友人は良いもの
気がつけば昼。大きく伸びをして固まりきった体をほぐす。コキコキというコミカルな音が響き、体から力が抜けた。
時が経つのは早いもので、特に満足することもなかったのだが、チャイムが鳴ってしまえばそこで授業は終わり。ゲーム三昧によって疎かにしていた日頃のしわ寄せだった。
ああ、勘違いしないでほしい。俺が満足しなかったのは、もっと勉強したかっただとかそんな真面目な話ではなく、睡眠時間の話だ。そう、大変不真面目な問題なのだ。
普段はゲームに夢中になって睡眠が疎かになってしまいがちで、授業中に寝るしかないのだ。
おかげでノートによだれがべっとりついてしまった。
「昼休み……っと、後でプリント取りにいかねぇと」
授業態度がアレなので、提出物とテストで成績を取るようにしているのだが、今日俺は古文の宿題プリントを家に忘れてしまっている。
以前もプリントを忘れたことがあったが、あの時に「休み時間に職員室まで取りに来てくれたらセーフにしてあげる」と古文の先生に言われたため、今回は若干の面倒くささを己への罰として、職員室へ取りに行くことにした。
「如月、古文のプリント見せてくんね?」
隣の席から、友人である山羽隼人の声が聞こえた。
山羽隼人。幼馴染はおろか、同じ中学校の知り合いすらいない俺にとって高校生で初めてできた友人。結構気さくないい奴で、入学式の日に俯いて黙りこくっていた俺に唯一声をかけてくれた。
どうやら隼人もプリントをやっていないらしい。
「悪い、俺も忘れた。今から職員室に取りに行くんだ」
「マジか。むう、どうしようか……つかお前、取りに行けんの?」
「ん? なんで?」
「いやお前、番長に絡まれるだろ」
ああ、そうか。そろそろ来る頃合いか。
周りを見渡せば、机を引っ付けて弁当箱を広げている他の生徒たちの様子がおかしくなった。妙にそわそわしている。というか、俺のことをチラチラ見ている。
隼人をはじめとした我がクラスメイトたちは、陰キャオタクな俺のことをよく知っている。なぜかと言えば、簡単な話、姫柳さんのせいだ。番長の隣にいるというだけで、目立ってしまうのだ。
さらに言えば、俺はその姫柳さんにいじめられていると思われている。これも姫柳さんのせいだ。
いくらなんでも、第一印象が悪すぎた。引きずられて登校するって、いじめられているとしか捉えられないだろう。俺もこれからいじめられるんだろうなって思ったもん。
まあでも、今はそんなこと全然心配してないんだけども。
「まあ、大丈夫だろ。ちゃちゃっと行ってくるから――」
「如月はいるか!?」
鼓膜を本気で破りにくる破裂音をたてて開けられた教室の引き戸から、黒髪ヤンキーが姿を現した。言わずもがな、姫柳さんだ。
できるならば、もう少し静かに登場してもらいたいものだ。
番長の登場に、生徒たちの憩いの場と化していた昼休みの教室が凍りつく。何度同じことが起こっても、そう簡単には慣れないらしい。
「はいはい、今行きますよ〜」
「おい、如月」
気まずくなった教室からさっさと退散しようと弁当箱を取り出した時、隼人が俺にそっと耳打ちした。
「なんか困ってることがあったら言えよ。番長相手に何かできるかと言われたら無理かもしれないけど、できることはする。俺、お前がいなくなったら嫌だぞ」
「……へっ?」
――な、なんだと? コイツ……なんてイイ奴なんだ!?
生まれてこの方、お前がいなくなったら嫌だぞなんてセリフを言われたことがなかった俺は、隼人に危うく惚れそうになった。男じゃなければ既に堕ちていたかもしれない。
「……お前が友達で本当によかったよ隼人。ありがとう。なんかあったら頼むわな」
それだけ言い残して、教室から出た。
「おい、どうした如月。そんなニヤニヤして。なんか良いことでもあったのか?」
「いえ、別に。友達っていいな〜って、再確認しただけですよ」
「そ、そうか。そんなによかったのか……ふふふ」
嬉しさを抑えきれない俺の答えに、ほんのり頬を赤らめて俯く姫柳さん。
いや、アンタのことじゃないんだけど……まあ、嬉しそうだからいっか。
それから俺は、姫柳さんに職員室に寄る旨を伝え、如月さんは先に屋上へ行ってもらった。
「私もついてく」と駄々をこねられかけたが、なんとか説得した。
姫柳さんは只でさえ教師たちに目をつけられている不良生徒だ。職員室になんて行ったら、お礼参りか何かと勘違いされかねない。いや、百パーセント勘違いされる。
拗ねたように口を尖らせて階段を上っていく姿が、なんだか可愛く見えてしまったのは秘密だ。万が一本人に知られたりでもすれば、指が飛ぶ。下手すりゃ命が飛ぶかもしれないからな。
♢♢♢
「はい、どうぞ」
カタカタとキーボードを叩きながら片手間に差し出された古文のプリントを受け取る。
他の先生たちは弁当を食べながら、授業の準備に勤しんでいるようだ。職員室のあちこちからタイピング音やコピー機の音、紙をめくる音が聞こえてくる。
「ありがとうございます、名塚先生」
我が一年三組の古文担当教師、名塚佳奈恵。
二十四歳独身、生徒たちからはお姉さんとして慕われている良き先生。ちなみに巨乳である。大事なことなのでもう一度言う。巨乳である。喜べ世界の巨乳好きたち。
え、俺? 俺は断然、控えめで形が整った美乳派ですが何か?
おっと、空気が冷たくなった。もうすぐ夏だというのに、不思議なこともあるもんだなあ。
「はあ……どういたしまして。ったく、如月くん。もう二度と忘れものはしません! って先週宣言したばかりじゃない。舌の根も乾かぬうち、とはこのことね」
「先生、人間は人間であり続ける限り、物忘れはずっと付いて回ります。さながら、粘着ストーカーのように――」
「私としては、あなただけ宿題五倍にしても一向に構わないんだけれどね」
「すみませんでした」
名塚先生の単一色の目で流し目に見られたので、反射的に両手を体の横に自然に合わせて上体を四十五度傾けた。
完璧な最敬礼。ヤンキーとぶつかることが日常だった俺は、社会に出る前にこの最敬礼をマスターしてしている。俺の『素直に誇ることができない、というか誇りたくない特技』の数あるうちの一つだ。
しかし、物忘れに関しては仕方のないことだと言いたい。
いやほら、鳥だって三歩で忘れるっていうじゃないか。それに比べれば人間は優秀だろう。俺だって半日は物事を記憶できる。人間としての誇りもへったくれもない考えになってしまうけども。
それに、今回が偶々日が近かっただけで、小中の頃は忘れ物は月一ペースだったのだ。
「あと、如月くん」
と前置きした名塚先生はキーボードを叩く手を止め、俺の方に居直ってから不安げな表情で言った。
「……あなた、姫柳さんとは上手くやれているの?」
瞬間、音が止んだ。タイピング音も、プリントをめくる音も、会話も。コピー機までもが空気を読んで止まっている。
この不自然な間に心当たりはある。先生たちは答えが聞きたいのだ。どんなに小さな声であろうと、一字一句たりとも聞き漏らさないために。
だから俺は、その間隙に向けて笑顔で言った。
「大丈夫ですよ。友達、ですから」
言い終えた途端、職員室内には元の騒がしさが戻り、名塚先生の顔もいくらか和らいだ気がする。
しかし、堂々と人前で友達って言うのは恥ずかしいな。
「しゃあこれで。失礼しました」
古文のプリントは貰えた。
目的を達成した俺は、そそくさと職員室を出て、姫柳さんが待つ屋上へと向かった。