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救いのない小説  作者: Fall44


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第5章:残響

 階段室で聞こえた“声”の余韻がまだ耳に残っていた。

 レイは管理室の扉を閉める手に、無意識のうちに力を込めていた。


 「……誰なんだよ、あれ」


 自分に言い聞かせるように呟いたが、答えは返ってこない。


 机の上には、さっき拾い上げた紙切れが置かれている。

 『これ以上は思い出さないで』

 ――見れば見るほど、胸の奥がざわつく文字だった。


 レイはその紙を避けるように端末へ向かう。

 だが、画面をつけた瞬間、血の気が引いた。


 端末の背景が変わっている。


 記録されているはずのデータはすべて消えていた。

 代わりに、淡い灰色の背景に、たった一行の文字。


《観測ログ:5件》


 観測……?

 レイは無意識にその項目を開いた。


 表示されたログの一覧には、時間ごとの記録が並んでいる。

 そのうちの一つに、見覚えのある単語があった。


《04:12 対象レイ:認知変動 1.3%》


 息が止まる。

 “対象レイ”。

 まるで自分が実験体のような言われ方だ。


 震える指でスクロールすると、続く記録が現れた。


《05:47 対象レイ:接触準備》


 その文字を見た瞬間、胸が強く締めつけられるように痛んだ。

 接触? 何と?

 街か? それとも……あの声の主か?


 端末の画面が、ゆっくりとノイズを走らせた。

 ノイズの向こうに、誰かの影が立っているように見え――レイは慌てて画面を閉じた。


 「やめろ……ふざけんな……!」


 声を荒げても、返事はない。

 ただ、蛍光灯の明滅だけが薄い光を揺らしている。


 怖い。

 ここにいるだけで、何かを奪われていく気がする。

 レイは外に出るべきだと直感した。


 管理室を飛び出し、廊下を早足で歩くと、出口に続く扉が見えた。

 だが近づくにつれ、妙な音が聞こえてきた。


 ――コン、コン、コン……


 規則的な、硬いものが壁を叩くような音。

 それは扉の向こう側ではなく、廊下の奥から響いていた。


 レイは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。

 音は一定のリズムを刻みながら、少しずつ近づいてくる。


 コン……コン……コン……


 呼吸が浅くなる。

 誰かが歩いている音ではない。

 これは、人間の動きでは作れないような、ぎこちない“何かの反復”。


 レイは出口の方へ歩き出した。

 しかし、廊下の照明がひとつ、またひとつと消えていく。


 ――コン……コン……


 暗闇が近づいてくる。

 音も、同じ速度で近づいてきている。


 レイは堪えきれず走り出した。

 扉に手をかけ、強く引く。


 外の空気が流れ込んだ瞬間、少しだけ息がつけた。

 しかし安心はしなかった。


 雨の音が街を覆う中、さっきの“コン、コン”という音が途切れた。


 まるで、扉を越えられないかのように。


 レイはゆっくり後ろを振り返った。

 管理棟の暗がりには何もいない。

 ただ、廊下の奥の闇が不自然に濃く見えるだけだった。


 ――いや、違う。


 闇の奥に、空白がある。

 そこだけ、廊下の“構造そのもの”が抜け落ちているように見えた。


 形がない。

 輪郭もない。

けれど、確かにそこに“何か”がいる。


 視界が微かに歪む。

 見ようとするほど、理解が崩れていく。


 レイは顔をそむけた。


 見てはいけない。

 あれは、人間の認知が耐えられるものじゃない。


 息を荒げながら、建物の影に身を寄せた。

 雨の匂いが鼻を刺す。

 手足が震えて止まらない。


 そのとき、背後で雨音に混じり、小さな声がした。


 「……レイ……どうして戻ってきたの……」


 振り向けなかった。


 知りたくない。

 でも聞きたい。

 そんな矛盾が胸を締めつける。


 声は優しげで、どこか悲しげだった。

 まるでレイを責めるように。


 そして最後に、こう囁いた。


「思い出さないようにしていたのに……」


 その言葉の意味を理解する前に、レイの視界が白んでいった。

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