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序曲

私ごときが書いて良いものか。

少し迷いました。

それでも、思うまま書いてみました。

それではお楽しみ下さい!


時は孟春。

新しい時の訪れの中、影は知らず知らずに迫っていた。

跫音きょうおんは確かに聞こえていた。

しかし、音が聞こえぬ様に塞ぐ事は出来ても、耳を澄ます事は容易ではない。

おのが暴力で成り上がらず、智を身につけた生物は、まるで全知全能かの様に己が知識を疑わない。

我々に間違いはないと。

己が無知を認めない。

我々に知らぬ事はないと。

故に、この世で最も恐ろしいものの一つに「名前のない毒」というものが挙げられる。

科学技術の進化と共に確実に進歩した科学をもってしても、毒物検査は既存のものと比較して行われる。

知らないものは知らない。

なんでも知っているわけではない、知っている事だけ知っている。

当たり前の事なのに。

始まりは既に手遅れになった頃、更に言ってしまえば終わった時に設定されるもの。

確かにあったはずの始まりは、最盛期に意識され始め、終わった時、落ち着いた時に定義付けされる。

気付かれていなかった、気にされていなかったが、あれが全ての始まりだったと思い起こされる。

現実に思い起こせる人が亡くなった頃に、伝聞推定で赤の他人が思い起こす。

その過去は華やかか。

否。

自らの判断の過ちに気付いた時、振り返ってみると広がっているのは荒野かも知れない。


潮風薫る港町、関古省北部。

三方を低い山に囲まれ、一方を広大な海に面した地形。

ここには地方最大級の市場があり、様々なところから海の幸や山の幸が集まってくる。

人口は60万人ほどの都市だが、年間に訪れる観光客他の人数は優に三十倍を超える2139万人。

かつて、五世紀ほど前には国政の中心地であったが、その後の政変で政治の中心地が移り、次第に商売の中心地へと姿を変えていき、現在に至る。

市場の存在のみならず、かつて為政の地であった事による歴史的な価値から観光地としても有名で、街中は平日でも賑わっている。

街の財政面を考えれば、観光客や商業人が大勢訪れるのは良い事なのかも知れないが、生活する側からしてみれば溜まったものじゃ無い。

今日も朝からバスの乗客率は300パーセントを軽く超えていると推測される。

ごったがえしたバスの車内。

楽しそうにこのあと一日の予定を話す人々に押しつぶされるように佇む一人の青年。

表情からは何も感じられない。

それもそのはず。

毎日繰り返される「人間缶詰」に毎度何かを感じていては、朝の数分で一日の体力を使い切ってしまう。

途中、名所や市場前を経由してバスは進んでいく。

始発の駅で詰められた缶詰は終点に向かうにつれてすっからかんになっていった。

終点一つ手前。

この時にはすっかり座席に余裕が出来ている。

座っていた青年は読んでいた学校の参考書から目を上げて、近くの降車ボタンを押す。

軽い音と主に何語かも分からない声の様な音が聞こえる。

運転手の気だるい声に癒される人は果たしているのだろうか。

青年を捨てるように降ろすと空き缶は終点まで運ばれる。

荷物を背負しょい直すと、青年は静かに目の前に立つ大きな建物へと足を進めた。

「おーい、龍文ロンウェン!おはようさん」

途中、背後から声を掛けられて、青年は振り向く。

「おう、彩月ツァイユエ。おはよう」

声の主は龍文より小柄な青年だった。

長い髪を棚引かせながら走ってくる。

彩月は龍の横に立つと、並んで歩き出した。

「うー、寒い!すっかり冬って感じね」

「まぁ、もう12月も半ばすぎ。学校も今日明日で終わって年末年始休みだし」

「ほうじゃねー。しばらく会えなくなると思うと悲しいわぁ」

「またまた。嘘ばっかり」

当たり障りのない雑談をしながら二人は講義を受ける部屋に到着すると、既にいた知人に挨拶して席に着く。

間も無く始まる講義は教室が人でいっぱいいっぱいになる様なものではないが、いつもより人が少なく感じた。昨日は休日だったし、人によっては今日休めば三週間連休に出来るので出席率が低いのも頷ける。

ロンは深く考える事なく、机に抗議の参考書を広げた。

その後、教授が入ってきて定型的な語りの最中にちらほらと入場してきたものがいたものの、大勢たいせいは変わらなかった。

講義を終え、教授の退出を目だけで送ると、凝り固まった身体を伸ばして気持ちほぐして立ち上がる。

無意識のうちに口が大きく開いてしまった。

誰にも見られていないだろうが、恥ずかしい。

「今日は何だか人が少なかったな。パッと見、普段の70パーセントはいなかった様な気が」

「ほうねぇ。少なかったね。まぁ、長期休み前の楽単講義なんてそんなもん!」

彩月は「楽単講義」などと言っているが、これが楽単なのは誰のおかげだ、今学期はノート見せてやらんぞ。

なんて心で考えながら、友人を引き連れて学食へと向かった。


学生数に絶対合わない、明らかに少ない席を巡る椅子取りゲームに余裕で勝利し、恒例の日替わり定食を前にして踏ん反り返って連れを待つ。

当学食の人気ナンバーワンはラーメン。

選べる三種の麺のみならず、塩、醤油、味噌のスープもこだわっておきながら、値段はなんと350円。

安かろう悪かろうの概念の破壊。

美味の詐欺。

龍文以外の奴ら、連れ全員がラーメンを選択するほどの人気だ。たった二日間食べなかったというだけなのに、ラーメンを待つ列の人々はまだか、まだかとそわそわしている。

因みに不人気ランキング断トツ一位は、ラーメンの列を冷ややかな目で見ている龍文の目の前にあるもの。

日替わり定食。価格は400円。

値段は決して悪くない。中身が問題なのだ。

日替わり定食といいながらも、曜日毎に何が出てくるか決まっている事が学食では一般的だ。

しかし、ここの学食は大雑把な品・ジャンルすら定まっていない日替わり定食。

言わば、日替わり定食という名の実験料理。

十中八九、不味い。

しかし、裏を返せば一、二割は美味しいという事だ。

この僅かな可能性で遭遇する美味しい定食は安定したラーメンの美味さを超える。

ただ、龍文にとって日替わり定食は博打の食事などではなく、普通に美味しいものである。

不人気故に長蛇に並ばず、食券を出せばすぐ提供してもらえ、量もそこそこ。コスパが良い。

連れ達を眺めて待っていると、龍文の隣の席に日替わり定食が置かれる。

「お隣、失礼します」

「あぁ、おはよう。紅佳ホンチエちゃん」

返事を待たずに、日替わり定食の主は席に着いた。

彼女は龍文の一つ年下、後輩にあたる。

毎日のように日替わり定食の列で一緒だったので雑談を交わしていたら、専門領域が全く一緒だと知り、その縁で仲良くなって、それから一緒に昼食を摂る仲まで発展した。

断っておくと、龍に紅佳への恋愛感情はない。

相当の本好きなようで、常に本を携帯し、隙間時間にはずっと読んでいる。

社交的という言葉は残念ながら似合わない。

基本、会話に参加する事はないが、話しかければ微笑んで返してくれる。

本を読む紅佳の横顔を龍文は美しいと思っている。

今日は珍しくマスクをつけている。

薄い紅色のマスク。

本を読む彼女に龍文は向き直る。

「どうしたの。風邪でも引いた?」

「はい、少し。毎年この時期になると引くんです。寒暖差アレルギーですかね」

本を軽く閉じて、目線を龍文に向けて答えた紅佳の声は少し枯れていた。

「まぁ、あんまり無理しないでね。お大事に」

そうこうしているうちにようやくラーメン組がやって来た。

「お待たせ~。おはよう、紅佳ちゃん。え、風邪?大丈夫?」

「おはようございます。はい、毎年この時期恒例の。大丈夫です」

「そう。声は全然大丈夫そうじゃないけどね」

「早く食おうぜ、腹減ったよ。ラーメンも伸びちゃうし」

「全く。私達が遅くなったんでしょうが。特に江光チャンクワン!あなたが時間のかかる味噌ラーメンいつも頼むからどんだけ待たされてるか。たまには待っててくれてる紅佳ちゃんの事も考えなよね。」

江光と呼ばれた男は待ちきれず、既にラーメンをすすっており、彩月の話なんて耳に届いていない。

龍文と江光は十年来の付き合いで初等教育時代からずっと仲が良い、親友とも言える。

講義を共に受けている友人、十数人と学食までは来るが、だいたい毎日この四人で一緒に食べている。

江光と彩月の不毛なやりとりに苦笑いしながら他二人も箸を手に、定食を口に運んだ。

紅佳は少し顔を曇らせながら、どんどん定食を減らしていく。

……今日はハズレだったようだ。普通に美味しい。


午後の講義も終え、外が薄暗くなって来た。

まだ晡時ほじ、申の刻だというのに夜が垣間見える。

急激に暗くなる前に早く帰ることにした。

急ぎ足で帰路に就く龍文は、ふと視線の端に知った顔を見た。

薄い紅色のマスク。

昼食を共にしている本好きの後輩、紅佳だ。

廊下の長椅子に横たわっている。

物騒な。

いくら学校構内とはいえ無警戒に、しかも女子が、人が大勢行き交う廊下で寝ているなんて。

「紅佳ちゃん。おはよう。……えっ。大丈夫か?」

暢気のんきに声をかけた龍文だったが、彼女の表情を見て態度を一変させた。

明らかに顔色が悪い。

「あぁ、龍先輩。だ……大丈夫です。少し怠いんで横になってただけです。もう少し休んで楽になったら帰りますから」

口では大丈夫と言っているが、絶対に大丈夫ではない。

生気の薄い表情。目は虚ろで、服の上からでも分かるほどの高熱。

確か紅佳は地方出身の一人暮らし。

家に帰ってもただ休む事しか出来ない。

せめて、病院には行った方が良い。

だが、本人が大丈夫と言っている以上、龍文には何も出来ない。

そこへ助け船が漂流して来た。

「おお。龍文、紅佳ちゃん。帰るところ?ん、どうしたの?」

午後は違う講義を受けていた彩月だ。

同性ならどうにでもなる。

声をかけて来たときの彼女はなかなか暢気なものだったが察しは良い。

「紅佳ちゃん、病院行った方が良いよ。と言っても一人で行けそうには見えないなぁ。あ、でも……私、バイト……」

使えない。だが、休めともなかなか言えない。

「龍文、どうせ暇でしょ?暗くなる前に早く帰って、書斎で本に没頭しようとか考えてたんだろうし。」

前者は完璧に図星。流石。

だが、残念ながら後者はハズレだ。

「まぁ、暇だよ。私で構わなければもちろん連れて行くよ」

「え……でも、先輩に悪いですから。一人で行けます」

弱々しく反論するする紅佳の肩に彩月は手を当てる。

一瞬黙った。あまりの高熱に動揺したのかも知れない。

「……体調悪い時は遠慮なんてしなくて良いの!龍文なんて扱き使ってやりなさい」

少し考えるように紅佳は目を閉じると軽く頷いた。

「じゃあ、龍文、あとはよろしく。あ、事後報告も忘れずにね」

「はいはい、バイトガンバッテクダサイネ。」

果たして助け船と呼んで良いのか。

皮肉にも嵐のように去っていった彩月は一先ひとまず忘れて。

「紅佳ちゃん、起き上がれそう?」

「あ……はい。」

ゆっくりと立ち上がった紅佳はその場に立っている事も困難な程フラフラだった。

ここから病院まで歩かせるのは無理だ。

「とりあえず道路まで背負って、そこからタクシーで病院に向かおう。さぁ」

向けられた龍文の背中に紅佳は戸惑う。

「え……でも……」

「遠慮はいらないって。立ってるだけでも辛いでしょ。さぁ」

背中に寄りかかって来た紅佳を龍文は背負う。

幸い、周りや近くには誰もいない。

急ぎ足で外に出て、長椅子に紅佳を座らせるとタクシーを呼ぶ。

すっかり日は沈んだ。すぐに暗くなる。

あまり待たずにタクシーはやって来た。


到着した病院はここらでそこそこ大きな病院。

定かではないが、学内で急病人が出たらここに運ばれるはずだ。

主治医はいるか尋ねると地元の医者の名前を挙げられたので、近いし大きいこの病院の名前を運転手に告げた。

待合室は席が空いていないほど混雑しているのに、聞こえてくる音は咳や鼻をすする音と、院内アナウスのみ。

異様に静かな空間。

大半が老人で、どこぞの若者みたいに声を荒げて会話する事がないからだろう。

例外は初等教育生と思しき子供とその親。

ただ、子供の具合が悪いのに、騒ぐ親なんてそうそういて欲しくない。

龍文、紅佳と同年代のものは皆無。

強いていえば、受付の女性が最も年齢が近いだろう。

思えば、病院なんて何年振りだ。

いつの間にか風邪なんかでは病院に行かなくなった。

保険証を預かり、代理で受付を済ませる。

初めての病院は何かと面倒だ。

今回は健常の龍文がついて来ているから良いものの、ふらふらの患者にアンケートのようなものを書かせるのは如何なものか。

仕方がない。

形式的でも患者一人ひとりに寄り添う必要が医者にはあるのだろう。

仕方がない。

書類を受付に提出して、席の空きがなかったので壁際の廊下の床に座らせていた紅佳の横に座る。

観念したのか、それとも意地を張る余裕すら無いのか、龍文の肩に紅佳の頭が乗っかる。

そこに頭があると無性に撫でてしまいたくなる性分だが、今はそんな状況では無いような、そんな状況のような。

えい、ままよ。

頭を撫でると気持ちだが、荒かった息が穏やかになったと思う。

そう、思い込む事にした。

院内アナウスで呼ばれてもグッタリとしたままだったので、声を掛けて立ち上がらせて、並んで歩いた。

診察室の医者の目の前の丸椅子に腰掛けさせて、龍文はドアの前に立った。

一体、周りにどの様に思われているのか気になってしまうところが悪い癖だ。

「お兄さん、宜しければそこにある椅子にお座りになって下さいね」

中年の女性医師が言った「お兄さん」はあくまでも形式的なもので、実兄と思われているわけでは無いだろう。

そんなどうでも良い事を考えているうちに診察が始まった。

「9度6分の熱。乾いた咳。そして全身の倦怠感。うーん、風邪……ですかね。普段、風邪引いた時などには熱って出ますか」

医師の目線は龍文を向いていたが、ただの後輩が風邪を引いた時どんな症状なのかなんて知らない。首を傾げ、視線を紅佳に向けるとゆっくりだが首を横に振っていた。

「そうですか。少し違和感があります。念の為、検査したいと思いますので咽頭ぬぐい液を採取させて頂きますね」

最後、紅佳の喉の奥に長い綿棒を差し込んで診察は終わった。

状態に慣れたのか、先ほどよりかは安定した足取りで待合室に戻ったが、未だふらふらなままで、支えなしでは歩けない。

ちょうど良く一つ席が空いていたので、そこに紅佳を座らせて、龍文は側に立った。

「突然……綿棒を差し込まれて……ビックリしましたぁ」

珍しくホン・チエの方から話しかけて来た。

沈黙が苦しかったのか、話しかけられるほど心には余裕が出来たのか。

「そうだね。あの医者、もっと丁寧に説明してくれても良いのにね」

まだ分からないが、とりあえず一安心。

紅佳もホッとしたのだろう。表情が幾分か明るくなったように思える。

しばらくして受付に院内アナウスで紅佳の名前が呼ばれる。

ふらふらと立ち上がろうとする紅佳だったが、龍文が制止する。

「座って待ってて。」

「で…でも……」

「でもじゃ無い。座って待ってて。」

受付で要件を済ませ、帰りもタクシーを使って紅佳の家まで向かった。

「ありがとうございました」

笑顔で送ってくれたあのタクシー運転手さんは一体、何を思っていただろうか。

考えても仕方がない。考えるようなことでもない。

家の前まで送ったは良いが、結局家では一人だ。

流石にただの仲の良い異性の後輩の一人暮らしの家にズカズカと上がれるほど龍文は非常識ではない。

そんなところに再び助け船。

「御苦労だったね、龍文くん!あとはお姉さんに任せなさい」

さっき連絡した時に異様に返信が早いと思った。

「そちらこそお疲れ、彩月。バイトだったんじゃないのかよ」

買い物袋を両手に提げてニヤリと笑む彩月。少しばかりイラっとくる。

「ええ。だけど、可愛い可愛い後輩ちゃんが体調悪いのにバイト休まない鬼畜な先輩だと思ってた訳?」

ええ。思っていましたよ。

「口に出なくても、顔に出てるよ、龍氏」

やりにくい。だから女子は怖いんだ。

「ほ……ホントに申し訳ありません」

「良いの、良いの!龍文をちゃんと扱き使った?」

「いやぁ、本当に……色々してもらっちゃって……」

「はぁはぁん。なかなかやるわね、龍文」

いや、「なかなか」とは。

「じゃあ、さっきも言った通りあとはお姉さんに任せなさい!」

ここで言われた通り帰っても良かった龍文だったが、「可愛い可愛い後輩ちゃん」の為にも帰る訳にはいかなかった。

「おい、彩月。お前……絶望的に料理下手だろ」

止まる背中。

確実に痛いところを突いてしまったが仕方ない。これは後輩の為である。

「な……なんのぉ話かな?」

隠す事なかれ。

昨年の話である。

友人である龍文、江光両名に「友チョコ」と称して彩月が渡してきたのはマフィンだった。

それはそれは黒く輝くマフィン。

「これは……石炭……もとい、炭素かい?」

間違っちゃいないが、間違えている。

悪気のない江光の一言により、しばらく彩月は「石炭パティシエ」と呼ばれる事となった。

そんな彩月が料理上手とは考えにくい。

「人間の栄養素はタンパク質、糖質、脂質です。石炭では人間、活動出来ませんよ。『石炭パティシエ』殿」

その後ろ姿からも彩月が怒っている事が明らかに分かる。

だが、龍文は嘘を言っていない。本当の事を言っただけだ。

二人のやり取りを呆然と見守る紅佳。

「え……えぇ。何当たり前のことを言っているの。あんなも手伝えば良いでしょ」

「仰せのままに、例のパティシエ殿」

「うるさい、もう黙って!」

振り返る事なく、彩月はどんどん進んでいった。

状況を理解出来ず、ただボーとする紅佳を支えながら龍文も後を追った。


六畳間がふた部屋。

一般的な一人暮らし学生よりかは広々とした生活空間。

と、言っても一部屋はぎっしり本が並んでおり、書斎としての役割しか果たしていない。

紅佳をさっさとベッドに寝かせて、龍文、彩月はご飯を作り始めた。

無難にお粥かお茶漬けが良いだろう。

リンゴなんかがあれば摺り下ろしてあげても良い。

そんな考えだった龍文は彩月がどれだけ他人の介抱に向いていない人だったかを今の今まで知らなかった。

両手に下げた袋の中身はスナック菓子と、脂っこいものばかり作ることが出来そうな食材のみ。

果物どころかゼリーすらない。

「彩月は一体、何を作る気だったんだい」

呆れた龍文に対して、彩月はドヤ顔だ。

「体調悪い時はとにかく食べる!カロリー摂取が重要。だからカロリーの高いものを作ってあげようかと」

理由なんか聞くんじゃなかった。

バカだから風邪なんて引いた事がなかったのだろうか。

「もう良いです。やりますから、スナック菓子でも消費しながら紅佳の様子でも見ててください」

彩月は残念そうな顔をしながらも、弁えてはいる。

大人しく引き下がった。

今から食材を買いに行っても良いが、少し時間がかかる。

仕方がないので紅佳の家にあるものでお粥を作る事にした。

難しいことは何もない。

米、水、塩があれば簡単に作れる。

隣から聞こえてくる談笑をBGMにチャチャっと作ったお粥を持って紅佳の様子を見に行くと、横になってはいたが、やはり起きていた。

彩月は結局、様子を見ていたのではなくずっと話し相手になっていたようだ。

相手は病人。寝かせてあげろよと言いたいところだが、これもまた彩月の良いところであることも否定出来ない。

「お待たせ。ごめん、こいつが頼りにならなかったから家にあるもん勝手に使っちゃったわ」

「いえいえ、気にしないでください。ありがとうございます」

脇に座る彩月に支えられながらゆっくりと起き上がってお粥を受け取ると、息を吹きかけながらゆっくりと食べ始めた。

「食欲はとりあえずあるのかな。一先ず、良かった」

先ほどよりかは顔色が良くなっている様に思える。虚ろだった目もはっきりとしてきた。

紅佳はさほどかからずお粥を綺麗に平らげた。

「大丈夫そうだね。じゃあ我々は食器を片付けたら去るけど、何かあったら遠慮なく連絡頂戴ね。じゃ!」

彩月がまるで自分がやるかの様に言った事を龍文が済ませると二人は紅佳の家を後にした。

「ただの風邪だといいけどなぁ」

「病院じゃ風邪って言われたんでしょ?」

「一応ね。ただ、少し違和感があるとも言ってたから分からんな。なんか問題があったら連絡くるだろうし、大丈夫でしょ。」

龍文と彩月も帰る電車の駅のホームで別れ、家路についた。


日々最悪を想定しながら生きていれば、何事にも動じる事なく対処できる。

何故なら想定以上は起こり得ないから。

だが、最悪を想定しながら日々生きる事は苦痛である。

だから、人間は楽観しながら生きていく。

大丈夫。問題ない。上手くいく。

根拠のない妄言を繰り返し口にして生きていく。

事実、楽観的であれば楽しい事ばかり起こる。

悲観的でいると自然と悪い事ばかりに巻き込まれていく傾向がある。

そんな話もあるにはあるが、前者は悪い事も心の持ち様と説いているのであり、悪いことの根本的解決にはならない。

ならば、悲観的に、常に最悪を想定して生きるとこそが良い様にも思える。

それでも、現実は難しい。

その楽観が時には命取りとなる。

翌日の昼休み。学食に紅佳の姿はなかった。

朝。龍文は家を出る前に紅佳へ一報入れておいた。

この日は授業で会う予定がなかったので、学食で会えなかったら再度連絡しようと思っていた。

昨日夕方から夜の事情を知らない江光は、紅佳が今日は休んでいると知って、昼休み中、ずっと心配の言葉を呟いていた。

「大丈夫だよ、ただの風邪だって。昨日のうちに病院に行ったし、薬も貰った。明日くらいにゃ、何事も無かったかのように復帰してくるさ」

口では何とも無いようなことを言っておきながら、龍文の心の中は不安でいっぱいだった。

何故なら、昼に送ったメッセージはもちろん、朝送ったメッセージすら既読がついていなかったからだ。

ただ寝ているだけ。ただ寝ているだけだ。

第一、大学生が数日未読無視するなんて珍しい事じゃない。

しかも、今回の相手は一人暮らしの体調不良者。

連絡が取れないのは仕方がない。仕方がない。


 昨日に比べ、講義が一コマ少ない今日は早めの帰宅が出来る。

空は昼模様。雲ひとつない快晴で、夜に向けて地面を温め続ける。

結局、紅佳からメッセージの返信が届くどころか、既読すらつかなかった。

「龍文く〜ん。お疲れやまです!」

俯いて歩いていると、先ほどまで同じ講義を離れた席で受けていた彩月が声を掛けてきた。

「この後ヒマ?ヒマだよね」

決めつけられるのは癪に触るが、残念ながら事実。

何の言葉もございません。

「もちろん、紅佳ちゃんのところいくでしょ?」

何がもちろんだ。

確かに行こう考えていたのは事実だが、ただ仲の良い異性の後輩が一人暮らししている家にそんな気楽に押しかけて良いものじゃない。

沈黙していると、彩月から口撃が来た。

「何?なんか意識しちゃってんの?一回押しかけてんだから、二回も三回も変わらんでしょ」

言われてみればその通りである。

だが、認めたくはない。

認めてしまったら負けた気分になる。

「昨日から紅佳ちゃんから連絡ないんよねぇ。何回か連絡したけど。心配やし。一応様子見に行こいや」

肯定も否定もする事なく、龍文は彩月の後ろを歩いてついていく。

あーだこーだ考えているうちに紅佳の家前まで来てしまった。

龍文は罪悪感解消のために遅まきながら一報入れる。

朝のメッセージから既読がついていない。

立ち止まる龍文を他所に彩月はどんどん進んでいく。

紅佳の家の扉前に並んで立つと、彩月がインターホンを鳴らした。

これで軽快な返事が返って来ればただの杞憂となる。

しかし、一向に反応がない。

今度は龍文が鳴らす。しかし、反応はない。

「やっぱり寝てるだけだったのかねぇ」

言い出しの彩月はそんな事を言って立ち去ろうとしたが、龍文の足は動かなかった。

何となくとしか言いようがない。かっこよく言えば第六感が告げている。

嫌な予感がする。

人目を憚らず、扉にぴったりとくっつき耳を澄ます。

尋常じゃない咳の音。

苦しみ喘ぎ、叫ぶ声にも聞こえる。

「いや。少しまずい状況かも知れない」

まともな根拠なく、龍文の体は動いた。これは珍しい事である。

空いている筈もないのにドアノブを何度も捻って開けようとする。

もしかして、と思い、龍文は紅佳宅のポストを漁る。

数枚のチラシに埋もれて、有った。

スペアキー。

無用心だが今は良い。

「紅佳、龍文だ。開けるぞ」

キーを使って扉を開く。

瞬間に聞こえてきたのは龍文が扉越しに聞いた苦しみの咳。

これは風邪のものとは思えない。

「彩月、救急車だ」

「お……おう」

龍文は家の中に上がると、紅佳の元へ急いだ。

部屋にいた紅佳は寝ていたベッドから落ちて、床に転がったまま苦しみながら咳き込んでいた。

吐血などはしていない。だが、尋常ではない咳。

果たして息が出来ているのか。

龍文と彩月の登場に気づきはした紅佳だったが、咳が止まらず声が出せない。

駆け寄った龍文は気休めにもならないかも知れないが、身体を支えて背中をさすってやった。

やはり気休めにもならないようだ。楽になる様子はない。

都会の救急は優秀ですぐに到着した。

龍文は救急隊に紅佳と龍文、彩月の関係と昨日受診した病院を告げ、付き添いは彩月に任せて別道で病院へと向かった。


 龍文が病院に到着した時にはまだ紅佳は処置中だった。

ただの風邪の症状だった。命に別状はないだろう。

そうは思っていても、苦しんでいた紅佳を思えば何か重大な病気かも知れないと疑ってしまう。

昨日と比べて空きがある待合室で龍文と彩月は俯きながら報告を待った。

 龍文の到着からしばらくして、昨日紅佳を診断した医師が数名引き連れて二人の元へやってきた。

「紅佳さんの関係者の方ですか」

「はい、一応。大学の先輩ってだけですが、付き添いです」

龍文の答えを聞いて、医師は連れと小声で何か話し合う。

「あの……紅佳ちゃんは大丈夫何でしょうか」

話し合いを遮るように彩月が医師に尋ねる。

「あぁ、すみません。症状は落ち着きました。いま現在は命に別状はありません」

龍文と彩月は一安心するが、医師の言葉には何か含みがあることに気づく。

「いま現在は、というのはどういう意味で」

「えぇ。その事でお二人にお話がありまして。こちらを着けて、ついてきてください」

手渡されたのは医師たちが着けている青い不織布マスクだった。

二人は一体何の事やら分からぬまま、手渡されたマスクをつけて、医師と病院関係者に囲まれて別室に案内された。

 案内された部屋は会議室のような部屋で、大きな机がいくつか並び、周りを囲むように椅子が置いてある。

「こちらで少々お待ち下さい」

医師と病院関係者は二人を案内すると部屋を出て、医師はどこかへ、病院関係者は廊下で固まってまた何か話し合っている。

状況が理解出来ない。龍文も彩月も口を開かず、ただ待った。

医師が戻ってくると、一緒に年配の男性医師がいた。

「どうも。当院の救命救急科長です。早速なんですが、お二方の後輩、紅佳さんに関してですが、ご両親は」

龍文、彩月二人ともただの大学の先輩というだけで、紅佳について詳しくない。

「存命のはずです。ただ、連絡先などは分かりかねます。地方出身で一人暮らし……という事しか」

「そうですか。分かりました」

深刻そうに聞くので重大な事と思いきや、分からないと答えても案外あっさり流された。

分からないものは仕方がないという事か。

「次に、紅佳さんに風邪のような症状が出始めたのはいつだか分かりますか」

龍文は記憶を振り返る。

「私どもが知ったのは昨日です。ただ、一昨日には会ってないので分からないです。少なくとも三日前には症状がありませんでした」

「なるほど。それでは、一昨日、紅佳さんが外出したかどうか分かりますか」

龍文は休日の、それも異性の後輩が何をしているかなんて分からなかったが、彩月は紅佳とS N Sで繋がっていた。

「一昨日はずっと家で本を読んでいたとS N Sに投稿されていたので。紅佳は本に没頭すると食事も忘れるような子ですから、一切外出していないと思います」

「ありがとうございます」

ここまでの質問、通常の救急搬送患者の親族以外の付き添いがされてもおかしくないような質問ばかりだ。

マスクを渡し、わざわざ別室に案内した理由が見えてこない。

一体、何が起こっているのか。

「話を聞く限り、昨日はお二人とも紅佳さんと会っているようですが、他に会った人、会話をしたり、一緒に食事をしたりした人はいますか」

「会話」と「食事」。この言葉から何を警戒しているのか、素人ながら何となく分かった気がした。

「普段は落ち着いた子なので、講義などで誰かと会話はしていないと思います。なので、私ども二人とあともう一人、一緒に食事をして会話した人だけだと思います」

救命救急科長と横にいた医師の表情が曇る。

「そのもう一方ひとかた、こちらに読んで頂く事は可能ですか」

「あ……えぇ。出来ますよ」

「それでは、必ずマスクを着用して当院に来るよう伝えていただけますでしょうか。」

「わっかりました。でも……何故」

了承し、尋ねた龍文を救命救急科長は上目遣いでじっと見つめ、静かに息を吐く。

「それはもう一方が到着されてから、紅佳さんの症状と合わせてご説明します。ご連絡して頂いた後もしばらくこちらの部屋で待機して下さい。他の場所へ移動する際には必ず外に立つ職員に声を掛けて指示に従って下さい。よろしくお願いします」

救命救急科長と医師が部屋を出て行った後、龍文は江光に電話した。

「もしもし。龍文どうした」

「おう、江光。実は紅佳が救急搬送されて。診てくれた医者がお前も呼んでくれって言ってて。必ずマスクを着用して病院まで来てくれるか」

「えぇ!紅佳大丈夫なのか」

「いま現在は命に別状ないそうだ。詳しい話はお前が来てかららしい」

「おう、分かったわ。すぐ向かう」


 江光が到着すると、龍文と彩月が待つ部屋に案内された。

「龍文、彩月。一体何が起こってるんだ」

「分からん」

「私たちもこれから説明を受けるから」

あまり待つ事なく、再び救命救急科長と医師が現れた。

「揃ったようなので説明させて頂きます」

救命救急科長はゆっくりと深呼吸して息を整える。

「本日救急搬送された紅佳さんですが、肺炎の症状があります。ただ、現在のところは明確な原因が分かっておらず仮説段階です。その仮説と言いますのが、未知のウイルスによるものというものです」

肺炎。身近なもので言えばマイコプラズマ肺炎だろうか。

しかし、これはマイコプラズマによるもので、原因不明とはされない。

「実は昨日紅佳さんから採取した咽頭ぬぐい液から未確認のウイルスと思しきものが発見されました。お三方にお集まり頂きましたのは、この未確認のウイルスに感染している恐れのある濃厚接触者だからでございます。こちら、何と言っても未確認ですから。何を引き起こすのか、感染力はどの程度なのか全く分かっておりませんので、何とも言えませんが」

これまでの対応の理由、問答の理由に関してはすんなりと理解出来たが、到底すんなり受け入れられる事実ではない。

未知のウイルスに感染しているかも知れないなんて。

「それは……感染しているかどうかはどうやったら分かるんですか」

「潜伏期間なども不明です。いま現在症状がないからと言って感染していないとも言えません。いま検査しても感染しているにも関わらず、陰性と出る可能性もあります。医者としてこんな事を言うのは無責任かも知れませんが、全くもって分からない状況であります」

三人は言葉を失った。

実感が伴っていないのか。事実に絶望しているのか。

龍文に言える事はたった一つだった。

「分かりました。紅佳をよろしくお願いします」

この作品を書き始めたのは今年の二月。流行なんて想像もしていなかった時期です。

当時の方向性としてはいわば「他人事」として書こうとしていました。

しかし、現状を思えば分かるように「他人事」ではない。

方向性を考え直しました。

本来なら、一本完結で書くつもりでしたが、柔軟に対応するために何本かに分けて投稿する事としました。

今日は「序曲」

始まりの時です。

早くこの物語が書き”終わり”ますように……。


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