吾輩スライム
───吾輩はスライムである。名前はまだない。
生まれておよそ三ヶ月、奇妙な泉を住処とする人畜無害な球体生物である。
本来スライムというのは自我を持たないものらしいのだが、しかし不思議な事に吾輩にははっきりとした己がある。それはこの湖の管理人殿から気まぐれで放置していた最弱種が、まさか意識を持つなんてと驚きの言葉を頂いている。泉の水を飲ませた影響かと聞いた時は何か代価よこせと言われないかヒヤヒヤしたものである。……別にいいのよと言葉をもらった時は安堵したものだよ。
ちなみに吾輩には有り得ない知識がある。有り得ない想像力がある。そして何より有り得ない魔力量がある。それはひとえにこの泉──管理人殿の名前からミミルの泉と呼ぶとしよう──の水を飲んだからではないだろうかと思うのだが、しかし現実問題それは誰にもわからないのだ。何せこの叡智が飽和している泉の水の中にさえない知識が平然と脳内──どこやねん──に蓄えられているのだ。それも実物を想像出来るというおまけ付きで。
管理人殿から言わせると、もしかしたら転生体って奴なんじゃないとのことだ。
転生体、───つまりはこの体に生まれる前、まったく異なる生き物として生きていた際の記憶を有しているという個体の俗称だ。異質な知識から考えて、所謂魂がこの世界とは異なる場所から流れてきて、ひょんな事に吾輩へと成り下がったのではないかと言う想像を教えてくださったのだが、……成り下がるという表現はなんとかならないものだろうか、グスン。
まあ、ともかくそんな自我を持つスライムである吾輩は、今日も平和なこの森を探索しているのである。と言っても、平和なのはスライムだからである。周囲からの評価は食べれない物が動いている程度の認識だろうし、魔物すらたまに憐れみの視線を向けた後、静かに後を去るなんてこともあるくらいである。
いやまあ、仕方ないのだ。本来のスライムは自我もなく、ただ本能的に動いているだけなのだから。
しかし吾輩も同列に見られるのは非常に不愉快だ。なにせ吾輩は自我持つスライム、誹謗中傷憐れみ蔑み、その全てを理解できるという事がこれほど辛いとは思いもしなかった。
確かに最弱種である。しかし吾輩は違うのだ。ミミルの泉を住処とする吾輩は違うのだ。
吾輩は抱き枕である。管理人殿曰く思考する至高の抱き枕である。───吾輩ではない吾輩が、「いやその評価は勘弁してください」と囁くが訳が分からん。抱き締められるだけで安眠を提供できるなど素晴らしい事ではないか。
そうしてゆったりと思考しながら、のんべんだらりと森を這い回っている最中、不意に子供の声が響き渡る。それは男の子らしい、元気いっぱいの明るい声だった。
「なんか変なスライムがいる!」
振り向くと──いや、前とか後ろとかないが、と言うか常に全方位見えているんだが──そこには子供がいる。肌触りが良さそうな短い金の髪と、星が瞬くアンバーの瞳が可愛らしい活発少年。何故こんな森の奥にいるんだろうかと内心で首を傾げる──現実では出来ないがね!──と、ふと少年の耳が鋭く伸びている事に気が付く。
ほほう、あれが所謂エルフというやつか。この森に生まれて以下略年の吾輩ですが、初めて見ました。
美男美女しか存在しないらしい精霊の友人と知ってはいたものの、実物を見るとその美形っぷりに我輩でない吾輩が興奮したようにエルフ来た! ボクっ娘来た! などと理解不可能な何事かを騒いでいる。……ボクっ子とはなんだろう?
ちなみに目の前の少年が我輩を変なと言った理由はおそらく色が問題だ。
通常スライムの色は無色透明だ。これが上位のスライムになると赤やら青やら緑やらが現れるのだが、通常のスライム──純粋スライムに色はないのだ。そんなピュアスライムの特徴は環境適応能力と分裂速度である。ちなみに吾輩は環境適応能力は純粋スライムと比べても遥かに高いが、しかし分裂は一度もした事がない。色も無色透明ではなく艶消しブラックという本来存在しない色である。……あれ、実は吾輩ってピュアスライムちゃうんか?
まあ、そんな我輩を前にしてい変と表するのは仕方ない事なのだが、うむ。このお坊ちゃんは警戒心という物が抜け落ちている。何故自分で変と評したスライムに跨って楽しげに騒げるのだろうか?
「お前凄い大人しいな! よし、ゴー!」
いや、ゴーって。
まあ、子供の相手も紳士の嗜み。吾輩は管理人殿から紳士然な振る舞いを心掛けなさいと耳──ないが──にタコが出来る程に言われているのだ。この程度の急な言葉にも対応してみせる事くらい容易いのである。
そうして、吾輩はゆっくりと、のんびりと森を進んでいく。
道中で魔物達から珍妙な物を見るような視線を受け、おまけに子供に遊ばれてると精霊達が爆笑している声に震える事で抗議するが、まあそんな行動で通じるわけがなく。しょうがないので黙々と少年が指す方向へと身体を移動させ続けている。────アレ、泉はどっちだっただろうか?
おおう、吾輩実に大ピンチである。これはまずい。管理人殿に叱られる!
しかし子供をこのままにしておく事も出来ないので、必死に身体を動してスピードアップしてとにかく進み続ける。ああ、疲れる。肉体的な意味ではなく、精神的な意味で疲れる。子供のお守りとか初めてなのでしょうがないのだが、それにしても消耗具合が少しばかり厳しい。
はぁ、と。声も息もないため息を吐いた気分で進み続けて、夕日が沈み始めたくらいになってから───ようやく、目的地であるらしいエルフの集落へと到着し、
「はにゃ!?」
……身体を貫く木製の矢、数は4つ。その全てが子供を避けるように吾輩だけに命中している。
何故吾輩がこんな目に、そんな事を思っていると、目の前に少年と何処か似たエルフの女性が、その豊かな双丘の隙間から絶対零度の視線を少年へと向けている事に気がついた。うむ、多分姉か母親だろう。
「……エルカタルテ、お前は何を連れてきた?」
「スライム! 変なスライム!」
どうやら空気が読めないらしい子供は満面の笑みで弓矢を握って吾輩の身体を何度も往復させている。痛みはない、と言うか死の概念が希薄なのが我々スライムなのだ。この程度でぽっくり逝くなどありえはしない、しないのだが、……往復は気分的に悪いのでやめていただきたい。
そんな吾輩の頭上で鈍い音が響き渡る。どうやらゲンコツが落ちたらしい。
わんわんと泣き出す子供を片手で持ち上げ、我輩を遠慮なく蹴り飛ばしてその場を後にする女性を前に、……吾輩が何をしたのだろうと、泣きながら森に泣き帰った。いや、涙は出ないのだが。
そうして太陽が二回ほど上がり、ようやく見つけた泉の前に仁王立ちする管理人殿の激怒の表情と、真剣な説教のコンボにより、吾輩はぐったりと、地に身体を預ける事となったのだ。
……吾輩が何をしたというのだ。