サイン・コントラクト
アイリは、天に人差し指、中指、薬指を突き上げた。
「何のつもりだ?」
「さーん」
すると、商船に乗り込んでいた手下の海賊は慌ただしい様子でトランシーバーを手に交渉をする海賊の元へとやって来た。
「何事だ?」
「奥さんとお子さんが――」
慌ただしくやって来た海賊からトランシーバーを受け取ると、そこからは子供と女性の無邪気な声が聞こえていた。
「パパー、早く帰って来てねー」
その声をよく知るのは、そのトランシーバーを手にしている自分自身であった。アイリは、この交渉を望むにあたって、どの海賊が商船を襲いに行ったのかを調べ上げ、頭と思われる人間の家族を人質としたのだ。
自分が人質にされるなら未だしも、家族を人質に取られる恐怖は何にも代えがたい。しかし、アイリは無関係であるこの海賊の家族に手を出すつもりなど毛頭なかった。海賊を相手に商売をする為の手段でしかないのだ。
「ふざけるな、お前」
怒鳴る海賊を他所に、天に突き上げたアイリの指は一つ折れる。
「にーい」
「いい加減に――」
突如として手に持っていたトランシーバーが弾き飛ばされたのだ。海賊を傷付けること無く、手にしたトランシーバーだけを。壊され地に転がるトランシーバーを見つめ、凄腕のスナイパーがどこかに居ることを感じさせたのだ。
その海賊は視線を狙撃された方へ向けるが、狙撃されない限り肉眼では船であることも分からぬような水平線の彼方から狙われていたのだ。狙撃があり、各員体勢を強化するが、あれに仕返しの出来る者などそうそう居るはずも無かった。
その狙撃には、いつでも頭を打ち抜けるぞ――と言う、圧倒的武力の違いを表示する威圧の意味もあった。万が一にも、変な気を起こさせない為の抑止力として狙撃を用いたのだ。
そして、アイリの指は残りの一本になる。
「いーち」
「――ッ」
海賊は何か言い掛けたところで言うのを止めた。と言うより、その異変に気付き最後まで言うことが出来なかったと言った方が正しかった。波は荒れ、風は乱れ、その場に居た者が全員が天を見上げていた。
皆の視線の先にあるのは、武器が搭載された軍用のヘリコプターである戦闘ヘリコプターであった。これには、誰もが言葉を失っていた。たかだか、商談の為だけに軍用ヘリコプターを動かすなど有り得ないからだ。
そして、アイリの指は――零になる。
「ぜーろ」
と言うが、その声はヘリコプターの音に掻き消され、聞こえていた者は誰一人としていなかった。それでも、天からその視線を降ろした海賊は嫌でも気付くことになる。
アイリの指折りが最後であったと言うことを。最後であると言うこと、それはこの商船諸共吹き飛ばすと言うことだ。商船、海賊、商談――それが初めから無かったかのように。
目の前にいる、アイリとリタを人数で圧倒することは可能だったかもしれない。しかし、仮にこの商人たちを皆殺しにしたとしても、スナイパーを上手く巻いたとしても、上に居るヘリコプターを運よく撃墜することが出来たとしても、海賊たちが帰路に着く頃には家族たちは既に手遅れだろう――そう思わされている。
海賊はどうしようもなかった。もう疾うに考えることの出来る領域を大幅に越えていたのだ。何も考えることの出来なくなった海賊は、手にしていた銃を落とし、手を上げ降伏の意を表した。
そして、
「取引をさせて下さい。お願いします」
海賊に取引を懇願させた。