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死んでいるのだ

作者: 茶川龍介
掲載日:2026/04/04

私は、あの冬の夜。


引っ越しの準備をしていた。


部屋はすでに半分ほど空になっていて、残された家具だけが、

場違いなほど大きく見えた。


外は雪が降っているわけでもないのに、窓ガラスは白く曇り、

街灯の光は輪郭を失って滲んでいる。


暖房は切ってある。


吐く息は白く、

指先の感覚は鈍い。


それでも私は作業を続けていた。


続けるしかなかった。


本棚の最下段に、

段ボールの箱が一つだけ残っていた。


いつ詰めたのか、

まるで覚えていない。


蓋を開けると、

中には古い教科書やノート、

学生時代のプリントが

無造作に放り込まれていた。


埃が舞い、

鼻の奥に古い紙の匂いが絡みついた。


床に引きずり出し、

一つずつ手に取り、

捨てるか残すかを決めていく。


そのとき、箱の底に

薄いノートがあるのに気がついた。


表紙は無地のクラフト紙

タイトルは書かれていない。


ホッチキスで留められただけの、

粗末な造り。


三十ページにも満たないだろう。


埃を払い、何気なく開いた。


最初の一行を読んだ瞬間、

私は完全に動きを止めた。


「私は不純だ」


その文字は疑いようもなく、

私の筆跡だった。


私は息を呑んだ

心臓が一度だけ、重く跳ねた。


「私」の払い方、「不」の歪み、「純」の点の置き方

すべてが一致している。


記憶にない。


こんなものを書いた覚えは、

どこにもない。


詩めいた文章を書いたこともないし、日記を付ける習慣もなかった。


それなのに、

これは確かに、私の字だった。


椅子に腰を下ろし、

ノートを膝に置く。


部屋の空気が、

わずかに重くなった気がした。


二行目を読む。


「私は山へ行った」


指先が冷たい

いや、冷たかったのは

指先だけではない。


胸の奥に、薄い氷の膜が張っていくような感覚があった。


ページを閉じることができなかった

閉じたくなかったのかもしれない。


「私は見た

 私が死ぬところを」


私はゆっくりと、息を吐いた。


白い息が紙面に落ち、すぐに消えた。


これは、

私が書いたものなのか。


それとも、

私が書くはずだったものなのか。


私が次のページをめくる

指はわずかに震えていた。


外の風が、窓を軽く鳴らした。


部屋の中だけが、

不自然なほど静まり返っていることに

気がついた


「私は確かに息して立って

 私が死ぬところを見ているのにも関わらずに

 私が死んでいるのだ」


その瞬間、違和感が走った。


部屋の時計が止まっている。


いや、

止まっているのではない。


針が、

ゆっくりと、

逆方向に回り始めていた。


私はノートから目を上げ、

壁のカレンダーに目をやる。


今日の日付は、1月6日のはずだ、

だが、カレンダーのページが、めくれている。


いや、めくれているのではない。


日付の数字が、輪郭を失い、

ぼんやりと滲み溶け始めている。


私は再びノートに目を落とす。


「、、、

 違かった

 私は私が死んでいくのを見ているんだった

 失礼」


思わず私は笑った。


ふと、笑ってしまった、

喉の奥から、乾いた音が漏れる。


夢ではない

夢なら、こんなに冷たくない。


私は読み続けた

息を、しながら。


ページをめくるごとに、

紙の手触りが変わっていく。


最初はカサカサと、

乾いていたはずの紙面が、

次第に湿り気を帯び、

まるで

誰かの皮膚に触れているような、

生々しい感触を持ち始めた。


「分からない」


その三文字が、

次のページを埋め尽くしていた。


規則性はない。


ただ、ある場所では重なり合い、

ある場所では

紙を突き破らんばかりの筆圧で。


また、ある場所では

消え入りそうな細い線で。


それは文字というより、

増殖を続ける

細胞たちの群れのようだった。


読み進めるうちに、

私の喉がせり上がった。


本当に、息が詰まるのだ。


喉の奥に、冷たい鉄の塊を詰め込まれたような閉塞感。


私は耐えきれず、

洗面所へ向かった。


顔を洗わなければならない。


この不純な感覚を、

洗い流さなければならない。


洗面台の鏡に映った自分を見て、

私は凍結した。


右目がない。


いや、あるはずの場所に、

黒い穴が開いている。


そこからは視線ではなく、

暗い空洞が私を見つめ返していた。


慌てて、

私はとにかく瞬きを繰り返し、

気づくと目は元通りに戻っていた。


鏡の脇のカレンダーが視界に入る。


13月4日


赤いインクで、

存在しない日付が刻まれていた。


私は部屋に戻り、

逃げるようにノートを粗雑に掴んだ。


もはや筆跡などどうでもよかった。


これが自分の筆跡かどうかなど、

どうでもよかった。


助けを叫ぶかのように、

ノートへと縋り付いた。


この支離滅裂な独白だけが、

狂い始めた現実を繋ぎ止める

唯一の命綱に思えたからだ。


「5月55日。地獄とは他人のことだ。

 10月102日。地獄とは他人のことだ。

 いいえ、違う。

 地獄とは、今ここで息をしている、この不純な器のことだ」


ノートの中の「私」は、

狂いながら苦しそうに息をした。


「ははぁ、あははは、はあはあ」と、

紙面から笑い声が漏れ聞こえてくる。


「ははぁ、あははは、はあはあ」


それは紛れもなく、

今この部屋で、

震える肩を抑えきれずに漏らしている

私の笑い声と重なった。


クラムボン。

出口なし。

名前のみの亡霊たち。


それらが濁流となって私の脳内を侵食していく。


私は死体になり、

それを外から眺め、

狸のように滑稽に首を傾げ、

そしてまた、

泥のような不純さを抱えたまま

「生」の岸辺へと這い上がる。


最後のページをめくる。



そこには、異様なまでにほど静かな文字で、書かれていた。


「ワタクシのこの闇が消えることはありません。

 でも抱えたままでもいいから生きていたいです。」


心臓の鼓動が、

ゆっくりと落ち着いていく。


逆行していた時計の針が、

重々しい音を立てて止まる。


窓の方を見ると、

街灯の光がいつの間にか

鮮明に届いている。


カレンダーは、

ただの1月6日に戻っていた。


私は、

開いたままのノートを見つめた。


そこにはもう、

何も書かれていない。


ただの白い紙が、

引っ越し前の空虚な部屋の中で

静かに横たわっている。


私は深く、

深く息を吸い込んだ。


肺の奥にまで、

冷たい空気が入り込み。


自分がまだ、

「不純なまま」

ここに存在していることを伝える。


「……ありがとう」

誰に向けた言葉かは分からない。


窓ガラスの曇りに、

掌で触れる。


冷たい。

生きている。


掌に着いた水滴をズボンで拭き取る。


私はノートを閉じ、

段ボールの底ではなく、

一番新しい鞄の中にそれを仕舞った。


「……まぁ、これでも最強っぽいな」


口から出た一つの言葉は、

白い息となって夜に溶けていった。


私は再び、荷造りを始めた。


闇を抱えたまま微かに、

しかし確実に、"息をしながら"。

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