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オリーブオイルの海

作者: ひふみ

青年はベッドの上で目を覚ますと、わけもわからない漠然とした不安に絶望した。シャツは汗でぐっより濡れ、いやにべたべたした。スプリングのきいたベッドの柔らかさは、心地良さではなく、不安定なぐらつきを感じさせた。そこは何年も住んでいたはずのアパートであるのに、全くの別空間のように感じた。 

 窓を開けた。鉛色の雲が手を伸ばせば届きそうなくらい低くぶら下がっている。風は湿り気を帯び、肌でその流れをくっきりと感じとることができた。

もうすぐ雨だ、と青年は思った。

 それなのに、西のほうの空は雲一つない。澄み渡る空には限らなくうすい赤が溶け込んでいる。彼はそこで吹く風を知っていた。



 青年がまだ幼い少年だった頃、あらゆることについて「境界線」を引こうとした。頭の中に、一本の線を引き、こっち側とそっち側とで名前をつけて区別する。それはまるで板チョコを半分に割って、仲のいい友達とわけて食べるような何とも言えない安心感があった。少年にとっての世界は、ピカソが描いた晩年の作品のように、何もかもクレヨンで色濃く、くっきりと描かれていたのかもしてない。


 でもうまくわけることのできないものもあった。

――雨はどこで終わって、晴れはどこから始まるのか。

――虹はどこから始まって、どこで終わってしまうのか。


 この二つの未知なる境界線は、少年を悩ませた(たぶん)初めての問題だった。雨が降ると、これらの問題は決まってセットで姿を表し、彼を悩ました。この場面に出会うたびに、少年は目をそらすことのできないその神秘さに惹かれつつも、不確かな正体に対する畏敬の念を抱かずにはいられなかった。彼は「境界線」で広がるはずの風景をイメージするたびに、なかなかピントの合わない望遠鏡を覗き込むような気持ちになった。


 しびれを切らした少年は、ついに行動を起こした。雨が降るたびに窓にへばりつき、息を潜め、外を凝視した。あくる日も、そのあくる日も、少年は期待の眼差しは外に向けられ、虚しく裏切られた。雲は空を被い、気が済むまで雨を落とすと、何事もなかったように、さっさと退散し、次の日には晴れ間を持ち出した。そのたびに少年はひどく裏切られたような気分になった。


 少年が窓の外を眺める目からはいつしか期待の色は失われつつあり、その代わり失望を象徴するようなトゲのある投げやりな眼差しに変わった。気持ちの奥にくすぶる思わせぶりが、辛うじて行動を継続させた。しかし、幾度も訪れる落胆はそれを完膚なきまでかき消してしまった。

時間の流れによって、角張ったものが少しずつ削り取られ、ノーマルな丸みを帯び形に落ち着いた。

雨の日に窓を眺めるという形骸化した習慣のみが残り、その理由は記憶の彼方へ追いやられてしまった。


 窓辺は少年にとって大事な場所になった。窓の向こうではいつも微妙に異なる、ときにはダイナミックに違う表情を、少年に向けたからだ。

窓辺に座って本を読み、晴れた日には窓を開けて乾いた風の肌触りを楽しんだ。しとしと降る雨の日には、雨音に耳をすまし、いかにも少年らしい内省的な思案にふけった。ときどき隣の家からカレーの匂いがすることもあった。少年の頭の中はカレーで埋め尽くされ、無性にカレーが食べたくなった。母親が呼ぶ声が聞こえ、子供が泣く声が聞こえた。朝は鳥が謳い、夕方はカラスがわめいた。

 窓の外の姿は、一日たりとも同じ表現をすることはなかった。種類の異なる役柄を演じる役者のように、ときには淑やかに慎ましく、ときには乱暴に、ずかずかと少年の内側に侵入した。少年は客席から、目の前のことに素直に驚き、感動し、学びを得た。いつでも充実した気分になることができた。


しかし、探し物とはどういうわけか、いつも探せば探すほど遠くへ去り、記憶の彼方へ追いやられた頃、ひょっこりとその姿を表わす。習慣から意味が失われ、まったく別な意味が染みはじめた頃のある日の午後、西の空に淡く光る大きな円弧状の帯がかかった。

 虹だ、と少年は思った。

 重たい雲はそこで切れていた。 記憶の片隅で、埃かぶって眠っていた何かがガタガタと音を立てるのが聞こえた。そこに息を吹きかけると、みるみるうちにそれは蘇り、鮮明になった。

 衝動に駆られるようにして、とっさに動いた。

雨がっぱを着て、短い長くつを履いて、大きなコウモリ傘を片手に、家を飛び出した。虹が行先を示し、ただそれに向かってただそれに向かって歩いていればよかった。地面はぬかるんでいて、いつもと違った、凸凹のはっきりした足跡を残した。雨を弾く傘の音や雨が

吸い込まれる林のざわめきは、幼い少年を高揚させた。自分が毎日見ていた、窓の外世界は、自分が能動的になればなるほど、その姿をさらに変えた。自分が今から向かう「境界線」をぼんやり想像し、追い求めていたかつての魅惑の風景は、一歩進むごとに鮮明になっていくような気がした。

 

 目前に見える虹は、どことなく掴みどころの無い輝きを放ち、確かにそこに存在していた。と、少年は思った。少年は期待した。しかし期待し過ぎないように努めた。経験的に、ある種のものごとは、あまりにも無神経に入り込むと損なわれてしまうことを知っていたからだ。だが、はやる気持ち完全に抑え込むことはできなかった。そうするためにもまた、経験的に不足していた。

夢中になって歩き、歩調は次第に速くなり、気付くと走っていた。虹と少年との間に存在する空間は距離であり、縮められること以外の意味は持っていなかった。足跡をまじまじとみたいとも、雨が奏でる音に耳をすましたいとも、だんだん思わなくなっていた。虹の麓にはそれらをすべて超越した何かがあると思ったからだ。


 虹は依然としてそこにある。と、少年は思った。西の空のアーチは、幾分不気味な笑みを浮かべて、ひやりとした目で少年をみた。少年の腕はひどく疲れていた。コウモリ傘を投げ捨てた。首筋を伝う汗が背中をするりと舐めた。ぬかるみ足を取られ、転んだ。すぐに立ち上がって、また走り出した。何かに引っ張られるようにして、何かに追われるようにして。


 虹は確かにそこにある。と、少年は思った。西の空の艶美なそれは、クスクスと笑った。少年は、ハアハアと息を切らした。それでも走る。走る。雨がっぱも脱ぎ捨てた。これじゃまるでメロスみたいじゃないか、と自嘲した。セリヌンティウスが向こうで僕を待っているはずだ。一度ぐらい疑がったところで、僕らの友情は不動なもののはずだ。


 虹はそこにあるはずだ。と、少年は思った。西の空のそれはもう堪え切れない笑いを必死で抑えようとしたが、我慢しきれずゲラゲラ大きな声をあげて笑った。足に泥がべっとりと付いて、油が差されていない歯車のように、息苦しく動いた。少年は点と点を結ぶ直線になろうとした。直線は自分からまっすぐ虹へと結ばれていた。


 虹は間違いなくそこにある。と、少年はもう思えなかった。消えてしまったからだ。

 少年は立ち止まった。雨はいつの間にか止んでしまっていた。少年の中で強い軸になっていたものが、すうっと引き抜かれた。膝に力が入らなくなり、ばたりと座り込んでしまった。


 西の空から夕陽が差した。あらゆるものの色を奪い、代わりに同一のあたたかな紅色に着せ替えた。頭上にあったはずのあの重苦しい鉛色の雲は、いつの間にか消え、断片がいくつか浮いてくれて優しい紅色に染まった。少年のいきり立った感情の火照りは、風によって柔らかく冷まされていった。

少年は、窓辺が懐かしくなった。鳥の声、カレーの匂い、晴れの日の風、雨の日のざわめきが、またどこから聞こえてきそうだった。




 青年は窓の外を眺めていた。何か思い出せそうで思い出せないもどかしにとらわれていた。それは手を伸ばせば届きそうで、ほんの少し届かなかった。窓からは薄明かりが部屋にぼんやりとしたあいまいな影を生み出した。その曖昧さはゆっくりと輪郭を持ち始め、青年を混乱させた。太陽は西に沈んだ。と、青年は思おうとした。しかし、部屋の中の薄明かりは、青年から時間という概念を根こそぎ奪った。本当に夕暮れなのか、本当は夜明けなんじゃないのか。と青年は思った。これらを区別できる根拠らしきものを探ろうとしたが、確かな根拠は何一つなかった。思考の進むべき先は歪められ、別の方向へと誘われた。

海だった。

 青年は海にいた。波の音は全く聞こえない。海岸からずっと離れた沖だ。オリーブオイルのような鈍い光沢を放つ滑らかな海の上に、仰向けで浮いている。周りを見回してみたが、どこまでも限りなく海は続いていた。たぶんもう戻ることはできないだろうと青年は思った。後戻りできない地点まで来てしまった。だからどこかに向かって泳ごうとは考えなかった。寒くもなかった。お腹も空いていなかった。ひんやりとした海にぷかぷか浮いているだけだ。空は重苦しい鉛色の雲で覆われている。手を伸ばせば届くかもしれないと思った。試しに、手を伸ばしてみたが、雲の感触を知らないことに気付いた。でも、何となくそれを掴んでみた。それは雲かもしれないし、そうじゃないかもしれない。手に取ったものは、確かな不確かさだった。

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