第4章:欠落のはじまり
蛍光灯が明滅するたび、影が揺れた。
その揺れの中に、人の形をした“何か”が立っている――そんな錯覚を振り払おうと、レイは無理やり目を瞬かせた。
管理室は相変わらず静寂に沈んでいる。
しかし静かであるほど、心臓の鼓動がうるさく感じた。
レイは深く息を吸い、散らばった書類から視線を離した。
注意書きの文言が頭から離れない。
『真実の取得は、街の構造を損壊します。』
損壊――
それは街が壊れるのか、それとも自分が壊れるのか。
やがて痛みが和らいだので、レイは管理端末に戻り、続きのデータを開こうとした。
だが、画面を見つめた瞬間、背筋に冷たい感覚が走った。
さっきまで表示されていた住民リストの数が……また減っていた。
数分前、ここに来て確認したばかりだったのに。
「……冗談きついな」
口から出た声が、微かに震えた。
レイは他の端末にも同じデータが表示されているか確かめようと、部屋の奥の端末に向かった。
その瞬間、妙な違和感に気づいた。
管理室の中央に、丸いテーブルがある。
そこにいつも置かれていたはずの“灰色の回転椅子”が、今日は見当たらない。
「……え?」
レイは思わず声を漏らした。
椅子が片付けられた形跡はない。
床には埃の輪すらない。
まるで最初から存在していなかったかのように。
だが、レイには椅子の固い座り心地まで思い出せる。
ここで書類仕事をしていた記憶は確かにある。
――なのに、椅子が消えている。
街の人々が“消える”のを見たときよりも、ずっと嫌な感覚だった。
自分の記憶のほうが揺さぶられているようで。
そんな中、端末の電子音が一度だけ鳴った。
画面に新しい警告が表示されている。
《アクセス要求は制限値に達しています。
これ以上の照会は、対象者に直接影響します。》
対象者――これは、レイのことか?
あるいは街そのものか。
「誰がこんな制限を……」
呟いた瞬間、ふと視界の端で何かが揺れた。
壁に貼られていた避難経路図。
その図の一部が、見慣れない形に“変わっている”。
赤い矢印が、まるで生き物のように曲がり方を変え、
通路だった場所が黒く塗りつぶされている。
よく見ると――その黒い部分には、薄く文字が浮かんでいた。
『立入禁止区域:認知修正中』
レイの喉が乾いた。
この街は、物理的な区画だけでなく、
人の認識すらリアルタイムで“書き換えている”のか。
足が震えた。
その震えを止める方法はなかった。
耐えきれず廊下に飛び出すと、階段の踊り場が薄暗く見えた。
照明は正常なのに、光がまるで届いていないような“暗さ”だ。
その暗がりの奥から、かすかに声がした。
小さく、小さく……誰かが名前を呼ぶような。
「……レイ……」
心臓が一気に跳ねた。
だが聞き覚えがなかった。
それなのに、どこか懐かしい響きだった。
「誰だ!」
声を張り上げると、囁きはふっと途切れた。
階段室には、自分の荒い息の音だけが残る。
戻ろうと管理室に足を踏み入れた瞬間だった。
そこに――一枚の紙が置かれていた。
机にも、床にも。
ほんの数十秒前まで何もなかったのに。
震える手で拾い上げる。
紙の中央には、ひとつの短い文だけが記されていた。
『これ以上は思い出さないで』
手書きだった。
字は、見覚えがあった。
レイは紙を握りしめる。
記憶の奥がざわめいた。
胸の奥に、何かが“削られたような感覚”が残る。
誰が書いたのか――
分からないはずなのに、涙がにじんだ。
消えた椅子。
減っていく住民。
変化する避難図。
そして警告文。
街は、レイの“理解”に抵抗している。
だが、それ以上に怖いのは――
自分の中の何かが、静かに消えていくことだった。




