酒と音符とクリスマス
札幌駅の西改札口の近くに、私は立っていた。
忘年会シーズンで行き交うスーツ姿も多く、構内はずいぶんと騒がしい。改札からはほとんど機械的に、規則正しく乗客が吐き出されている。電光掲示板では、19:13発の小樽行き快速エアポートが点滅し、まもなく発車することを示していた。
私は旧友を待っている。LINEを使って「弓を持った木彫りの像の前にいる」と伝えた。その像はすぐ後ろで矢を口に咥え、私を睨みつけている。
思いのほか仕事を早く切り上げることができ、ずいぶん早めに待ち合わせ場所へ着いてしまった。マフラーを巻きなおし、ボア付きのコートを引き寄せて身体に密着させる。バッグからリップクリームを取り出し、軽く唇に塗る。髪留めを取り、リップクリームと一緒にバッグへしまう。
私の傍らには、大きな正方形の包みが置かれている。
毎年十二月。私はこうして彼女と会う。ふだんは連絡を取り合うことすらほとんどないが、この季節だけ、なにかの決まりごとのように、私たちは再会する。ちょっと値の張るお店で食事をして、たらふく酒を飲み、とりとめのない話をする。
かれこれ十年くらい、それを続けている。
十九時半を二分過ぎたころ、彼女は小走りでやってきた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
前川さんは、いつも笑顔だった。
まるで、すべての楽器がいっせいに鳴り響いて始まる、アップテンポのJポップソングみたいに、彼女は笑う。あるいは、梅雨明けの昼下がりに顔をくすぐって、髪を軽く乱し去ってゆく季節風みたいに、彼女は笑う。
少なくとも私が教室で見た当時の前川さんは、そういう女の子だった。
前川さんの着ているのは、札幌駅のステラ・プレイスとか、大通の四プラやパルコに行かないと、買うことができないような服だ。凝ったデザインのフリルがついているキャミソール、ビームスのいいぐあいに絞りの入ったシックで大人っぽいワンピース、サマンサタバサのピンク色のポーチ。平岡ジャスコの二階の一角にある婦人服売り場では、とても買えない。
もちろん、前川さんはいつも友達に囲まれていた。女の子たちにとって教室の中心は、教卓でもなければ、冬に大人気のヒーターの前でもなく、つねに、いつでも、前川さんだった。
小学校の六年間、私はずっと前川さんと同じクラスだった。
言うまでもないことだけど、私はクラスではあんまり目立たないほうだし、いつも話す友達はたいてい二、三人。それ以上になると、あまりうまく付き合っていくことができないような子供だった。
話題はほとんど決まりきっていて、毎週の漢字テストのことか「モーニング娘。」のこと。そして「おジャ魔女どれみ」と「デジモンアドベンチャー」のことが大半だった。
成績は普通だし、運動はほとんど絶望的で、六年間で輝かしい瞬間といえば、写生会で消防車を描いた水彩画が札幌市長特別賞をもらったことくらい。絵を描くことは、大好きだった。
おジャ魔女のおんぷちゃんを上手に描きあげることは、小学生の私にとって至上命題だったし、マジョリカにどんな服を着せるかのアイディアを友達と競うのが日課だった。絵を描くことだけは、他の分野と比べれば、比較的得意なことだと言えると思う。
そして無理やり付け加えるとすれば、教室の中で目立たずに過ごすことも得意だった。だから、六年間前川さんと同じクラスだったという事実は、私以外にだれも知らない。
小学校を卒業し、私は自動的に中学生になる。私はまた、前川さんと同じクラスになった。
小学生のときはよくわからなかった、目には見えない序列のようなものが、中学に入って見え始めた。教室はさながらひとつの国家のようで、うえのほうにはもちろん前川さんが君臨していた。
そのころから私はじぶんの容姿がいやに気になりだす。私の顔は、目尻が奇妙なかたちに垂れ下がっているし、耳が横に大きく、髪を撫でつけるとダンボみたいにはみ出す。頭のかたちも、なんとなく悪い気がする。おんぷちゃんにはほど遠い。
容姿を根拠に人生を丸々悲観するほどではなかったにせよ、好きになれる顔では、まったくなかった。
私はこの件を筆頭にして、進路のこととか、些細な友達とのいざこざのこととか、そのほかいくつかの悩みを一丁前に抱えてみたりもした。でも結局、それが解決したのかどうか、とうの本人さえよくわからないうちに時間が過ぎて、学校の補習や塾で忙しくなり、ばたばたと季節をまたいで、高校に進学するのだった。
中学生の前川さんも、やっぱり笑顔を絶やさなかった。
まるで国民のことをだれよりも大切にする、心優しい王女様のように、その華々しい笑顔を振りまいている。小学校のころよりも少し上品なその微笑みは、アップテンポのJポップソングからミドルテンポの洋楽になり、梅雨明けの季節風から、航海士を導く貿易風になった。
九年間ものあいだ一緒の教室へ通い、同じ授業を受けてきたのにもかかわらず、私と前川さんとのあいだでかわされた言葉は数えるほどしかなかった。
覚えているのは、中学二年の文化祭のときに校門前を装飾する班で一緒になり、そのとき「斉藤さん、絵が上手だったよね?」と言ってもらえたこと。
私は反射的に「全然、そんなことないよ」と返した。内心は、おでこが熱くなるくらい嬉しかった。
ただ、今振り返ると、それは社交辞令というか「国民を想う王女なら当然口にするセリフ」として、彼女の台本に書かれていただけなのかもしれない。
そして、高校生。
私が顔を強張らせて足を踏み入れた教室には、前川さんがいた。
合格発表直後は、みんなの進路情報がものすごい速さでかけめぐっていた。だれだれは南高に受かっただとか、だれだれは清田に落ちて厚高になったとか、くちぐちに共有される。学校の職員室や塾の受付で、その日に限っては、大手新聞社の報道デスク顔負けの情報戦が繰り広げられた。
しかしながら、その中に前川さんの進路についての情報は含まれていなかった。いや、もしかしたらきちんと流れていたのかもしれないけど、少なくとも私のもとまでは届いていなかった。
高校は、偏差値が五十をぎりぎりなんとか上回る、進学校と胸を張るには中途半端なところだった。四年制大学への進学率は全体の四十三パーセント、そのほかは短大、専門学校、そして就職。パンフレットのキャッチフレーズとしては「多様な夢を追いかけることができる学び舎」だったか。モノは言いようだなあと、私は思った。
教室で前川さんと目が合う。彼女はやっぱり笑顔だった。にっこりと、私に微笑みかけてくれた。
「斉藤さんもK高だったんだ」
はっきりとした声で、彼女は言う。中三のころは髪を染めて、毛先をくるくると巻いていたけど、今は黒のストレートヘアに戻っている。ミディアムショートのきれいに整えられた髪と真新しいブレザーがとても似合っていると、私は思う。
「うん。前川さんも」私は思い切って、言ってみた。「なんだかんだ、小学校から一緒だね」
ぽかんとされるかもしれない。王女様は、国民ひとりひとりの顔なんて、覚えていないかもしれない。「そうだっけ?」と、そっけなく返されるかもしれない。
でも、前川さんは笑った。
「ほんとだよね! 高校でも、仲良くしてね」
私のほうが、面食らってしまった。彼女は屈託のない笑顔を向ける。とても慣れた、自然な顔の角度と、目の細めぐあい、髪の流れ方で、笑う。
あのとき私は、自然に笑顔を返すことができなかった。それが、高校生活最初の後悔だった。
実際に高校生が始まると、結局のところ、私と前川さんはあまり話さなかった。べつべつのグループで、べつべつの世界に生きている。私は美術部に入り、厳しい彫刻のレプリカとたくさんのイーゼルが並べられている美術室で、絵を描いた。前川さんは部活に入らず、いつのまにかたくさんの友達に囲まれ、気さくに他クラスの男子とも会話し、かばんにはにぎやかなストラップをたくさんつけていた。
彼女は「高校でも」と言ったけど、私と前川さんがこれまで仲良くしてきたのかと言われると、そんな実績は二人のあいだにないということは明白だ。やっぱり、彼女にとってはあれも台本に書かれたセリフだったのかなと、私は思う。
主役はやっぱり大変なんだろうと、思う。
「佳奈! 号外ニュース!」
夏休みが明けた、高一の九月ごろだった。
そう言って、ばたばたと私の机にどっかりと乗るのは茉子だった。同じクラスの、いつも休み時間にだらだらと与太話をするメンツのひとりだ。
彼女はクラスの中でも貴重な人種で、下々の者には許されていないさまざまな階級の人間に謁見ができる。学年でいちばんの美少女にも、空前絶後のバカをやらかす大人気男子にも、鬼と人間のハーフと言われている学年主任の村田にも、物怖じすることなく、会話をふっかけることができる。それはまちがいなく、彼女の才能だった。横のつながりで連むだけの庶民とは違い、教室を縦に行き来することが可能なのだ。
情報通を自称する彼女は、学校の裏サイトから仕入れた速報を持ってきた。
「高橋が木田先輩と別れたって」
彼女は携帯のディスプレイをかちかちとスクロールする。
「木田先輩って、バスケ部の?」
「そうそう。今高橋のメンタル、ドン底らしいよ」
高橋さんは隣のクラスの女子バスケ部だ。活発な性格で、男子からはもちろん、女子からも人気だった。
「なんで別れたの?」
「それ。たしかな情報筋によるとさ」
前川がやらかした。
茉子は声を潜めて言った。
その裏サイトの書き込みでは、前川さんが木田先輩を「たぶらかし」て、高橋さんから「奪った」のだという。人間として最低とか、よく笑っていられるよねとか、散々な叩かれようらしい。
「前川ってさ、中学のころからビッチだったんでしょ?」
茉子の質問を理解するのに、私は数秒時間がかかった。
「なんで?」
「なんでって、西中出身はだいたいみんなそう言ってる」
私は視線の片隅で、教室の反対側でおしゃべりしている前川さんを捉える。いつもどおりの、華やかな笑顔。
「私、小学校からずっと同じクラスだったけど、全然そんなことないよ。だれにでも優しいし。人気もあったし。その、彼氏がいたかとかは、知らないけど」
「佳奈は、前川と仲よかったの?」
ちょっと、いやな聞き方だった。仲いいはずないよね。あんたと前川じゃあ、全然違うし。言外に、そう言われているような気分になった。私は黙って首を横に振る。
「そっか。情報の精度としては、あまり高くないなあ」
茉子は小さくため息をつく。
「裏サイトの情報だって、眉唾物だと思うけど」
私はささやかな反撃をして、もう一度、視線の脇で前川さんを盗み見る。やっぱり、魅力的な笑顔に見えた。
高校生になって、なにかと気疲れすることが増えた気がする。茉子はいい子だけど、やっぱりずっと話していると、少し距離を置きたくなる。私の周りには、そういうタイプの女の子がいっぱいいた。もちろん、向こうからすると私がそうなのかもしれないとも思うけど。
私は気を紛らわすために、ひとり美術室で木炭を走らせる。木炭紙の繊細な凹凸で、炭が少しずつ削れてゆく感触を味わう。白と黒の境目を、じっくりと観察する。それははっきりと分かれているようで、非常に曖昧な境界線だ。
私は前川さんのことを考える。私の頭の中のキャンパスには、完成された彼女の笑顔がある。細部の構造まではわからないけど、それはあまり重要ではなかった。彼女の笑顔に、私は音楽を感じることができるし、いろいろな風を感じることができる。それでじゅうぶんなのだ。
美術部に所属することで、だれに邪魔されることなく、私は「描く」という作業に熱中することができた。それは、ひどく幸福なことだと思った。
十二月になり、外の景色はすっかり白くなる。
学校の駐輪場は雪で埋もれ、男子は手袋のかわりに軍手をはめて、ブレザーの中にオレンジやらグリーンやらのカラフルなパーカーを着ている。女子は女子で、スカートの中にダサい水色のジャージを履き込み、おしゃれには興味がないふうを装うけど、そのわりにムートンブーツの色にはこだわった。ユニクロのカーディガンはチャコールグレーが人気だったが、あまり袖がとびだしていると、生活指導の大島に怒声を浴びせられた。
その日も私は美術室で絵を描き、ひと段落したところで帰路につくことにした。ダッフルコートを着て、かばんを肩にかけて、生徒用の玄関へ向かう。
ほとんど人けのない玄関のすぐわきで、話し声が聞こえた。だれの話し声か、私にはすぐにわかる。前川さんだ。そして一緒に話しているのは、たぶん彼氏の木田先輩。
「マジさ、おまえめんどくせえんだよ!」
気だるさといらだちを半分ずつ混ぜ込んだような声が轟いた。
木田先輩だ。その声に、私の身体は一瞬小さく縮こまる。そして、下駄箱の陰に身を潜めた。前川さんのすすり泣く声が聞こえる。
「別れてくんね? 付き合ってらんねえわ」
前川さんの返答は、聞こえない。ずうずうと鼻をすする音。息苦しそうな嗚咽。
木田先輩は、答えを待たずに、すたすたと校門へ向かってしまった。股下がありえないほど降ろされたスラックスは、裾が地面をこすってぼろぼろになっている。長く伸ばされたえりあしをひと撫でして、携帯を取り出した先輩は、校門の塀の陰に消えた。
しばらくのあいだ、私は下駄箱と密着するようにして、立ちすくんでいた。吹奏楽部の女子たちが五、六人、靴を履き替えて家路につく。クリスマス直前の演奏会の話をしている。前川さんのすすり泣きが続いている。
私は笑顔じゃない前川さんとの接し方を知らない。ましてや、泣いている前川さんなんて、想像すらしたことがなかった。おまけに言えば、笑顔の彼女だって、実際のところほとんど知らないのだ。茉子ふうに言うと「情報の精度としては、あまり高くない」と評される程度なのだ。
しかし、私は彼女のもとへと歩みを進めた。
どう声をかけるか、アイディアはまったくなかった。それでも私は、降り積もった雪を踏みしめて、彼女のもとへ向かった。
玄関のわきで、だれにも見つからずにうずくまっている前川さんが、私を見つける。
「斉藤さん?」
彼女はとても驚いたようすで、私を見上げた。泣きはらした目を拭う。
全部聞いていたという態度でもなく、偶然を装うでもなく、すごく曖昧な空気をまとったまま、私は言う。
「二十五日、終業式のあと、美術室にこない? 私、絵を描いていると思うから」
言うまでもなく、前川さんはぽかんと口を開けてたまま、不思議そうな表情を浮かべた。私が発した言葉を噛み砕くのに、時間がかかっているようだった。
そして、彼女は我に返ったように勢いよく立ち上がる。
その顔は笑顔でもなく、泣き顔でもなく、眉間にしわを寄せ、はっきりと怒っていた。
「なんのつもりなの? 私が傷ついたと思って、慰めてるの? 意味わかんない。斉藤さんにはわかんないでしょ? 私の気持ちなんて!」
前川さんは絶叫した。
ほんの数秒だけ私を睨みつけて、かばんを抱えて走り去ってしまった。
私はしばらくその場で放心する。
それからふらふらと歩き、玄関で上靴を履きなおして、美術室へと戻る。途中から身体が熱くなり、歩いていられなくなり、廊下を疾走した。どたどたと気味の悪いリズムの足音が響き渡る。
美術室はだれもいない。私はさっきしまったばかりの描きかけの絵を引っ張りだすと、イーゼルごと思いっきり蹴り飛ばした。キャンバスを何度も何度も踏みつけて、たくさんの足跡をつけた。なにかめちゃくちゃな、言葉にならない言葉を叫んだ気がする。顔を真っ赤にして、変な汗をかいて、それはそれは、ひどく滑稽な姿だったと思う。
(斉藤さんにはわかんないでしょ? 私の気持ちなんて!)
頭の中で、前川さんの顔が勝手に再生される。怒っている。ほかのだれでもない私に、怒りの矛先を向けている。
彼女の世界は、彼女と木田先輩とそのほかたくさんの飾り気のある、キャッチーで、派手な人物たちで完成している。
そこに私はいない。小学校のころから、私は教室の隅に置かれていただけで、彼女の世界の構成要素ではまったくない。その事実を、私はいまさらになって思い出す。
私は足跡だらけになったキャンバスを見た。正直なところ、足跡がつく前とあとで、たいして変わりはない。どちらにせよ地味で飾り気がなく、路傍の石のごとく素通りをされるような類の絵だ。
ひどい精神状態で、私は十二月のほとんどの時間を過ごした。
教室で見る前川さんは、相変わらず笑顔をたくさん振りまいている。フられたことなんて、まるで大した出来事でもなんでもなかったのように、過ごしている。すでに、私とはべつの世界に戻って、平穏に暮らしている。
主役はきちんと切り替えができるのだ。だって主役は、すぐに次の役が割り振られて、適切なタイミングで、ちょうどよい声色で、新しいセリフを使い、演じなければいけないのだから。失恋程度で沈んでいる暇なんてないのだ。
唖然とするほど退屈な終業式が終わり、生徒たちは午前中のうちに解放される。教室のすぐ外の廊下、階段の踊り場、下駄箱のわき。学校中のそこここで、だれかがだれかを待っている。クリスマスが「サンタクロースからプレゼントをもらえる日」ではなく、全然違う意味合いを持つようになったのは、いつからだったろうか。
ホームルームのあと、私は前川さんを見失う。
もちろん彼女は、美術室になど来ないだろう。放課後になにか用事があるのかどうか、私は知らない。前川さんには、私が想像できないようなつながりの友達がたくさん、しかも街中に、いるような気がした。そのうちのだれかと、きらきらしたひとときを過ごすのだろう。相手が男でも女でも、緊張なんてせずに、軽やかな会話を交わすのだろう。駅前のスターバックス・コーヒーで新作のラテを飲んだり、カラオケでクリスマスソングしばりをしたり、そんな感じだろうか。それともススキノや、もっと街の深いところで、遊んだりするのだろうか。いずれにせよ、私にはわからない。
美術室へ行こうかどうか、少し迷った。外は雪が降っている。一階にある美術室は、暖房を効かせても温まるまでずいぶん時間がかかる。家に帰り、ストーブの前でぬくぬくと晩御飯を待つほうが、有意義な気がした。
ふらふらと生徒用玄関まで来たとき、私は美術部顧問の桑島先生に呼び止められる。
「おおい、斉藤。今日は描くんじゃないのか?」
白髪だらけの桑島先生は、しゃがれた声で言う。
「いいえ。また年明けに続きを描きます」
「なんだ、じゃあちゃんと友達に言っておけ。約束してたんじゃないのか? 美術室の前で待ってたぞ。ほら、鍵」
桑島先生は黄色の札がついた美術室の鍵を私の手のひらに乗せる。
私は帰宅する生徒たちをかき分けるようにして、美術室へと向かう。途中から小走りになる。鍵を握る手は、汗をかいている。
前川さんが、美術室の前で立っていた。
かばんを肩にかけたまま、なにをするでもなく、足もとを見つめている。偽物ではないバーバリーのマフラーをぐるりと巻いて、ショート丈のダッフルコートを着ている。
「前川さん」私は言う。
「鍵、閉まってて」前川さんは私に気づいて言う。笑ってはいなかった。
「今開ける」
「うん」
私は美術室の鍵を、鍵穴に差し込む。開け慣れているはずなのに、なかなかうまく入らない。数秒がちゃがちゃと音を立てて、やっととびらを開ける。
中は予想どおり、完璧に冷えていた。急いで暖房のスイッチを入れる。
「寒い、この部屋」
前川さんは言う。ほとんど吐き捨てるような、ぶっきらぼうな言い方だった。
「ごめん」私はすぐ近くの机にかばんを下ろす。
「べつに、斉藤さんのせいじゃないけど」
「今日、来てくれるなんて思ってなかった」
「自分が誘ったくせに?」
「ごめん」
「いいよ。それより、なにするの?」
前川さんも肩にかけたかばんを下ろす。
たくさんついていたストラップが、今は全部とり外されている。
「絵を描きたいと思って」私は言う。
「そりゃあ、美術室だしね」前川さんは言う。笑わない。
「前川さんに、モデルをやってほしいの」
「私?」
「うん」
前川さんは、小さく息を吐く。
「どうして、私?」
私は答えられない。廊下のずっと遠くのほうで、男子生徒のはしゃぐ声が響いている。窓の外では雪が音を立てずに、世界を白く、正しく染める。
「いいよ。モデル」私が答える前に、前川さんが言う。そして、やっと少し笑う。「もしかしてヌード?」
「そんなわけないじゃん」
「冗談」
私はイーゼルとキャンバス、木炭、そのほかいくつかのデッサン用具を取り出して、使いやすい位置にならべる。前川さんはマフラーをとり、コートを脱ぎ、教卓の前に椅子を置き、両手を膝の上に揃えて、浅く腰をかける。
私はキャンパスを撫でるようにして、木炭を走らせる。白い正方形に、少しずつ黒が足されていく。私はほとんど初めて、前川さんの髪や、目や、鼻や、唇や、輪郭や、首筋や、肩幅や、そのほかたくさんの、彼女をかたちづくる要素を、間近で観察する。髪はつややかで、目は奥二重。少しブラウンの混じった瞳。薄めの唇。白い頬は寒さで赤く染まっている。華奢な体つき、細い腕、透きとおる指。それらをつぶさに点検し、ときどきため息をつき、そのほとんどを、私は絵の中に採用する。木炭は、キャンパスに接触した瞬間、前川さんになる。私は、前川さんを描いていく。
「前川さん」
「なに?」
「できれば、少し笑ってほしいな」
「どうして?」
滑る木炭に任せるようにして、私は口を動かす。
「笑顔の前川さんが好きだから」
前川さんはなにも言わない。笑いもしない。
「斉藤さん」
「なに?」
「笑った顔の私は、描いて欲しくない」
「どうして?」
彼女は少し口を開けて、その隙間から息を吐く。
「笑うのって、しんどいんだ」
私は手を止める。
「笑顔の私が好きなのは、私が笑っているからでしょ? ほんとうの私は、ちっとも笑ってない。ちょうど、こんなふうに」
前川さんはしわひとつない、感情の排除されたような顔で言う。
「笑うって、疲れると思わない?」
私は少し考える。美術室の天井を見る。点検口が私を見つめ返す。
「わからない。とにかく私は、笑った顔の前川さんが好き」
「笑っていない前川さんは」
「もちろん、好きだよ」
彼女は唇を尖らせる。「言葉が軽いよ、斉藤さん。そんなに簡単に、好きだなんて言葉使わないで」
私はどう返せばいいか思い浮かばず、かわりに木炭を滑らせる。私は、前川さんを描く作業に戻る。前川さんを完成させるのが、今の私にはとても重要なことだ。
描きあがった前川さんは、もちろん笑っていない。頰を膨らませて、目に傾斜があり、ちょっと不機嫌そうだった。
「ごめん、私下手で」私はため息をつく。
「見せる前から言い訳しないでよ」
前川さんは立ち上がって、私の後ろに回り込む。彼女はキャンパスに描かれた、前川さん的なものを見つめる。
「うん。私っぽい」彼女は感心したような声色で言う。
「ほんとう?」
「ほんとう。やっぱり斉藤さんは、絵が上手だよ」
「そんなことないよ」
「どうして斉藤さんは、絵を描こうと思ったの? その、今日だけじゃなくて、描き始めたきっかけみたいな」
私は少し言い淀む。木炭を机に置き、タオルで手を拭う。
「昔のアニメで『おジャ魔女どれみ』っていうのがやってて。そのキャラクターを上手に描きたいって思ったのが最初かな」
「もしかして、おんぷちゃん?」
私は目を丸くして、前川さんを見る。
彼女は続ける。
「斉藤さん、おんぷちゃんばっかり描いてたもんね」
「どうして知ってるの?」
「だって、なんだかんだ十年も一緒のクラスだよ? 見かけることくらいあるよ。それに、おジャ魔女なら私も見てたし。面白かったよね」
前川さんの表情がやっと明るくなる。間延びした声を出して、彼女は両手をうんと伸ばす。
「正直、羨ましいな。斉藤さんのこと。得意なことがあって、それに熱中できて。私には、なんにもないもの」
そう言った。私はやっぱりうまく言葉を選べず、ただ首を横に振る。
「ごめんね、この前。急に怒鳴ったりして」前川さんは言う。「ちょっと、パニくっててさ。クリスマスの予定がなくなった私をバカにしてるんじゃないかって。でも、斉藤さんがそんなことするわけないもんね」
私は頷く。それからたった今描きあげた前川さん的なもののデッサンの角に、指を触れる。
「よかったら、これもらってくれる? もちろん、完成したらだけど」
「これ、完成じゃないの?」
「まだ、陰影もほとんどつけてないし」
そのとき、前川さんは大きなくしゃみをした。
「うん、いいけど。それより寒いよここ」前川さんは笑って、小さなえくぼをつくる。「帰ろう。それとも、なにか温かいものでも飲みにいく?」
部屋の暖房は全然効いていない。気がつけば息が白くなるほどだった。
「ほんと、寒い」私は笑う。「私、ジンジャーブレッド・ラテが飲みたい」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「したっけ、乾杯!」
私と前川早希は、プレミアム・モルツが満たされたグラスを軽く掲げ、そして一気に飲み干す。二人して、酒のにおいを含んだ息を思いっきり吐き出す。
「もうやめないかい佳奈さん? この無意味な一気飲みさあ」早希が屈託のない笑顔で言う。
「それ、去年私が言ったのに、あんたそっこうで却下したじゃん」
「そうだっけ?」
「そうだよ」
「まあいいか。サントリーに貢献しよ! このあと角ハイね」
そして私たちは至極下品な声で笑う。
札幌駅から徒歩で五分程度のダイニング居酒屋だった。こじんまりとした個室で、私たちはヒールを脱ぎ、褒められたものではない脚の角度で、お通しの蟹味噌(この店を選ぶときの決定打となった)をつまむ。
うん、うまい。
私は高校を出て、ほとんど興味がないくせになんとなく北星学園大学の経済学部に進み、まあまあ大学生活を楽しんだあと、北洋銀行の総合職に落ち着いている。今は琴似支店だけど、この先、道内のどこへ飛ばされるか、わかったものではない。稚内や釧路は、正直勘弁してほしいところだ。
好きだった絵を描くことは、続けている。大人になると、たしかに好きなことには時間を割きにくくなってしまう。それはたしかに実感した。でも、私から言わせてみれば「好きなことから逃れられると思うな!」である。今も細々とではあるが、本格的な画材で絵を描いて、TwitterとPixivを使い、公開している。
前川早希は、高校を卒業したあと、実はしばらく連絡が取れなくなった。どうしたものかと身を案じていると、一年くらいしたころ、唐突にFacebookで申請が飛んできた。聞けば、一年弱のあいだモデル業をしていたらしい。ただあまりそれはうまくいかず、親にどやされ、今は平岸駅辺りの不動産会社で働いている。車の免許も二年かけて取り、現在はまあまあうまくやっているらしい。
この十年足らずで、前川早希は二回結婚し、二回離婚した。一回目の相手とのあいだにできた男の子は、年に一度、私と会うときに限り、実家に預けている。もう五歳になり、家の中を縦横無尽に走り回る、いちばん子育てが大変な時期でもある。名前は宗輔くんと言う。
「まったくさ、お互いにクリスマス感のかけらもないけど、いいの? 佳奈、彼氏は?」早希が言う。
「ああ無理無理。あいつ社畜だから。今十二連勤目」
「死んじゃうでしょ」
「うん、もう二回くらい死んでる」
二杯目の角ハイボールが運ばれてくる。威勢のよい、大学生の男の子が、最高の笑顔で運んできた。
「したけ、そろそろ今年の新作の発表かな」
おちゃらけた口調で、早希は言う。
「おや、いいんですかい?」
「もちろんですとも」
私は正方形の包みを解いて、居酒屋のテーブルに立てかけるようにして置いた。開封してる途中、早希が興奮した面持ちで、酔っ払い特有の気持ちの悪い声を出す。
「おんぷちゃん! しかも、クリスマスバージョン!」
私は高らかに叫ぶ。
今年キャンバスに描いたのは、サンタクロースの衣装を身にまとった「おジャ魔女どれみ」のおんぷちゃんだ。
「やばい! 可愛い!」早希が立ち上がって、仰々しく拍手をする。「小学生のころから極めてきただけあるわ! 原点回帰ってやつ? これ、けっこう伸びるんじゃない?」
「それがなかなか厳しいんだよ、ネットの世界は」
「マジかあ、怖いわネット」
それから私たちはおジャ魔女どれみのオープニングソングを高らかに歌い、あまりに気分がよくなってしまいどんどん大声になり、店員さんにお叱りを受けた。
「いやあ、でもほんと可愛いよおんぷちゃん」早希が繰り返す。
毎年、この日に早希へ渡す「クリスマスプレゼント」として、私は絵を描いている。ちょうど、高校一年生のあの日からだ。私と早希が初めて二人でスターバックス・カフェに言って、なんだかとっても垢抜けた女子高生みたいな真似をしたあの日からだ。
早希には絵の報酬として、一次会の飲み代を出してもらっていた。
「でもさ、あのときなんで美術室に行ったんだっけ?」
早希はそう言って、角ハイをぐいっと喉に流し込む。
「あれだよ、早希が先輩にフられたから、私がそれを哀れんで、仕方なく」
「マジかよ、佳奈めちゃくちゃ性格悪いね」
「早希だって、あのとき『あんたなんかに私の気持ちわかるか!』って叫んでたからね? 完全に恋愛未経験者を見下す態度だったでしょ」
「マジかよ、私めちゃくちゃ性格悪いね」
私たちはおんぷちゃんのつぶらな瞳を見つめる。その鮮やかな紫色は、何年経っても色褪せないなあと思う。
「お互い様だってことだよ」私は言う。
「それね。まあ、あのころは若かったね、私たち」
早希がそう言って、マルボロの箱とライターを取り出す。
十二月の北海道は、まだまだ冷え込む。私は鍋を頼もうかと、タブレットのディスプレイをタッチする。