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「私も、この商会を辞めようと思います」
翌日。二人きりで話がしたいと言ってきたのは、前会長の右腕だった、男性従業員。使用していない会議室に入るなり、男性従業員はオーブリーにそう告げてきた。
「なっ……どうして? 父さんが亡くなってからも、あなたはぼくと一緒に、この商会を支えてきてくれたじゃないか?!」
「あなたには、前会長ほどの手腕はないし、商人としての才もない。でもそれを補う人柄と、そして、将来性があった。だからこそ、支えようと思ったのです」
「じゃあ、どうして?!」
「わかりませんか」
「わからない! ぼくはナタリアと離縁しただけで、中身はなにも変わってない!」
男性従業員は、はあ、と深いため息をついた。
「……それについては、昨日、女性たちが追求していたので、私からはもう申し上げません。通じないようですから──では、将来性については?」
「それも同じだろう? ぼくは、商人をやめるつもりはない」
「……あなたがナタリア様と結婚してから、格段に貴族との取り引きが増えましたよね」
「? 結婚してからっていうか、ぼくが父さんから会長職を引き継いでからだろ? 売り上げも伸びたし、こう言っちゃなんだけど、ぼくは父さんより才能あると思うよ。あなたはどうやら、ぼくが父さんより劣っていると考えていたようだけど……」
「……ああ。そんな風に解釈していたのですか」
呆れというより、いっそ憐れみの目を、男性従業員はオーブリーに向けた。
「貴族相手の商談のときは、いつも傍らに、ナタリア様がいてくれましたよね」
「……それは、まあ。貴族は姿勢とか礼節とか、やけに気にするし、うるさいし……父さんもすごく助かってるってナタリアに感謝してたけど」
男性従業員の言わんとすることを察し、目線を泳がせながらごにょごにょとオーブリーが口を動かす。
「でも、いつまでもナタリアに頼ってばかりじゃ駄目だし、もう充分、貴族相手の商談にも慣れたしさ。大丈夫だよ」
「……コスタ子爵の後ろ盾は、もうないのですよ」
「後ろ盾? 仕事にコスタ子爵の名前なんて出したことないし、頼ったこともないはずだろ?」
「コスタ子爵の令嬢と結婚し、繋がりができた。それだけでまわりは、そう考えるものなのですよ。逆もまたしかり……」
オーブリーが、どういうこと、と首を傾げるが、男性従業員は答えない。
「商会の会長なら、ご自分で考えてください。その上で、私がどうしてこの商会を辞めるのか、理解していただけたらと」
「それじゃわからない! 昨日、二人が辞めたばかりで、その上あなたにまで辞められたら困る!」
「二人が辞めた原因は、あなたでしょう」
「ストーカーを辞めさせただけだ。なにを責められることがある?」
「彼は否定していたでしょうに……いえ。この議論も、無駄でしたね。ご心配なく。最低限の引き継ぎはしていきますので」
「ま、待って。わかった。給金を二倍に上げるよ。それでどう?」
男性従業員は眉をひそめるなり「すみません」と一言告げ、深々と頭を下げた。
ナタリアと離縁してから、半年のときが流れた。
あれから従業員が──特に優秀な者たちが次々と辞めていき、いまでは、新たに雇った従業員の方が多く、仕事は大混乱となっている。また、最初のころは商人の妻として頑張ると張り切っていたリリアンも、徐々に体調が優れないと言う日が増えていき、近頃はめっきり仕事場に顔を見せることもなくなり、家事もほとんどしてくれなくなってしまった。
そして。
客は増えるどころか見る間に減っていき、貴族の客にいたっては、ゼロになってしまった。貴族たちはなぜか、オーブリーがどうしてナタリアと離縁したのか。その経緯も訳も知っているようで。
古くから贔屓にしてもらっていた一人の貴族夫人に。
──貴族を舐めないでくれるかしら。
と、汚物を見るような目で吐き捨てられたことがあった。ナタリアに聞いたのですかと震える声で訊ねると、鼻で笑われた。
『貴族の世界は狭いのよ』
それきりその貴族の屋敷には、出入り禁止とされてしまった。他にも複数、似たような対応をされ。そこでようやく、オーブリーは思い知った。
「……貴族との取り引きが増えたのは、単に、ぼくがナタリアと結婚して……コスタ子爵がバックにいると思われていたからだったんだ……いや……交渉の場にナタリアが出てくるようになったから……それも要因かな……なんだ、ぜんぶ、ナタリアのおかげだったんだ」
一人きりのボロアパートでぶつぶつとぼやく。体調が優れないはずのリリアンはどこかに出掛けているようで、いまはいない。珍しいことではなかったので、なにも感じない。心配もない。
ただ。
せめてご飯ぐらい作れよという怒りしかわいてこなかった。




