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孫の役目

掲載日:2026/03/25

 桜が咲き始めたとある春の日、土曜日の午後、僕は都心の老人ホームを訪れた。受け付けを済ませると、エレベーターに乗り五階のボタンを押す。五階のランプが点滅し、扉が開き、すぐ目の前にあるのが、さつきおばあちゃんが住んでいる部屋だ。ドアの前につくと、ちょうど介護スタッフが部屋から出てくる所だった。僕は軽く挨拶をしてから、入れ違いに部屋に入った。

「おばあちゃん」

 僕が一声かけると、ベッドに腰掛けていたさつきおばあちゃんが、

「ダイちゃん!来てくれたのね」

 と、とても明るい声で歓迎した。もし足腰さえ悪くなければ、ベッドから飛び起きて僕のことをきつく抱きしめていたに違いない。「風邪引いてない?」「元気にしてた?」と矢継ぎ早に質問をするおばあちゃんに、僕はうんうんと笑顔を崩さず相槌を打ち続けた。

「お土産持ってきたよ」

 僕が持参した北海道土産のホワイトチョコレートを手渡すと、

「まぁ!ありがとう。これ大好きなのよ」

 と、さつきおばあちゃんはゆったりした口調ながらも、少女のように声を弾ませた。「可愛いおばあちゃんだなぁ」ぼくはさつきおばあちゃんに会うたびに心からそう思ってしまう。

「北海道はまだまだ寒いでしょう?」

「そうだね。まだ雪も残ってるよ」

「まあそうなの、飛行機で来るのも大変だったでしょう?」

「いや、雪は積もっているだけでもう降ってはいないんだ」

「そう、良かったわぁ。おばあちゃんね、ケンちゃんに会えるのをとっても楽しみにしてたから」

「僕だって楽しみにしてたよ」

「嬉しいわぁ。仕事も忙しいでしょうに」

「年度末は決算もあるから、どうしてもね。でもようやく落ち着いたよ」

「ノブちゃんは本当に仕事熱心よねぇ。おばあちゃんも鼻が高いわ」

 さつきおばあちゃんは、可愛らしい笑顔で本当に嬉しそうに話し続けている。

 ダイちゃん、ケンちゃん、ノブちゃん…。前回会ったときより、僕の呼び名が変わるペースが明らかに早くなっている。担当の介護士曰く、認知症の進行は確実に進んでいるという。それでも僕は、さつきおばあちゃんの話を遮ることなく、会話を続けた。

 おしゃべりが大好きなさつきおばあちゃんとの時間は、あっという間に過ぎてしまう。面会の終了時間だ。

「じゃあ、また来るね」

「あ、ちょっと待って」

 僕を呼び止めたさつきおばあちゃんは、棚の引き出しを開けると、小さなポチ袋を取り出した。

「これ少ないけど、持って行って」

「そんな、悪いよ。僕もう社会人なんだよ」

「いいのいいの。おばあちゃんにとってユウちゃんは、いつまで経っても孫なんだから」

 こうなっても引かないのがさつきおばあちゃんだ。僕は仕方なく受け取ることにした。

「ありがとう、おばあちゃん」

「こちらこそ、いつもありがとうね」

 ポチ袋を渡しながら、力の入らない手で強く僕の手を握っていた。

 さつきおばあちゃんは、いつもドアを閉めきるまで手を振ってくれる。それに合わせて僕も手を振った。ドアが閉まると、手に握っていたポチ袋を見つめた。僕は “報酬”を鞄にしまい、部屋を後にした。


 エントランスホールで手帳を読んでいると、面会の時間がやってきた。4階でエレベーターを降りて右へ、一番奥の部屋の前のプレートを確認する。ノックをして低い声が帰ってきたのを確認して、僕はドアを開けた。

「なんだ、あんたまた来たのかい」

 僕の顔を見るなり、ふみこおばあちゃんはふうっと溜息をついた。

「大学生ってのはずいぶん暇なんだね」

 そう悪態をつきつつ、僕を椅子に座るよう促し、ミニ冷蔵庫から300mlペットボトルの緑茶を出してくれた。

「授業はさぼってないだろうね?留年なんてばかな真似するんじゃないよ」

「真面目に通ってるよ。四月から三年生になるから、授業より就活が忙しくなってくると思うよ」

「そりゃあ死ぬ気でやらなきゃならないねぇ。怠けてるとロクな人間になれないよ、あたしみたいにね」

 言葉を交わしながらも僕と向き合って座ることなく、ふみこおばあちゃんは窓の外を眺めていた。やがてどこから手に入れたのか、施設内で禁止されているはずのタバコに火をつけていた。

 ふみこおばあちゃんは若い頃に離婚し、以来水商売を長く続けていた。当時幼かった娘は父親のほうに引き取られ、絶縁状態になったそうだ。

 窓の外には、川沿いに咲いた桜並木がよく見えた。施設の中でもこの辺りの部屋が、一番桜がきれいに見えると、以前職員さんが言っていた気がする。

「今年は遅かったけど、きれいに咲いてるね」

 僕は話題を変えてみたが、

「桜は嫌いだよ」

 と、またもや悪態をつかれてしまった。

「花に罪はないけどね。花見だなんだって騒ぐ連中、ありゃなんなんだい。夜中まで外で騒いで散らかして、人様に迷惑ばかりかけるじゃないか」

 ふみこおばあちゃんは怒りに任せてくどくど喋り続けた。僕は思わずふっと笑った。

「何がおかしいんだい?」

 それを見逃さなかったふみこおばあちゃんはきりっとした目で僕を睨んだ。

「いや、ごめんごめん。おばあちゃんと母さんってやっぱり似てるなぁって思って」

 母さん、つまり自分の娘の話をされると、ふみこおばあちゃんは少し身構えたように見えた。僕は話を続けた。

「母さんね、この前近所の人と揉めててさ。ほら、うち古いマンションだから音が響きやすいのに、夜中に掃除機や洗濯機をガンガンかけている人がいて…。そしたら母さん、その人の所に『子どもが起きちゃうでしょうがー!』って怒鳴り込んだんだよ。僕もう大学生なんだけどなぁって思ったけど、母さんが言ってたのは別の部屋に住んでる子どものことだったみたい」

 ふみこおばあちゃんは窓の外に目を向けたまま、相槌も打たずに僕の話に耳を傾けていた。

「おばあちゃんもさっき『人様に迷惑かけるなんて』って言ってただろう?だから、二人とも自分のことだけじゃなくて…、正義感が強いっていうのかな?人のために怒れる人なんだなぁって思ったんだ」

 僕の話の終わりを聞いてから、ふみこおばあちゃんはにやっと口元に笑みを浮かべた。

「人のためねえ、『子どものため』って言ったって、怒鳴り声なんて上げたら余計起きちまうだろう。何やってんだかあの子は」

「ほんと、僕もそう思った」

 ようやく二人で笑う時間が訪れた。ふみこおばあちゃんは捻くれながらも上機嫌だった。

 実はこの面会の前に、ふみこおばあちゃんの担当介護スタッフと話す時間があり、そこで近隣の入居者と騒音トラブルで揉めたという話を聞いた。ふみこおばあちゃんは「こんな夜に周りの迷惑だろう」という正義感のある主張を繰り返していたそうだが、半ば暴れる勢いだったので職員さんはなだめるのに相当苦労したそうだ。

 さっき僕がした「母さん」の話は、このトラブル話を元に即興で作ったものだ。自分と娘の似ている所を指摘されて嫌がる人もいるからどういう反応をするか心配もしたが、思いのほか嬉しく思ってくれたようで安心した。実際、僕は「母さん」、つまりふみこおばあちゃんの娘には会ったこともないし、その娘に子どもが出来たかどうかも知らないのだ。


「なんだい。物乞いそうな顔するんじゃないよ」

 面会終了時間になり、帰ろうとした僕とふみこおばあちゃんの目がふと合い言われた。ふみこおばあちゃんが自分の財布からお札をさっと取り出し、僕に渡した。

「ありがとう、大事に使うね」

 僕の言葉を聞くとまたふっと笑い、

「もう来るんじゃないよ」

 と、また窓の外を眺め始めた。僕は片手に”報酬”を握り、ゆっくりとドアを閉めた。


 今日二回目の面会を終え、ふうっと息をつく。さつきおばあちゃんともふみこおばあちゃんとも、付き合いがまだ浅いので、ある程度の緊張感を持って接していた。でもここまでくればもう余裕だ。次の面会相手は、もう半年以上になる。僕は再びエントランスホールに戻ると、カップ式自販機でコーヒーを買い、一息ついた後に手帳を開き、時間が来るまで次の面会相手の”予習”を始めた。


 三階でエレベーターを降りて、左へ曲がる。数えて一,二,三,四番目の部屋…と、何度も通っているので覚えていたつもりだったが、うっかり前を通り過ぎてしまった。危ない、危ない。慢心はミスにつながってしまう。僕は自分の頬を手のひらで軽く叩き、ドアのネームプレートをしっかり指先確認した上でノックをした。

「おばあちゃん、こんにちは」

「あらぁ、いらっしゃい」

 やよいおばあちゃんはゆっくりと立ち上がって、僕に微笑みかけてくれた。


 施設であった出来事や散歩に行った事など、場面や登場人物がコロコロ変わってしまうが、それでもやよいおばあちゃんと話していると、とてもゆったりとした時間が流れる。春の心地よい気候も相まって、僕もつい心がほころんでしまう。

「そういえば、昔、みんなで京都旅行に行ったねぇ」

 窓から見える桜並木を見たやよいおばあちゃんが、不意に思い出話を始めた。

「春だったから、桜がきれいだったわ」

 僕と出会ったときから認知症がかなり進行していたやよいおばあちゃんは、これまで昔話などしたことが無かった。気持ちが緩んでいた僕に、少し緊張感が走る。

「そうだったね」

 僕は注意深く相槌を打つ。

「確か、ヒデアキが会社で旅行券をもらったから、一緒に行こうって言ってくれたんだよねぇ」

 ヒデアキさんとは、やよいおばあちゃんの息子、つまり僕の父親、という設定になっている。僕は話を合わせていく。

「本当にラッキーだったよ」

「あの時は本当に嬉しかったわぁ。ヒデアキったらせっかくなら大勢で行こうって言って、自分の兄弟も子どもたちもみんな呼ぶんだもの。旅館もほとんど貸し切りだったわね」

「にぎやかだったね」

「子どもたちもみんな優しくってねぇ。アッくんは私が歩くの大変だろうからって車いすを借りてきてくれて、メイちゃんはまだ小さかったから、車いすに乗った私の膝に乗りたいって駄々こねてたけど、ちょっとお姉ちゃんだったサヤちゃんが『おばあちゃんが重くなっちゃうでしょ』って止めてたわねぇ」

 やよいおばあちゃんの孫らしき登場人物が次々と登場する。うんうんと僕は話を聞きながら、この後の展開について頭をフル回転させ続ける。

「かわいい孫に恵まれて、私は幸せ者だわ」

 思い出に浸っていたやよいおばあちゃんは、再び窓の外を眺めた。

「…あれ?」

 やよいおばあちゃんはふと何かに気づいたようは声を出した。そしてゆっくり僕のほう振り返り、

「あんたは…あの時、いなかったねぇ」

 予感した嫌な状況。僕は焦りを悟られないように一呼吸置く。

「あんたは…私の孫じゃないのかい?」

 やよいおばあちゃんは、純粋無垢な幼い子どもように、目を丸くして問いかけた。僕は覚悟を決め口を開く。

「…そうだよ」

「え…」

 僕の返答に、やよいおばあちゃんは絶句した。僕は言葉を続ける。

「僕はその京都旅行にはいなかった。行けなかったんだ。僕、野球やってただろう?その日はレギュラー決めの紅白戦があってさ…。僕、どうしてもレギュラーになりたかったから、おばあちゃんとの旅行も大事だって分かってたけど、そっちを優先したんだ。結局、レギュラーには選ばれなかったから、今思えば、行けば良かったなぁって…」

 人は嘘をつくとき、どうしても早口になってしまう。僕はそこをぐっと堪えて、一つ一つ丁寧に伝えるよう心掛けた。やよいおばあちゃんは目を丸くしたまま、僕の言葉を聞くと、

「あぁ…」

 と、声を漏らした。

「そういえば、ヒデアキも野球が大好きだったねぇ。その影響で…」

 以前、息子のヒデアキさんが野球をやっていたという話から、僕も野球をやっていたという設定になっていたのだ。

「あの時は自分のことばっかりで、全然おばあちゃん孝行出来てなかった。ごめんね」

「いいのよ。大好きなことを一所懸命やったんでしょう?それに…」

 やよいおばあちゃんは言葉を切り、にっこり笑った。

「それに?」

「それに、今こうやって会いに来てくれてるじゃない。十分おばあちゃん孝行してるわよ」

 僕は思わずほっと息をつく。

「そう思ってくれる?」

「もちろんよ。私は本当に幸せ者だわ」

 やよいおばあちゃんはそう言うと、僕の手を包み込むように握り、本当に幸せそうな顔で笑った。

「ありがとう。僕も幸せだよ」

 僕は感謝の言葉とともに笑顔を作った。…何とか危機は免れたようだった。


 夕方六時のチャイムが鳴る。面会が終了し、僕はエントランスホールから出口へ向かって歩いていた。

「お疲れ様」

 職員さんが、受付窓口で声をかけてきた。面会者であるはずの僕に「お疲れ様」と言うのは、傍から見たら妙な光景であるが、決して間違いではない。彼女は僕が今日、“仕事”でここを訪れたということを把握しているからだ。

『孫代行』の仕事を始めてから、ちょうど一年になる。きっかけはオレオレ詐欺に手を染めたこと。生活費に困りはて犯行に及んだが、初犯であっさり逮捕されてしまった。刑期を終え出所し、夢も希望も金も無い僕に舞い込んできたのは、被害者の担当介護士からの「孫のふりをまたやってくれないか?」というまさかの依頼だった。被害者は詐欺師だった僕を今でも本当の孫だと信じ続けており、僕が再び訪ねてくるのを待っているらしい。依頼者から約束された報酬目当てで軽い気持ちのまま引き受けたが、再び出会った被害者のおばあちゃんは、僕を見るなりとても喜んでいた。その笑顔と握られた手のぬくもりは、今でも忘れられない。

 それ以来、僕は『孫代行』を自分の職とした。犯歴のあることで開業は難しかったので、知り合いのツテを頼り便利屋に勤めながら、今日まで「孫代行」の仕事をさせてもらっている。

「明日も仕事?」

 窓口の職員さんが、受付用のバインダーやボールペンを片付けながら、僕に質問した。

「ええ、明日は練馬のほうに行きます」

「そう、頑張ってね」

 職員さんは、そう言って僕を笑顔で送り出した。


 僕が最初に「孫代行」をした、つまり僕が騙してしまったおばあちゃんは、ほどなくして亡くなった。介護士の方曰く、彼女は天涯孤独だったが、僕が会いに行く度に元気を取り戻し、今度孫が来たら一緒にこれを食べたいとか、何をあげようかとか、そんな話ばかりしていたそうだ。最期の瞬間は、本当に幸せそうに笑っていたらしい。

 そう、それがきっと、一度道を踏み外してしまった僕の役目なんだと思う。そしてこれからも…。夕暮れの桜並木、まだ少し冷たく感じられる空気の中、静かに熱意を燃やしながら、僕は帰路へ着くのだった。


END

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