第5章:残響
階段室で聞こえた“声”の余韻がまだ耳に残っていた。
レイは管理室の扉を閉める手に、無意識のうちに力を込めていた。
「……誰なんだよ、あれ」
自分に言い聞かせるように呟いたが、答えは返ってこない。
机の上には、さっき拾い上げた紙切れが置かれている。
『これ以上は思い出さないで』
――見れば見るほど、胸の奥がざわつく文字だった。
レイはその紙を避けるように端末へ向かう。
だが、画面をつけた瞬間、血の気が引いた。
端末の背景が変わっている。
記録されているはずのデータはすべて消えていた。
代わりに、淡い灰色の背景に、たった一行の文字。
《観測ログ:5件》
観測……?
レイは無意識にその項目を開いた。
表示されたログの一覧には、時間ごとの記録が並んでいる。
そのうちの一つに、見覚えのある単語があった。
《04:12 対象レイ:認知変動 1.3%》
息が止まる。
“対象レイ”。
まるで自分が実験体のような言われ方だ。
震える指でスクロールすると、続く記録が現れた。
《05:47 対象レイ:接触準備》
その文字を見た瞬間、胸が強く締めつけられるように痛んだ。
接触? 何と?
街か? それとも……あの声の主か?
端末の画面が、ゆっくりとノイズを走らせた。
ノイズの向こうに、誰かの影が立っているように見え――レイは慌てて画面を閉じた。
「やめろ……ふざけんな……!」
声を荒げても、返事はない。
ただ、蛍光灯の明滅だけが薄い光を揺らしている。
怖い。
ここにいるだけで、何かを奪われていく気がする。
レイは外に出るべきだと直感した。
管理室を飛び出し、廊下を早足で歩くと、出口に続く扉が見えた。
だが近づくにつれ、妙な音が聞こえてきた。
――コン、コン、コン……
規則的な、硬いものが壁を叩くような音。
それは扉の向こう側ではなく、廊下の奥から響いていた。
レイは背中に冷たい汗が流れるのを感じた。
音は一定のリズムを刻みながら、少しずつ近づいてくる。
コン……コン……コン……
呼吸が浅くなる。
誰かが歩いている音ではない。
これは、人間の動きでは作れないような、ぎこちない“何かの反復”。
レイは出口の方へ歩き出した。
しかし、廊下の照明がひとつ、またひとつと消えていく。
――コン……コン……
暗闇が近づいてくる。
音も、同じ速度で近づいてきている。
レイは堪えきれず走り出した。
扉に手をかけ、強く引く。
外の空気が流れ込んだ瞬間、少しだけ息がつけた。
しかし安心はしなかった。
雨の音が街を覆う中、さっきの“コン、コン”という音が途切れた。
まるで、扉を越えられないかのように。
レイはゆっくり後ろを振り返った。
管理棟の暗がりには何もいない。
ただ、廊下の奥の闇が不自然に濃く見えるだけだった。
――いや、違う。
闇の奥に、空白がある。
そこだけ、廊下の“構造そのもの”が抜け落ちているように見えた。
形がない。
輪郭もない。
けれど、確かにそこに“何か”がいる。
視界が微かに歪む。
見ようとするほど、理解が崩れていく。
レイは顔をそむけた。
見てはいけない。
あれは、人間の認知が耐えられるものじゃない。
息を荒げながら、建物の影に身を寄せた。
雨の匂いが鼻を刺す。
手足が震えて止まらない。
そのとき、背後で雨音に混じり、小さな声がした。
「……レイ……どうして戻ってきたの……」
振り向けなかった。
知りたくない。
でも聞きたい。
そんな矛盾が胸を締めつける。
声は優しげで、どこか悲しげだった。
まるでレイを責めるように。
そして最後に、こう囁いた。
「思い出さないようにしていたのに……」
その言葉の意味を理解する前に、レイの視界が白んでいった。




