40.コウモリの正体
「……ホンマ、ありえへん。」
政府専用機に乗り込む直前、イチゴは肩を震わせながらつぶやいた。
リヒトから下された命はたった一つ──世界政府議員補佐官ジャック・デュナンの正体を暴くこと。
言葉にすれば簡単だが、接点もない相手の素性を洗うには“虎穴に入る”しかない。実質、「死んでこい」と言われたも同然だ。
機体が浮上し、アスリオンが遠ざかる。窓の外を見つめながら、イチゴはもう一度ぼやいた。
「ホンマ人使い荒すぎるって……」
***
黄の司令室では、リヒトと瞬が向かい合っていた。
静かに立つ瞬の目に、いつもの冷静さとは違う翳りがある。
「……ちょっと怒ってる?」
リヒトはおそるおそる声をかけた。ロウはさっき「お前がなんとかしろ」と盛大なため息を残して退室している。
心当たりは多い。というか、多すぎる。
──定例会議を二週連続でサボった。
──昨日、ワン博士と悪ふざけしてホールの一角を爆破した。
──そしてさっき、イチゴを二重スパイとして送り出した。
タイミングからして、怒りの原因は三つ目だろう。
「瞬、瞬く〜ん?」
瞬は無言のまま、光を失った瞳でリヒトを射抜く。ひ、とリヒトは後ずさった。
「……お前、なんで呼ばれたか分かってるよな?」
「えっと、たぶん?」
視線を天井に逸らす。
黄鉱石の淡い光に包まれた、監視衛星すら遮断する特別仕様の部屋。ここなら話しても問題ない。
やれやれ、と瞬が小突く。
「で、やっと話す気になったのか?」
「まあ……その……」
イチゴの潜入計画──そして、その裏にある彼の覚悟について、リヒトは簡潔に語った。
「自分の命まで保険に差し出すとはな。あいつらしい」
「命? スパイ活動の報酬だろ?」
「世界政府がそんな良心的なわけないだろ。おそらく、アスリオンの一部生徒の保護と引き換えに、自分は人体実験に使われてもいいとか言ったんだ。あいつ、自己評価が甘すぎんだよ」
さすが瞬だ。リヒトよりもイチゴを理解している。
なにより短期スパイの報酬だけで世界政府が動くはずがない。背筋が冷え、リヒトは奥歯を噛んだ。
「で、議員補佐官──ジャック・デュナンには接触できそうなのか?」
「できるよ。ワン博士に聞いた“最高の餌”を用意したから」
リヒトは愉快そうに笑った。昨日その相談をしていたのだ。調子に乗りすぎて爆破騒ぎも起こしたたが。
***
濃い霧に覆われた地上──。
イチゴはミッドタウンに降り立ち、兵士に案内され、碁盤の目に整理された街路を歩いていた。
頭上にはミッドタワー。光り輝く数百メートルの高さの塔には上流階級が住み、地上には中流の市民。その外郭にはスラムが広がる。
階級社会は固定され、落ちることはあっても上がることはない。
ミッドタワーの上空から放出され続ける濃霧だけが放射性物質と強烈な紫外線を遮っている手段だ。
──そのせいで、地上の人間の平均寿命は、アスリオン生徒の五分の一。
思い出し、イチゴは背筋がぞくりとした。
人外となった今は影響を受けないが、自分はもともと“ビビり”だ。控え策がなければ眠れないほどに。
兵士が一軒の白い家の前で立ち止まった。
中流階級向けの、ごく普通の家。扉が開かれ、イチゴは中へ促される。
──ギィ。
──バタン!
扉が乱暴に閉められた。
(罠……!?)
息が跳ねる。
リヒトに与えられた最悪への対策はある。だが手が震えるのは止められない。
(あかん……ビビりすぎやろ自分)
家の空気は妙に重い。赤外線を通さない素材が使われている。
普通の家ではない。
リビングを通り過ぎ、気配のする奥の部屋へ。扉の隙間から昼光色のライトが漏れていた。
イチゴは胸の内で小さく息を吐いた。
あの時を思い出す──。
彼の黄の力の発現は瞬よりわずかに早かったため、瞬の洗脳を受けなかった。ただ、瞬への好意だけで命に従っていた。
そしてその結果、彼は裏切った。
瞬への想いはひと言では表せない。尊敬、憧憬、恭順、そしてわずかな憐憫。
自分勝手に動くリヒトをイチゴは苛立たしく想い、彼を眩しげに見る瞬を哀れんだ。
──どうして瞬ばかりが、人の心を消さないといけない?
役に立つためなら、手足では足りない。もっと“上”でなくては。
その末に、自分はひどい裏切りを選んだ。
瞬の顔が、今も脳裏に焼き付いている。
イチゴが亡命を願ったのは、瞬の麾下数名の元バスケ部員だけだ。
多くを救うつもりなどない。そんな徳のある人間ではない。
ただ、自分の好きな人間だけ救う。それだけだ。
──そして、それは誰にも告げない。瞬にも。
これは自分だけの、ひどく小さな気持ちだ。
イチゴはドアノブを回した。
光の満ちる部屋。その先に待つ存在と対峙するために──。




