冗談でもないのは確かだけど。
そんな俺たちを……正確には、俺を見つめる一人の視線に気づく。
淡い緑色の双眸を俺へとロックしていたのは、三つほど席が離れた本倉だ。
じーっと目を逸らさず、俺を凝視していた。
表情自体は平坦だけど、それが余計に不安を煽る。
……なんか怒らせるようなことしたかな。
昨日、転びそうになったのを支えたことを根に持たれているのかもしれない。
緊急時で不用意に触れてしまったことは認めるけど……それは気にしないでと言っていたはずだ。
だとしたら……なんだ?
「蓮、どうかしたのか?」
「ああいや、なんでもない」
涼太の声で我に返ると、ホームルームの時間を知らせるチャイムが鳴った。
それが雑談終了の合図になり、今日も一日が始まった。